第五章 約束の樹(6)
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湖の岸辺には、人だかりが出来ていた。
《星の子》は白馬を降り、軍団の先頭に佇んでいる。雪白の長衣と闇色の長髪をなびかせてすらりと立つ姿は、天女の呼称に相応しい。勇ましい騎馬の群れを従えて、涼しい顔をしていた。
彼女の後ろには、シルカス・アラル氏族長と、オルクト氏族長が控えている。熊のような風体のオルクト氏族長は微笑んでいるが、アラルの表情は冴えない。その三人から少し離れ、トグルは愛馬と並んでいた。
影絵のように真っ黒な馬と、黒衣の男。長身の彼の傍らには、銀髪の白い天人――雉と隼がいる。
視界を遮るもののない荒野では、目立つなという方が無理だ。いつしか、ニーナイ国の民と護衛の兵士達が、彼等を遠巻きにしていた。
トグルは、人々のざわめきを他人事のように聞いていた。頭上にかがやく黄色い太陽を仰ぎ、外套の下の肩をすくめると、
黒馬は鼻を鳴らしたが、主人は、長衣の裾が汚れるのも構わなかった。
雉は馬にもたれて、トグルと隼の様子を眺めていた。隼の頬はこわばり、トグルを心配していることがよく判る。
雉は周囲をぐるりと見渡し、統制のとれた軍とはこういうものかと感心した。トグルが率いて来た騎馬軍も、シェル城で待機していた部隊も、指導者の命令をよくきいている。合計三万人以上いるのだから、千人に満たないニーナイ国の民衆を威圧するのは簡単だ。にも拘わらず、辞を低くし礼を尽くすのは、トグルの人柄だろう。
……冷静に考えれば、トグルの身を傷つけることは、誰にとっても得策ではない。戦乱がやっと終ったのだ。平和を維持したければ、彼を害してはならない。
しかし――雉は、眼を細めた。
農耕民族と遊牧民族、〈砂漠の民〉と〈草原の民〉。互いの生存を賭けた戦いは、どれほど多くの犠牲を積み上げて来たことだろう。どれほどの憎しみと、嘆きを。
個人が犯す殺人と、戦争は違う。――どちらも許される事柄ではないが。戦争は、国と国、社会と社会、思想と思想……文明と文明、民族と宗教の衝突だ。戦いに赴く兵士達の心にあるのは、故郷の大切な人々だ。妻であり、恋人であり、老いた親や友、愛しい幼子のはずだった。彼等を守る為の闘いなのだ。
どちらの側も。
王であるトグルには、民を守る義務がある。許されようと許されまいと、生き続ける責任がある。彼をうしなえば、容易に均衡は崩れるのだろう。その危うさを、雉は憂慮せずにいられなかった。
「…………!」
急いで戻って来たオダは、この光景に息を呑んだ。鷹と鳩、鷲も、足を止める。神官親子は人垣をかきわけて前へ出たものの、すぐには声を出せなかった。
衆目を集めて坐るトグルは、太陽が地上に置き忘れた影のようだった。両手を膝の上にのせ、瞑目している。色彩の乏しい世界で、彼と
「《星の子》、ようこそおいで下さいました」
ラーダはまず、《星の子》に挨拶をした。ルツは大らかに頷き、神官の後方にいる民衆にも嫣然と微笑みかけた。それだけで、場の緊張が和む。
ラーダは、あらためてトグルに向き直った。
「王よ」
凛とした呼びかけに、人々は一斉に彼に注目した。トグルは坐ったまま、わずかに瞼を持ち上げた。
ラーダは、トグルの正面に、数歩の距離を置いて立ち止まった。丁寧に一礼して言葉を繋ぐ。
「遠路はるばる来て下さり、ありがとうございます。我われの為に部隊を残して下さり、感謝しています。お陰さまで、この地の治安は護られ、復興は順調に進んでいます」
緊張に頬をひきつらせている神官を、トグルは無表情に見上げた。切れ長の緑の眸に感情はうかがえない。
ラーダは、こちらの意図が彼に通じていることを祈りながら続けた。
「どうか貴方の民にお伝えください。ニーナイ国の神官の言葉を……。草原の王よ。我われは、誰も、誰かを赦したり裁いたりすることは出来ません」
単調な声は、静まりかえった人々の間をゆるやかに流れた。微風に砂が舞う。緋色の砂は、光を反射してきらめいた。
トグルは冷静に神官を見詰めている。狼を思わせる精悍な風貌は、ぴくとも動かない。
ラーダは眉間に皺を刻み、苦労して言葉を選んだ。
「親しい友を、子や親を殺された者は、誰もが嘆き、憤るでしょう。地の果てまで追い詰め、仇を討ちたいと望みます……。死んだ者が蘇ることはなく、怨みの晴れることはないと、頭では理解していても」
オダの喉がごくりと鳴った。ラーダは、音を立てずにすばやく息を継いだ。
「復讐は、さらなる嘆きと憎悪を生みます。怒りに怒りを重ね、暴力に暴力で報いていては、争いは終りません。それでも、我われは生きていかなければなりません」
トグルの厳格な
ラーダは眼を閉じ、いったん呼吸をとめてから、おもむろに切り出した。
「貴方がたは永年に渡り、我われの同胞を殺し、食糧と女達と棲みかを奪ってきました。我われも貴方の民を殺し、草原を砂漠へと変えてきました。――我われは、どちらも被害者であり、加害者です」
「…………」
「砂漠は草原を蔑み、草原は砂漠を忌み嫌ってきました。それを、今すぐ変えることは出来ません。赦すと言うことも、赦しを請うことも、私には出来ない」
「
オダが警戒の声をかけたが、ラーダは構わず、うめくように言葉を搾り出した。
「王よ。貴方は、確かに多くの者を殺した。だが、それを終らせても下さった。だから私も、己の内の、全てを破壊し尽くしたいと望む嘆きや憎しみにではなく、生きる方向に目を向け、沈黙したいのです」
「…………」
「被害者でいるほど容易いことはありません。消えない悲しみに身を委ね、怒りの衝動に身を任せることは。草原の王よ……我われの敵は、我われ自身ではないでしょうか」
「…………」
「過去のあやまちに対しては、ただ沈黙するしかないと思うのです。ですから、私はこれ以上は言いません。……もっとも、貴方は先ほどから、ずっと黙っておられますが……」
『最後のひとことは余計だ』と、オダは思ったが、黙っていた。父はそれを半ば自嘲気味に呟いたので。
トグルは無言で眼を閉じ、ラーダは長い息を吐いた。
鷹は、娘を抱く腕に力をこめた。鷲は腕を組み、トグルを観ている。鳶は顔を上げ、不思議そうに両親をみた。
鳩は涙ぐんでいた。草原の男の名を呼びたくて呼べず、胸の前で両手を握ったり離したりしては、震える息を吐く。
雉は、隼の横顔をうかがった。彼女の頬は蒼ざめるのを通り越し、新雪よりも白くなっている。かれは胸を痛め、口添えしようと動きかけた。
――その時、トグルが動いた。
トグルは胡坐を組んだまま、長剣を鞘ごと抜き、帽子も脱いで目の前の地面にならべた。
面を伏せたトグルは、おし殺した声で囁いた。針が落ちる音も聞えそうな張り詰めた静寂の中、なめらかな声は、聴くものの胸にふかく響いた。
「ご高配、感謝する……」
ラーダの頬が安堵にゆるんだ。オダが肩を大きく上下させる。ほっとした空気が、辺りに流れた。
《星の子》が微笑み、彼等のもとへ歩み寄る。
*
槌音が、いっそう高らかに谷に響く。
人々は瓦礫を片付け、新しい城壁や家を建てる作業に戻った。〈
鷹は赤ん坊をあやしつつ、人の流れに眼を凝らしていた。スー砦からこの地への道中、シジンの姿を見ていない。身柄は既に解放されているはずだが、何処にいるのだろう。
鷲は彼女の懸念に気づいていたが、それについては何も言わなかった。外套の片袖を落とした格好で水を運び、提案する。
「なあ、鷹、鳩。俺達、ここに住まないか?」
「えっ?」
鳩が黒曜石の眸を大きくみひらく。鷲は、水瓶に桶の水を移しながら続けた。
「ルツは、すぐに〈黒の山〉へ帰るんだろう。あそこも悪い所じゃないが、鳶を連れて山登りはキツイだろ? ここなら、ミトラも、デルタもいる。草原も近いしな」
子育てしやすかろうと言うのが理由だ。鳩は首を傾げて考えていたが、明るい歓声をあげた。
「賛成! あたし、お手伝いするわよ、お姉ちゃん」
「ええ。お願いするわ、鳩ちゃん」
鷲は、鷹の胸で碧眼をまるくみひらいている娘に微笑みかけた。木桶を足元へ置き、鹿毛と糟毛の二頭の手綱を引いてきた雉を、手招きする。
「おーい、雉。明日から、ここに家を建てるぞ。お前、手伝えよ」
「……ええっ? いつ決まったんだ?」
「今」
「聞いていないよ。てか、勝手に決めるなよ。どうしてお前は、いつもそう――」
隼は、仲間たちの騒ぎを片方の耳で聞きながら、トグルを案じていた。
ラーダとの話が終わった後も、彼は
表情のない横顔は、安堵しているようにも落胆しているようにも観え、隼は胸が騒いだ。
「ダイジョウブ、ですヨ」
そんな彼女に、シルカス・アラル氏族長は、やわらかな微笑を見せた。
「王はトキニ、何日も黙って考えること、ありマス。今後について、考えてオラレルのでしょう」
「だといいけれど……」
仕事の場面以外でトグルの無口なことは、隼も承知している。彼は、考えの半分も言葉にすればいい方だ。そうやって
「
陽が西へ傾き、風が冷たくなってきた。その風に守り紐をなぶらせて愛馬の頚を掻いていたトグルは、声をかけられて振り向いた。
ミトラが、
「……久しぶりだな。元気だったか」
「
トグルはこの問いには答えなかった。母の腕に抱かれた幼子が機嫌よく
ミトラは彼の首の後ろを見遣り、微笑んだ。
「伸びて来られましたね。良かった。王に頂いた辮髪は、この子の御守りにとってあります」
「いや、あれは……」
『いろいろと恥ずかしい故、処分して欲しいのだが』 と言いかけて、トグルは言葉を呑んだ。代わりに、左掌で顔をおおう。
ミトラは、ふふと哂った。
「ここに、葡萄の木を植えようと考えています」
ミトラはぐるりと首をめぐらせ、城周辺の南向きの斜面を眺めた。トグルは、彼女の横顔を見詰めた。
「蔓をつかって籠を編み、葡萄酒をつくります。桃と桜の苗を植え、茶の木を育てましょう。……羊の毛を仕入れ、絨毯を織って、それでこの子を育てます」
「なんあん、だむ、だー」
幼子が賛成と言うように声をあげ、きゃっきゃと笑う。ミトラは、息子からトグルへ視線を戻した。
「盗賊や戦乱から、
「
トグルは肯いた。低い声に吐息が交じる。
「その子は、我われの息子でもあるからな……。他の子も、女達も……。草原に、家族のいる者も多かろう」
ミトラたちが故郷への帰還を望んだ一方で、草原に残ることを選んだニーナイ国の民もいる。縁を結んだ彼女達と離れがたく、逆にこちらへついて来た男達もいる……。今後は、そうした人々を通じて交易が行われるだろうと、トグルは言った。
「……その」
エイルににっこりと微笑まれて、トグルはやや毒気を抜かれた。帽子を脱いで髪をかきあげ、口ごもる。
「俺も、時々、訪ねてよいか? ここまで関わると、他人とは思えない」
「光栄です。エイルも喜びます」
「んまんま。わっ、わっ!」
トグルの手袋をはめた指先を、エイルは掴んだ。その力強さに、トグルは苦笑した。
「数日一緒にいただけだが、随分大きくなったのだな。早いものだ……。俺に子はいないから、余計にそう思うのかもしれぬが」
「早いですよー。あっと言う間に、駆け回るようになります。……あら、でも」
ミトラは、重くなった我が子を抱き直し、悪戯っぽく笑った。
「
「…………」
「隼さんから聞いていらっしゃいませんか?」
トグルが黙り込んだので、ミトラは首を傾げた。まったく他意のない素朴な微笑を向けられて、トグルは瞬きを繰り返した。エイルが、「なんなー」と歌いながら彼の手を引っ張る。
「王?」
トグルは、ゆっくりと隼のいる方へ向き直った。アラルやオルクト氏族長と並んで、彼女がこちらを観ている。白く小さな顔のなかで、紺碧の眸が不安げに彼の様子を伺っている。
記憶の片隅に、いくつか腑に落ちる事柄が散らばっていた。
トグルは幼子から手を離し、歩き始めた。視界が揺れ、
「トグル!」
――ユルテを建て終えた仲間のところへ、隼が蒼ざめた顔で駆けて来た。おし殺した声は、悲鳴を含んだ。
「鷲! 雉! 来てくれ。トグルが倒れた。……助けてくれ!」
~『飛鳥』第五部・約束の樹~
完
ここまでお付き合い下さいまして、ありがとうございました。
最終部へ、続きます。
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