第五章 約束の樹(5)


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 風がひときわ大きな音を立てて旗を叩き、空を泳がせた。黄金の鷲獅子グリフォンと銀の天馬ペガサスが、蒼穹を馳せる。

 オルクト氏族長が太い手を挙げて号令を発し、兵士達の復唱が谷に響いた。騎馬の群れは蹄を鳴らし、はみを噛み、一斉に動き始めた。


 今回は、氏族長会議クリルタイが軍勢の九割を率いて本営オルドゥへ帰還する。トグル氏、シルカス氏族の兵士達も、その殆どが先行する。トグルとアラル、オルクト氏族長とジョルメ若長老が、シェル城下へ戻ることになった。マナは姿を見せなくなったクド(雪豹に似た獣)を連れて〈黒の山〉へ帰り、《星の子》が彼等に同行する。

 ルツは白馬にり、アラルがその手綱を持って先導した。鷹は赤子を抱いて鹿毛コアイに騎り、鷲が手綱を引く。隼の騎乗する葦毛ボルテには鳩が坐り、トグルの黒馬ジュベと並んでいる。雉とオダは、別々の馬を与えられていた。

 引潮のごとく整然と移動する騎馬軍を、セム・ゾスタとリー家の兵士達は、スー砦の防壁の上に並んで見送った。


 戦の緊張のない移動を、鳩はすっかり楽しんでいた。馬上から無邪気に声をかける。


「トグル、おヒゲ伸ばしちゃったのね。でいてって、言ったのに」


 少女が唇を尖らせたので、トグルは眼をしばたかせた。濃緑色の瞳に、明るい光が射す。低い声が歌うように応えた。


だからな、もう」

「やん、やだ。鷲お兄ちゃんじゃあるまいし。だいいち、似合わないわよ」

「そうはっきり言われると、考えるな……」


 トグルは近ごろ、鼻の下と顎の先に髭をたくわえている。隼は何とも思わないが、鳩はお気に召さないらしい。


「その後ろの紐、ナアニ?」


 タイウルト部族との戦の際に、トグルは辮髪を切り落とし、短く切りそろえていた。ようやく伸びた黒髪は、後頭で一つに括れるほどになっている。そこに、三本の細い布が――青、黄、白色の絹帯が下がっているのを、鳩は指さした。


「勝手に切った故、長老達に叱られたのだ」

「お守りみたいなもの?」

「そんなところだ」

「綺麗な髪だったのにねー」


 隼は、二人の会話を微笑ましく聴いていた。彼女やアラルに対するのとはまた違う形で、トグルは鳩に気を許している。恐れも喜びも素直にあらわす少女の言動は、ともすれば沈みがちになる彼の心を照らしてくれる。

 トグルは首を振り、帯を風になびかせた。


「この方が楽だ。軽いし、梳く手間が省ける。長老のいぬ間に、いっそ剃るのも悪くないな」

「えーっ?」


 鳩は目を丸くした。隼もかるい頭痛を覚える。後方から、鷲が笑って口を挿んだ。


「お前はいいよな、剃ってもすぐ伸びそうだ。俺なんか、最近、抜けたら二度と生えなくなる気がする」

「そうか? お前は量が多かろう」

「生え際が危ないんだよ、生え際」

「そうは見えない……。ああ、白いからか」


 二人はオルクト氏族長を交え、如何に髭をきれいに生やし、脱毛をふせぐかについて語り合った。たわいもない会話のあいだ、軍団は和やかに進んだ。先頭を行く《星の子》は、終始ほほえんでいた。


 彼等は雪解けの荒野を行き、太陽がエルゾ山脈の肩にかかると、早めに宿営の仕度をした。トグルは王として《星の子》に敬意を払い、自分の外套を地面に敷くと、彼女を馬の背から抱き上げてそこへ下ろした。《星の子》の長い衣の裾も、足も、決して土に触れさせなかった。

 隼は、トグルが右手を不自由なく使うのを見守っていた。


 辺りが紫の宵につつまれる頃、彼等は篝火を焚き、宴の準備をととのえた。ヤナギの木を組んだ台に絨毯を敷いて《星の子》の席をつくり、天人と子ども達の座を設える。羊が屠られ、新鮮な肉が料理された。《星の子》と子ども達のために、脂ののった尾の肉は、蜂蜜をかけて炙られた。蒸留酒アルヒ葡萄酒サクアの杯がまわり、祝宴が始まった。

 トグルは、兵士が持参していた馬頭琴モリン・フールをみつけ、借りてきた。高級なつくりではなかったが、丁寧に調弦して弾きはじめる。手ならしに短い曲を二、三曲奏でると、歌いだした。

 隼が意外だったことに、それは挽歌だった(注*)。



    父が褒美にくれた まだらの黄色い弓は

    白き蓮華の城チャガン・リンホワー・ホトで 弦の方から磨りきれた


    兄が誕生日にくれた 十本の白い矢は

    白き蓮華の城で 矢はずの方から摩耗した


      私の骨をみたければ 万里の長城ワンリー・チャンチェンのふもとにある

      私の血をみたければ 万里の長城の砦にある……



 ブルル……と黒馬ジュベが鼻を鳴らし、長い耳を動かした。葦毛ボルテが睫毛を揺らして瞬きを繰りかえす。

 オルクトとシルカス・アラル氏族長、ジョルメ若長老をはじめ、その場にいた草原の男達が唱和した。



    母が褒美にくれた 金の飾りのついた腰刀ホタクッ

    白き蓮華の城チャガン・リンホワー・ホトで 鎖の方から磨りへった


    弟が記念にくれた ちぢれ毛の葦毛馬ボーラル・モリィ

    白き蓮華の城で 蹄の方から摩損した


        血は芥子の花より赤く 雪は白鳥の胸より白い

        父母が私のことを訊ねたら 白き蓮華の城にいる、と答えてくれ


        紙のない私は 長衣デールあわせにこのうたを書き遺した

        墨のない私は 自分の血でこの詩を書き遺した


      私の骨をみたければ 万里の長城ワンリー・チャンチェンのふもとにある

      私の血をみたければ 万里の長城の砦にある……



「……戦士の基壇スゥルデン・オボーというものがある」


 オダと隼が傍らで聴いていることに気づくと、トグルは小声で説明した。


「俺達は戦場へ行く前に、ひとり一つずつ石を持って来て積みあげる。還って来たら、一つずつ取ってユルテ(移動式住居)へ帰る」


 左手で幻の小石をひろい、積み重ねる仕草をした。


「残った石は、命を落とした兵士のものだ。奴等の骨は、戦場で眠っている。たおした敵と一緒に……」


『そうか、これは弔いなんだ……』 と、隼は理解した。

 トグルが酒を口に運んで休憩している間に、オルクト氏族長が次の曲を歌いはじめた。手を叩き膝を打ち、身体を揺らして唱和する男達の表情はおだやかで、寛いでいるように見える。しかし、黒い眸は真摯で、曲は哀調をおびていた。《星の子》の降臨を歓迎し、勝利を祝いながら、彼等は仲間と敵の死を悼んでいるのだ。


 演奏を再開するトグルをみつめる隼のそばに、鷲と雉がやってきた。鷲は口に干し肉をくわえ、片手に葡萄酒を入れた杯を持ち、彼女の隣に胡坐を組んだ。


「トグルから話はあったか?」


 隼が頭をふると、鷲は天を仰いでぼやいた。


「やせ我慢しやがって……」

「鷲」


 軽口を叩いているが、実際そうなった場合、最も負担が大きいのは彼だろう。隼は仲間を案じたが、彼はにやりと歯をみせて嗤った。


「大きな目標を達成したとき、人は脆くなるのよ」


 ルツが声をひそめて言った。彼女は絹の枕によりかかり、機嫌よくトグルの演奏を聴いている。うっとりとした表情のわりに、言葉は厳しかった。


「似た者同士なんだから、彼の自己評価の低さは解るでしょう、ロウ。財宝にも権力にも興味はない……ディオ自身が積極的に生きる理由を見出せなければ、難しいのよ」


 鷲はつまらなそうに鼻を鳴らし、口髭をこすった。

 隼は、秘かにおそれていた。トグルが『是非が判らない』と言ったとき、彼はつぐないのために生きているのではないかと思ったのだ。タァハル部族長と同じく、己の生命でニーナイ国との過去を清算するつもりではないかと。和解が成立するまで寿命がもてばいい、と考えているとしたら――。

 雉は、隼の蒼ざめた横顔を眺めた。


「トグルが死んだら、また戦争になるんだろう? オルクト氏族長がそう言っていたぜ」


 ルツは白い瞼を伏せる。他から必要とされることと自分で望むことは違うのだと、三人にも解っていた。

 隼は、息だけで囁いた。


「雉は、いいのか……?」


 雉は肩をすくめた。彼には、トグルがいま命を落とせば、隼もまた生きてはいられないように思われた。生はあっても、抜け殻になってしまうのではないかと。――いや、彼女のためではない。自分はずっと、あの男トグルのことを好きで嫌いで、離れられないのだ……。


ありがとうラーシャム……」


 隼は小さく呟き、トグルへ視線を戻した。

 篝火が散らした金の粉が、楽の音にのって夜空へ舞い上がる。風にあおられ渦巻いて、紺の天鵞絨の絨毯に銀河をえがく。いつしか、満天の星ぼしが、彼等をつめたく見下ろしていた。



               **



 シェル城下へ到着した軍勢を、復興の槌音がむかえた。

 鷲が凍らせた湖は、幸いすでに融けていた。城へのびる水路は戦乱の度に破壊されていたが、修繕され、澄んだ水が滔々とうとうと流れていた。崩れた城壁の周りには足場が組まれ、石を積む男達の威勢の良いかけ声が響いている。


 働く男達のなかには、この地で暮らしていたニーナイ国の民だけでなく、トグリーニ部族の兵士達が交じっていた。大柄な草原の男達が資材を運んでくれるお陰で、作業は随分はかどっていた。交易語がとび交い、荷車をひく馬を励ます声が投げられる。

 女達は、野外に設置した大きな竈でナンを焼き、籠に盛っていた。干果を積んだ棚の隣に、陶器の皿や羊肉を売る店が並んでいる――商いが復活しているのだ。日干し煉瓦つくりの四角い家と、丸い屋根のユルテ(移動式住居)や天幕が混在して、不思議な街並みを作っていた。敵も味方もなく、この地で生きて行こうとする人々の熱気に、オダはしばし見入った。


「僕、父に報せてきます」


 少年は、《星の子》とトグルに一礼すると、にわかづくりの街へと駆けて行った。《星の子》は頼もし気に、オルクト氏族長は満足げに眼を細めて、その背を見送る。トグルは無表情だ。

 鷲は、自分がシェル城の壁を壊したことを思い出し、悪戯をみつけられた子どものように片目を閉じた。


「俺も挨拶して来よう。鷹、鳩、一緒に来るか?」

「あたし、行くっ!」


 鳩がうきうきと声をあげる。鷹は微笑み、鳶を抱き直した。

 トグルは彼等を見送った。雉と隼は、その後ろに残っている。オダがニーナイ国側の代表を呼んできてくれるのを待つのだ。

 沁みるほど蒼い空を仰いで、トグルは音のない溜息をついた。



 オダ達は、騎馬軍団の到着に驚く人々に数回たずね、神官ラーダの居場所をつきとめた。オダの父は、修理中の城壁のそばに新しい煉瓦の家を建てて暮らしていた。


父さんアーマ! トグル・ディオ・バガトルが――!」


 扉を開けるなり早口に言いかけたオダは、父に首根っこを捕まれ、部屋の中に引きずり込まれた。ラーダは鷲たちを招き入れると、素早く扉を閉めた。室内には、数人のニーナイ国の男女がいた。


「オダ! タパティ!」

「デルタ伯母さん、来ていたの」


 母親代わりの伯母に声をかけられ、オダは目をまるくした。鷹は、記憶を失くしていた頃の仮の名(タパティ)で呼ばれ、懐かしさに涙ぐんだ。


「デルタさん……!」

「お久しぶり、タパティ。今は《鷹》なのね。まあま、赤ちゃんも、いらっしゃい。元気そうで何より」


 鳩ははにかんで微笑み、鷲も照れながら一礼した。再会を喜んだのは、彼女だけではなかった。


「鷹、さん。鳶ちゃんも、元気だった?」

「ミトラさん、エイル君」


 出産を助けてくれた母子に会えて、鷹はさらに喜んだ。互いの赤ん坊を見せ合い、微笑みを交わす。

 ラーダは、戸惑っている息子オダに説明した。


「トグリーニ部族の兵士が、この辺りの治安を護っているのだ。エルゾ山脈の峠を越える道を整備し、タァハル部族の残党を捕らえてくれた。それで、ニーナイ国側からも人が来られるようになったのだ」

「そうだったんですか。あの、父さんアーマ、」


 オダは、唾を飲む動作をくり返し、跳ねる気持ちを抑えた。


「トグル・ディオ・バガトルが、いらっしゃっています。《星の子》と、軍とともに」

「知っている。いま話し合っていたところだ」


 ラーダは片手を腰に当て、息子を見下ろした。眉間に困惑がただよう。

 デルタは、オダと鷲たちに、冷ましたお茶を差しだした。オダは礼を言って飲んだものの、噎せて口元を手で拭った。


父さんアーマテュメンは、ここをニーナイ国と草原の緩衝地にしたいと仰せです。タサム山脈とエルゾ山脈の間のこの地で、交易を行いたい、と」

「〈黒の山〉の《星の子》が、お認めになったのだな?」


 ラーダは重々しく訊いた。彼の後ろで、ニーナイ国の男達がざわめく。

 オダは肯いた。

 鷲は胸のまえで腕を組み、重心を左脚にかたむけた。鷹と鳩は、固唾を呑んで親子の遣り取りを見守っている。

 砂漠の湖とおなじ青の瞳が、真っすぐ息子を見詰めた。


「我われはどうするべきだと思う? オダ」


 オダは、ぐっと言葉を詰まらせた。鼓動が速くなり、頭に血が昇ってかっかとし、喉が渇く。


「僕は……判りません。どうしたらいいか、なんて」

「お前の意見を言いなさい。彼等のもとで過ごしてきたのは、何のためだ」


 ラーダは、力をこめて繰り返した。

 オダは唇を噛んだ。父の正しさを理解したのだ。識る者は、責任を果たさなければならない。どんなに不充分で、不完全な理解であっても。確かに、これは彼の責任だった。

 少年は呼吸をしずめ、己の裡なる声に耳を澄ませた。



『一頭の羊を養うのに、どれだけの広さの草原が必要か、知っているか?』――そう、彼は言った。

『放棄された畑が砂漠になって行くのを、俺達が、どんな気持ちで観ていたと思う。十頭の羊の死は、それを飼う一人の人間の死に相当する。……この十年で、百万頭の羊が凍死した』


 自分達がまったく無実ではないことを、オダは知った。知らなかった、では、済まされないことがある。特に生命の問題では。


『言葉を棄て、武器を採った時点で、俺達は、ただの獣だ』


 武器をもつ者だけが獣ではないことも、少年はすでに理解していた。自分達はリー・ディア将軍を死なせ、妹姫に逆賊の汚名を着せた。姫将軍を救ったのは、敵であったトグルだ。

 タァハル部族とタイウルト部族を盾にして戦争のきっかけを作ったのも、ニーナイ国だ。自らの手を汚すことなく……その手口は、キイ帝国の大公と変わらない。

 否――もっと罪深いかもしれない。

 戦場に臨む者は、己の生命を危険に晒し、責任と罪を心に刻んでいる。トグルは常に前線にいた。

 戦場の残酷さ、悲惨さを知らず……おのが身を危険に晒すこともなく、安全な場所にいて、責任を負わずに批判するだけなら、幼児でも出来る。

 果たして、どちらが卑怯だろう。


『取り返しのつかないことを悔いたり嘆いたりするのは、愚かである以前に、卑怯者だ。せめて、お前は、卑怯者になるな……』


 オダは、エイルを抱いているミトラをみた。夫と息子を喪った彼女に、トグルの告げた言葉を思い出す。


族長おさとして、俺は、謝罪するわけにはいかない。……手をついて許しを乞うことは、出来ない』


 あれは、あのとき彼に出来る最大限の謝罪だった。膝を折ることは出来ない、民族の誇りと王の責任は、それを許さない。王は誤ることがあってはならないのだ。間違えば、その命に従って死んだ者達の尊厳は踏みにじられる。

 だが、王である以前に、人である彼は――


『愚か者が……』


 タイウルト部族の長に異例の決闘を申し出て、断られた時の呟き。緑柱石の双眸の、昏い煌めき。あれは、己に対するものだったのか。

 そして、獲物を狙う狼のように不敵で、艶やかな苦笑。


『無駄ということはなかろう。俺を殺すと言っていたお前の口から、そんな言葉を聴けたのだからな……』


 オダは、ふかく息を吸い込んだ。両手の拳に力をこめ、面を上げる。雪解けの水と乾いた砂と、草原の匂いが彼を包んだ。


「……出来ません」


 大人達は、そろって彼を見た。鷹と鳩が息を殺す。鷲は、片方の口の端を吊り上げた。

 オダは唇を舐め、苦い声で言った。


「僕には、あの人を裁くことは出来ません、父さんアーマ。そんなことをしてはならないんだ……」


 草原の男が向けてくれた信頼に対する、それが少年の答えだった。

 ラーダの空色の瞳に、思慮ぶかい光が宿る。彼は息子の肩に片手を置き、促した。


「おいで、オダ。……お前は、神官よりも、天職を見つけたな」


 オダは怪訝に思って父を見上げたが、ラーダは説明しなかった。






―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(注*)『白き蓮華の城チャガン・リンホワー・ホト』: モンゴル民謡。意訳、脚色しています。


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