第五章 約束の樹(4)
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昼過ぎに、彼等は再び防壁のうえに集まった。セム・ゾスタとトグルと《星の子》が見守るなか、鷲は右手を蒼天にかざし、結界を完全に消し去った。氷河をすべり降りて来た冷風が、一同の頬を撫でる。
砦の周囲は静まりかえっていた。西側の〈草原の民〉の陣も、東側の大公軍も。予め、セム・ゾスタが大公方へ使者をおくり、事情を説明したからだ。
錆びのういた蝶番を軋ませて、今度は東の門扉がひらいた。
砦のなかから、まず、武装したゾスタの部下が数名あらわれた。大公軍の攻撃を警戒しつつ歩を進める。次に、
トグルはセム・ゾスタと並んで立ち、その後ろにシルカス・アラルと隼が控えている。胸壁にもたれて立つ鷲に、鷹は鳶を抱いて身を寄せた。
「あれは?」
「オン大公の
鷹の問いに、鷲は小声で答えた。自身も政略結婚の道具であった鷹は、眉をくもらせた。
トグルは、今回の戦の責任を、タァハル部族長ひとりの生命で
セム・ゾスタは、トグルのこの提案を慎重に検討した。
「我らは願ってもないですが……。宜しいのですか。貴公らは、旗色を鮮明にすることになりますぞ」
トグルは
「我らがオン・デリク(大公)と手を結ぶ道理はない……俺が生きている間は。草原とニーナイ国のためにも、女将軍には持ちこたえてもらわねば」
「そーだ。どうせお前は、姫将軍を
鷲がにやりと笑って口を
「何故、そういうことになるのだ?」
「だって、考えてもみろよ。四十過ぎの
「おっさん」
「…………」
「と、言い返してやりたいところだが、」
トグルは、くっくっ笑い出した。
「そうだな、美女だ。間違いない」
「ほんっとうに可愛くない野郎だな、お前」
「お前程ではなかろう」
「犯すぞ、てめー」
――鷲は、どうしてもトグルをからかわずにいられないらしい。不謹慎な掛け合いを、仲間たちは呆れて見守った。
鷹は、公女が荷物を抱えていることに気づいた。外套と同じ
公女は、かつては煌びやかな絹の衣装に身を包み、金箔や
いま、公女は幼子を抱き、年上の子ふたりを連れ、自ら荒野を歩いて故郷へ向かわなければならない。鷹には他人事とは思えず、
鷹は、無精髭の伸びた彼の顎を見上げた。身体の奥の方で小さく縮こまっていた何かが、春を待つユキノシタの花のごとく、ほころび始める。
公女の子ども達の後方に、数人の護衛が従う。彼等の行く手には、キイ帝国の男達が並んで待っていた。大公家に仕える兵士達だ。
突然、年上らしき子どもが足を止め、くるりと振り向いた。頭巾をはぎ取り、防壁を仰ぐ。編んだ黒髪と黄色い肌があらわれ、鷹は息を呑んだ。父を亡くした少年は、トグルとセム・ゾスタたちを、黒い眸で迷うことなく睨みつけた。
トグルの無表情は変わらず、ゾスタも動じなかった。オダはごくりと唾を飲み、沈んだ声で呟いた。
「〈草原の民〉と同じ、ですね……」
「一代目はそうよ。以降は、相手によって変化するの」
ルツがさらりと答える。オダは、運命の女神のごとき横顔をみた。
「大丈夫なのですか? そのう――」
「一代血が交じるだけで、かなり違うのよ。遺伝子の半分が入れ替わるのだから。外見は、大した問題ではないわ」
ルツは事もなげに言って、鳩と鷹をみた。
「鳩も、こんな風に南へ逃れた人々の子孫かもしれないわね……。ムティワナ王家は、先祖返りのようなものかしら」
遊牧民は、何百頭、何千頭という数の家畜を管理する。《星の子》に教わらなくとも、彼等は経験から
鳩は、鷹と鷲が寄り添っているのをみると満足げに微笑み、鷹にむぎゅっとしがみついた。
セム・ゾスタは少年の憎悪を認識すると、小声でトグルに訊ねた。
「
トグルは少年から眼を逸らさず、冷厳に答えた。
「構わん。復讐に人生を費やすのも、他の生甲斐を探すのも、自由だ。……
陰鬱な声に、オダは打たれたように面を上げた。トグルは彼の反応に気づいたのか否か、顧みることはなかった。
少年は
砦全体に安堵の空気がただようなか、鷹は親子の行く末を案じていた。大公の公女はともかく、〈草原の民〉の
きっとトグルは、何度もこんな思いをしてきたのだろう。
『ああ。だから、〈鳥〉なんだわ……』
鷹は、トグルの傍らに毅然とたたずむ隼をみた。氷河から削り出したように真っ白な肌、玲瓏な美貌は超然として地上を見下ろしている。風になびく銀糸の髪は光をまとい、自ら輝いているようだ。
国に縛られ人生を翻弄されてきた者にとって、鷲と雉、隼は、〈鳥〉だった。迫害され故郷を喪おうとも、それを超えて生きている。天山山脈の雪峰を超えて行く渡り鳥のように、己の翼の力のみを頼みにして。
トグルがなぜ彼女に惹かれたのか、鷹は解るように思った――自分が、鷲に。せめて、彼等が安らげる止まり木でありたいと願う……。
春の気配をふくむ日差しの下、大公軍は粛々と退いて行った。トグルは彼等を見送ると、セム・ゾスタに向き直った。
「ご協力に感謝する、セム・ゾスタ」
「いえ、こちらこそ。助かりました」
「我々も撤退する」
草原の王は単調に告げ、ゾスタは頬を引き締めた。
「どちらへ?」
「
トグルは《星の子》と、緊張しているオダ、鷲と鷹を、順に眺めた。
「かの地の復旧と治安維持のために、部隊を置いてきたからな。今度はニーナイ国側と話をつけねばならん……。ご指導をお願いしますよ、《星の子》。オダ」
トグルは面倒そうに言った。ルツは頷き、オダは背筋をぴんと伸ばした。
「はいっ」
「もちろん、俺達も一緒に行っていいんだよな?」
鷲は鷹の背に片手をあてて訊ねた。鷹には、そのぬくもりが嬉しかった。
トグルは苦笑していた。
「好きにしろ……。リー女将軍に宜しく伝えてくれ、セム・ゾスタ。次の冬に
「承りました。ご厚情に感謝いたします」
そうして、彼等が三々五々、建物の方へ移動をはじめたとき、
「ディオ」
《星の子》が小声で呼んだ。トグルが足を止め、振り返る。
「ロウ。ケイ」
ルツは続けて声をかけ、鷲と雉は素直に立ち止まった。冬の夜空のように冴え冴えとした眸をみて、トグルは彼女の意図を察した。
トグルは身振りでシルカス・アラルを促し、アラルは《星の子》に一礼して下がって行った。鷲も、鳩と鷹に声をかけた。
「先に部屋に戻っていてくれ。鳩、鷹を頼む」
「うん! 行こ、お姉ちゃん。鳶にごはん、あげないと」
「え、ええ」
それで、鷹は戸惑いつつ
防壁の上には、トグルとルツ、鷲と雉と、隼が残された。
*
隼は、立ち去るべきか否かを迷っていた。ルツがトグルと《古老》をこの場に残したかったのは理解したが、何をしたいのか分からない。トグルも怪訝そうに眉をひそめている。
「《星の子》、どうしたのです」
「あなたも居て頂戴、隼。……ロウ、ここへ来て」
鷲は鷹たちを気にして、回廊を所在なげに歩いていた。ルツに呼ばれ、ぶらぶらとやって来る。
「はいよ」
「あなたが結界を消したら、試したいことがあったの。ロウ、まだ
鷲は、トグルから譲り受けた黒い外套を羽織っている。その肩をひょいとすくめ、肯定した。
「軽いのなら。吹雪を起こしたり雪崩を凍らせたりするのは、無理だぜ」
「そこまで要求しないから、大丈夫よ。ケイ、あなた、ロウと共鳴できるわね?」
雉は優美な銀の眉を寄せ、先刻から質問したそうにしていたが、小さく頷いた。
《星の子》は、トグルを正面から見詰めた。
「ディオ、右手を診せて」
トグルは一瞬おどろき、憮然と彼女を見た。隼も息を殺す。鷲と雉は、目だけで互いの顔を見交わした。
ルツは平然と、トグルの行動を待っている。
トグルはしばらく迷っていたが、結局、革の手袋を外し、外套の袖をまくって右手を出した。ルツは白い腕を伸ばして彼の手をとると、睫毛が触れそうなほど顔を寄せて観察した。彼女の澄ました表情は変わらなかったが、隼の美しい
「しばらく診ない間に、進んだのね……」
「あのさあ、ルツ」
雉は我慢していたのだが、抗議をこめて口を開いた。ルツは首を横に振り、遮った。
「分っているわ、ケイ。あなたや私の
「分っているのなら、どうして、」
「別の方法を試すのよ。出来るか出来ないか、やってみなければ分からないわ……。ロウ、ここへ来て。いい?」
鷲は片方の眉を上げ、両手を
トグルは、心もち身を引いている。ルツは彼の右腕を支えたまま、ひた、と雉をみすえた。
「ケイ。ロウと共鳴し、彼の
「えっ?」
雉は虚を突かれて呟き、それから俄然やる気をだして手をかざした。トグルは普段の二割増し眼をみひらいて逃げかけたが、鷲に右手を掴まれ、動けなくなった。
鷲の眸は、いなずまの如き黄金の光を宿していた。
「どうしろって? ルツ」
「あなたには、細胞が分裂する話をしたわよね、ケイ」
「ああ」
雉は瞼を伏せ、トグルの右手に意識を集中している。ルツは、ひとり言のように続けた。
「すべての生物は、細胞の集まりから出来ている……髪も骨も、血も筋肉も。ひとつひとつの細胞は分裂し、死と再生を繰り返している。私達は細胞レベルでは、常に死にながら生きているのよ」
表情のないトグルの頬が、ぴくりと引き攣る。ルツは、彼の腕をいとおしむように撫でた。
「熱いでしょうけれど、我慢して、ディオ。……あなた達の病気は、細胞の設計図である遺伝子の異常。
「手が……」
隼が、かすれた声で囁いた。
やせ衰え、枯れ枝のごとく拘縮していた、トグルの手。土気色の肌に血の色が戻り、
雉は、ほうっとためていた息を吐いた。鷲がトグルの腕から手を離す。ことを成し終えた三人が、いずれも信じられないものをみた表情をしていた。
トグルは解放された右腕を眼前にかざし、しげしげと眺めた。表と裏をかえし、手指を握っては伸ばす動作を繰りかえす。声もない彼の代わりに、隼が訊ねた。
「治ったのか?」
「いいえ」
ルツの口調は冷静だったが、頬は淡く上気し、興奮していることがみてとれた。
「腕いっぽんだけの、一時的な修復よ。原因は遺伝子だから、全身の細胞に手は出せない……。今も、病気自体は進んでいるのよ(注*)」
「それでも、やらないよりはマシだ」
鷲の声は雷鳴のごとく、力強く響いた。
トグルは自分の右手首を左手でつかみ、考え込んでいる。ルツは鷲に声をかけた。
「ロウ、大丈夫?」
「ああ、結界と同じだ」
「ケイは?」
「平気だよ。慣れれば、もっと長い時間つづけられると思う。同時に他のことは出来ないけれどね……」
トグルより先に、鷲が訊ねた。当然のように。
「どうするんだ。定期的に繰り返せばいいのか?」
ルツは
「ディオの再生力が尽きれば、結果は同じよ……。身体の他の部分に致命的な症状が起きれば、間に合わない」
「そうか。そうだな……」
鷲は、以前トグルが戦闘中に倒れたことを念頭に頷いた。ならば、
「ずっと、やっていればいいのか?」
「待て……」
トグルは眉間に皺を刻んだ。話が勝手に進んでいることに不安を覚えたのだ。
ルツは小鳥さながら首を傾げ、神妙に瞬きをくりかえした。
「ずっと……二十四時間、三百六十五日。あなたの
「それしか方法がないんなら、そうするしかないだろ」
「待ってくれ」
トグルの声は渇いていた。唾を飲み下したが、動揺は隠せなかった。
「《星の子》、ワシ、キジ……右手を治してくれたことは感謝する。しかし、これは……。反作用? のようなものはないのか、お前達に」
鷲と雉は顔を見合わせ、鷲は投げやりに肩をすくめた。
「他に
「おれもだよ。多少、集中が必要だけど、慣れれば平気だ」
「前例がないから、はっきりしたことは言えないけれど。力の源となるロウの身に異変が起きれば、出来なくなるわ。勿論、ケイが能力を使えない状態になってもね……。何年も、となると、相手は一人か二人でしょう。一人分の
ルツの解説に、鷲はぎりりと奥歯を鳴らして付け加えた。
「二人以上だと、周りから力を集めないと無理だろうな」
「あたしの力は? あたしも《古老》、なんだろう?」
隼が、トグルの右手を胸に抱いて訴える。ルツはいたわりをこめて囁いた。
「あなたは既にディオを支えているわ、隼。それに、あなたには別の役割がある……」
「…………」
隼は、紺碧の眸をみひらいて絶句した。
トグルは、動きを止めた彼女の腕から、
ルツは慎重に言葉を選んだ。
「永遠に再生できるわけではないのよ。私達の誰も、永遠には生きられないようにね……。ディオ自身の生命が尽きれば、そこで終わる」
「でも、延ばせるんだろ? 俺達と同程度には」
「あなたよりは短いと思うわよ、ロウ。逆に、あなた達のどちらかが死ねば、ディオも死ぬことになる」
鷲は
「一蓮托生ってやつか? 生命を共有するんだな。面白そうだ」
「……気持ち悪くないのか」
「そう言わずに付き合えよ、トグル。お陰で人間っぽくいられるのなら、俺は構わんさ。
『ひとの世は、ひとに返すべきだ』――シジンの声が、鷲の脳裡に蘇る。際限なく能力をふるい、周囲の
トグルは右手を掴んで項垂れている。雉は、精悍な横顔に話しかけた。
「戦争が終われば、おれの仕事はなくなるはずだ。トグル。お前が、そうしてくれるんだろう?」
「……悪いが、考えさせてくれ」
いきなり投げ与えられた未来と、己の生命が己のものでなくなる違和感が統合できず、トグルは混乱していた。
「誤解しないでくれ、ありがたいと思っている……。だが、俺には是非が判らない。考えさせてくれ……」
トグルはやっとの思いでそう言うと、《星の子》に頭を下げ、身を翻した。鷲と雉は、黙って彼の背を見送った。隼は数秒ためらったのち、後を追いかけた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(注*)全身の細胞に手は出せない。: 自作品の設定にマジでツッコミを入れますが……2019年現在のゲノム編集技術を用いれば、細胞内の異常DNAの修復は可能、です。進行中の臨床治験では、患者iPS細胞のDNAを修復して造り出した「正常」細胞を、心臓や骨格筋、脳や脊髄、網膜などに移植する方法が行われています。ただし、これらはあくまで部分的であり、全身の細胞のDNAを一度に修復することは出来ません。
全身の異常DNAを修復するには、受精卵の段階でゲノム編集が必要となるので、現在は倫理上禁止されています。
未来の異世界からやってきたルツは、ゲノム編集技術を知っていますが、こちらの世界では異常DNAを検出する方法がありません(どのDNAがどういう形で異常をきたしているのか判らなければ、修復できません)。雉や鷲の理解力も、細胞分裂レベルが精いっぱいなので、「手が出せない」のです。
なお、生命力〈プラーナ〉の元ネタは、インド神話です。
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