第五章 約束の樹(3)
3
夜明け前、トグルは、石造りの壁から伝わる冷気にぞくりとして目覚めた。左腕を伸ばし、傍らで眠る隼をだきよせる。夢うつつに昨夜の
彼女が果てるのを待って、彼は身を離した。銀色の睫毛にふちどられた瞼に口づけると、隼はかすかに微笑んだ。呼吸をととのえながら寄り添い、羊毛の織布と
左手が彼女の腰骨をこえ、なだらかな腹部へ届いた。トグルは、そっと愛撫しながら考えた。
――想いを交わし、身を重ねる。互いを求める行為はつまり子を成す行いなのだから……繰り返していれば、いずれ彼女を身ごもらせることになるのだろう。
己のなかにそれを
彼と……家族に……。
トグルは、想像すらしたことがなかった。愛する配偶者がいて子どもがいる、温かな家庭、などというものを。
しかし――何十万というそれを破壊してきた自分が、という想いが、鉄楔のごとく胸に刺さっていた。彼女をつき合わせて良いのか。いつまで? 隼にとって、相手が自分でなければならない理由はない……。
「……トグル」
彼の手が止まったことに気づいて、隼が眼を開けた。トグルが動けずにいると、彼女は微笑み、しなやかな腕を彼の首にまきつけた。裸の胸を合わせ、彼の肩に顔を埋める。
「
「…………?」
トグルは咄嗟に何を言われたのか分からなかった。隼は彼の耳朶に唇をよせ、優しい吐息とともにくりかえした。
「あたしのことで、後悔しないでくれ。あたしは、後悔していない」
「…………」
「愛している……。あたしは今、幸せなんだ」
トグルは頷いたつもりだったが、胸を衝かれ、返事は声にならなかった。ただ大切な温もりを、しっかりと抱きしめた。こんな時に泣きたくなるのは奇妙だと思いながら――。
――解っている。所詮、感傷だ。砦に入れた安堵と、鷹が幼子を抱いているのを観て、そんな気持ちになったのだ。
閉じた窓の隙間から入ってくる光はない。トグルは眠る隼のこめかみに口づけると、掛け布で彼女を包みなおし、自身は寝台を下りた。
廊下では、シルカス・アラル氏族長が不寝番をしていた。アラルは
トグルは群青の外套を揺らして回廊をすすみ、防壁の上にでた。太陽はまだ姿を現していないが、東の空が朱色に染まっている。吐く息が白く流れる。彼は、西の荒野にひろがるユルテ(移動式住居)と天幕の群れをながめ、馬の吐息を聞き、炊事の煙が立ち昇りはじめる光景を静かに観察した。踵を返し、今度は東側の回廊へと向かう。昇ってくる朝日を迎えようと考えたのだ。
小さな砦をはさんで南北にそそりたつ
「…………?」
トグルは眼を
「やめとけよ」
聞きなれた声に振り返ると、彼の黒い外套を羽織った鷲が、欠伸をかみころしながらやって来た。銀の翼に似た長髪を背負っている。
「ワシ」
「あまり、眠れなくてな……。そいつは結界だ。大公軍の攻撃を防いでいる」
「お前が造ったのか?」
鷲は、欠伸のせいで浮かんだ涙を瞬きで消し、肯いた。トグルは素朴に訊ねた。
「触れるとどうなるのだ?」
「……俺にバレる」
トグルは、今のは冗談だろうかと真剣に考えた。鷲は決まり悪そうに肩をすくめ、東の空を仰いだ。今しも太陽が姿を現すところだった。
男達は、しばし黙って
鷲は、ほつれた髪を肩に掻きあげ、きりだした。
「トグル。シジンがお前の命を狙ったってのは、本当か?」
トグルは、二、三度まばたきをした。
「
鷲が眉間に皺を刻んでいる理由を察し、トグルは
「ハヤブサに責める気持ちがない以上、咎めるつもりはない。シェル城下へ戻れば、奴は自由だ」
「そいつを聴いて安心した。礼を言う……。お前で良かったよ、本当」
もごもごと口ごもりながら、鷲は、トグルの寛大さに何度も救われてきたことを痛感した。勿論、彼等の利害が一致していたからだが。――この誠実さと寛大さがなければ、あの海千山千な氏族長達を束ねられないのだろう。
一方、トグルは鷲の言葉を怪訝に思った。シジン=ティーマの行為は、個人に帰するものだが……。ミナスティアの元神官と話をして、心境に変化があったのだろうか。
「なあ、トグル。お前の親父さんって、どんな男だったんだ?」
トグルは、歯切れの悪い質問を耳にし、さらに戸惑った。まじまじと、この、
「……風邪をこじらせて熱でもあるのか。大丈夫か?」
「放っとけよ。ちょっと訊いてみたくなっただけだ」
鷲としては、一応相手を選んだつもりだった。トグルは、生真面目に答えた。
「十年以上前に死んだが……厳しい人だった、俺には。祖父と長老達の手前、厳しく接するしかなかったのだろう」
「そうか」
鷲は頷いた。それで充分だったのだが、トグルはさらに、ぽつりと
「優しい男だった。故に、祖父と対立した……。
今度は鷲が彼の横顔を見詰める番だった。トグルは、口髭におおわれた薄い唇をゆがめた。
「本当に、どうしたのだ。
「ああ。俺には親父がいないから、どんなもんなんだろうと思ったんだ」
トグルは真顔に戻った。鷲は、ぽりぽり頬の無精髭を掻いた。
「……何とかなると思っていたんだ。
「…………」
「鷹もだ……。あいつがレイ王女に戻ったとき、俺はシジンを探し出すつもりでいた。返さないといけないと思ったんだ。王女を、シジンに会わせて、国へ帰そうと。それが、《鷹》が戻ったとたんに変わっちまった」
鷲は溜息をつき、片手で顔をひとなでした。『変わった』のは彼自身のことだと、トグルは気づいた。
「情けない話だ。レイが鷹の記憶を取り戻したら、俺は、シジンに会わせたくなくなったんだ。勝手だよなあ……あいつは鷹で、レイ王女でもあるのに、俺は『二人』を受け入れられない。シジンを捜していたのに、今度は掌を返して、いなくなっちまえばいい、なんて」
トグルは、言葉を探そうとして諦めた。鷲がどんな言葉も望んでいるわけではないと理解したのだ。
鷲は朝焼けの空を見上げ、吐き出すように嗤った。
「そんな気持ちが、どわーっと降りかかって来て、どうしたらいいか判らなくなった。ところが、鷹の方はあっさりと、赤ん坊に《鳶》なんて名を付けてくれた。信じられるか? 俺の死んだ前の女房の綽名だぜ。鳩の姉で、鳩と約束していたんだと……。俺は、必死で忘れようとしてたのに」
「待て」
トグルはつよく眉根を寄せ、
「もし、ハヤブサと俺の間に息子が産まれ……その子に《キジ》と名付けられたら。困るぞ、俺も」
鷲はフッと息を吐いた。
「息子が《シジン》は、絶対に無理だ。鷹は、そんなのをひょいと跳び越えちまう。ますます情けない……」
「そう悲観することはなかろう」
トグルは気を取り直し、いつもの平坦な口調に戻った。
「お前は己を抑え、王女と
「…………」
「父親を知らぬことは、むしろ有利ではないか。どのようなも何も、お前は既に『父親』だ……。誰かを真似る必要はない。お前自身が、娘にとってよき父であればいいのではないか」
鷲はこの言葉を、徐々に視線を下げながら聴いた。最後は項垂れる。まとめていない長髪と伸びた髭が表情を隠していたが、小声で呟いた。
「
トグルはかすかに首を振った。誰に言われずとも、おそらく鷲の
辺りはすっかり明るくなり、砦内では人の動く気配がしていた。回廊に囲まれた中庭に、兵士たちが現れ、井戸の水を汲み始める。石畳を叩く足音、剣帯が鎧とぶつかる音、起床を促す声などが聞こえてくる。
ばさばさと風が旗を鳴らした。回廊と同じ高さに掲げられたトグリーニ族の軍旗だ。黒と金のトグル氏の旗より、鮮明な青と銀が眼をひいた。
鷲は、両手を腰に当ててそちらを眺めた。
「あれは、ジョクの旗だな。シルカスの」
「…………」
「俺は、お前はあいつの後を追うつもりかと思っていた……」
トグルは片頬だけで
「『ディオに、
「何だ?」
鷲は訊き返したが、トグルには答られなかった。ジョクの真意が
トグルは返事の代わりに、硬くなった右手を鷲の背にあてた。
「……すっかり、お前に取られてしまったな」
鷲が着ている外套は、トグルのものだ。鷲は得意げに
「取ったとは人聞きが悪い。貸してくれ。俺のは少し小さいんだ」
「お前の体格では、仕立てる方は大変だろう。気に入ったのなら、やるぞ」
「おお、気に入ってる。いいのか?」
「構わぬが……。一度、洗濯した方が良くないか?」
持ち主とともに死線をくぐりぬけて来た外套だ。汗と泥だけでなく、幾多の敵の血を吸っている。――これを聞くと、鷲は外套の襟を立て、くんくんと嗅いだ。それから眼を閉じ、ふうっと倒れる仕草をする。
トグルは、するどく舌打ちした。
「返せ」
「冗談、冗談だよ」
「に、してはタチが悪い」
「わりぃ、悪かった。怒るなって。……おっと」
トグルがさっと伸ばした左手を、鷲は軽く上体を反らして避けた。銀髪が翼さながらふわりと拡がる。
鷲はトグルの眼前に指を立て、ちっちっと舌を鳴らしながらそれを揺らした。トグルの眸に、獲物を狙う狼の眼光が閃く。
「鷲! トグル!」
その時、凛とした呼び声とともに、隼がシルカス・アラルを従えて回廊に姿を現した。後方に、セム・ゾスタと《星の子》、雉と鷹、オダの姿もある。足早に近づく仲間に、鷲は片手を挙げて応えた。
「こっちだ。……え?」
隼も、眼をしばたいた。トグルが無言で鷲に足払いをかけたのだ。外套が翻り、不意を突かれた鷲は盛大によろめいた。――そこまでは、まだ良かった。
「どわっ!」
倒れかけた鷲に肩を掴まれ、トグルは眼を瞠った。勢いのついた鷲を支えきれず、二人は折り重なって倒れた。
「……いってえな! 何すんだよ。」
腰を石畳にぶつけ、鷲がうめく。トグルもすぐには立ち上がれなかった。鷲はそのさまを観て、にまあと嗤うと、トグルを後ろからがっしと捕まえ、くすぐり始めた。
「このこのこのこのこのこのこのっ!」
「*****! やめろ、離せ!」
隼の口が、ほかっと開いた。
トグルは身を捩じらせて逃げようとしたが、鷲はくっついて離れなかった。笑いながら、くすぐり続ける。トグルの帽子が飛び、彼は堪らず声をあげて笑い始めた。
「*****! ……ワハハ! ワハハハハハハッ!」
「うりゃうりゃうりゃ! うけけけけっ!」
「ほとんど莫迦だな……」
雉が呆然と呟く。ルツは溜息をついて肩をすくめた。
防壁の縁で、男二人がじゃれる。トグルの黒髪も外套も、砂だらけになった。彼はなんとか鷲の手から逃れると、反撃のくすぐりを開始した。鷲の笑声が、ひときわ高く天に抜ける。
「*****! この野郎!」
「わはははははっ! 苦しい。やめろ、トグル!」
「ええい、もう、やめーっ!」
業を煮やした隼の怒鳴り声が、山々に木霊した。
セム・ゾスタは半ば呆れ、半ばうろたえている。シルカス・アラルは片手で額を覆い、眼を逸らしている。オダ少年の目は、こぼれ落ちんばかりだ。
雉は蒼ざめ、鷲とトグルは、くすぐり合っていた姿勢のまま固まった。
「……ハヤブサ」
「凄い声だな、オイ」
「二人とも、いい加減にしろ」
隼は、息を切らせて繰り返した。呼吸をととのえ、白銀の髪を掻き上げる。
「ふざけている場合じゃないだろう、鷲。トグルも、鷲なんかと張り合うなよ」
「『なんか』とは何だよ、『なんか』とは」
トグルは黙って頭を掻いただけだったが、鷲は抗議を始めた。
「捨て置けないな。何だよ、その、露骨な差別は……。お前、最近、俺を蔑ろにしていないか? 隼」
「『ないがしろ』って?」
「俺のこと、どーでもいいと思ってるだろ。扱いが雑だぞ。こいつに惚れてるからって、差別すんなよな」
「ばっ……!」
隼の頬が、ぱあっと燃えあがり、魚さながら口をぱくぱくさせた。鷹は目覚めた
トグルは普段の無表情に戻り、落とした帽子を探している。
「莫迦! あたしが、いつ、差別したよ?」
「風邪ひいていた俺を雪の中に召喚したうえ、ボウフラ扱いしたじゃねえか。おまけに、命の恩人のこの俺を、トグルと一緒に馬で引きずっただろ」
「あれは、違う! 勝手に話を変えるな」
「だいたいお前は、感謝が足りないんだ」
帽子がみつからず、トグルは首を傾げた。脱げかけた
鷲はトグルを指さし、頬を膨らませた。
「今、こいつと一緒にいられるのは、誰のお陰だと? そもそも、こーんなガキだったお前を立派に育ててやったのは、俺じゃねえか」
「……分かったよ、鷲」
突然、隼の表情が変わった。眼をとろりと伏せ、顎をかるく上げて真っすぐな髪を掻き上げる。いつになく妖艶な仕草に、鷹はどきりとした。
隼は紅色の唇にかたどるような微笑を浮かべ、鷲に近づいた。
「それで、どうして欲しいんだ?」
鷲は胡坐を組み、にんまりと笑った。トグルが、ちらと振り返る。
「感謝の
「ほー。それだけで、いいのか?」
「……そりゃまあ。お前がどれだけ熟れたか教えてくれるってんなら、もっと嬉しいけど」
「ふふん」
隼は身をかがめ、鷲に顔を近づけた。自分の項に片手をあてがい、彼の耳元に唇を寄せる。
鷹は驚いていたが、改めて、隼は本当に綺麗だと思った。迫力のある美しさだ。
雉がギョッとする。トグルも片目でそちらを眺めた。オダは目を瞠っている
隼は、すんなりとした指を伸ばして鷲の頬に触れ、低い声で囁いた。
「お前には、こっちの方がいいんじゃないか?」
「ええ?」
「い・い・か・げ・ん・に・し・ろーっ!!」
鷲の耳朶を思いきり引っ張って、隼は怒鳴った。鷲は、眼を丸くして仰け反った。鷹は呆れた。『やっぱり……』
トグルが腹を抱えて笑い出す。隼が拳を振りあげたので、鷲は這這の体で逃げだした。
「わーっ! ごめんなさいっ!」
「調子に乗るんじゃないっ、鷹の前で! 何様のつもりだ! 本気で怒るぞ!」
鷲は逃げ出しざまトグルの腕を掴み、二人は駆けだした。隼は追おうとせず、両手を腰に当てて睨んだ。
「おー、こわ。何て恐い女だ……。おい、笑うなよ、トグル。お前も同罪だぞ」
「火に油を注いだのは、お前だ」
「お前の女だろーが! 笑っていないで、何とかしろ」
「俺は、別に恐くない」
「恐い女で、悪かったなっ」
「俺は、男の方が恐いと思うがな。女の恐さなど可愛いものだ。『何故、こんな男に』と思う。絶対に、騙されている。『騙しているな、こいつ』と」
「ああ」
『なるほど』と鷲が頷いたので、鷹は、吹き出しそうになるのをこらえなければならなかった。
「そんなに騙したのか? お前」
すかさず隼が問い返し、トグルの微笑が凍った。鷲がぎくりと目をむく。
トグルは肩を落とし、小さく舌打ちをした。
「***、ハヤブサ。俺が言ったのは――」
言葉を止め、トグルは軽く首を傾げた。素っ気なく言い返す。
「そんなはずがなかろう。だったら今頃、こんなに尻に敷かれてはいない」
「…………!」
今度は雉が吹きだした。鷲が景気よく爆笑する。
隼は耳まで真っ赤になって立ち尽くしたが、トグルは彼女の反応を見ていなかった。踵を返し、ルツ達の方へ向かう。
鷲は眼尻に浮かんだ涙をこすり、笑いながら告げた。
「鷹、安心しろ。シジンは無罪放免だ」
「え?」
「トグルが約束してくれた」
さらりと言って、鷲はトグルとルツの方へ向き直った。鷹は、飄々とした横顔を、じっと見つめた。
「楽しそうね、ディオ。疲れはとれた?」
ルツはすっかり呆れている。帽子のないトグルは、気まずそうに頭を掻いた。
「お陰様で……」
「誰のお陰なのかしら?」
ルツの皮肉にトグルは苦笑を返し、防壁の外を見遣った。折しも、飛来した矢が結界に当たり、金色の光を撒いて音もなく消えた。
トグルは頬をひきしめ、冷静に訊ねた。
「攻撃を受けているのですか」
「ああ、大公軍だ。仕事熱心な野郎どもでな。タァハル部族がお前に降伏したと報せても、諦めないんだ」
鷲が答えながら近づき、彼に並んだ。
東の谷から、まばらに矢が射掛けられていた。目に見えない結界に触れる度、水面に小石を落としたときのような光の波紋をひろげ、消えていく。岩陰に、こちらをうかがう赤毛の頭が見えた。
「奴等にしてみれば、何の成果も挙げずにルーズトリア(キイ帝国の首都)へ帰れぬのだろう……」
トグルは、左手をゆるく握って口元にあてた後、ゾスタに声をかけた。
「セム・ゾスタ、ひとつ頼みがある」
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