第五章 約束の樹(2)
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「どうした?」
口髭におおわれた曖昧な微笑も、やさしい声も、いつもと変わらない。彼が来てくれて、鷹は安堵していた。彼ぬきでシジンと話をすることは考えられなかったので……。
鷹は、預かろうと言う彼に首を振り、赤ん坊を抱きなおした。足元を気遣う彼の眼差しが、鳶のぬくもりが、おのれの力となるよう祈りながら、一段ずつ
砦のどこかから、兵士達の陽気な歌声が聞えてきた。〈草原の民〉かもしれない。二人は、流れる夜風を頬に感じた。壁に置かれた灯火が、鷲の銀髪をにぶい黄金に、鷹の黒髪を緋色に照らし出す。若葉色の眸に促され、彼女は扉を押しあけた。
夜が、一気に濃くなった。
開いた窓から吹きこむ風が、鷹の髪を躍らせ、冷たいその手が面を撫でた。
灯りは一つだけだった。部屋の中央の
窓辺に立って外を眺めていたシジンは、顔だけで振り向いた。怪訝そうに眼を
鷹の胸に、陽だまりに似た懐かしいぬくもりが、急速に膨らんだ。
鷲が、おもむろに扉を閉める。行き場を失った風は勢いを減じ、炎は鎮まった。闇に融けるように佇むシジンの金髪が、ぼうと浮かび上がる。
鷹は鷲を入り口に残し、静かにシジンに近づいた。目が
シジンが跪いた。
鷹は驚き、鳶を抱えて二、三歩後退した。シジンは石畳の床にひざまずき、
鷹の頬を涙がひとすじ伝った。
――他に、誰が居るというのだろう。誰に分かると言うのだろう。もう、二人だけなのだ。レイしか残っていないのだ。それなのに……。
シジンが呟いている言葉が祝福であることに、鷹は気づいた。幼な子の誕生を慶び、健康を祈り、将来の繁栄をねがう聖句だ。
鷹は、ふるえる喉から懸命に声をしぼりだした。
「シジン」
「お久しぶりです。殿下」
懐かしい顔、懐かしい声、懐かしい言葉……。鷹は何度も首を横に振った。『わたしはもう王女じゃない。貴方は神官じゃない。そんなことを言われる理由がない』 言いたくて、でも、声にならない。
シジンは片膝を立てて彼女を見上げ、
鷲は無言で手をさしのべ、鷹の腕から赤子を抱きとった。両手のあいた彼女は、掌で己の顔をおおった。
「貴方には、礼を言わなければならないと思っていた」
シジンは鷲に向かい、硬い口調で話しかけた。
「貴方がたのことは、ラーダ(オダの父)とオダに教えて貰った。レイを助けてくれたこと、感謝している……」
鷲は片手で赤ん坊の頭を支え、苦い声で訊ねた。
「タァハル族の処に、いたのか」
「そうだ」
「何故、探しに来なかった?」
シジンは、彼の腕のなかで平和に眠る赤子を眺め、立ちあがりながら答えた。
「生き残ったのは、俺とレイだけではない。テス=ナアヤが、俺とともに捕らわれた。俺達は、
シジンは、斬られた腕をつつむ外套の袖を右手でつかみ、眼を伏せた。
「俺は左腕をうしない、ナアヤは右脚を斬りおとされた。片脚では逃げられない……。ナアヤは、俺の為の人質だった」
鷹は目を
シジンは眼を閉じ、祈るように天を仰ぎ……再び項垂れた。
「あの頃、俺は、ものの道理を知らぬ思い上がった若造だった。そのせいで仲間を殺し、ナアヤを……レイを傷つけた。俺に、王女を迎えに行く資格はなかった。……俺達は、互いの為に生きていたのだ。戦争が終わり、自由の身になったら、一緒に死のうと話していた。そのナアヤが死んで、俺の生きる意味はなくなった。タァハル族に殺されようと、トグリーニ族にだろうと、どうでも良くなった」
「死んだ?」
在りし日のテス=ナアヤの笑顔が、鷹の脳裡に浮かんだ。朗らかで優しい、花のような微笑だ。
シジンは頷き、ぎりりと歯を鳴らした。
「一ヶ月前のことだ。決戦を控えたタァハル族にとって、俺達は殺す価値もなかったのだ……。自由になっても、俺には生きている理由がない。どうせなら、トグリーニの族長と刺し違えようと考えた」
シジンは唇をゆがめ、自嘲気味に嗤った。
「甘いな、我ながら……。そんなことが上手くいくはずもないことは、
「シジン」
「忘れていてくれて、良かったのだ」
シジンは鷹を見てささやき、すぐに苦しげに目を逸らした。鷲を見て、赤ん坊を見て、泣くように微笑んだ。
「
シジンは、残っている手で額を覆った。声はふるえ、
「忘れてくれ、お前を守れなかった男のことなど。傷ついたことも全部忘れて、幸せになってくれていれば――。そう、祈り続けていた。これでもう、思い残すことはない……」
鷹はシジンに近づき、手を伸ばして彼の頬に触れた。耳の付け根にのこる白い傷痕をたどり、柔らかな金髪をそっと撫でる。シジンが首を振る。鷹は両腕を伸ばし、彼をしっかり抱き締めた。
鷲は、何も言わなかった。
鷹の耳に、打ち寄せる波の音が聞えた。それは峡谷を吹き抜ける夜風の
それは、シジンが歌ってくれていたのだ。幼い彼女のために……。
鷹は彼の髪を撫で、息だけで囁いた。
「……それでも。わたしは、シジンに生きていて欲しかったわ」
鷹は、真夏の深海色の瞳をのぞきこみ、そこに映る自分の顔に微笑みかけようとした。『生きていて、お願い……』 声は出せなかった。すぐに嗚咽に変わりそうで。
シジンはぎこちなく唇の端を吊りあげた。
「これから、どうするんだ?」
鷲が赤ん坊を抱き直し、沈んだ声をかけた。戸惑いながら二人を眺めている。
「分からない。行くアテもないしな」
シジンは肩をすくめ、気負いなく答えた。
「この三年間、俺は、ずっと死ぬ方法を考えていた。どうやって死のうかと……。そう簡単に、頭を切り替えられない」
「…………」
「だが、あの男の言うことが本当なら、こんな俺でもやっていけないことはないだろう。そう、先刻は考えていた」
「あの男?」
シジンは頷き、低く復唱した。
「『全ての生命には、生きる才能が備わっている』――タァハル族が敵わなかった理由が解った。あんなことを言われては、俺でも心が揺らぐ……。どうせ捨てた命なら、試すのは簡単だ。死ぬのは、いつでも出来るからな」
「シジン」
シジンは鷹にあわく微笑み返すと、頬をひきしめ、身体ごと鷲に向き直った。じゃりっと、靴底と石畳の間でこすれた砂が音をたてた。
「改めて礼を言う、鷲。レイを助けてくれたこと、レイを幸せにしてくれたこと――俺の出来なかったことを、貴方は全部してくれた。その上、俺達を会わせてくれた。感謝の言葉もない」
「…………」
「これでやっと、俺の闘いは終わった気がする。俺とナアヤの……。どうか、これからも、レイを頼む」
「いや。俺は、何もしていない……」
ていねいに頭を下げられて、鷲は困惑気味に呟いた。シジンは声をたてずに
「どこへ行くの?」
鷹の問いに、シジンは冗談めかして答えた。
「トグリーニ族の陣だ。俺は、
彼は、ふと思いついたように鷲を見上げた。
「貴方がたの闘い方を観ていて、古い伝説を思い出した。
鷲は心持ち蒼ざめた。シジンは
「忠告などとおこがましいことをするつもりはないが……。ルドガーは、『ひとの世は、ひとに返すべきだ』と言い残した。貴方がたが後悔しないよう、祈っている」
「分かった。礼を言う」
シジンは頷くと、道をあける鷲の傍らを通過して、扉に手を掛けた。そこで振り返り、もう一度、三人に頭を下げた。
鷹が呼び止める間もなく、シジンは部屋を出て行った。窓から入って来た夜風が、鷹と鷲の長髪を揺らしてあとを追う。にぶく輝く金髪は、闇に融け、消えていった。
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