第五章 約束の樹(2)


           2


 壁龕へきがんに灯火がならぶ暗い廊下を、二人は無言で歩いた。正確には、二人と赤ん坊とびだ。鷲は、途中で鷹の肩から手を離し、少し先を歩いた。階段の前で足を止める。


「どうした?」


 口髭におおわれた曖昧な微笑も、やさしい声も、いつもと変わらない。彼が来てくれて、鷹は安堵していた。彼ぬきでシジンと話をすることは考えられなかったので……。

 鷹は、預かろうと言う彼に首を振り、赤ん坊を抱きなおした。足元を気遣う彼の眼差しが、鳶のぬくもりが、おのれの力となるよう祈りながら、一段ずつきざはしを下る。角を二度曲がり、目的の部屋の前にたどり着いた。

 砦のどこかから、兵士達の陽気な歌声が聞えてきた。〈草原の民〉かもしれない。二人は、流れる夜風を頬に感じた。壁に置かれた灯火が、鷲の銀髪をにぶい黄金に、鷹の黒髪を緋色に照らし出す。若葉色の眸に促され、彼女は扉を押しあけた。


 夜が、一気に濃くなった。

 開いた窓から吹きこむ風が、鷹の髪を躍らせ、冷たいその手が面を撫でた。

 灯りは一つだけだった。部屋の中央の卓子テーブルの上で、やわらかな光を放っている。闇のよどむ小部屋は武器庫として使われていたのか、かすかに鉄と藁縄のにおいがした。それも、風に吹き散らされる。炎がゆれ、壁に大きな影を描いた。

 窓辺に立って外を眺めていたシジンは、顔だけで振り向いた。怪訝そうに眼をすがめ、それから、相手に気づいて身体ごと向き直る。

 鷹の胸に、陽だまりに似た懐かしいぬくもりが、急速に膨らんだ。

 鷲が、おもむろに扉を閉める。行き場を失った風は勢いを減じ、炎は鎮まった。闇に融けるように佇むシジンの金髪が、ぼうと浮かび上がる。

 鷹は鷲を入り口に残し、静かにシジンに近づいた。目がれるにつれ、姿がはっきり見えてくる。癖のある金髪も、彫りの深い顔立ちも、つよい意志をあらわす太い眉も、真夏の大洋を映す瞳も、昔のままだ。見慣れない遊牧民の装束は、タァハル部族のものだろう。外套の表面は擦り切れ、ところどころ糸がほつれていた。頬と首筋に細かな傷を沢山みつけ、鷹は眉をくもらせた。おずおずと片手を伸ばし、触れようとした時、

 シジンが跪いた。


 鷹は驚き、鳶を抱えて二、三歩後退した。シジンは石畳の床にひざまずき、こうべを垂れた。ミナスティア王国の神官式の拝礼だ。

 鷹の頬を涙がひとすじ伝った。

 ――他に、誰が居るというのだろう。誰に分かると言うのだろう。もう、二人だけなのだ。レイしか残っていないのだ。それなのに……。

 シジンが呟いている言葉が祝福であることに、鷹は気づいた。幼な子の誕生を慶び、健康を祈り、将来の繁栄をねがう聖句だ。

 鷹は、ふるえる喉から懸命に声をしぼりだした。


「シジン」

「お久しぶりです。殿下」


 懐かしい顔、懐かしい声、懐かしい言葉……。鷹は何度も首を横に振った。『わたしはもう王女じゃない。貴方は神官じゃない。そんなことを言われる理由がない』 言いたくて、でも、声にならない。

 シジンは片膝を立てて彼女を見上げ、わらった。いつも彼女の側にいた幼馴染の顔が、そこにはあった。

 鷲は無言で手をさしのべ、鷹の腕から赤子を抱きとった。両手のあいた彼女は、掌で己の顔をおおった。


「貴方には、礼を言わなければならないと思っていた」


 シジンは鷲に向かい、硬い口調で話しかけた。


「貴方がたのことは、ラーダ(オダの父)とオダに教えて貰った。レイを助けてくれたこと、感謝している……」


 鷲は片手で赤ん坊の頭を支え、苦い声で訊ねた。


「タァハル族の処に、いたのか」

「そうだ」

「何故、探しに来なかった?」


 シジンは、彼の腕のなかで平和に眠る赤子を眺め、立ちあがりながら答えた。


「生き残ったのは、俺とレイだけではない。テス=ナアヤが、俺とともに捕らわれた。俺達は、奴等タァハルとニーナイ国とキイ帝国の橋渡しを命じられた」


 シジンは、斬られた腕をつつむ外套の袖を右手でつかみ、眼を伏せた。


「俺は左腕をうしない、ナアヤは右脚を斬りおとされた。片脚では逃げられない……。ナアヤは、俺の為の人質だった」


 鷹は目をみはり、悲鳴を呑んだ。鷲は、忌々し気に舌打ちした。

 シジンは眼を閉じ、祈るように天を仰ぎ……再び項垂れた。


「あの頃、俺は、ものの道理を知らぬ思い上がった若造だった。そのせいで仲間を殺し、ナアヤを……レイを傷つけた。俺に、王女を迎えに行く資格はなかった。……俺達は、互いの為に生きていたのだ。戦争が終わり、自由の身になったら、一緒に死のうと話していた。そのナアヤが死んで、俺の生きる意味はなくなった。タァハル族に殺されようと、トグリーニ族にだろうと、どうでも良くなった」

「死んだ?」


 在りし日のテス=ナアヤの笑顔が、鷹の脳裡に浮かんだ。朗らかで優しい、花のような微笑だ。

 シジンは頷き、ぎりりと歯を鳴らした。


「一ヶ月前のことだ。決戦を控えたタァハル族にとって、俺達は殺す価値もなかったのだ……。自由になっても、俺には生きている理由がない。どうせなら、トグリーニの族長と刺し違えようと考えた」


 シジンは唇をゆがめ、自嘲気味に嗤った。


「甘いな、我ながら……。そんなことが上手くいくはずもないことは、あの女が言った通りだ。お陰で、こんな生き恥を晒すことになった」

「シジン」

「忘れていてくれて、良かったのだ」


 シジンは鷹を見てささやき、すぐに苦しげに目を逸らした。鷲を見て、赤ん坊を見て、泣くように微笑んだ。


トグルあの男に言われるまでもなく、俺は既に死んでいるも同じだ。タァハル族に捕らえられた時からそうだった。仲間を殺し、大切なひとも守れなかった。お前が俺を忘れてくれていることが、俺にとっては救いだった」


 シジンは、残っている手で額を覆った。声はふるえ、かすれた。


「忘れてくれ、お前を守れなかった男のことなど。傷ついたことも全部忘れて、幸せになってくれていれば――。そう、祈り続けていた。これでもう、思い残すことはない……」


 鷹はシジンに近づき、手を伸ばして彼の頬に触れた。耳の付け根にのこる白い傷痕をたどり、柔らかな金髪をそっと撫でる。シジンが首を振る。鷹は両腕を伸ばし、彼をしっかり抱き締めた。

 鷲は、何も言わなかった。


 鷹の耳に、打ち寄せる波の音が聞えた。それは峡谷を吹き抜ける夜風の啼泣ていきゅうに違いなかったが、王女には、遠い昔、彼女の部屋に届いていた潮騒に聞えた。絶えることなく繰り返す、子守唄のように。

 それは、シジンが歌ってくれていたのだ。幼い彼女のために……。


 鷹は彼の髪を撫で、息だけで囁いた。


「……それでも。わたしは、シジンに生きていて欲しかったわ」


 鷹は、真夏の深海色の瞳をのぞきこみ、そこに映る自分の顔に微笑みかけようとした。『生きていて、お願い……』 声は出せなかった。すぐに嗚咽に変わりそうで。

 シジンはぎこちなく唇の端を吊りあげた。乳兄妹いもうとを安心させようと。彼はいつもこうだったと思い出し、鷹は切なくなった。


「これから、どうするんだ?」


 鷲が赤ん坊を抱き直し、沈んだ声をかけた。戸惑いながら二人を眺めている。


「分からない。行くアテもないしな」


 シジンは肩をすくめ、気負いなく答えた。


「この三年間、俺は、ずっと死ぬ方法を考えていた。どうやって死のうかと……。そう簡単に、頭を切り替えられない」

「…………」

「だが、あの男の言うことが本当なら、こんな俺でもやっていけないことはないだろう。そう、先刻は考えていた」

「あの男?」


 シジンは頷き、低く復唱した。


「『全ての生命には、生きる才能が備わっている』――タァハル族が敵わなかった理由が解った。あんなことを言われては、俺でも心が揺らぐ……。どうせ捨てた命なら、試すのは簡単だ。死ぬのは、いつでも出来るからな」

「シジン」


 シジンは鷹にあわく微笑み返すと、頬をひきしめ、身体ごと鷲に向き直った。じゃりっと、靴底と石畳の間でこすれた砂が音をたてた。


「改めて礼を言う、鷲。レイを助けてくれたこと、レイを幸せにしてくれたこと――俺の出来なかったことを、貴方は全部してくれた。その上、俺達を会わせてくれた。感謝の言葉もない」

「…………」

「これでやっと、俺の闘いは終わった気がする。俺とナアヤの……。どうか、これからも、レイを頼む」

「いや。俺は、何もしていない……」


 ていねいに頭を下げられて、鷲は困惑気味に呟いた。シジンは声をたてずにわらった。


「どこへ行くの?」


 鷹の問いに、シジンは冗談めかして答えた。


「トグリーニ族の陣だ。俺は、盟主トグルの命を狙って捕らえられた虜囚だからな……。挨拶が済んだら戻る約束で、連れて来てもらったのだ。ここに留まるわけにはいかない」


 彼は、ふと思いついたように鷲を見上げた。


「貴方がたの闘い方を観ていて、古い伝説を思い出した。暴風神ルドガーは――俺達は化身アヴァ・ターラと呼ぶ。――奇跡をもちいてムティワ族に勝利をもたらしたが、際限のないひとの欲望にみ、天上に去った」


 鷲は心持ち蒼ざめた。シジンはいかめしく頷いた。


「忠告などとおこがましいことをするつもりはないが……。ルドガーは、『ひとの世は、ひとに返すべきだ』と言い残した。貴方がたが後悔しないよう、祈っている」

「分かった。礼を言う」


 シジンは頷くと、道をあける鷲の傍らを通過して、扉に手を掛けた。そこで振り返り、もう一度、三人に頭を下げた。


 鷹が呼び止める間もなく、シジンは部屋を出て行った。窓から入って来た夜風が、鷹と鷲の長髪を揺らしてあとを追う。にぶく輝く金髪は、闇に融け、消えていった。




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