第五章 約束の樹

第五章 約束の樹(1)


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 西へ移動した太陽がタハト山脈の雪峰に隠れると、辺りは急に薄暗くなった。砦では、オダとそう年齢のかわらない見習い兵たちが、飾りのない陶器に入れた獣脂に火をともし、廊下と部屋の入り口に置いてまわった。

 〈草原の民〉の陣でも、野営の仕度がはじまった。紫紺の夕闇に、彼等の焚く篝火が金色にゆらめきながら増えていくさまは、まるで地上に星を撒いたようだ。


 スー砦の中へは、トグルとシルカス・アラル氏族長、オダ、雉と隼、シジン=ティーマが迎え入れられた。トグルは早速 「リー・ディア将軍に挨拶をしたい」 と申し出て、セム・ゾスタを感動させた。かつて将軍はトグルとタオ兄妹によってたおされ、遺体はリー家の本貫地であるカザ(キイ帝国の邑)に埋葬されている。トグルが言ったのは、将軍が政務を行った広間であり、玉座のことだ。

 草原の王は、華麗な青の外套をひるがえして広間に入ると、帽子をとって椅子に向かい、黙祷した。その様子を固唾をのんで見守る砦の兵士達のなかには、以前、彼と戦った者たちもいた。


 鷹は隼と、久しぶりの再会を果たした。出産に立ち会えなかった隼にとって、記憶の戻った《たか》に会うのは約十ヶ月ぶりだ。二人は抱き合って喜び、互いの苦労をねぎらった。鷹が我が子に《とび》と名付けたと知ると、雉と隼は驚いたものの、すぐに受け入れた。

 鷲は、照れくさそうに彼女達の会話を聴いていたが、何も言わなかった。


 ひとしきり歓迎の騒ぎが終わると、ルツとマナは、セム・ゾスタの案内で一旦客間へ下がった。トグルは隼と、常に影のごとく彼の後ろに控えているシルカス・アラル氏族長とともに、立場上中立な鷲たちの部屋にやって来た。鷹は秘かに身構えていたが、シジンは姿を現さなかった。


「それにしても、凄い数だな」


 西の荒野を眺められる窓辺に立ち、鷲はトグルを手招いた。敵同士だった二人が、初めて戦った場所だ。トグルは彼の隣に並び、ぼそりと呟いた。


「三十万……だったかな」

「三十万?」

「オルクト軍の一部と、テディン将軍ミンガンの部隊は、シェル城下に残している。入りきれなくてな……山の向こうにも居る」

「まあ座れよ、トグル。アラルも。……オダ。何やってんだ? お前」

「いえ、別に」


 少年は部屋の壁際に立ち、居心地悪そうに長衣チャパンの裾をもてあそんでいる。

 トグルは、勧められるまま椅子に腰を下ろした。鷲は、まとめていない銀の長髪を揺らして首を傾げた。


「どうした、冴えない顔しやがって。疲れたか?」


 隼も心配している。彼女とアラルは椅子に座ろうとはせず、トグルの傍らに控えていた。鳩がはにかみながら近づき、隼の腰にしがみつく。トグルは少女の仕草を眺めてから、手袋をはめた手で前髪を掻きあげた。


「疑心暗鬼になっているのだ。話が上手く行き過ぎた気がする」

「なに言ってやがる。気の小さい野郎だな」


 鷲の軽口に、トグルはようやく頬をゆるめた。暗緑色の眸に、灯火の明かりが射す。鷹はトグルの斜め向かいの席に、赤ん坊とびを抱いて坐った。


「……何だ?」


 鷹の視線に気づいたトグルが、低く訊ねる。夜の森のような瞳に見詰められ、彼女はうろたえた。


「タカ、だろう?」

「え、ええ――」


 隼が悪戯っぽく促した。


「言ってもいいよ、鷹。お前が考えたことは、多分、あたしと同じだ」

「……トグルがそんな風に迷っているところを、初めて見たように思うから……」


 この言葉を聴くと、トグルは鋭く息を吐き、精悍な顔いっぱいに邪気のない微笑を浮かべた。椅子の背にもたれ、首を反らせて隼を仰ぐ。


「俺は、そう見えるのか?」

「あの。ごめんなさい……」


 隼がうなずき、トグルがくつくつ笑い出したので、鷹は不安になった。トグルは、ゆっくり首を横に振った。

 鷲が、ややしんみりと言う。


「迷っても、お前は、いちいち表に出すわけにいかないだろう」

「いや、意外だったのだ。自分では優柔不断だと思っていたから」


 トグルは鷲をなだめ、フフとわらった。


「実際、迷うことばかりだ。今も迷っている。本当に、これでよいのかと」

「くどいぞ。休めよ。もう、考えるな」

「ああ、そうさせて貰う。……失礼して、くつろがせて貰おう」


 トグルは帽子を脱ぐと、深い溜め息とともに、ずるずると身体を滑らせて椅子の中に沈みこんだ。長い脚を組み、もう一度、嘆息する。

 隼が、そっと囁いた。


「疲れたか?」

ああラー、三年分は喋ったからな。顎がだるい。しばらく黙るぞ」


 トグルが眼を閉じてそれきり黙ったので、鷲は苦嘲にがわらいした。冗談ではなく、帽子を持った片手を胸にのせ、トグルは仮寝をはじめた。安全だと判断したのだろう。

 シルカス・アラルは腰に下げた剣の柄に片手をふれ、あるじを見守っている。

 オダが鷲に近づき、ひかえめに声をかけた。


「鷲さん。僕たちは、もう何も出来ないんでしょうか?」

「……ひとりでは、無理だろ」


 鷲は首を傾けて考え、淡々と答えた。少年は、すがるような眼差しを向けている。


「お前だけじゃない。トグルも、俺達も、〈草原の民〉全体に対して出来ることは殆どない……。お前が故郷くにへ帰ってから、奴等とどう付き合っていくか、だろ」

「そうですね……」


 少年はかたく唇を結び、力をこめて顎をひいた。


「こんな所にいたの、あなた達」


 蝶番をきしませて扉が開き、なめらかな声が入って来た。ルツだ。ゾスタとマナを従えた《星の子》は、少し疲れた表情で室内を見渡した。


「食事にしましょう。ディオは、寝ているの。あなたの所為で苦労しているというのに。暢気な人ね」

「……いいえ。起きていますよ」


 トグルは答え、帽子を持ち上げて挨拶をした。それで、一同は移動を開始した。

 大人たちの後について行きながら、オダは、今後ニーナイ国で果たすべき己の役割について考えていた。



 彼等は二階に場所を移し、夕食を摂った。籠城のさなか故、豪勢なものではなく、肉饅頭モモやナン(薄焼きパン)、羊肉と乾燥菜いりのあつものといったささやかな料理だ。トグル側が葡萄酒サクアを運び入れ、下級の兵士達にもふるまった。セム・ゾスタは謝意を述べ、トグルは鷹揚にうなずいた。


 鷹は、姿の見えないシジン=ティーマを心配していた。『彼も食べているだろうか』 と考える。

 シジンに会うことは恐くない。逢いたいと思っていたのだし、そうすれば、自分の中の何かが、おさまるべきところへおさまるように思われる。しかし、鷹は鷲をおそれていた。《レイ》であった頃より、鳶が産まれて以降の方が、彼を遠く感じてしまう。

『どうして? 鷲さん』


 鷹は、籠のなかで眠る鳶を眺めた。すやすやと眠る赤ん坊は、知る由もない。――彼とずっとともに生きて行くのだと思っていた。その絆が、どこで切れてしまったのだろう。

 妊娠してこれからという時に、記憶を失った。自分が彼の立場なら、それは深く傷ついたろう。赤ん坊が産まれ、記憶が戻ったからと言って、簡単に信じられないのも無理はない。

『……信じられない?』


 思いついて、鷹は眼をみひらいた。卓子テーブルの向こうで隼と談笑している彼を見る。

『わたしがまた記憶を失うかもしれないと? それとも、帰りたがっていると思っているのだろうか、シジンの許へ。鳶を連れて? だから、ずっと距離を置いているの?』

 だとしたら。はっきりさせなければならない……。


 食事を終え、トグルは席を立った。ゾスタが彼と《星の子》を案内していくのを、鷹は鳶を抱いて見送った。隼が心配そうに母子を見ている。

 鷹は鷲に近寄り、彼の袖を引っぱった。


「…………?」


『一緒に来て。シジンに逢って。わたしを信じて……』 言葉が次から次へとこみ上げて喉を塞ぎ、鷹は項垂れた。

 隼が代わりに言った。


「シジンを連れて来たんだ。トグルと同席させるわけにいかないから、別室で待たせている」


 隼がみても、鷲の彫りのふかい風貌かおに感情は窺えなかった。

 雉も、鷹を気遣いつつ言い添えた。


「逢った方がいいのか、逢わない方がいいのか、おれには判らない。鷹ちゃんが決めればいいと思う。逢いたくなければ、おれが、そう伝えるよ」

「……どうする? 鷹」


 鷹は思い詰めた様子で、赤子をしっかりと抱き締めている。雉と隼は、顔を見合わせた。

 鷲は、ぽりぽり頬を掻いて考えていたが、黙って鷹の肩に触れた。思わず身を硬くする彼女の背を、かるく撫で、

「一緒に行こう」


 のんびりと言う。鷹が見上げると、鷲は苦笑していた。


「シジンの方は、お姫様に会わないとおさまらないだろう。俺も、言いたいことがないわけじゃない……。どこに居るって?」

「一階の北だ」


 雉が答え、鷲は仲間に礼を言って鷹を促した。

 隼は、赤ん坊を抱いた鷹が不安そうに振り向くのを、小さく手を振って見送った。





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