第五章 約束の樹
第五章 約束の樹(1)
1
西へ移動した太陽がタハト山脈の雪峰に隠れると、辺りは急に薄暗くなった。砦では、オダとそう年齢のかわらない見習い兵たちが、飾りのない陶器に入れた獣脂に火をともし、廊下と部屋の入り口に置いてまわった。
〈草原の民〉の陣でも、野営の仕度がはじまった。紫紺の夕闇に、彼等の焚く篝火が金色にゆらめきながら増えていくさまは、まるで地上に星を撒いたようだ。
スー砦の中へは、トグルとシルカス・アラル氏族長、オダ、雉と隼、シジン=ティーマが迎え入れられた。トグルは早速 「リー・ディア将軍に挨拶をしたい」 と申し出て、セム・ゾスタを感動させた。かつて将軍はトグルとタオ兄妹によって
草原の王は、華麗な青の外套をひるがえして広間に入ると、帽子をとって椅子に向かい、黙祷した。その様子を固唾をのんで見守る砦の兵士達のなかには、以前、彼と戦った者たちもいた。
鷹は隼と、久しぶりの再会を果たした。出産に立ち会えなかった隼にとって、記憶の戻った《
鷲は、照れくさそうに彼女達の会話を聴いていたが、何も言わなかった。
ひとしきり歓迎の騒ぎが終わると、ルツとマナは、セム・ゾスタの案内で一旦客間へ下がった。トグルは隼と、常に影のごとく彼の後ろに控えているシルカス・アラル氏族長とともに、立場上中立な鷲たちの部屋にやって来た。鷹は秘かに身構えていたが、シジンは姿を現さなかった。
「それにしても、凄い数だな」
西の荒野を眺められる窓辺に立ち、鷲はトグルを手招いた。敵同士だった二人が、初めて戦った場所だ。トグルは彼の隣に並び、ぼそりと呟いた。
「三十万……だったかな」
「三十万?」
「オルクト軍の一部と、テディン
「まあ座れよ、トグル。アラルも。……オダ。何やってんだ? お前」
「いえ、別に」
少年は部屋の壁際に立ち、居心地悪そうに
トグルは、勧められるまま椅子に腰を下ろした。鷲は、まとめていない銀の長髪を揺らして首を傾げた。
「どうした、冴えない顔しやがって。疲れたか?」
隼も心配している。彼女とアラルは椅子に座ろうとはせず、トグルの傍らに控えていた。鳩がはにかみながら近づき、隼の腰にしがみつく。トグルは少女の仕草を眺めてから、手袋をはめた手で前髪を掻きあげた。
「疑心暗鬼になっているのだ。話が上手く行き過ぎた気がする」
「なに言ってやがる。気の小さい野郎だな」
鷲の軽口に、トグルはようやく頬をゆるめた。暗緑色の眸に、灯火の明かりが射す。鷹はトグルの斜め向かいの席に、
「……何だ?」
鷹の視線に気づいたトグルが、低く訊ねる。夜の森のような瞳に見詰められ、彼女はうろたえた。
「タカ、だろう?」
「え、ええ――」
隼が悪戯っぽく促した。
「言ってもいいよ、鷹。お前が考えたことは、多分、あたしと同じだ」
「……トグルがそんな風に迷っているところを、初めて見たように思うから……」
この言葉を聴くと、トグルは鋭く息を吐き、精悍な顔いっぱいに邪気のない微笑を浮かべた。椅子の背にもたれ、首を反らせて隼を仰ぐ。
「俺は、そう見えるのか?」
「あの。ごめんなさい……」
隼が
鷲が、ややしんみりと言う。
「迷っても、お前は、いちいち表に出すわけにいかないだろう」
「いや、意外だったのだ。自分では優柔不断だと思っていたから」
トグルは鷲を
「実際、迷うことばかりだ。今も迷っている。本当に、これでよいのかと」
「くどいぞ。休めよ。もう、考えるな」
「ああ、そうさせて貰う。……失礼して、くつろがせて貰おう」
トグルは帽子を脱ぐと、深い溜め息とともに、ずるずると身体を滑らせて椅子の中に沈みこんだ。長い脚を組み、もう一度、嘆息する。
隼が、そっと囁いた。
「疲れたか?」
「
トグルが眼を閉じてそれきり黙ったので、鷲は
シルカス・アラルは腰に下げた剣の柄に片手をふれ、
オダが鷲に近づき、ひかえめに声をかけた。
「鷲さん。僕たちは、もう何も出来ないんでしょうか?」
「……ひとりでは、無理だろ」
鷲は首を傾けて考え、淡々と答えた。少年は、すがるような眼差しを向けている。
「お前だけじゃない。トグルも、俺達も、〈草原の民〉全体に対して出来ることは殆どない……。お前が
「そうですね……」
少年はかたく唇を結び、力をこめて顎をひいた。
「こんな所にいたの、あなた達」
蝶番をきしませて扉が開き、なめらかな声が入って来た。ルツだ。ゾスタとマナを従えた《星の子》は、少し疲れた表情で室内を見渡した。
「食事にしましょう。ディオは、寝ているの。あなたの所為で苦労しているというのに。暢気な人ね」
「……いいえ。起きていますよ」
トグルは答え、帽子を持ち上げて挨拶をした。それで、一同は移動を開始した。
大人たちの後について行きながら、オダは、今後ニーナイ国で果たすべき己の役割について考えていた。
彼等は二階に場所を移し、夕食を摂った。籠城のさなか故、豪勢なものではなく、
鷹は、姿の見えないシジン=ティーマを心配していた。『彼も食べているだろうか』 と考える。
シジンに会うことは恐くない。逢いたいと思っていたのだし、そうすれば、自分の中の何かが、おさまるべきところへおさまるように思われる。しかし、鷹は鷲を
『どうして? 鷲さん』
鷹は、籠のなかで眠る鳶を眺めた。すやすやと眠る赤ん坊は、知る由もない。――彼とずっとともに生きて行くのだと思っていた。その絆が、どこで切れてしまったのだろう。
妊娠してこれからという時に、記憶を失った。自分が彼の立場なら、それは深く傷ついたろう。赤ん坊が産まれ、記憶が戻ったからと言って、簡単に信じられないのも無理はない。
『……信じられない?』
思いついて、鷹は眼をみひらいた。
『わたしがまた記憶を失うかもしれないと? それとも、帰りたがっていると思っているのだろうか、シジンの許へ。鳶を連れて? だから、ずっと距離を置いているの?』
だとしたら。はっきりさせなければならない……。
食事を終え、トグルは席を立った。ゾスタが彼と《星の子》を案内していくのを、鷹は鳶を抱いて見送った。隼が心配そうに母子を見ている。
鷹は鷲に近寄り、彼の袖を引っぱった。
「…………?」
『一緒に来て。シジンに逢って。わたしを信じて……』 言葉が次から次へとこみ上げて喉を塞ぎ、鷹は項垂れた。
隼が代わりに言った。
「シジンを連れて来たんだ。トグルと同席させるわけにいかないから、別室で待たせている」
隼がみても、鷲の彫りのふかい
雉も、鷹を気遣いつつ言い添えた。
「逢った方がいいのか、逢わない方がいいのか、おれには判らない。鷹ちゃんが決めればいいと思う。逢いたくなければ、おれが、そう伝えるよ」
「……どうする? 鷹」
鷹は思い詰めた様子で、赤子をしっかりと抱き締めている。雉と隼は、顔を見合わせた。
鷲は、ぽりぽり頬を掻いて考えていたが、黙って鷹の肩に触れた。思わず身を硬くする彼女の背を、かるく撫で、
「一緒に行こう」
のんびりと言う。鷹が見上げると、鷲は苦笑していた。
「シジンの方は、お姫様に会わないとおさまらないだろう。俺も、言いたいことがないわけじゃない……。どこに居るって?」
「一階の北だ」
雉が答え、鷲は仲間に礼を言って鷹を促した。
隼は、赤ん坊を抱いた鷹が不安そうに振り向くのを、小さく手を振って見送った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます