第二章 自由の戦士(4)
4
遠くで雷が鳴っている。
片手に縁の欠けた桶を提げたファルスは、生ぬるい風の行方を追って顔を上げた。
雲の高さと地上では、風の速さが違う。
稲妻が蒼白い剣で雲を斬りさくたび、巣をめざして飛ぶ小鳥の群が、無数の黒い点となって見えた。水をふくんだ大気が肌に重くまとわりつく。蛙たちが合唱を始める。――だが、少年は動じなかった。彼にとっては珍しくもない光景だからだ。
ファルスは、胸の高さに生い茂る
ファルスは身をかがめ、掌大の丸い水草が浮かぶ間から、水を汲もうとした。暗い
茶褐色の髪が伸びて頬をおおっている。顎から首、両の腕に散らばっていた火傷は、鮮やかな紅色の傷痕となり、一部はその色も褪せ、目立たなくなっていた。
心に受けた傷を残して……。
ファルスは、己を見詰める
連日の雨で、森のけもの達は姿を隠している。このところ狩りの獲物にありつけず、デオ達は苛々していた。蓄えはとうにつき、具のない薄いダル(スープ)と木の葉や草の根を食べている。
彼等は飢え始めていた。
「そろそろ移動して、次の村を探そう」 そんな言葉が男達の間で囁かれていたが、ファルスは気にしていなかった。用があれば、デオの方から声をかけてくるだろう。
「……ただいま、母さん」
大岩の陰に戻ったファルスは、かすれた声をかけた。
小枝や幅のひろい木の葉を敷き、布をかさねた即席の寝床に横たわっていた母親は、片方だけの眼を開けた。息子と違い一向に治る気配のない傷口には、膿みと
何が彼女をこの世に留めているのだろう。不思議な力に支えられ、青い瞳の輝きは濁ることがなかった。
その瞳に微笑み返せないファルスは、代わりに、彼女の額ですっかり
束の間の休息。
ファルスは彼女の傍らに坐り、心にぼんやりと浮かぶ情景をたどった。
泥を練り固めて造った家々の間を、ひび割れた石畳の
縁飾りのない質素な麻の衣を着た母が、朝まだ暗いうちから井戸の水を汲む。夫と息子に持たせるチャパティ(薄焼きパン)を焼くためだ。
父が、農具をつんだ荷車を驢馬に牽かせ、地主の畑に出掛けて行く。やや猫背の背中を、少年は急いで追いかける。二人とも裸足だ。
一日働いて帰ると、母が
……決して裕福ではなかった。だが、不満も不安もない、平穏な暮らしだった。
何も知らずにいられた。
あの日までは。
『どうしてこんな』 と考えることは、ファルスは既にやめた。答えのない問いを繰り返しても母の傷が癒えるわけではなく、状況が変わるわけでもない。疲労が増すだけだ。
母の肩にとまる虫を、殆ど無意識に手を振って追い払いながら……少年の眼差しは、己の
いつ果てるとも判らない闘い。
いっそ諦めて呑まれてしまえば楽になるのだと、幾度となく繰り返した誘惑が、鎌首をもたげる。甘美な絶望は極めの細かい砂をふくんだ泥のごとく、
ファルスは、母の身をおおう布の隙間からこぼれ出る蛆を、一匹づつ指でつまんで払い続けた。
「おい、ファルス」
聴き慣れた声に振り向くと、デオが男を一人連れて歩いて来た。母が首をめぐらせて、彼の姿を確認する。鉛色の空を背に近づく二人を、ファルスは立ち上がって迎えた。
デオの表情は厳しかった。真っすぐ少年を見据え、骨張った片手を肩に置いた。
「お前、今日は俺を手伝ってくれないか」
「いいよ。でも……」
「サティワナのことなら、こいつに任せろ」
そう言って、隣の男を顎で示す。
いつからか、ファルスの母は《
理由は判らない。いずれにせよ、もはやデオ以外には呼ばれることとてないのだ。
デオが連れて来た男は、左足を曳きずっていた。ファルスはその足を見て、顔を見て、デオに視線を戻した。
デオは頷いた。
「怪我をして走れないんだ。お前と交代させる」
「判った……」
代役の男は、乾いた眼差しをファルスに当てると、自分の帯を解いて差し出した。デオが腰に結んでいるのと同じ黄色の帯だ。ファルスは少し躊躇ったのち、受け取った。
男は無言で少年の傍らをすり抜け、先刻彼がそうしていたように、母の側に腰を下ろした。
「来い、ファルス」
ファルスはデオに促されて歩き出した。母が心配している気配を感じたが、振り返ろうとは思わなかった。
デオは、一瞬、満足げな笑みを唇に閃かせた。
*
ファルスは黄色い帯を腰にゆわえ、デオについて行った。赤い大岩の下に来ると、男達が火を囲んでいた。
「味方は国中にいる」 とデオは言っていたが、確かに、彼等が襲撃をおこなうたびに集団は大きくなった。今では三百人ほどの男が
雲に隠れた太陽に代わり、巨大な焚き火が辺りを照らしていた。薪がはぜる度に舞い上がる火の粉が、男達の褐色の肌とその下で息づく鋼のような筋肉を描きだす。時折吹き込む風が炎のふちを揺らし、岩壁にかかる彼等の影を長く引き伸ばした。
盗賊たちの視線がデオに集まり、傍らのファルスとその腰帯に集中する。緊迫した雰囲気を、少年は感じとった。鍋の底で炒られる油がじりじりと音を立て、燃え上がる一瞬まえの気配だ。
デオは仲間の中心に立ち、にやりと歯を見せた。
「準備は出来たか?」
「ああ。この小僧も連れて行くのか?」
ファルスは、数人の男達の腰に山刀を見た。この地方独特の平たくて弓なりに反り、先へ行くほど幅広な片刃の剣だ。むきだしの刃が炎を反射している。ぎらぎらとした凶暴な光に、少年は目をうばわれた。
デオが手を伸ばして、ファルスの背を叩いた。
「そうだ。仲間、だからな」
ファルスは我に返り、彼の横顔を
ほつりと天から落ちて来た水滴が、少年の頬に貼り着いた。デオの頬にも。ほつり、またほつりと肩を叩き、燃える薪にぶつかって短い悲鳴をあげる。誰も、それには構わなかった。
「いいか、よく聴け」
デオは片手を己の腰に当て、胸を反らして仲間を見渡した。張りのある声に、普段の余裕はない。
「今夜の相手は、これまでとは違う。護衛を雇った地主の館だ」
男達は
ファルスは、湿った空気と炎の熱気の狭間で、全身の毛がちりちりと逆立つのを感じた。
雨は徐々に激しくなっている。
「連中は武器を持っている。気をつけろ。奪えるなら奪った方がいいが、無理はするな。自分の命の方が大事だからな」
数人の男達がうなずき、数人は動かず、デオを見続けた。
デオは踵を返し、それまで背を向けていた者へ向き直った。
「
びかりと空が光り、数秒遅れて天を割る轟音がひびいた。光と音の間隔が先刻より短くなっていると、ファルスは気づいた。
嵐が近づいている。
雨は大粒になり、(岩陰にいるため、全てが彼等に当るわけではなかったが)木の葉を打つ音が
母は大丈夫だろうかと、ファルスは頭の隅で考えた。
「狙うのは、北の穀物倉だ」
デオはぐるりと全員の顔を眺め、声量をあげた。灰色がかった瞳は、光の加減で濃い紫色に見えた。炎を反射する部分が、金色の点となって表面に貼りついている。その点を、ファルスは観ていた。
「収穫を終えたばかりのものがあるはずだ。俺達が護衛の気をそらしている間に、持てるだけ持って逃げろ。武器を持つ者は、俺と来い」
ここでファルスは、山刀や棍棒、鎌を持つ男達の後ろに、武器を持たない者達がいることに気づいた。どちらかと言うと小柄で気弱そうな連中だ。既に役割は決まっているらしいと考える少年と、デオの目が出会った。
ファルスは思わず呼吸を止めた。
「狙うのは、地主の一族だ。見分け方は知っているな?」
ファルスを見据えたまま、デオは続けた。「嗚呼」とか「応」とかいう声があがる。デオの削がれたような頬の上、窪んだ眼窩でかがやく瞳が、少年を映している。
あの後悔に似た感情が、ファルスの心中を過ぎる。これまでのデオは別人だったのではと。男の痩躯が突如膨れあがったように観え、呼吸が苦しくなった。
誰かが「酒はあるか?」 と訊いた。
数人の男達が(主に、武器を携えた者だ)、酒を木の椀に入れて回し飲みはじめた。雨に濡れた身体を温めるためだけではない。
「言ったろう。《名のある者》を狩るんだと」
デオはファルスに告げた。嗤う唇から、聴きなれた声がうそぶく。太陽に焼かれた灰青色の双眸は、少年を捉えて離さない。まるで、この世に彼等二人だけしかいないように。
雨音が激しくなる。
男達の声が、急に大きくなった。
「思い出せ! 奴等に受けた仕打ちを!」
「俺達が飢えていた間、奴等はのうのうと喰い、酒を飲み、暮らしを楽しんでいたんだ。その為に鞭打たれる者のことなど、考えもせずにな!」
少年の傍らで、緋色の光が閃いた。彼等は刀や棍棒を振りかざし、口々に叫んだ。そのさまは、嵐を予知して鳴きたてる烏の群れを思わせた。
デオは、黙って少年を見詰めている。
「思い出せ、怒れ! 憎しみを忘れるな!」
「忘れるな! 奴等に受けた仕打ちを!」
「奴等に何が判る!」
「泥のなかで死んで逝った者の苦しみを、焼き殺された者の無念を、思い出せ!」
「思い出せ! 憎め! 憎み方を忘れるな!」
『憎み方を忘れるな……!』
ファルスは胸のなかで復唱した。生ぬるい闇の底で眠っていた感情が、ゆるりと目を
それは苦痛だった。
息を切らせて駆けたあの日、喉に流れこんだ風の熱さであり、母の美しい髪を燃やした絶望だった。皮膚を焼かれ剥ぎ取られた痛みであり、傷口に擦りこまれた砂がえぐる悲嘆だった。
息苦しさに、ファルスは喘いだ。脳裏に母の青い瞳が浮かぶ。
父が熱病だと判った時、彼等一家を見下ろした、恐れと嫌悪に満ちた村人の顔。母を炎に突き入れた、薄膜をはった眸。
……そうだ。奴等には解らない。
他人の苦しみに無関心を決めこみ、安穏と己の幸福をむさぼっていた卑怯者だ。虐げられた者の気持ちなど、解りはしない。裏切られた気持ちなど。
解ろうともしないのだ。知らなければ、知っても無視していれば、自分達は幸せだから。
ならば、教えてやろう。
オレ達は知っている。
そうだ……オレは、飢えを知っている。焼かれる痛みを知っている。全てを奪われる絶望を。どうにもならない
憎み方を、知っている。
「この国を取り戻せ! 奪われたものを、取り返せ!」
「自由を取り戻せ!」
「……サティワナのために」
デオは、ファルスだけに聞える声で呟き、ニタリと嗤った。
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