第二章 自由の戦士(4)


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 遠くで雷が鳴っている。

 片手に縁の欠けた桶を提げたファルスは、生ぬるい風の行方を追って顔を上げた。


 雲の高さと地上では、風の速さが違う。鬱蒼うっそうとかさなる木々の梢の上を、暗紫色の雲が勢いよく流れていた。野生の猿が、甲高い声で吼えて仲間に警戒を呼びかけている。

 稲妻が蒼白い剣で雲を斬りさくたび、巣をめざして飛ぶ小鳥の群が、無数の黒い点となって見えた。水をふくんだ大気が肌に重くまとわりつく。蛙たちが合唱を始める。――だが、少年は動じなかった。彼にとっては珍しくもない光景だからだ。

 ファルスは、胸の高さに生い茂る羊歯しだを掻きわけて進んだ。池のほとりに着くと、気配を察して蛙の歌が止まった。

 ファルスは身をかがめ、掌大の丸い水草が浮かぶ間から、水を汲もうとした。暗い水面みなもからこちらを見上げる視線に気づき、はっとする。

 茶褐色の髪が伸びて頬をおおっている。顎から首、両の腕に散らばっていた火傷は、鮮やかな紅色の傷痕となり、一部はその色も褪せ、目立たなくなっていた。

 心に受けた傷を残して……。

 ファルスは、己を見詰めるくらい眼差しから目を背け、桶を投げ入れた。水と一緒にすくった藻を、池に戻す。歯を食いしばって余計な感情を噛みころすと、来た道を戻った。


 連日の雨で、森のけもの達は姿を隠している。このところの獲物にありつけず、デオ達は苛々していた。蓄えはとうにつき、具のない薄いダル(スープ)と木の葉や草の根を食べている。

 彼等は飢え始めていた。

「そろそろ移動して、次の村を探そう」 そんな言葉が男達の間で囁かれていたが、ファルスは気にしていなかった。用があれば、デオの方から声をかけてくるだろう。


「……ただいま、母さん」


 大岩の陰に戻ったファルスは、かすれた声をかけた。

 小枝や幅のひろい木の葉を敷き、布をかさねた即席の寝床に横たわっていた母親は、片方だけの眼を開けた。息子と違い一向に治る気配のない傷口には、膿みとうじが湧いている。

 何が彼女をこの世に留めているのだろう。不思議な力に支えられ、青い瞳の輝きは濁ることがなかった。

 その瞳に微笑み返せないファルスは、代わりに、彼女の額ですっかりぬるんでいた布を外し、新しい水に浸して顔をぬぐってやった。母は眼を閉じ、吐息を洩らした。

 束の間の休息。

 ファルスは彼女の傍らに坐り、心にぼんやりと浮かぶ情景をたどった。


 泥を練り固めて造った家々の間を、ひび割れた石畳のみちが、蛇のように曲がりくねって伸びている。茶色い羽のにわとりが地面をつつき、痩せた犬が勝手口を徘徊する。

 縁飾りのない質素な麻の衣を着た母が、朝まだ暗いうちから井戸の水を汲む。夫と息子に持たせるチャパティ(薄焼きパン)を焼くためだ。

 父が、農具をつんだ荷車を驢馬に牽かせ、地主の畑に出掛けて行く。やや猫背の背中を、少年は急いで追いかける。二人とも裸足だ。

 一日働いて帰ると、母がはたを織る音か石臼で麦を挽く音が迎えてくれた。小さな魚油灯の明りに照らされた彼女の髪は、夕陽のように輝いていた。


 ……決して裕福ではなかった。だが、不満も不安もない、平穏な暮らしだった。

 何も知らずにいられた。

 あの日までは。


 『どうしてこんな』 と考えることは、ファルスは既にやめた。答えのない問いを繰り返しても母の傷が癒えるわけではなく、状況が変わるわけでもない。疲労が増すだけだ。

 母の肩にとまる虫を、殆ど無意識に手を振って追い払いながら……少年の眼差しは、己の胸裡うちに巣食う闇に注がれていた。気を抜いたら、動くことをめたら、それが二人を呑むと理解していた。

 いつ果てるとも判らない闘い。

 いっそ諦めて呑まれてしまえば楽になるのだと、幾度となく繰り返した誘惑が、鎌首をもたげる。甘美な絶望は極めの細かい砂をふくんだ泥のごとく、隠微いんびに彼に沁みていく。そこに浸っていれば心に痛みを感じなくて済むのだ。失ったものへの憧憬を、あたたかい日々への息が止まるほどの渇望を、感じなくて済む……。

 ファルスは、母の身をおおう布の隙間からこぼれ出る蛆を、一匹づつ指でつまんで払い続けた。



「おい、ファルス」


 聴き慣れた声に振り向くと、デオが男を一人連れて歩いて来た。母が首をめぐらせて、彼の姿を確認する。鉛色の空を背に近づく二人を、ファルスは立ち上がって迎えた。

 デオの表情は厳しかった。真っすぐ少年を見据え、骨張った片手を肩に置いた。


「お前、今日は俺を手伝ってくれないか」

「いいよ。でも……」

「サティワナのことなら、こいつに任せろ」


 そう言って、隣の男を顎で示す。

 いつからか、ファルスの母は《聖女サティワナ》と呼ばれていた。勿論、母にも名前があるのだが、ファルスは教える気にならなかった。どんな名で呼ばれていたにせよ、その彼女は殺されたのだ――そんな気持ちだったのかもしれないし、同じ《名無しネガヤー》のデオになら、何と呼ばれても構わないと思えたのかもしれない。

 理由は判らない。いずれにせよ、もはやデオ以外には呼ばれることとてないのだ。

 デオが連れて来た男は、左足を曳きずっていた。ファルスはその足を見て、顔を見て、デオに視線を戻した。

 デオは頷いた。


「怪我をして走れないんだ。お前と交代させる」

「判った……」


 代役の男は、乾いた眼差しをファルスに当てると、自分の帯を解いて差し出した。デオが腰に結んでいるのと同じ黄色の帯だ。ファルスは少し躊躇ったのち、受け取った。

 男は無言で少年の傍らをすり抜け、先刻彼がそうしていたように、母の側に腰を下ろした。


「来い、ファルス」


 ファルスはデオに促されて歩き出した。母が心配している気配を感じたが、振り返ろうとは思わなかった。

 デオは、一瞬、満足げな笑みを唇に閃かせた。



               *



 ファルスは黄色い帯を腰にゆわえ、デオについて行った。赤い大岩の下に来ると、男達が火を囲んでいた。

「味方は国中にいる」 とデオは言っていたが、確かに、彼等が襲撃をおこなうたびに集団は大きくなった。今では三百人ほどの男が盗賊タゴイットとなり、その約三倍の戦えない民衆――女、子ども、老人達を連れている。元奴隷の集団だ。

 指導者アナンダ―デオは彼等を率い、地主や商人たちの屋敷を襲っては移動をくりかえしていた。かつての王都カナストーラを目指す計画だが、実際は膨れあがった集団を食べさせるのに精いっぱいで、遅々として進まない。ファルスには、広大な森のなかを彷徨っているだけのように思われた。


 雲に隠れた太陽に代わり、巨大な焚き火が辺りを照らしていた。薪がはぜる度に舞い上がる火の粉が、男達の褐色の肌とその下で息づく鋼のような筋肉を描きだす。時折吹き込む風が炎のふちを揺らし、岩壁にかかる彼等の影を長く引き伸ばした。

 盗賊たちの視線がデオに集まり、傍らのファルスとその腰帯に集中する。緊迫した雰囲気を、少年は感じとった。鍋の底で炒られる油がじりじりと音を立て、燃え上がる一瞬まえの気配だ。

 デオは仲間の中心に立ち、にやりと歯を見せた。


「準備は出来たか?」

「ああ。この小僧も連れて行くのか?」


 ファルスは、数人の男達の腰に山刀を見た。この地方独特の平たくて弓なりに反り、先へ行くほど幅広な片刃の剣だ。むきだしの刃が炎を反射している。ぎらぎらとした凶暴な光に、少年は目をうばわれた。

 デオが手を伸ばして、ファルスの背を叩いた。


「そうだ。仲間、だからな」


 ファルスは我に返り、彼の横顔を凝視みつめた。


 ほつりと天から落ちて来た水滴が、少年の頬に貼り着いた。デオの頬にも。ほつり、またほつりと肩を叩き、燃える薪にぶつかって短い悲鳴をあげる。誰も、それには構わなかった。


「いいか、よく聴け」


 デオは片手を己の腰に当て、胸を反らして仲間を見渡した。張りのある声に、普段の余裕はない。


「今夜の相手は、これまでとは違う。護衛を雇った地主の館だ」


 男達はいわおのように動かない。その目は獲物を狙うワーグの殺気を宿している。火焔が彼等の面に複雑な影をつくった。光の網となり、妖しく揺れる。

 ファルスは、湿った空気と炎の熱気の狭間で、全身の毛がちりちりと逆立つのを感じた。

 雨は徐々に激しくなっている。


「連中は武器を持っている。気をつけろ。奪えるなら奪った方がいいが、無理はするな。自分の命の方が大事だからな」


 数人の男達がうなずき、数人は動かず、デオを見続けた。

 デオは踵を返し、それまで背を向けていた者へ向き直った。


奴隷ネガヤーもいるはずだ。ついて来られる奴がいたら、連れて来い。後で人数を確かめる」


 びかりと空が光り、数秒遅れて天を割る轟音がひびいた。光と音の間隔が先刻より短くなっていると、ファルスは気づいた。

 嵐が近づいている。

 雨は大粒になり、(岩陰にいるため、全てが彼等に当るわけではなかったが)木の葉を打つ音がしげくなった。もう、猿や蛙の声は聞えない。

 母は大丈夫だろうかと、ファルスは頭の隅で考えた。


「狙うのは、北の穀物倉だ」


 デオはぐるりと全員の顔を眺め、声量をあげた。灰色がかった瞳は、光の加減で濃い紫色に見えた。炎を反射する部分が、金色の点となって表面に貼りついている。その点を、ファルスは観ていた。


「収穫を終えたばかりのものがあるはずだ。俺達が護衛の気をそらしている間に、持てるだけ持って逃げろ。武器を持つ者は、俺と来い」


 ここでファルスは、山刀や棍棒、鎌を持つ男達の後ろに、武器を持たない者達がいることに気づいた。どちらかと言うと小柄で気弱そうな連中だ。既に役割は決まっているらしいと考える少年と、デオの目が出会った。

 ファルスは思わず呼吸を止めた。


「狙うのは、地主の一族だ。見分け方は知っているな?」


 ファルスを見据えたまま、デオは続けた。「嗚呼」とか「応」とかいう声があがる。デオの削がれたような頬の上、窪んだ眼窩でかがやく瞳が、少年を映している。

 あの後悔に似た感情が、ファルスの心中を過ぎる。これまでのデオは別人だったのではと。男の痩躯が突如膨れあがったように観え、呼吸が苦しくなった。

 誰かが「酒はあるか?」 と訊いた。

 数人の男達が(主に、武器を携えた者だ)、酒を木の椀に入れて回し飲みはじめた。雨に濡れた身体を温めるためだけではない。


「言ったろう。《名のある者》を狩るんだと」


 デオはファルスに告げた。嗤う唇から、聴きなれた声がうそぶく。太陽に焼かれた灰青色の双眸は、少年を捉えて離さない。まるで、この世に彼等二人だけしかいないように。

 雨音が激しくなる。

 男達の声が、急に大きくなった。


「思い出せ! 奴等に受けた仕打ちを!」

「俺達が飢えていた間、奴等はのうのうと喰い、酒を飲み、暮らしを楽しんでいたんだ。その為に鞭打たれる者のことなど、考えもせずにな!」


 少年の傍らで、緋色の光が閃いた。彼等は刀や棍棒を振りかざし、口々に叫んだ。そのさまは、嵐を予知して鳴きたてる烏の群れを思わせた。

 デオは、黙って少年を見詰めている。


「思い出せ、怒れ! 憎しみを忘れるな!」

「忘れるな! 奴等に受けた仕打ちを!」

「奴等に何が判る!」

「泥のなかで死んで逝った者の苦しみを、焼き殺された者の無念を、思い出せ!」

「思い出せ! 憎め! 憎み方を忘れるな!」


『憎み方を忘れるな……!』


 ファルスは胸のなかで復唱した。生ぬるい闇の底で眠っていた感情が、ゆるりと目をます。嵐さながら渦を巻き、次第にたかまってゆく。

 それは苦痛だった。

 息を切らせて駆けたあの日、喉に流れこんだ風の熱さであり、母の美しい髪を燃やした絶望だった。皮膚を焼かれ剥ぎ取られた痛みであり、傷口に擦りこまれた砂がえぐる悲嘆だった。

 息苦しさに、ファルスは喘いだ。脳裏に母の青い瞳が浮かぶ。

 父が熱病だと判った時、彼等一家を見下ろした、恐れと嫌悪に満ちた村人の顔。母を炎に突き入れた、薄膜をはった眸。


 ……そうだ。奴等には解らない。

 他人の苦しみに無関心を決めこみ、安穏と己の幸福をむさぼっていた卑怯者だ。虐げられた者の気持ちなど、解りはしない。裏切られた気持ちなど。

 解ろうともしないのだ。知らなければ、知っても無視していれば、自分達は幸せだから。

 ならば、教えてやろう。

 オレ達は

 そうだ……オレは、飢えを知っている。焼かれる痛みを知っている。全てを奪われる絶望を。どうにもならないいかりに身を翻弄される苦しさを。あの怨恨を、知っている。

 憎み方を、知っている。


「この国を取り戻せ! 奪われたものを、取り返せ!」

「自由を取り戻せ!」


「……サティワナのために」


 デオは、ファルスだけに聞える声で呟き、ニタリと嗤った。





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