第四章 古老の凱旋(2)
2
「どういうことだ?」
雉は、トグルのユルテ(移動式住居)を出ると、途端に険しい表情になった。優美な眉をきりりと寄せ、相棒を睨む。
鷲は首を傾げた。
「どうって?」
「とぼけるな。さっきから、おれの
鷲はずずっと
「ああ、分かる……よな。そうだよなぁ……。悪い。わざとやっているわけじゃないんだ」
雉は、頭を掻いている相棒を見上げた。鷲は、トグルの黒い外套を羽織っている。
「スー砦で吹雪を起こして、大公軍を足止めしているんだ。自分の
「止められない?
雉は眼をみひらき、夜目にも判るほど蒼ざめた。鷲はしぶい顔で頷いた。
「砦の東で奪った熱を
雉は半ば呆れ、半ば愕然と彼を眺めた。『それは、気をつけていれば何とかなるのか……?』
《古老》仲間でも、能力の使い方は異なる。雉は
現在は、逆に、並んで立っているだけで底なしの穴のなかへと引き込まれそうな心地がする。
鷲は、またひとつくしゃみをして、肩をすくめた。
「ひと晩眠れば治るはずだ。悪いが、我慢してくれ」
「ひと晩だけで済む話じゃないだろう。どうするんだ?」
「《
鷲は、オルクト氏族長のユルテ(移動式住居)の前に来ると、溜息をついた。
「
《古老》の能力が、こんな代償を要するとは。雉はなんと言えばよいか判らず、相棒の横顔を見詰めた。鷹と
二人の話し声を聞きつけたのだろう、ユルテの扉を開け、シルカス・アラル族長が現れた。
「ワシ殿、キジ殿」
アラルは一礼し、オルクト氏族長は部屋のなかで腕をひろげた。
「よく来られたな、《
雉と鷲は顔を見合わせると、順に扉をくぐった。オルクト氏族長は、上機嫌で彼等を奥へと案内する。絨毯を重ねた席に坐らせ、早速、杯を手に取らせる。
「こんなに早くタァハル(部族)との勝負がついたのは、貴公らのお陰だ。
オルクト・トゥグス・バガトルは、二人の杯に
オルクト氏族長は、二人を酔い潰すのが目的ではないので、話を再開した。
「タイウルト(部族)との合戦の際も、今日の雪崩も、貴公がいて下さって助かった、ワシ殿。キジ殿も、負傷者を助けて下さり感謝している。それで、お訊ねしたいのだが、貴公らは今後どうなさるおつもりか?」
鷲は、オルクト氏族長の黒い
雉は酒を飲み下し、三人の顔を見比べた。
オルクト氏族長は、ふさふさの黒髭におおわれた口の
「タァハル部族の長達は降伏した。ニーナイ国との仲を《星の子》に仲裁いただけるなら、
『そういえば、考えていなかったな』 雉は、鷲の横顔を眺めた。
〈黒の山〉に永住するつもりでいたわけではない。放浪していた彼等にとって、自分達の正体を教えてくれた《星の子》の許で暮らすのは都合がよかったのだ。かの地の人々は歓迎してくれていたし、
隼が草原に来たのは、ニーナイ国と〈草原の民〉の戦争を止めたかったからだ……なんとか、それは回避できた。鷲はシジン=ティーマを探してレイ王女に会わせたいのだろうが、そちらも間もなく達成する。鷹の記憶は戻り、赤ん坊は無事に産まれた。
『隼は、トグルの傍にいたいだろうな……』と、雉は考えた。二人のことは気懸かりだが、いつまでもつきまとうわけにはいかない。〈黒の山〉に帰ることに
オルクト氏族長は、期待をこめて二人を眺めた。
「我らの許へ来て頂ければ、この上ないのだが」
鷲は、やや挑戦的に問い返した。
「これで、草原は平和になるのか?」
二人の氏族長は、すばやく視線を交わした。オルクト・トゥグス・バガトルは、広い肩を揺らして
「やはり鋭いな、貴公は。儂も遠慮なく言うが、
雉はどきりとしたが、鷲は真顔で相手の大きな顔を見詰めた。アラルが小声で盟友をたしなめる。
「オルクト
「アラル、言い
白い男たちに説く族長は、
「戦争は、始めるより終わらせる方が難しいのだ、
オルクト氏族長は、
「
氏族長は言葉をにごした。鷲は、酒の器のふちに唇をあて、考え込んだ。
オルクト氏族長は、ぐいと勢いよく
「
鷲は唇を歪め、
「
オルクトは、にやりと歯をみせて嗤った。アラルは不安げに眉を曇らせている
「左様、我らも奴を利用している。民族の存亡の危機だ、手を組まねば滅びると言っても、いざとなればもめるのが
「…………」
「もう一つ。勝算のない
「
アラルが、たまりかねて口を開いた。オルクトは片手を挙げて彼を制した。
「考えてみろ。草原を統一するだけなら、トグリーニでもタァハルでもよいのだ。ただ、我らは幼い頃からディオを知っている。比類なき奴の才能を知っていて味方につかなければ、愚かと罵られよう。奴の下で戦えば、民族の生き残りの為という大儀もつく」
「…………」
「――とまあ、こんな感じのことを、オロスやハル・クアラあたりは考えているだろうな」
突然、オルクトが声音を変えて普段の飄々とした口調に戻したので、アラルはホッと息をついた。
オルクト氏族長は、平然としている鷲を興味ぶかく眺めた。
「あまり驚かぬな、貴公は。幻滅するかと思っていたが」
「別に……。もっと御立派な話を、最高長老には聴かされた。かえって正直で気持ちがいい。要するに、あんた達の同盟はその程度だと言いたいんだろ? トグルが手を退けば、途端にバラバラになっちまうと」
「さらに。ディオが死ねば、間違いなく、草原は再び戦場になる。いがみ合い、殺し合う、元の不毛な状態へ戻るだろう」
「…………」
「そして、我々は滅びるしかない」
鷲の声は、少し
「そんなことは、オダも隼も承知しているだろう。俺達が草原へ行くことで、戦争が止められるのか?」
この問いに、オルクト氏族長はすぐには答えなかった。手ずから酒を自分の器に注ぎ、鷲の器にも注ぐ(雉は、大急ぎで断った)。客人が飲むのを待たずに杯を干し、独り言のように呟いた。
「……我らに必要なのは、《希望》だ。
鷲は、酒器を手にしたまま彼を見詰めた。
「儂には四人の妻がいて、子どもは五人産まれたが、生き残ったのは一人だ。このアラルも結婚して十年経つが、産まれた子どもは一人……。草原を統一し、ニーナイ国と和議を結んでも、我らが滅びる運命に変わりはない。こういう《不安》は、
「…………」
「天人。人が戦を起こすのは、平和を欲するからだ。矛盾していると思うだろうが、心に平和のない者が、それを欲して戦を起こす。――飢える不安、治安に対する不安。虐げられる不安、危害を加えられるかもしれないという不安……」
「…………」
「ニーナイ国との和睦は、我らの将来に対する不安を和らげるであろう。あの小僧がいてくれて、儂は心からほっとした……。ハヤブサ殿がいて下されば、王を喪う不安に耐えられるやもしれぬ。ディオ自身の不安は、」
オルクト氏族長は言葉を切り、ハッと吐き捨てるように嗤った。雉は彼等の背後に迫っているものに気づき、
シルカス・アラル族長は、神妙に眼を伏せている。
胡坐を組んで微動だにしない鷲は、雉には、
「
沈黙の後、アラルが口を開いた。真摯に訴える彼を、鷲は好感をもって顧みた。
「
「休息か」
オルクト氏族長の声は淋しげだった。顔の面積に比べて小さな黒い瞳がかげった。
「確かに、アラル。これは奴の命を縮めることなのだろう。ディオの身体はすでに剣を持って戦う限界だ。王として一日でも永く在り続け、同盟を維持する為だけなら――。
鷲は眼を
「だが、以前ディオが言った言葉を、お前は忘れたか? 我々だけを戦わせて、満足する男だと思うのか。そのような君主に、お前は従って来たのか」
アラルは再び黙り込んだ。オルクト氏族長は鷲に、可愛くて仕様のない弟のことのように語った。
「天人。我が
「…………」
「それで、ディオは少しの平和にも安らげぬ男になった。常に次の戦いに備えている。本人が否定しようが、戦闘の中でこそ真価を発揮できることに変わりは無い」
鷲は軽く溜め息をついた。その耳に、オルクトの声はややしんみりと響いた。
「貴公らがディオを〈
「イツマデ、それが出来るト言うノデスカ」
アラルは苦しげに
「
「それがディオの望みなら、無論、儂が言うことはない。しかし、儂は違うと思う。……違うぞ、アラル」
穏やかだが断固たる力をこめて囁く盟友を、アラルは哀し気に見詰めた。
オルクト氏族長は、二人の
「貴公らはどう思う?
鷲はすぐには答えず、鼻を鳴らした。雉は、相棒がぼりぼりと
「王がトグルでなければならない理由があるのか? 一代だけだと聞いた。代わりをたてるわけにいかないのか」
「それでは、すぐに内乱が起きる」
オルクト氏族長は、フッと皮肉めいた息を吐いた。
「何故なら、儂が承服しないからだ……。トグル・ディオ・バガトル以外の男を、王と仰ぐつもりはない。ハル・クアラ部族長であろうと、キイ帝国の帝であろうと、我が部族の命運をゆだねるつもりはない」
口を挿もうとしたアラルを、身振りで制した。
「言うな、アラルよ。先代のシルカス公・ジョク・ビルゲとともに部族を育て、その遺志を継いだディオに代わる者などいない。この儂ですら、儂は認めぬ……。それくらいなら、いっそキイ帝国に攻め入り、かの国とともに滅びよう」
シルカス・アラル族長は項垂れた。常に悠然とした態度でトグルを支えてきた大氏族の長にも、譲れぬ想いというものがあるのだなと、雉は理解した。
鷲の脳裏には、シルカス・ジョク・ビルゲの姿が浮かんでいた。
あの時の、トグルの邪気のない笑みを。
『ディオに、頼む。
滅多に感情を表さないあの男が、酔って呟いた。
『知った風な口を利く連中を、あいつの代わりに殺してやりたいと思ったのは……所詮、俺が、その程度の人間だからだ』
鷲は酒気をふくむ息を吐くと、片手で顔をひとなでした。濁った声で言う。
「俺は、
「参考になったのか?」
オルクト氏族長が、愉快そうに問う。哂いかえす鷲の若葉色の眸は、意外なほど優しかった。
「ああ。お陰様で……何故わからなかったのかが、解った。あんた達が、あいつをどう思っているのかも。礼を言うぜ」
鷲は彼等に横顔を向け、呟いた。
「あいつを理解出来なかったのは、俺達のせいだ。俺と、隼の……。だけど、俺達は、あんたの言わなかったトグルを知っている。あいつは王である以前に、俺達の仲間だ。――俺の
「……奴は、お前達を絶望させるかもしれんぞ」
オルクトの言葉に、鷲は
星明かりに銀髪を揺らして行く彼等を、二人の氏族長は見送った。
「面白い男だ」
オルクト氏族長は呟くと、盟友の呆れた視線を頬に受けながら、酒を喉に流し込んだ。
『そうだ。俺は、トグルを知っている』
宵闇を歩きながら、鷲は口の中で繰り返した。知らず知らずのうちに眉間に皺がより、表情がこわばっていた。
『肝心なことを見落としていた。莫迦だ、俺は。何故気付かなかった……?』
「おい、鷲!」
オダ達の天幕へ向かっていた鷲は、雉に呼ばれて足を止めた。
酒がまわった雉は、多少ふらつきつつ彼に追いついた。腰をかがめ、両膝に手をあてて呼吸をととのえる。
「待てよ。お前、どうするんだ? 奴等と一緒に、草原へ行くのか?」
それで鷲は、オルクト氏族長の誘いに返事をしていないことに気づいた。それどころではない気分だったのだ。
「いや、先にスー砦へ行く。ルツと連中の話し合いの結果が出てから、考える」
「そうか」
「お前は、隼たちと一緒に来い」
「え? おい、鷲!」
雉がひきとめる暇はなかった。闇のなかでぼんやり輝くように見えていた鷲の長身は、融けるように消えた。
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