第四章 古老の凱旋

第四章 古老の凱旋(1)


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「あーあ。情けねぇなあ、ちくしょー」

「それは、こっちの台詞だ」


 首まですっぽりトグルの外套にくるまって、鷲は愚痴を言いつづけていた。洟をすすり、唇を尖らせる。十数回目のそれに飽き飽きして、隼が言い返した。


「ほんっとーに情けないぞ、お前。いつまでも愚痴るなよ」

「どわってさあ~」

 トグルは、黙って二人の会話を聞いていた。


 夕暮れ。タァハル部族の長たちを捕らえて降伏させたトグリーニ軍は、来た道を引き返し、安全な場所をみつけて陣を敷いた。

 鷲が雪崩をくいとめたお陰で、味方の被害はすくなかった。シルカス・アラル族長ともテディン将軍ミンガン率いる軍とも合流できたので、トグルは安堵していた。

 トグルと隼と鷲の三人は、干した羊肉を茹でた汁で麺を煮たものに、肉と野菜を加えて簡単な夕食を摂った(三人で料理した)。その後、トグルはユルテ(移動式住居)の奥に胡坐を組み、頬杖を突いて二人を眺めている。投降せずに殺されていったタァハル部族の兵士達、特にあの女兵士のことを、彼はぼんやり考えていた。

 アラルとオルクト氏族長たちは、捕らえた敵の有力者たちの警護に当たり、シジン=ティーマは、雉とオダ少年とともに別の天幕で寛いでいるはずだ。

 隼と鷲の掛け合いは続く。


「ルツに治してもらえなかったのか?」

「治せないんだ。あいつの能力ちからと俺の能力の相性が悪くて、駄目なんだと」


 トグルは、鷲の言葉に興味をひかれて口をはさんだ。


「自分では治せないのか?」

 鷲は首を横に振った。

「出来るのかもしれないが、やったことがない。多分、無理だろう」

「不便なのだな……」


 隼が、美しい唇を歪めて毒舌をふるう。


「お前、この前から、莫迦の一つ覚えみたいに何かを凍らせているだろう。だから風邪ひくんだぜ」

「『莫迦の一つ覚え』は、余計だ」

「今度は逆に暑くしてみたら、治るんじゃないか?」

「簡単に言うな。すっごく疲れるんだぜ。そうそう日に何度もやっていられるか」


「……お前には治せないのか? ハヤブサ」


 トグルが再び問いかける。鷲は、隼の代わりに肩をすくめて答えた。


「こいつは駄目だ。覚醒していないからな」

「かくせい?」

能力ちからがあっても、使えるとは限らない。使えるのは、俺と雉だけだ」

「そうか……」

「どうした?」


 トグルが瞼を伏せたので、鷲は訊き返した。トグルは視線を上げ、心配そうな隼を見遣った。


「……お前達さえよければ。負傷者の手当てをしてもらえれば、これからタサム(山脈)を越えるのに助かると思ったのだ」

「ああ」


 鷲と隼は、顔を見合わせた。鷲の声は、すっかりれていた。


「雉を呼んでこようか?」

「いや、ラーシャム(有難う)。それ程のことはなかろう」

「遠慮するなよ。どうせ、あいつは暇なんだ。今すぐは無理だが、明日になれば、俺が負傷者を運んでやってもいいぜ」


 トグルの顔に、予期せぬ笑みがこぼれた。滑らかな声は深く響いた。


「病人をこれ以上こき使うつもりはない。いいから、休め」

「やっぱり遠慮しているんじゃねえか」


 ゆるやかに笑い合う男達を眺めながら、隼は、乳茶スーチーを入れた鍋を炉に掛けた。


「ときにトグル。天幕を貸してくれないか? 俺、何も持って来ていないんだ」

分かったラーと、言いたいところだが」

 トグルは、目だけで隼を顧みた。

「生憎、オダたちが使っている」

「なら、俺はそっちに泊まらせてもらおう」

「ここに泊まればいい」


 鷲は苦笑して首を振った。

「お前等の邪魔をするほど、俺は野暮じゃねえよ」


 隼はドキリとしたが、トグルは彼女の煎れた乳茶スーチーで唇を湿らせ、鷲の言葉を聞き流した。


「好きなようにすればよいが……小僧の天幕には、ミナスティア国の元神官ティーマが居るぞ。一緒でよいのか?」

「…………」


 隼は、『あれ?』と思った。もくした鷲の表情が、予想以上に重たかったのだ。トグルも怪訝に感じたらしく、話題を替えた。


「ところで、ワシ。先にスー砦に入っていたと聞いた。あちらは、どうなっている?」

「ああ。ありゃあ、駄目だ」

「駄目?」


 トグルは、愛用の煙管キセルに煙草を詰めながら首を傾げた。炉の明かりを受けて、緑柱石ベリルの瞳が煌めく。

 鷲は疲れた様子で、ひらひらと片手を振った。


「大公軍に囲まれて、身動きがとれない。上手い具合に吹雪が続いているから、攻めて来られずにいるが。時間の問題だろう」

「食糧次第ということか」

「それもある……。どちらかと言うと、心理的に参りそうだ。リー姫将軍に送った使者は、戻って来ねえし――」

「いつだ? その、使者を派遣したのは」


 隼は、トグルの声に、ぴんと張った弦のような響きを聴き取った。


「七日……いや。もう、十日前になるかな」


 トグルは、火の点いていない煙管をくわえて考えた。左手で顎をひと撫でする。


「……消されたな」

「お前もそう思うか?」

ああラー。おそらく天山テンシャン南路を辿り、最初のとん台(狼煙台)に着く前に捕らえられ、殺されたのだろう。長城チャンチェンに着いていれば、三日もあればトゥードゥ(キイ帝国の城塞都市)へ連絡がとれるはずだ。返事が来るのに往復で六日――長くても七日。よしんば途中で途絶えたとしても、国境際のハル・クアラ(部族)かイリの本営オルドウから、俺の所へ報せが届く」

「…………」

「と、いうことは。タクラマカン(砂漠)……カザ(キイ帝国の城塞都市)以西の国境は、オン大公がさえている可能性があるな」


 考えをまとめるトグルの瞼が、徐々に伏せられて瞳に影が落ちるのを、鷲と隼は見守っていた。

 一つの戦闘を終えてすぐ、次の戦いに思いをめぐらせるトグル。鷲にはその思考の軌跡を完全に辿ることは出来なかったが、振り向いた彼の目を真っすぐ見返した。


「……すると。お前、急ぐのではないか? ワシ」

「ああ。だから、明日には帰るぜ」

「俺も行こう」


 トグルは、隼の硬い表情をちらりと一瞥した。感情を含まない冷めた口調で続ける。


「俺達も、スー砦へ向かう。三日後には着けるだろう。ミナスティア国の元神官ティーマとオダも連れて行く。氏族長会議クリルタイを開き、《星の子》に会わなければならない」

「そうしてもらえると、助かる」

「砦へ入れればの話だがな……」


 ぼそりと呟いたトグルに、鷲は理由を訊けなかった。ユルテの扉を叩いて、雉が顔を覗かせたからだ。

「鷲、トグル、隼。いいか?」


 鷲は返事の代わりに、ぐしゅぐしゅと鼻を鳴らした。トグルと隼が面を上げる。雉は、低い戸口をくぐって入ると、鷲の隣に胡坐をかいた。


「鷲、オルクト氏族長から誘いだ。戦勝の祝いに飲まないかと。おれも誘われた。話をしたいそうだ」

「オルクトのおっさんか。いいぜ、俺は今こんなだから、堅苦しくないのなら」

「シルカス・アラル氏族長も同席するそうだ。……風邪か? お前、大丈夫か」


 雉が手を伸ばして触れようとすると、鷲は背をひょいとかがめて避けた。


「いい、大したことはないんだ……。んじゃ、ちょっくら行ってくるわ、トグル」


 胡坐を解いて立ち上がる鷲に、トグルは穏やかに言葉を投げかけた。


「トゥグス(オルクト氏族長)には気をつけろよ。奴は、俺より酒好きだ」

「りょーかい~」


 鷲は鼻声で答えると、トグルの外套を羽織ったまま外へ出た。雉は、隼に肩をすくめてみせ、トグルには軽く会釈をして行った。




 二人が出掛けて扉が閉まると、トグルはうすく哂った。


「草原に馬、砂漠に駱駝……渡りに船、というところか」

「鷲は、シジンと話をしないつもりかな?」


 隼が首を傾げて呟くと、トグルは乳茶スーチーをひとくち飲んで答えた。


「奴の性格では、タカを差し置いて話すわけにいかぬのだろう」

「そういうものか?」

「……お前は、己のいないところで、俺とキジに話をつけて欲しくはなかろう?」

「…………!」


 隼は乳茶スーチーを吹き出しかけた。トグルは何喰わぬ顔で煙管キセルに火を入れている。隼は口をぬぐったが、動揺は隠せなかった。


「そういうこと、が、あるのか?」

「〈草原の民〉の貴族ブドゥンむすめであれば……。タオを例に挙げるまでもなかろう」


『ああ』隼は納得した。――『草原の女には、自由がない』と、タオが嘆いていたことを思い出す。トグル達にとって、隼は例外中の例外だ。

 トグルは炉のなかで燃える炎を眺め、紫煙をくゆらせている。隼は手を伸ばし、彼の頬に触れた。


「雉に診てもらうのを忘れていたな……。大丈夫か?」


 トグルはかるく眼をみひらいたが、動かずに、彼女が髪を掻き分けて額の傷をたしかめるのを許した。タァハル部族の女兵士に斬られたきずは、幸い、浅く小さかった。

 隼は、彼の頬に両手をそえ、創に唇をよせた。


「かすっただけのようだな、良かった。右足はどうだ?」

「大丈夫だ」

「もうないと思うけれど、次は、あたしと代わってくれよ。きもが冷えたぞ……」


 トグルは煙管を受け皿におくと、左手をあげ、隼の右手に触れた。彼をいとおしむように撫でていた彼女の手を、離させる。隼がみると、トグルは横を向いていた。


「……あの女は、以前さきの戦いで俺達に夫を殺されたと言った」

「…………」

「草原の法では、自由民アラドはユルテ毎に一人ずつ兵士を出さなければならない。普通は、家長の男か息子だ。その者が病気などで戦えない場合、女が代役に立つことがある。……仇を討つために戦場に出てもよい。タァハル部族も俺達も、同じだ」


『そう言えば。お前は、あたしに夫がいると思っていたんだよな』隼は心の中で呟いた。トグルは彼女から視線を逸らしたまま、淡々と続けた。


「女でも、戦場では戦士スゥルデンだ。戦士として遇するのが、俺達の礼だ。……あの女は、俺に『名を賭けて戦え』と命じた。正式な決闘の申し入れだ。断れば恥となり、代役を立てたり手加減したりすれば、相手を侮辱することになる」

「…………」

「俺に、手加減をする余裕はなかったが……。仮に生き永らえても、あの女は、敵に捕らわれる屈辱より死を選んだろう」

「わかった」


 隼の白皙の頬が赤みをおびた。溜息をつく。


「ラーシャム(有難う)、トグル。話し辛いことを話させて、ごめん」

「おかしな奴だな。何故、こんな話で納得するのだ? 人殺しには違いなかろう」


 緑柱石ベリルの瞳を苦笑がかすめる。隼には、トグルが落ちこんでいることが分かった。彼はいつもそうだ、戦いに勝って安堵はしても、喜ぶことはない。逆に、己をさいなむのだ。


「疲れないか……?」


 隼は、息だけで囁いた。トグルが口を閉じる。彼のひとみが鋭く輝いたように見え、隼は瞼を伏せた。


「ごめん」

「何故、謝る?」

「いや……。出過ぎたことを言った」

「何のことだ。どうして目を逸らす? ……誤解するな、ハヤブサ。俺を見ろ」


 彼には珍しく、矢継ぎばやに質問する。隼は、トグルが怒っているのではなく困惑しているのだと気付いた。これも珍しい。

 トグルは眉根を寄せ、じっと彼女を見詰めた。


「お前がそんなことを言うとは思わなかった……。いったい、お前は俺を責めたいのか、憐れみたいのか。どちらだ?」

「どちらでもないよ」


 隼は項垂れた。彼の視線を首筋に感じ、切なさが喉に詰まった。


「トグル。お前は、自分のしていることをちゃんと知っていて、結果を引き受ける覚悟が出来ている。でも、あたしには分からないんだ、違いすぎて……。せめて、お前が己に背かずしていることを、理解したい。ところが、お前はそうやって、自分で否定してしまう。哀しいよ。それはお前の凄いところだけど……好きだけど」

「…………」

「あたしは大した人間じゃない。正義の味方ではなく、お前の味方になりたい」


 隼はトグルを見たが、その目を見続けられず眼を閉じた。あの日の、彼の言葉を思い出す。記憶の声に、己の声を合わせた。


「ひとはどこかで自分を赦さなければ生きてはゆけないと、言ったのはお前だ。自分を赦すほど簡単なことは、この世にないと……言ってくれた御蔭で、あたしは以前まえより生きていくのが楽になった。お前にも、少しは肩の力を抜いて欲しい。そうでないと、あたしがお前の側に居る意味なんて、ないように思うんだ」

「……スマナイ」


 低い声がきこえ、隼は眼を開けた。そうして、トグルの横顔をみつける。彼は左手で口元をおおい、うめくように繰り返した。


「済まない。お前がそのように考えているとは知らなかったのだ。俺は……」

「いいよ。ごめん、変なことを言って。……気にしないでくれ。ちょっと思っただけなんだ」


 隼は務めて屈託のない口調でこたえたが、トグルの表情は晴れなかった。


「そんな顔しないでくれ。……なら、一つだけ、教えてくれないか?」


 トグルは戸惑っていたが、緑の瞳は深かった。隼は眼を伏せ、声をひそめた。


「あたしと居ると、疲れないか? それが不安なんだ。あたしは、鷲みたいに頭が良くない。アラルやタオほど、お前を知らない……。いちいち説明して貰わないと、お前を理解出来ない」

「いや」


 トグルの声は、彼女の胸にやわらかく沁みた。


「気になったことはない。必要ならば、説明する。……むしろ、お前が来てから精神的に落ち着いていると、俺は思っている」

「良かった。あたしだけ、なんてのは、嫌だからな」


 隼は微笑んだ。トグルは、彼女を無表情に眺めた。


「トグル?」

「……もう、寝ろ」


 トグルは彼女の肩に触れ、無造作に引き寄せた。彼女の頭を胸に押しあて、仰向けに寝ころぶ。成り行き上、彼に乗りかかる形になった隼は、顔に火が点いたように感じた。


「お前は休め。疲れたろう。明日も早い」

「ん……」


 トグルが眼を閉じて眠ろうとしているのを見て、隼は身体の緊張を解いた。そのまま、彼の胸に頭をあずける。うっすら無精髭の生えた狼のような風貌をしばらく間近にみつめていたが、やがて溜まった疲れが押し寄せ、彼女は眠りに呑まれて行った。

 隼が規則正しい寝息を立てはじめてからも、トグルの意識は現実にあって、思考のうみの波打ち際を漂っていた。うすく瞼を開け、灯火に浮かび上がるユルテの柱の影を眺めながら、彼女の言葉を弄んでいた。


『あたしには分からないんだ、違いすぎて……。せめて、お前が己に背かずしていることを、理解したい。ところが、お前はそうやって、自分で否定してしまう』

『疲れないか……?』


 トグルは眠っている隼を起こさぬよう、音を立てずに息を吐いた。彼女のしなやかなぬくもりを半身に受けとめ、心の中で返事をする。『ああ、疲れるさ』

『くだらない』――何度、そう思ったことだろう。気が遠くなるほど繰り返し、これからも繰り返す。行程を思うと、いっそ生命を絶ってしまいたくなる。あまりの莫迦莫迦しさに、全て投げ出したくなる。

 国や氏族などを失っても、ひとは生きてゆけるはずなのに。泥の中を這うような暮らしでも、生きることは可能なはずなのに。――固執する。守るために、他者を否定する。

 挙句の果て。

 殺し、殺され、怒り、憎み、妬み、奪い、姦淫し、そしてまた殺す……。いつ果てるということなく。

 止めればよいのだ、自他を傷つけてまで固執することを。認めてしまえばよい、己が弱い人間に過ぎないことを。物事には限界があって、時には諦めなければならないことを。

 考えなければよい。思考を停止させ、割り切ってしまえ。そうすれば、己に優しくなれる。ゆるせるようになるだろう。

 だが――


 トグルは隼の寝顔を眺めると、左手を動かして彼女の髪に触れた。細い銀髪をひとすじ指先に絡め、ほどく。おざなりに撫でつけ、溜め息を呑んだ。

 出会ったときには人を殺したことのなかった彼女が、おのが身を守るために戦い、今日もまた、数人を手にかけた。目には見えなくとも、そういう傷は魂に深く刻まれると、トグルは知っていた。

 それでも『お前の味方になりたい』と言う彼女に、どう報いればよいのだろう。


『あたしは、アラルやタオほど、お前を知らない……』

 ――ああ。お前は俺を知らないな、ハヤブサ。知らずにいた方が良かったのかもしれない。

 トグルは彼女の額に口づけると、眼を閉じ、物憂い眠りに身を委ねた。





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