第三章 天の贖罪(6)
6
「ぶえっくしょーぃ!」
朝食の食卓で。顔じゅうを口にした鷲が大きなくしゃみをした途端、全員の動きが止まった。全員――ゾスタ、ルツ、マナと鷹と鳩だ。情けない顔をした鷲が大袈裟に洟をすすり上げると、鳩は椅子から立ち上がった。
鷹は急いで、抱いていた
「あ。わりぃ」
「『悪い』じゃないわよ。ちょっとー!」
鳩は抗議の声をあげ、鷹を見て、慌てて声を落とした。――大丈夫だ。
鷲の向かいで食事をしていた鳩は、彼の唾液と食べ物の破片と……鼻水を、モロにかぶってしまったのだ。(鷹は、ルツにも少しかかったと思った。彼女は黙っていたが。) ゾスタは何とも言えない気まずい表情になった。
鷲は意気消沈していた。
「悪かったよ。ほら、これで拭け」
「拭いて済む問題じゃないでしょ。せっかく作ったのに」
このところ鷹が赤ん坊に振り回されているので、食事は鳩とマナが作ってくれている。鷲は、ずぴっと洟をすすった。
「悪かったって、本当……。俺の分やるよ」
「いい」
「遠慮すんな。俺はもういいから。せっかく作ってくれたのに、悪いけど」
「いらない。……いいわよ、もう。くしゃみする時には、口くらい覆ってよね」
「ごめん」
鷲が珍しく殊勝に謝りつづけたので、鳩は怒る気が失せたらしい。不満げに椅子に座り直す。少女は胸の前で腕を組み、鼻をこすっている鷲をじろりと睨んだ。
「なあに。風邪ひいちゃったの、お兄ちゃん」
「そうらしい」
「調子に乗るからよ。……莫迦は風邪ひかないんじゃなかったの?」
改めて鷹が観ると、鷲は本当に具合が悪そうだった。何度も擦っているせいで鼻の頭が赤くなり、鼻声になっている。妹の嫌味に付き合うのも
「へえ。だから、鳩はひかないんだな」
鳩が、言い返そうと息を吸い込んだとき、
「鷲殿」
セム・ゾスタが、二人をとりなすように口を
「鷲殿。ご心配下さらなくても、大公軍くらい、我々だけでくい止めますから」
「いや。そういうことじゃなくてな、ゾスタ……」
鷲は眉間に皺を寄せ、ぽりぽり頭を掻いている。『たかが風邪くらいで』と、思っているのだろう。鷹には、彼が自分の役目を果たせなくなることを嫌がっているのだと解った。
鷹は、赤ん坊の頭を胸にもたせかけ、《星の子》を顧みた。
「ルツさん。鷲さんの風邪、治してあげてくれませんか?」
「……治せないのよ。ロウの
食後のお茶を飲んでいたルツは、申し訳なさそうに答えた。
「え?」
「私の能力は、個体の持っている力を自分の力と共鳴させて引き出し、一時的に治癒能力を高めるものだから……相手と共鳴できなければ、どうにもならない。今、ロウには周囲の
「そうなんですか……」
鷹は、曖昧にうなずいた。
鷲たちの
「……で。俺は、結局どうすればいいわけ?」
「自分で治したら」
「あたたかくして寝ているのが、一番ね」
長い説明を我慢して聴いた挙句、鳩とルツに素っ気なくあしらわれた鷲は、がっくり肩を落とした。わざとらしく音を立てて洟をすすり、溜め息をつく。
ルツは、優しい母親のように
「ロウ。こじらせて、鳶ちゃんにうつしたら、どうするの」
鷲は流石にギクリとして、鷹を振り向いた。黄金にかがやく若葉色の瞳があまりに真剣だったので、鷹は息を呑んだ。――『鷲さん?』
彼女の驚きに気づいた鷲は、決まり悪そうに視線を逸らした。またぽりぽりと頬を掻く。
二人の遣り取りを眺めていたルツは、くすりと哂った。
ゾスタは、給仕をする兵士に、他の食べ物を持って来るよう依頼した。食欲がない鷲には、温かい
『…………!』
鷹は最初、空耳かと思った。それから、頭の中に直接ひびいたのだと理解する。何と言っているのかは判らなかったが、ルツとマナには、はっきり聞えたらしい。ルツはお茶を飲む仕草を止めて顔を上げ、マナは息を殺した。
聴き慣れた、凛と響く声。どこか懐かしいそれが、緊迫感をもって一同の頭に響いた。
『鷲……!』
「隼お姉ちゃん?」
鳩の呟きより、鷲の方が速かった。彼は、蹴倒しそうな勢いで椅子を立ち、壁に立てかけていた木杖を手に取った。
「行って来る。待ってろ」
仲間に告げる台詞が終らぬうちに、彼の姿は消えていた。鷹たちが返事をしている間はなかった。一同が軽く唖然としていると、鳩が溜め息まじりにぼやいた。
「お兄ちゃん、本当に治したいと思ってんの……?」
**
声に呼ばれ、谷に出現した鷲は、
「え?」
己の目を疑った。
『ええーっ!』
普段ほそい眼をいっぱいに開き、膝まで雪に埋もれて立ち尽くす。彼の両脇を、目を血走らせた馬たちが、泡を吹きながら駆け過ぎた。続いて、屈強な草原の男達が、口々に喚きながら駆けて来る。
どちらも、大柄で目立つはずの鷲の存在を、全く気に留めていなかった。恐怖に顔を引き攣らせ、何度も後方を確認している。
鷲は押し寄せる人馬の波に圧倒され、片方の膝をついた。彼等の後から樹木をなぎ倒しつつ向かって来る土砂まじりの雪崩をみつけ、息を呑んだ。
『うそだろーっ?!』
「……鷲?」
愕然とする鷲の耳に、隼の声が届いた。死にもの狂いで駆けて来る
「鷲! どうして?」
「隼!」
「……つかまれ」
トグルは冷静だった。彼は、背後に迫る雪崩との距離を目視で測ると、馬上から上体をのり出した。身構える鷲の腋を抱え、そのまま一馬身ほど引きずる。手綱を持たないトグルの身体がしなって限界に達する前に、鷲は
愛馬の速度ががくんと下がったので、トグルは小さく舌打ちした。
隼が
「どこから湧いたんだ? お前」
「ひとをボウフラみたいに言うな! お前が
「あたしが?」
「ったく。なんて所に
ぼやく鷲を、隼はきょとんと見返した。鷲はトグルの後ろで鞍に掴まり、おそるおそる背後を見る。
トグルは二人の会話を滑稽に感じたらしく、フッと哂った。
「どうしてこんなことになったんだ?」
「我々を谷に誘いこみ、雪崩で一掃するのが、タァハル(族)の作戦だったらしい」
「
「話の途中で悪いが、ワシ」
深い影を宿すトグルの碧眼は、苦笑しているようだった。懸命に駆ける愛馬の
「
鷲も状況を思い出し、表情を引き締めた。愚痴を言っている場合ではない。今しも雪崩に呑まれる騎馬を目にして、舌打ちする。ずびっと洟もすすりあげた。
「ハヤブサ。先に行け」
トグルに命じられて、隼は躊躇った。
「でも、」
「
「…………」
「行け、ハヤブサ」
「それには及ばんぜ、トグル」
トグルの低い声に、それより低い鷲の声が重なった。鞍上で片方の膝を立て、杖を小脇に抱えている。
隼は眼を瞠った。
「鷲!」
「何とかさせる為に
「ワシ、何を――」
「助けてやるから、その代わり、一生恩に着ろよ!」
鷲は、掛け声とともに
トグルは手綱を引いて
「うおりゃあああああ!」
喉が裂けそうな大声をあげ、鷲は思い切り上体を反らした。投げ出すような勢いで杖を前方に突き出す。腰にとどく銀髪が反動で跳ね、長身が白く輝くと、眩い光の束がほとばしり出て雪崩にぶつかった。
「…………!」
トグルが切れ長の眼をみひらく。
目が痛くなるほど純白の光が鷲の身体から出て、雪と氷と土砂の流れをせき止めていた。隼は、伝説の龍のようだと思った。どおぉんという山全体を揺るがす轟音をあげ、雪崩が生き物のように盛り上がる。一部は光の龍の牙から逃れ、彼の足元に滑りおりた。
「鷲!」
押し流されそうになった彼が歯をくいしばる音が、聞えるようだった。血を吐くような叫びとともに、鷲は更に杖をかざした。光がひときわ強く輝く。
トグルは、雪崩が凍りつくビキビキという音を聞き、急いで
光がぶつかっている所だけでなく、鷲の足元からも厳しい冷気が出て、土砂と雪を凍らせていた。押し止められて隆起した波が、その形のまま凍りつく。優勢になった光の龍は、一気に雪崩をさかのぼり、山々の頂きまで駆け上った。
逃げていた兵士達は足を止め、この光景を見守った。
そして、オダ達も――
「隼さん。トグル!」
山上にいたオダは、雪煙をあげて流れる土砂を目撃し、悲鳴をあげた。
シジンは息を呑んだ。予期しなかったわけではないが、自分達の闘いの幕がこんな形で下ろされるとは信じられなかった。隣で叫ぶ少年の声が、夢のなかのように聞える。
雉は歯をくいしばり、身をこわばらせていた。
――彼等の視界を、白い光が埋め尽くした。
先刻の轟音が嘘のような静寂のなか。光が消え、後には、異様な形で凍りついた雪崩が残った。
時が止まったようだった。――その正面にいた鷲が、へなへなと座りこむ。
「鷲!」
隼は、
「鷲。大丈夫か?」
「……疲れた」
鷲は杖を氷に突き刺し、長い脚を投げ出して溜め息をついた。それから、激しい身震いとともに洟をすすり上げる。
隼はホッとした。
「さぶい。ったく、病人をこき使いやがって。ぶえくしょーっ!」
ぶるぶる身を震わせる鷲の傍らに、隼が立ちつくしていると、聞き慣れない笑声があがった。
遊牧民の言葉でひとりごち、喉の奥で声を転がして笑う。やがて、それは心底愉快そうな高笑いへと変わり、谷に響いた。
「**、********! ……ワハハ! アハッ、ワハハハハハハッ!」
「トグル……?」
隼は信じられないものを見た気持ちで、馬上のトグルを仰いだ。彼は胸を反らし、高らかに笑っていた。無口な彼が大軍に檄を飛ばすとき同様に声をあげて笑う姿を、隼は呆然と見守った。
鷲は鼻声で、
「あんだよ、てめー。何がそんなにおかしいんだ」
「*****、***。いや、済まない。……ククククク」
「ったく、わからん野郎だ」
トグルは左手で脇腹を押さえ、息を切らせている。鷲の口調は厳しかったが、眼差しは親しみに満ちていた。
「命の恩人に対する態度か、それが。ばか笑いしてんじゃねえぞ。おい! 間に合ったからいいようなものの、俺が来るのが遅かったら、お前等、生き埋めになってたんだぞ。」
「ああ、感謝する。よく来てくれた、ワシ」
礼を言いながら、言葉が笑いに呑まれて行く。鷲は、トグルを
トグルは、氷上に胡坐をかいてずびずび洟をすすっている鷲を、穏やかに見下ろした。外套を揺らして馬を降りる。
「いきなり、こんな所に
「まあ、そう言うな」
トグルは外套を脱いで鷲に歩み寄ると、ぶつぶつ文句を言いつづけている彼の肩に、ばさりとそれをかけた。ふてぶてしい狼の笑みを浮かべ、言い返す。
「死ぬ気などなかったさ。本当に、来てくれて助かった。礼を言うぞ、ワシ。……そう責めるな。美形の主役(鷲)は死なないが、その他どうでもいい脇役は、いつ殺されても文句は言えないんだ」
「…………?」
鷲が外套から首だけを出して言葉の意味を考えていると、谷の外から声が聞えた。男達の歓声を聞き分けるトグルの眸に、鋭さが戻った。
「
「*****、****!」
「アラル! トゥグス! *****」
トグルは呼び返し、
「タァハルの部族長を捕らえたそうだ。行って来る。お前達は、休んでいろ」
「気をつけろよ」
鷲は手を振って応えた。トグルは、平然と騎乗して駆け去った。
鷲は、隼が放心したように佇んでいることに気づいた。
「行かないのか? お前」
隼は無言で肩をすくめた。オダと雉の声が届く。
「隼さん! 鷲さん!」
「鷲! どうしてここに?」
少年は、凍った雪崩のうえを滑るように下りて来た。雉は馬の手綱をひいている。鷲は、立ち上がって二人を迎えた。
遅れて来たシジンは、雉と隼と鷲、三人の白い《
隼は、生き埋めの難を逃れた兵士達をより安全な場所へ移動させながら、トグルの去った方を眺めた。氏族長たちは、雪崩によって失われた指揮系統を立て直し、タァハル部族に投降を呼びかけている。
先ほど闘いの中で生じた感情が何だったのか、隼には解らなくなっていた。
純白の雪を蹴散らして、狼達が駆ける。彼女は、忘れていた風が再び頬を撫でるのを感じた。
~第四章へ~
*ふざけていて、申し訳ありませんm(_ _;)m 一度やってみたかったんだと思います(ン十代の自分……)。
*全層雪崩の速さは時速40〜100km、表層雪崩は時速100〜200km(国土交通省HPより)。馬の走る速さは時速60〜80kmです。普通は死にます……(^^;;
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