第三章 天の贖罪(5)

*R15レベルの暴力と殺人の描写があります。苦手な方はご注意下さい。



           5


 狼の唄がひびく。遠く、高く。空に一筋の軌跡を描くように鮮明な声だ。

 軍団が進むにつれ、その声は近付くようにも遠ざかるようにも聞えたが、ある時から調子が変わった。低く短く、くりかえす。

 山道は数万の馬蹄に踏みしだかれ、ぬかるみと化していた。先頭のトグルとオルクト氏族長に追いついた隼は、吼え方が変化したとたん、二人の頬に緊張がはしるのを観た。


「トグル?」

「テディン将軍ミンガンだ。タァハルの攻撃が始まった」


 隼は、絶望的な気持ちになった。トグルは彼女を横目で一瞥したが、表情は変えなかった。


「小細工を弄している暇はなさそうだな。トゥグス(オルクト氏族長)」

御意ラー


 オルクト氏族長は頷くと、鎧におおわれた厚い胸を膨らませた。顎を上げ、太い声で吼えはじめる。力強い狼の唄を歌いながら、隼に笑んでみせた。

 オルクト氏族長が片腕を挙げると、後続の兵士達から同様の唄が湧き起こった。やがて、天にとどく大合唱になる。馬蹄の音と重なり、狼の大群が進んでいる感覚を起させる。

 勇壮な戦いの唄が前進する。オダは、全身の毛がピリピリと逆立つように感じた。

 トグルは無表情だ。彼は歌わず、静かに前方を見据えていた。隼は、遠吼えとともに昂ぶる軍団の士気を感じながら、彼の意図を推し測ろうとしていた。

 これでは、タァハル軍にこちらの位置を知られてしまう。彼等の十八番である奇襲戦を放棄するだけでなく、わざわざ敵の注意をひきつけようとする理由は――。

 隼が思い当たったのとほぼ同時に、前方の視界が開けた。


 山道を登りつめて角を曲がると、南側は谷になっていた。谷底からときの声があがる。その大音声に、遊牧民でない隼と雉、オダ、シジンは圧倒された。そびえ立つ氷壁と青空に日差しが反射して、目が眩む。オルクト氏族長とトグルの会話が聞えた。


「お先に、テュメン。***、*****!」

判ったラー。気をつけろ」


 オルクト氏族長は後続に一声かけ、斜面を駆け下りた。喚声をあげて騎馬の群れが続く。

 光にれてきた隼の目にも、谷底で戦っている様子が見えた。

 トグルは手綱を引いて黒馬ジュベを止めた。隼の葦毛ボルテの隣に立ち、味方に道をゆずる。従兄を見送る彼の唇には、不敵な嗤いが浮かんでいた。


「トゥグスめ、機嫌がいい。タァハルは、嫌な男を敵にまわした」


 トグルはひとりごちると、隼を振り向いた。緑柱石ベリルの瞳が、すばやくオダを一瞥する。相変わらず氷のように冷静だと、オダは思った。


「お前達はここにいろ。俺は、アラルをたすけなければならない。指示があるまで待て」


 隼とオダが答える前に、トグルは神矢ジュベを促した。黒馬は鋭くいななくと、落ちるような勢いで駆けて行った。トグルの外套が翻り、その姿が一陣の黒い風と化す。抜きはなった剣が銀色に煌めいた。


『トグル……』

 彼を見送る隼の横顔は、オダの目にそうと判るほどこわばっていた。白い頬は輝くようだったが、眉はくもり、置き去りにされた少女を思わせる。

 隼は、たちのぼる雪煙ごしに戦場を透かし見て、顔を上げ、凍った雪壁を眺める動作をくり返した。いらいらと柳眉を寄せる仕草を、オダはいぶかしんだ。


「どうかしましたか? 隼さん」

「……気に入らない」

「え?」


 彼女は、きりりと奥歯を噛み鳴らした。


「雪崩に起きてくれと言っているようなものじゃないか……」

「ええ?」


「気付かぬはずはなかろう」


 シジンが呟き、隼は彼を顧みた。ミナスティア国の元神官は、雉がる馬の隣に佇み、褐色の額に皺をよせていた。


「気付かぬはずがない。タァハル(部族)が最初からこの地を決戦に選んだとしても、不思議はないのだから」

「行って来る」


 隼は馬上で姿勢をたてなおし、長剣を抜いた。トグルと同じ剣――氏族長の地位を表す宝玉の嵌った剣だ。


「止めるのか?」


 雉が訊く。隼の紺碧の瞳に、強い意志の光が宿った。


「止めても、トグルは聞き入れない。一緒に行く」


 隼は剣を構え、葦毛ボルテの横腹を蹴った。白銀の髪をなびかせ、痩身を蒼い長衣デールに包んだ姿は、異国の戦いの女神のようだと、シジンは思った。


「隼さん!」


 オダは追いかけようとして雉の腕に阻まれ、当惑した。シジンが言うように、およそ近隣諸国に並ぶ者のない戦略家のトグルが、タァハル部族の作戦に気づかぬはずがない。敢えて敵の罠に踏み込むのは、彼らの同胞が危機に瀕しているからではないのか。

 オダは、待てと命じたトグルの意図を推測したが、雉は頑として動かなかった。


「雉さん!」

「聞け、オダ」


 その目は、これから起こることを予見しているかのように静穏だ。オダはしぶしぶ口を閉じ、谷底の戦況に意識を戻した。

 雪煙と針葉樹林にかすむ視界で、狼達の闘いの唄が、天を割るように響いた。




「トグル!」


 葦毛ボルテは雪に蹄をとられて走りにくそうだった。隼に〈草原の民〉の部族の見分けは出来なかったが、斬りかかって来る相手に、いちいち所属を訊いている余裕はない。味方が避けてくれることを信じるしかなかった。


「トグル! どこだ? オルクト!」


 隼が駆け込んだ一帯では、両軍は入り乱れ、兵士はてんでに斬り結んでいた。どこに指揮系統があるのか判らない。戦場のそこかしこで喚声があがる。それは、タァハル部族の勝鬨のようにも、トグリーニ部族の合図のようにも聞えた。

『トグル……』

 斬りかかって来た兵の剣を剣で受け止めながら、周囲を捜す。隼は嫌な予感がしていた。

 自ら戦闘のなかへとび込んで行ったトグル。彼がそういう男だとは、承知しているのだ。しかし。

 リー・ディア将軍に対しても、カザの要塞でも、長城でオン大公の軍と戦った時にも――トグルが一兵士として戦場に赴いたことなどなかった。彼の傍らには常にアラルや腹心の将軍達がいて、彼の身を護り、命令を実行していた。

 なのに……今、病に侵された身で、ただ一騎で斬り込んで行った彼の意図を、隼は測りかねていた。



女性にょしょうにこんな事を頼むのは、気が引けるのですが、」――シェル城へ向かう道中、オルクト氏族長から聴いた話が脳裡をよぎる。

「貴女をみこんでお頼み申す、ハヤブサ殿。ディオを守って下され」


 隼は訝しんだ。もとより、彼女はトグルを護るつもりでいるからだ。顔の大きな氏族長は、濃い眉と口髭を動かし、照れくさそうに微笑んだ。


「我が従弟いとこは幼い頃、実母に殺されかけましてな……。儂の叔母ですが、心を病んでおったのです。それでディオは永い間、独り暮らしをしていました。叔母はもう亡くなりましたが」


 トグルに出会って間もないころに、聴いた覚えがある。隼は、鷲と顔を見合わせた。なぜ突然こんな話をするのだろう?

 オルクト氏族長は彼等の反応を見守りつつ、真摯に続けた。


「その所為せいか否か。奴は時に、ひどく刹那的でしてな。まるで、己の生命に価値がないかの如くふるまうのです。実際は、奴に死なれると、我々は大変に困るわけですが」


 隼は、自分の顔が蒼ざめるのが判った。心当たりがあった、それも沢山。

 氏族長は、巨躯を縮めて深々と一礼した。


「ディオが大切にしている貴女に、お頼み申し上げる。どうか、奴を、守って下され……」


 

『トグル』

 隼は、胸が破れそうな心地がした。

 彼は一度、タイウルト部族との戦闘中に倒れている。あの時は鷲が側に居たので、意識をなくした彼が落馬するのを防ぐことが出来た。まだ、彼の右手は動いていた。徐々に進行し、刻一刻とその身を侵す死の影を想うと、隼は、己の生命が枯れるように感じた


「***!」


 敵兵が口々に喚きながら斬りかかって来る。本来、〈草原の民〉は女性を傷つけないが、戦場では異なる。容赦なく振り下ろされる剣を、隼は懸命に受け流した。怒号の向こうに、風の音を聴く。風にのる狼の唄を……。応じる声をみつけ、隼は叫んだ。


「トグル!」


 落馬した兵士が彼女を狙っていた。黒光りする剣を眼前に構え、葦毛ボルテの腹を突き上げようとする。気づいた隼が手綱を引き、馬上で身を捩じらせたとき、どぐっと鈍い音がして真紅の血幕が視界を蔽った。


「****!」


 悲鳴をあげる男の頭蓋骨に巨大な蹄がくい込んでいた。はがねの如くやすやすと骨を砕き、脳髄に達する。一拍遅れて白刃が、すでに息絶えている男の胴をなぎ払った。

 隼は眼を瞠って、その光景を凝視みつめていた。

 ぶるると荒い息を吹いて巨大な黒馬が迫る。首を振って昂ぶりを抑えようとする瞳は、燃えるように赤かった。対照的に、血塗れた剣を引っさげたトグルは、夜の森のように静かだ。


「…………」


 隼は、咄嗟に声をかけられなかった。

 トグルは無言で彼女を見下ろした。くらく輝く緑柱石ベリルの瞳は、彼女の不安や驚きをすべて承知しているようだ。ざっと眺めて彼女の無事を確認すると、トグルは戦場に向き直った。

 隼は、ようやく掠れた声を発した。


「トグル」

退け、ハヤブサ」


 トグルは左腕に長剣を提げ、足先だけで馬を操る。一つの生物のように無駄のない動きだ。


「俺は、アラルを捜さなければならない」

「駄目だ。あの音が聞こえないか? もうすぐ、ここは崩れるぞ」

「知っている。その前に、勝負をつけなければならない」

「そんなことを言ってる場合か。このままじゃ、全員生き埋めだ。早く、ここに居る連中だけでも――」

「あれは、俺の民だ」


 トグルは彼女に横顔を向け、簡潔に答えた。隼はごくりと唾を飲んだ。


「俺のめいで戦っている者達だ。連中が助けを求めた。救うのは、俺の義務だ」


『間に合わなくなる。オルクトも、救い出した連中も、一緒に死ぬことになる』という考えが頭を過ぎったが、彼女は黙っていた。

 隼は知っていた。トグルも解っている。彼は彼女を見て、唇を歪めた。


「お前なら、どうする」


 隼は剣を握り直すと、向かってきた敵兵を斬り捨てた。わずかに剣がぶつかっただけで、敵は叫び声をあげて落馬した。見事な手練れだったが、トグルのかおの筋肉はぴくとも動かなかった。

 隼は、苦々しく吐き捨てた。


「突破しよう。氷漬けは御免だ」


 トグルは片方の眉を持ち上げた。緑の瞳がもの言いたげに揺れたが、口は開かなかった。――この男には珍しく、肩をすくめる仕草をした。


「***!」


 鋭い気合とともに振り下ろされた剣を、トグルは剣で受け止めた。神矢ジュベが足踏みをして衝撃に耐える。隼は、彼に斬りかかって来た兵士の憎悪に満ちた顔を観た。

『女?』

 タァハル族の女兵士は、乗馬を黒馬ジュベに寄せてトグルに迫った。まだ若い――隼より若いかもしれない。長い辮髪を振りみだして憤りを叩きつける姿に、トグルは眉を曇らせた。

 二頭の馬は離れ、対峙した。女が再び剣をかざす。隼はトグルを庇おうとしたが、間に入れなかった。


「下がれ、ハヤブサ」


 黒馬ジュべが勢いに圧されて足踏みをくりかえす。トグルは戦いにくそうにしていたが、隼に投げた声は冷静だった。振り下ろされる刃を長剣で止め、動かない右腕で平衡を保つ。


「でも、」

「退けと言った。これは俺の戦いだ」


 トグルが手甲で受け損ねた剣先が、彼の帽子を切り、額に傷をつけた。黒髪がひとふさ散り、彼は馬上でよろめいた。

 女がすかさず攻めかかる。愛馬ジュべを離して体勢を立て直そうとするトグルに、彼女は早口に叫んだ。


「***、*****! トグル・ディオ・バガトル!」


 隼に女の言葉は分からなかったが、トグルの顔にひとすじ血が流れたのは判った。隼は葦毛ボルテで間に入ろうとしたが、トグルは馬から降りてしまった。

 女兵士も、馬から降りる。

 隼は、トグルに行く手を遮られた。


「下がってくれ、。……


 トグルの囁きに哀願を聴きとり、隼は葦毛ボルテを止めた。彼の横顔に表情はない。

 隼の胸は不吉な予感に騒いだが、別の兵士の相手をしなければならなくなった。


「*****!」


 斬りかかって来た男の剣を隼が跳ね返すのと同時に、女兵士は、叫び声をあげてトグルに向かって行った。

 トグルは、重い鋼の剣をなぎ払うように防戦する。雪のなかを後退しつつ手甲と剣で防ぐ姿は、圧されているように見えた。

『相手は女だ』 隼は不安だった。同じ女なら容赦なく戦えるだろうか。


「トグル!」


 成す術のない隼が、馬上から呼んだ時――トグルは女兵士の剣を避けて身を屈め、近間ちかまに入った。右脚を高く蹴り上げ、それを凄い勢いで女のくびに垂直に叩きつけた。

 骨の砕ける鈍い音が響き、女は声もなく数馬身とばされた。己の身に生じたことを理解していない表情のまま、彼女は意識を失った。


 一部始終を目撃した隼は、すぐには理解できなかった。信じられない……頭が働かない。彼女の瞳は、トグルが倒れた女兵士に近づいてその胸にとどめを刺すのを、茫然と映していた。

 トグルの仮面のような風貌かおは、己の血と倒した敵の血で汚れていた。彼は隼と眼を合わさずに剣を収めた。黒馬ジュベの手綱を引き寄せる。

 隼は、低い地響きを聞いて我に返った。


「トグル」


 トグルも気付き、面を上げた。微細だった大気の震えは急速に大きくなり、いまや大地を揺らす轟音と化していた。黒馬ジュべが、葦毛ボルテがいななき、蹄を鳴らす。

 戦いの最中だった兵士達は動きを止め、各々、天を仰いだ。その顔が恐怖に引き攣る――


「トグル!」

「……*****」


 隼の口から悲鳴に似た声が漏れた。トグルが舌打ちし、ひとりごちる。

 容赦のない陽光と風と下界の人間どもの愚かさに遂に耐えかねた山の神が、怒りを顕わにしたのだ。天空にそびえる氷壁が、生きとし生けるもの全てを呑み込まんと、崩れ落ちていた。


「******!」


 トグルは愛馬ジュべにとびり、凛とした声をはりあげた。彼等をここへ誘い込んだタァハル部族の兵士達も、恐慌に陥っている。

 トグルは外套を翻し、隼を促して駆け出した。今度は、隼も異存はなかった。しかし、間に合わない。

『駄目だ、とても……』 隼は葦毛ボルテはしらせながら、背後に迫る雪崩の気配を感じた。振り向いて見たくなる衝動を必死に抑える。

 トグルは退却を命じた後は口を閉じ、前方を見据えて黒馬ジュベはしらせた。その横顔を見、逃げまどう兵士達を眼にした隼は、絶望しかけた。


「ハヤブサ!」


 隼は振り返り、雪と土砂と氷の奔流が逃げ遅れた人馬を呑み込む光景に、呼吸を止めた。凝然と眼をみひらく。トグルの声がなかったら、気を失っていたかもしれない。

 今や天を破りそうなほど高まった轟音の中、彼の伸ばした腕に掴まりながら、隼は声にならない悲鳴をあげた。

『……鷲!』







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