第三章 天の贖罪(4)
4
夕食後、お茶を済ませると、鷹は赤ん坊を抱いて部屋に戻った。彼女は疲労している鷲を気遣っていたが、鷲自身が乳児との同席を望まなかったのだ。
それで、石造りの部屋には、鷲と鳩とクド(雪豹に似た獣)と、ルツとマナが残った。セム・ゾスタは一旦席をはずすと、手に小さな花を持って戻って来た。
「わあ、きれい! かわいい」
クドの毛を梳いていた鳩は、芥子に似た可憐な花に瞳を輝かせた。赤毛の参謀は、わざわざ根から掘り起こした花を皮に包み、
すらりと伸びた細い茎の先で、淡い紅色の花弁をもつ花が、ふわふわと揺れている。
ルツが飲みかけのバター茶の椀を膝に置いて視線を上げる。鷲の表情は冴えなかった。
「やっぱり、もう咲いていたか」
「はい、沢山ありましたよ。一株で宜しいのですよね?」
「ああ。ありがとさん」
ゾスタは、卓子に顎をのせて花を眺めている少女に眼を細めると、丁寧に一礼して部屋を辞した。鳩は、首をひねって鷲を見上げた。
「やっぱり、って?」
「……俺は今、砦の東側で吹雪をおこしている。『冷やす』というのは、『熱をうばう』ということだ。土を凍らせて奪った熱は、砦の西側へ逃がしている」
少女にも分かるように説明する鷲を、ルツは怜悧に澄んだ黒い眸で見詰めていた。マナは
鷲は手を伸ばすと、ゾスタが持ってきてくれた花を左の掌に載せた。片方の眉をもちあげて眺めすかす。
「西側の地面はあたためられて、雪が融けはじめている。いつもの年より早いはずだ。雪崩が起きなきゃいいんだが……」
鷲は、鳩をなだめるように小声で詫びた。
「ごめんな」
「え?」
鳩とルツとマナ、三人の女性が見守る視線の先で。鷲の掌にのせられた花は、花弁と緑の葉の艶をうしない、しおれ、みるみるうちに
「あー……」
鳩は無念そうに呟いたが、同時に大きな目をこぼれ落ちんばかりにみひらいた。ルツは、かれの掌を
鷲は自嘲気味に唇を歪めると、枯れた花を皮に戻した。
「いつから?」
ルツがおもむろに訊ねる。鷲は肩をすくめた。
「半月くらい前か。トグルと一緒にシェル城を攻めたとき、湖を凍らせたんだ。タァハル族の伏兵を追い出すために、冷えて重くなった空気をぶつけて城壁を崩した。その後からだ」
鳩の膝の上でくつろいでいたクド(雪豹に似た獣)が、音もなくそこから降り、部屋の隅へと移動した。マナの背後に隠れて身を丸める。遠雷のごとく唸り、黄金の瞳で鷲をにらんだ。
鷲は
「あの時は、
「ひときわ
ルツはさらりと言って話を締めた。鷲はぽりぽり頬の無精髭を掻いている。鳩は、彼と《星の子》を交互にみた。
「どういうこと?」
「私とマナのように、自分の生体エネルギーを変換して使っている能力者と、あなた達《古老》は違うのよ」
己の手を眺めて困惑している鷲に比し、ルツとマナ母娘は平然としていた。淡々と説明するルツは、誇らしげですらあった。
「むしろ、それが本来の在り方……。《古老》の能力の特徴は、自己の生命力だけでなく、他の生物から
「ああ、聴いている。……けどなあ。これじゃあ、俺は本当に『化け物』だ」
鷲は、花の残骸を指さした。
「普通に飯を
ルツは、他人事のように
「
「あんたなあ」
「冗談よ。そう悲観することばかりではないわ。例えば、ケイ(雉)となら能力を共鳴させてより大きな力を発揮できる。私やマナの能力を集めて使うことも可能よ。……異能力者でなくてもいいわ。セム・ゾスタやここにいる兵士達から少しずつ
「俺は、これ以上、人間ばなれしたくない」
鷲はがっくり肩を落とし、消え入りそうな声で呟いた。
「そんな器用な真似は出来ない……。俺が心配しているのは、うっかり
「……それだけではなさそうね」
ルツは慎重に言った。鷲はおし黙った。
鳩は、またきょろきょろと二人を見比べた。クドは、マナの背後から戻ってこない。
鷲は彼女達から
「ロウ。不本意だとごねている場合ではないわ。
「結局そうなるのか」
鷲は声にならない声で呻き、がしがしと乱暴に頭を掻いた。ルツは辛抱強くなだめた。
「以前のように抑制するか、その
鷲は頭を掻くのはやめたが、不機嫌に黙り込んだ。鳩は、『やっぱり変』だと思った。ふだんの彼らしくない。悩みが一つではないのか……。
鷲は己の考えを整理するために黙っていたが、やがて、ぽつりと問うた。
「〈草原の民〉を助けられるか? ルツ。トグリーニを」
ルツは、長い睫毛を上下させて瞬いた。マナはクド(雪豹に似た獣)の背を撫でて彼を鎮めた。
《星の子》は、囁き返した。
「それが、あなたのやりたい事?」
「ああ」
「聴いたのね……」
鷲は視線を落としたまま肯いた。ルツは音をたてずに嘆息した。鳩はマナを振り返り、マナは少女を安心させるように頷いてみせた。
彫りの深い横顔に、ルツは静かに語りかけた。
「草原に暮らす〈
鷲は真顔で彼女を顧みた。《星の子》は、彼の眼をまっすぐ見返した。
「あなたの言う『〈草原の民〉を助ける』ということが、彼等が民族の同一性を保って存続する、という意味なら、不可能よ……。彼等自身が『在り方』を変えない限り――姿かたちに固執せず、文化的な伝統を放棄しない限り。そう、私は言ってきたわ」
「他民族と混血する……という意味か?」
鷲は眉間に皺を刻み、彼女の言葉を理解しようと努めた。ルツは柳眉をくもらせた。
「そうね。私は、そういう表現は好きではないけれど……」
鷲はぎりっと奥歯を噛み鳴らすと、踵を返し、狭い部屋のなかを歩きはじめた。檻に閉じ込められた狼の如く、往復する。腰をおおう銀髪と外套が、その度に揺れる。
ルツは憐れむように彼を眺めた。
「ロウ。たとえ混血を推奨しても、現在生きている人々や病んでいる人々は救えない。私達の
「どんなに足掻いても滅びるしかないのか? あいつは、死ぬしかないのかよ」
ルツは瞼を伏せた。彼女の口調は、〈草原の民〉より鷲に同情しているようだった。
「彼等が自分達の運命を認められないのは解るけれど。仕方がないわ……」
ばんっという乱暴な音に、ルツは口を閉じた。長い黒髪が踊る。鷲が
クドが、再びグウゥゥーッと低く唸った。ルツは顔色を変えることなく、鷲を見詰めた。
『認められるか、そんなことが』
鷲は立ち尽くして両の拳を握り、荒れる感情を抑えた。こんなに無力感を覚えたことはない。
鷹が記憶を失った時も、トグルの病気を知った時も、どこかに信じられるものを彼は持ち続けていた。今でも変わりはないはずだったが、
「何のために――」
鷲はトグルを想い、オダを想った。アラルを、オルクトを、リー女将軍を想い、軋む声で訴えた。
「何のために、奴等は戦ってきたんだ。あれだけ多くの人間を殺して、殺されて」
「…………」
「生きるためだろう?
「生命に、存在する理由などないわ」
ルツの言葉はおごそかに響き、鷲は呼吸を止めた。
「ロウ、あなたも気付いているじゃない。――知っていたから、彼等の祖先は草原に閉じこもった。争わなければ生きてゆけない過酷な環境でも、自分達の生命には自分達で意味を見出そうとしていた。戦うことを選んだのも、彼等なりに意味があると考えたからでしょう?」
「…………」
「あなたらしくない言い方だわ、ロウ。ディオが言わなかったせいでしょうけれど。それは、あなた達に対する、彼なりの思い遣りではなかったの?」
鷲は深く溜め息をつき、投げ出すように椅子に腰を下ろした。腕を伸ばし、自分が壊した窓の扉を半分だけ元に戻す。それから、大きな両掌で顔を覆った。
鳩は、おろおろと両手を動かした。鷲の肩に触れようとして、今は出来ないことに気づく。ルツとマナは、そんな彼を同情をこめて見守っていた。
「……トグルだけでも、無理か?」
顔を覆ったまま、鷲は小声で訊ねた。ルツは哀し気に首を傾けた。
「なあ、ルツ。トグルだけでも助けられないか」
「可能だとして……自分だけが救命されることを、ディオは
鷲は掌から面を上げた。深い理解とそれゆえの絶望をあらわす碧の眸に、ルツは安堵した。彼がトグルの意志に反することはないだろうと。
「あいつは俺と似ているんだ」
彼女から視線を逸らし、鷲は苦い声で呟いた。
「どうしてだろうと思っていた……。俺達は、殺されそこねた人間だ」
「…………」
「俺もあいつも、
片手で目頭をおさえ、鷲はうめいた。一語一語を己に刻む言葉を、ルツは黙って聴いていた。
「
鷲はふいに声を立てずに嗤った。自嘲よりも冷淡に、掠れた声で続けた。
「そんなのは、本当の
「…………」
「足して行けばいいと思っていた、俺は。自分に何もないのなら、仲間を、鷹を……。そうすれば、いつか埋まると思っていた。でも、違う」
「そうね、ロウ」
ルツは眼を閉じ、溜め息まじりに囁いた。鳩は泣き出しそうになっている。マナは、そっと少女の細い背を撫でた。
「己を築くのは己自身……欠けたものを埋め合わせるのも、癒すのも。どこまで行っても、あなたはあなたでしか在り得ない。見限ることも救うことも、あなたにしか出来ない」
「だけど、あいつには、それさえない」
ルツは断定的な発言を咎めるように彼をみつめたが、鷲は構わなかった。
「俺達が足す。すると、あいつは拒絶してしまう。否定して、否定して、否定し切れないものしか信じない。それがトグルだ。そういう生き方だから、仕様がないのかもしれないが」
「…………」
「見ていられない。あいつに欠けたものと俺に欠けたものは、同じだからだ。俺もあいつも、半端者だ」
『それで、鷹が不安になったのね……』ルツは内心で呟いた。鷲の表現は独特すぎて解りにくいが、彼自身の本質を突いている。トグルを通じて、自己を省みたのだ。
何と言えばいいのだろう、この、置き去りにされた少年に。
「ロウ」
そっと呼ぶ。姉のように、母のように。
鷲は、小さく舌打ちをした。
「解ってる。済まない……弱気になった。あいつはヤワな野郎じゃない。俺も出来るだけはやってみる。……だが、時間がない。どうすればいいのか」
「これは、彼等が彼等自身を肯定するための闘い」
鷲の目に、淋しげに微笑む《星の子》は、全てを知り尽くした女神のように映った。
「でも、払った犠牲はあまりにも大きかった。費やした時間も。――その責任を、彼等は負わなければならないわ。背負う力のない者を、通すわけにはいかない。それを試すのが、私の、《星の子》の役目」
「ルツ」
「大丈夫」
ルツは、嫣然と微笑んだ。
「ディオは
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(注*)《古老》の能力の特徴について: 第一部 第四章(3)をはじめ、ルツは所々で説明しており、鷲も理解しています。
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