第三章 天の贖罪(3)
3
灰色の空に、蒼い稲妻がはしった。うずまく雲の動きに合わせて無数の太鼓が
乾いた風の中に水の匂いがしたと思うと、雨ではなく硬い氷の粒が、叩きつけるように降って来た。砦内のどこからか、男達の歓声があがる。
「憂鬱なようね、鷹」
「え。そういうわけじゃ、ないですけど……」
《星の子》は微笑むと、編み針を膝へおいた。艶やかな黒髪が頬へほつれかかったのを掻きあげ、澄んだ声で言う。
「おっぱいはあげられないけれど、御守りくらいは出来るわよ」
鷹は恐縮した。
三日前、鷹は、鷲と赤ん坊の
一方、母子は部屋に閉じこもっている。
赤ん坊の世話をしている鷹は、眠れないのが辛かった。母乳を与え、オムツを替え、着替えや沐浴をさせて寝かしつけ、また母乳を与える。切りがない。だんだん頭がぼうっとしてくる。一日が、あっと言う間に過ぎて行く。
鷹が
「ロウ(鷲の本名)も、慣れてきたようね」
ルツは窓越しに曇天を仰ぎ、満足げに呟いた。鷹は、そっと嘆息した。
この嵐は、鷲が起している。驚嘆すべき《古老》の能力だが、一日中これをやると流石の彼もぐったりと疲弊し、夜には動けなくなってしまうので、鷹は気が気ではなかった。雷が鳴るたびに、せっかく寝かしつけた鳶が起きてしまうのも、恨めしい。
そして、もう一つ。
「ルツさん」
鳶を渡しながら呼ぶと、ルツは軽く首を傾げて鷹をみた。晴れた冬の夜空のような瞳が、彼女を映す。
『本当に、何歳なのだろう?』 と鷹は思う。降臨してから四十年以上歳をとっていない巫女は、無邪気さすら感じさせる美しい顔で微笑んだ。
「なあに?」
「その……愚痴を言ってもいいですか?」
「あら。珍しいわね」
ルツは悪戯っぽく応じ、しなやかな腕で赤子を抱きなおした。鷹は口ごもった。
「鷲さんのことなんです」
「
「最近、何を考えているのか、よく解らなくて」
「そう?」
小首を傾げるルツの眼差しは、優しい。鷹は、いたたまれなくなって項垂れた。雷鳴は遠ざかっているが、
「会話がないんです。わたしとシジンのことを、どう思っているのか……」
ルツは微笑を消し、しずかに彼女を見詰めた。
鷹は、混乱し熱をもった頭が霧が晴れるように冴えるのを感じた。気持ちが落ち着いてくる。
「あなたはどうなの? 鷹」
「わ、わたしの気持ちは、決まってます」
「そう」
ルツは、あくまで穏やかに相槌をうつ。鷹は、戸惑いながら頷いた。
自分は《鷹》なのだ。今は
シジンも、昔には。
けれども、鷲は……。
「決まっているのなら、心配は要らないでしょう。シジンに嫉妬していたとしても、そんなことを口に出す鷲ではないでしょうに」
『それもそうだわ……』
ルツの微笑みは悠然としていて、鷹は己を恥じた。確かに、鷲は一貫して『シジンに逢わせる』と言ってくれている。内心はどうあれ、かれが約束を
問題は、その内面だ。これまでの経緯が、シジンとの再会が、今後のかれとの関係に傷を残しそうで、鷹は
「しっかりなさい。あなたが帰って来たから、彼は前へ進めるのでしょう? 自信をお持ちなさいな。あなたが不安がっていたら、それこそ、鷲は気持ちをうちあけられないわよ。ねえ? 鳶ちゃん」
ルツはくすくす哂うと、
東の空に、蒼白い雷光がはしった。
満月に照らされた新雪を思わせる澄んだ光が、鷲の長身を包んでいた。彼は、吹きつける風と氷の
眼を閉じて背筋を伸ばし、軽く握った両手を膝にのせている姿は、苦行に臨む
聖獣クド(雪豹に似た獣)の厚い毛皮をだきしめた鳩は、彼の背を見上げて鼻を鳴らした。
今日は夜明け前から、三度も吹雪を起している。砦の東の荒野は凍土と化し、とても生き物が往来できる状態ではなくなっていた。大公軍の兵士たちは全く姿を見せていないのだが、鷲は、己自身を痛めつけようとするかのように
セム・ゾスタ(リー・ヴィニガ姫の部下)は、見慣れぬ光景にすっかり圧倒されていた。
「ねえ、鷲お兄ちゃん。もういいんじゃない? こっちも土砂で流されちゃうわよ」
鳩は、冷えた頬をこすって歎願した。鷲は、切れ長の眼をうっすらと開けた。
「なら、凍らせておくか」
「ええー! 寒いよお」
「鳩は、中に入っていろ」
鷲は少女を顧みることなく、ぶっきらぼうに応えた。鳩は唇を尖らせた。己の考えに集中しているときの鷲には話が通じないと、少女はよく知っている。
風はゆるみ、空は本来の明るさを取り戻し始めていた。
「この目で見なければ、信じられなかったでしょうが、」
セム・ゾスタは、傍らに立つマナをみて嘆息した。金色がかった赤毛を掻き、広い胸を揺らす。
「
「いつまでも続けられないぜ」
鷲は木杖を手に持つと、胡坐を解いて振り向いた。城壁から下りてくる。
セム・ゾスタは顎鬚を撫で、興味ぶかく灰色の
「左様ですか?」
「ああ。ここが嵐なら、周りは晴れている。雨雲を集めれば、他の地域は
鷲は、マナに《星の子》の長杖を手渡すと、にごった声で説明した。長髪と外套の裾をしぼり、滴る水をみて溜息をつく。マナは、そんな彼を気の毒そうに眺めた。
セム・ゾスタは思案気に首を傾げた。
「そういうものですか」
「ああ、好き勝手に出来るわけじゃない。俺の体力も、いつまで
鷲は、鳩の頭を撫でようと手を伸ばしたが、彼女の抱いているクドが不機嫌に唸ったので、宙で手を止めた。己の掌をしげしげと見詰め、考え込む。ながい沈黙を鳩とゾスタが訝しみかけたとき、彼の方から問いかけた。
「リー姫将軍から連絡はあったか?」
「いえ。使者も、まだ向こうへ辿り着いていないのではないかと」
「ぶえっくしょーぃ!」
顔中を口にした鷲が、威勢の良いくしゃみをする。遠慮気味に応じていたゾスタは、やや憮然とした。トグルや雉なら『失礼』の一言くらいあったろうが、鷲は、子どものように鼻の下を擦った。
鳩が呆れて半眼になる。
「お兄ちゃん」
「俺も、トゥードゥまで跳ぶのは無理だからなあ……」
鷲は洟をすすった。
キイ帝国とニーナイ国と〈草原の民〉の国境が接するスー砦から、帝国の城塞都市トゥードゥまでは、直線距離で二千キリアを超える(注*)。その半分は砂漠であり、道中には大公軍が控えている。容易な道のりでないことは察せられた。
「俺が行った方が良かったかな」
鷲は濡れた頭を掻き、ひとりごちた。――東には大公軍が、隙あらばこの砦を陥とそうと待ち構えている。ここを突破されたら、タァハル部族と大公軍は合流し、リー女将軍は追い詰められてしまう。トグリーニ部族の援軍が到着するまで、持ちこたえなければならなかった。
故に。
「鷲」
マナに
「分かってる。そこまでしねぇよ。……しかし、俺には納得出来ないんだが――」
ぼそぼそと鷲は呟いたものの、片手を振って自分の話を打ち切った。つよく眉根を寄せ、横を向く。
最近、彼は、こんな風に迷いを吐露することが多い。吐露しても、心の裡は明かさない。――鷹の不安の原因だ。それがしばしば矛盾してみえ、鳩も怪訝に思っていた。
「お兄ちゃん?」
聖獣クドがするりと少女の腕から抜け出し、身をふるってしずくを落とした。足音をたてることなく、建物のなかへと入って行く。太い尾が悠然と揺れるのを見送り、鷲は苦笑した。
「日が暮れる前に、この辺りの地盤を固めておこう」
鷲は、いつも通り飄々と言って片膝を立てた。防壁の上によじ登る。ただでさえ長身の男を、マナとゾスタは仰ぎ見た。
「よっと」
北風が濡れて重くなった長髪を揺らす。すらりと伸びた脚を広げて立ち、彼は東の地平を見据えた。白い雪におおわれた山々を眺める。そうすると、たとえ物思いに沈んでいても、彼はルドガー(暴風神)さながら堂々として見えるのだ。男のゾスタが見蕩れる程。――空と大地の境界をねめつける、かれの外套から蒼白い光が現れ、熱のない炎さながら輪郭を縁取った。
ゾスタは、空気がずんと冷えるのを感じ、感嘆の声をあげた。
「いや、全く……素晴らしい」
『なんだか、
「終わったら、休憩しましょう。お茶を淹れるわ」
「ああ。……マナ、後で話がしたい。訊きたいことがあるんだ、あんたと《
マナは足を止めて振り向いたが、鷲は彼女を観ておらず、肩越しに小さく手を振った。
ゾスタは少し迷ったのち、鷲の背に一礼して踵を返した。ふたりは石造りの砦の中に入りながら、鷲が大きなくしゃみをするのを聞いた。
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(注*)キリア: この世界の長さの単位。1キリア=860メートルくらいです。
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