第三章 天の贖罪(3)


          3


 灰色の空に、蒼い稲妻がはしった。うずまく雲の動きに合わせて無数の太鼓がとどろき、凍てつく大気を震わせた。石造りの砦にビリビリと響く。雷鳴は氷河を割るように吼え、何頭もの光の龍が天と地を結んだ。

 乾いた風の中に水の匂いがしたと思うと、雨ではなく硬い氷の粒が、叩きつけるように降って来た。砦内のどこからか、男達の歓声があがる。


 たかは溜め息を呑んで窓辺を離れ、椅子に腰を下ろした。雷で目を覚ましたとびを籠から抱き上げていると、卓子テーブルの向こうで編物をしていた《星の子》ルツが、くすりとわらった。


「憂鬱なようね、鷹」

「え。そういうわけじゃ、ないですけど……」


 《星の子》は微笑むと、編み針を膝へおいた。艶やかな黒髪が頬へほつれかかったのを掻きあげ、澄んだ声で言う。


「おっぱいはあげられないけれど、御守りくらいは出来るわよ」


 鷹は恐縮した。


 三日前、鷹は、鷲と赤ん坊のとびと鳩とともにトグリーニ部族の本営オルドウを離れ、マナにスー砦へ連れて来て貰った。この地で《星の子》と、リー姫将軍の部下であるセム・ゾスタに再会した鷲は、オン大公の軍から砦を護るため、さっそく能力を発揮した。

 一方、母子は部屋に閉じこもっている。

 赤ん坊の世話をしている鷹は、眠れないのが辛かった。母乳を与え、オムツを替え、着替えや沐浴をさせて寝かしつけ、また母乳を与える。切りがない。だんだん頭がぼうっとしてくる。一日が、あっと言う間に過ぎて行く。

 鷹がとびのオムツを確かめていると、また空が光った。


「ロウ(鷲の本名)も、慣れてきたようね」


 ルツは窓越しに曇天を仰ぎ、満足げに呟いた。鷹は、そっと嘆息した。


 この嵐は、鷲が起している。驚嘆すべき《古老》の能力だが、一日中これをやると流石の彼もぐったりと疲弊し、夜には動けなくなってしまうので、鷹は気が気ではなかった。雷が鳴るたびに、せっかく寝かしつけた鳶が起きてしまうのも、恨めしい。

 そして、もう一つ。


「ルツさん」


 鳶を渡しながら呼ぶと、ルツは軽く首を傾げて鷹をみた。晴れた冬の夜空のような瞳が、彼女を映す。

『本当に、何歳なのだろう?』 と鷹は思う。降臨してから四十年以上歳をとっていない巫女は、無邪気さすら感じさせる美しい顔で微笑んだ。


「なあに?」

「その……愚痴を言ってもいいですか?」

「あら。珍しいわね」


 ルツは悪戯っぽく応じ、しなやかな腕で赤子を抱きなおした。鷹は口ごもった。


「鷲さんのことなんです」

わし、ね」

「最近、何を考えているのか、よく解らなくて」

「そう?」


 小首を傾げるルツの眼差しは、優しい。鷹は、いたたまれなくなって項垂れた。雷鳴は遠ざかっているが、みぞれが降り止む気配はない。


「会話がないんです。わたしとシジンのことを、どう思っているのか……」


 ルツは微笑を消し、しずかに彼女を見詰めた。

 鷹は、混乱し熱をもった頭が霧が晴れるように冴えるのを感じた。気持ちが落ち着いてくる。


「あなたはどうなの? 鷹」

「わ、わたしの気持ちは、決まってます」

「そう」


 ルツは、あくまで穏やかに相槌をうつ。鷹は、戸惑いながら頷いた。


 自分は《鷹》なのだ。今はとびがいる。皆が――隼、雉、鳩、ルツ、マナ。仲間のいるところが《鷹》の居場所であり、レイ王女には戻れない。

 シジンも、昔には。

 けれども、鷲は……。


「決まっているのなら、心配は要らないでしょう。シジンに嫉妬していたとしても、そんなことを口に出す鷲ではないでしょうに」


『それもそうだわ……』

 ルツの微笑みは悠然としていて、鷹は己を恥じた。確かに、鷲は一貫して『シジンに逢わせる』と言ってくれている。内心はどうあれ、かれが約束をたがえるとは思えない。

 問題は、その内面だ。これまでの経緯が、シジンとの再会が、今後のかれとの関係に傷を残しそうで、鷹はおそれていた。


「しっかりなさい。あなたが帰って来たから、彼は前へ進めるのでしょう? 自信をお持ちなさいな。あなたが不安がっていたら、それこそ、鷲は気持ちをうちあけられないわよ。ねえ? 鳶ちゃん」


 ルツはくすくす哂うと、くびの据わっていない赤ん坊の顔を彼女へ向け、頬ずりをした。鷹は、ぎくしゃくと頬を動かし、苦笑した。

 東の空に、蒼白い雷光がはしった。




 満月に照らされた新雪を思わせる澄んだ光が、鷲の長身を包んでいた。彼は、吹きつける風と氷のつぶてをものともせず、城壁の上に胡坐を組んでいた。豊かな銀髪も毛長牛ヤクの毛の外套チャパンも、ぐっしょりと濡れそぼり、一部は凍りついている。

 眼を閉じて背筋を伸ばし、軽く握った両手を膝にのせている姿は、苦行に臨む修行者サドゥのようだ。世俗とのかかわりを絶ち、己の能力の限界を超えようとする行者に身をやつした暴風神バーイラヴァ。古代の彫像さながら整った顔に、みぞれまじりの雪が叩きつけられる。比べるもののない美しい銀髪も虐げられ、頬から首筋にべったり貼りついていたが、彼は頓着しなかった。眼前に立てた杖と己をとりまく生命の気配に、意識を集中させているのだ。石造りの防壁に杖をさす隙間はなく、《星の子》の木杖は、彼の意志で支えられていた。


 聖獣クド(雪豹に似た獣)の厚い毛皮をだきしめた鳩は、彼の背を見上げて鼻を鳴らした。

 今日は夜明け前から、三度も吹雪を起している。砦の東の荒野は凍土と化し、とても生き物が往来できる状態ではなくなっていた。大公軍の兵士たちは全く姿を見せていないのだが、鷲は、己自身を痛めつけようとするかのように能力ちからを発揮しつづけている。

 セム・ゾスタ(リー・ヴィニガ姫の部下)は、見慣れぬ光景にすっかり圧倒されていた。


「ねえ、鷲お兄ちゃん。もういいんじゃない? こっちも土砂で流されちゃうわよ」


 鳩は、冷えた頬をこすって歎願した。鷲は、切れ長の眼をうっすらと開けた。


「なら、凍らせておくか」

「ええー! 寒いよお」

「鳩は、中に入っていろ」


 鷲は少女を顧みることなく、ぶっきらぼうに応えた。鳩は唇を尖らせた。己の考えに集中しているときの鷲には話が通じないと、少女はよく知っている。

 風はゆるみ、空は本来の明るさを取り戻し始めていた。


「この目で見なければ、信じられなかったでしょうが、」


 セム・ゾスタは、傍らに立つマナをみて嘆息した。金色がかった赤毛を掻き、広い胸を揺らす。


天人テングリがおられれば戦をする必要はないだろうと言った、姫(リー・ヴィニガ女将軍)の言葉の意味が解りました」

「いつまでも続けられないぜ」


 鷲は木杖を手に持つと、胡坐を解いて振り向いた。城壁から下りてくる。

 セム・ゾスタは顎鬚を撫で、興味ぶかく灰色のひとみを瞬かせた。


「左様ですか?」

「ああ。ここが嵐なら、周りは晴れている。雨雲を集めれば、他の地域は旱魃かんばつになる。……どこかが寒くなれば、どこかは暑くなるんだ」


 鷲は、マナに《星の子》の長杖を手渡すと、にごった声で説明した。長髪と外套の裾をしぼり、滴る水をみて溜息をつく。マナは、そんな彼を気の毒そうに眺めた。

 セム・ゾスタは思案気に首を傾げた。


「そういうものですか」

「ああ、好き勝手に出来るわけじゃない。俺の体力も、いつまでつか分からないしな。それに、」


 鷲は、鳩の頭を撫でようと手を伸ばしたが、彼女の抱いているクドが不機嫌に唸ったので、宙で手を止めた。己の掌をしげしげと見詰め、考え込む。ながい沈黙を鳩とゾスタが訝しみかけたとき、彼の方から問いかけた。


「リー姫将軍から連絡はあったか?」

「いえ。使者も、まだ向こうへ辿り着いていないのではないかと」

「ぶえっくしょーぃ!」


 顔中を口にした鷲が、威勢の良いくしゃみをする。遠慮気味に応じていたゾスタは、やや憮然とした。トグルや雉なら『失礼』の一言くらいあったろうが、鷲は、子どものように鼻の下を擦った。

 鳩が呆れて半眼になる。


「お兄ちゃん」

「俺も、トゥードゥまでのは無理だからなあ……」


 鷲は洟をすすった。

 キイ帝国とニーナイ国と〈草原の民〉の国境が接するスー砦から、帝国の城塞都市トゥードゥまでは、直線距離で二千キリアを超える(注*)。その半分は砂漠であり、道中には大公軍が控えている。容易な道のりでないことは察せられた。


「俺が行った方が良かったかな」


 鷲は濡れた頭を掻き、ひとりごちた。――東には大公軍が、隙あらばこの砦を陥とそうと待ち構えている。ここを突破されたら、タァハル部族と大公軍は合流し、リー女将軍は追い詰められてしまう。トグリーニ部族の援軍が到着するまで、持ちこたえなければならなかった。

 故に。


「鷲」


 マナにたしなめられ、鷲は肩をすくめた。


「分かってる。そこまでしねぇよ。……しかし、俺には納得出来ないんだが――」


 ぼそぼそと鷲は呟いたものの、片手を振って自分の話を打ち切った。つよく眉根を寄せ、横を向く。

 最近、彼は、こんな風に迷いを吐露することが多い。吐露しても、心の裡は明かさない。――鷹の不安の原因だ。それがしばしば矛盾してみえ、鳩も怪訝に思っていた。


「お兄ちゃん?」


 聖獣クドがするりと少女の腕から抜け出し、身をふるってしずくを落とした。足音をたてることなく、建物のなかへと入って行く。太い尾が悠然と揺れるのを見送り、鷲は苦笑した。


「日が暮れる前に、この辺りの地盤を固めておこう」


 鷲は、いつも通り飄々と言って片膝を立てた。防壁の上によじ登る。ただでさえ長身の男を、マナとゾスタは仰ぎ見た。


「よっと」


 北風が濡れて重くなった長髪を揺らす。すらりと伸びた脚を広げて立ち、彼は東の地平を見据えた。白い雪におおわれた山々を眺める。そうすると、たとえ物思いに沈んでいても、彼はルドガー(暴風神)さながら堂々として見えるのだ。男のゾスタが見蕩れる程。――空と大地の境界をねめつける、かれの外套から蒼白い光が現れ、熱のない炎さながら輪郭を縁取った。

 ゾスタは、空気がずんと冷えるのを感じ、感嘆の声をあげた。


「いや、全く……素晴らしい」


『なんだか、自棄やけになっているみたい』 鳩は唇を尖らせると、クドを追って建物に入っていった。マナが去り際に、労わりをこめて声をかける。


「終わったら、休憩しましょう。お茶を淹れるわ」

「ああ。……マナ、後で話がしたい。訊きたいことがあるんだ、あんたと《星の子ルツ》に」


 マナは足を止めて振り向いたが、鷲は彼女を観ておらず、肩越しに小さく手を振った。

 ゾスタは少し迷ったのち、鷲の背に一礼して踵を返した。ふたりは石造りの砦の中に入りながら、鷲が大きなくしゃみをするのを聞いた。






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(注*)キリア: この世界の長さの単位。1キリア=860メートルくらいです。



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