第三章 天の贖罪(2)
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太陽がすがたを現すより先に、純白の雪峰に光が射した。息も凍るような朝だが、男達は動き始めていた。
予想では、明日にはタァハル部族の本隊と、アラル族長が率いるシルカス氏族の主力部隊が、国境の山岳地帯に到着する。こちらも移動を開始しなければならない。
トグルは、オダとラーダにニーナイ国の女達を任せた。オルクト氏族の重騎兵を三千騎、シェル城の警護に残していく。故郷に帰ったばかりの彼女達の気持ちに配慮したのだ。
『なにがなんでも、国境でタァハル族をくい止めなければならない……』
隼は、馬の世話をする兵士たちの様子をひととおり見てまわった後、トグルの許に戻った。彼は簡易天幕を片付け、
金糸で刺繍を施した帽子のほかは飾りのない黒い
『トグル……』
間近に迫る戦闘のことを考えているのか。消えゆく己の一族の運命に、思いを馳せているのか。声を掛けようとして、隼は気づいた。
トグルは歌っていた。小声だが、ものがなしい節が聞こえた。
『最近、驚かされてばかりいるな……』 隼が呆気にとられていると、トグルが振り向いた。彼女の表情を訝しみ、首を傾げる。
「どうした?」
そして――隼が、さらに唖然としたことに。トグルは、突然、声をあげて笑い出した。
「*****、***」
「え?」
「***。悪い。……何でもない」
トグルは左手で自分の顔をおおい、早口に呟いた。きょとんとしている彼女を見て、さらにくつくつ笑い続ける。優しいその響きに、隼は、にわかに頬が火照った。
「トグル」
「気を悪くするな。俺も
「何だよ、それ」
隼は憮然としたが、トグルはくすくす哂っているだけだった。
「機嫌がいいんだな」
「
「何を歌っていた?」
トグルは笑うのを止め、ちらりと指の隙間から彼女を見た。悪戯っぽい眼差しは柔和だ。
「『
「…………」
「”小さな淡黄色の馬のだく脚には、ぐったり疲れさせられる。小さなあの娘の移り気に、心は悲嘆に暮れている”……”鳴いて来たラクダは、牽綱の先で落ち着かせてやればよい。高鳴る心は、どうして落ち着かせればいいのだろう”……(注②)」
かつて、落ち込んでいる彼女を慰めようとタオが歌ってくれたことを、隼は思い出した。――そうだ。あの時は、トグルも
トグルは訳し終えると、改めて彼女を振り向いた。
「用があったのだろう?」
「あ、ああ」
「タァハル(部族)の命乞いなら、聴かぬぞ」
「…………」
隼は絶句した。トグルが実にさりげなく言ったので、一瞬、聞き間違えたかと思う。しかし、彼は平然と、彼女の視線を受けとめていた。
族長の顔、王の顔……。彼がそこへ立ち戻ったことを察し、隼は、ごくりと唾を飲んだ。
「トグル」
「図星か……。いずれ言い出すだろうと思っていたが」
トグルは苦々しい狼の嘲笑を浮かべ、眼を伏せた。隼は言葉を失った。
既にタイウルト部族を滅ぼし、数万人のタァハル部族を虜囚としている。事実上、草原を統一したトグリーニ部族の勢力は、キイ帝国に匹敵するだろう。ニーナイ国、ナカツイ王国、《星の子》の支持も得られれば、いかにキイ帝国の大公と皇帝の力が強大でも、張り合える。
民族の生き残りをはかるための統一であり、戦争であるならば。追い詰められたタァハル部族と敢えて雌雄を決する必要は、ないのではないか。
トグルは、隼たちが最初からこの戦争に反対だということを、充分知っていた。同じように他民族から疎外され、同じように滅びに瀕した部族が、草原の覇権を賭けて戦うなど、彼女達にはとうてい理解できない。それが大公の策謀によるものだと知れば、尚更だ。
「駄目か?」
「……アラルが死ぬことになる」
おずおずと和解の可能性を問う隼に、トグルは冷静に答えた。決して彼女を責める風ではなかったが、隼はおし黙った。
「テディン
「…………」
「スー砦の東には、オン大公の軍が迫っている。タァハルにしてみれば、国境を突破すれば形勢を逆転できるのだ。地の利は奴等にある。降伏などするはずがない」
「いや、トグル。降伏でなくとも――」
「それこそ、応じられぬ。ハヤブサ」
低くさえぎるトグルの唇に、
「俺の方が、断る。奴等を許すことは出来ない。盟約を破棄し、オン・デリク(大公)と謀ってタイウルト部族を
「…………」
「まして、俺達は、既にタイウルト部族を滅ぼしている」
強い光を帯びたトグルの眸が、一瞬かげった。
「
隼は溜め息を呑んだ。トグルの立場は理解しているつもりだが、今は考えずにいられない。それが己の役割のように感じた。
「降伏させられれば、よいのだろう?」
『新しい、別の方法を――』 呪文さながら胸の中で唱えつつ、彼女は言った。
「鷲がシェル城でしたように、奴等の戦意を喪失させる方法を考えよう。トグル」
しかし、トグルは無表情に彼女を見詰めているだけだった。深い瞳に感情の
その時、隼も気づいた。兵士達の喧騒をこえて届いた、狼の遠吼えに。
一頭の声が、
隼は聴き入り、
隼が見ると、彼は口を閉じ、眉間に皺を刻んでいた。声のした雪山の方を眺めている。こめかみに宿る緊張に、隼は呼吸を止めた。
もう一度、哀しげな声が響く。今度は、さらに近くから聞こえた。
兵士達が動きを止め、辺りは静まり返った。
「アラルだ。予定より早い。何か起きたか……」
トグルは隼に向き直り、静かに告げた。
「トゥグスを呼んできてくれ。出発する」
「
それで、隼は、彼の答えを聴けなかった。
*
「鷹ちゃんに――レイ王女のことだけど。会おうとは思わない?」
駐屯地の片隅で、雉は、ミナスティア国の元神官を説得していた。ラーダ達ニーナイ国の民は、この地に残るのだ。シジンに、今度はトグリーニ部族とともに行こうと誘っていた。
シジンは困惑顔で黙りこんでいる。
『既に死んでいる』とトグルは評したが、雉にも、彼は自暴自棄になっているように思われた。……無理もない。本来の目的を奪われ、片腕を斬りおとされた。虜囚の辱めを受け、さんざん利用された挙句、苦難を共にした友を殺された。とっくに自ら命を絶っていても、おかしくはない。
雉は、彼を鷹に会わせたいと考えた。記憶を取り戻したレイ王女は、シジンに会いたがっていたのだから。彼にも、今の彼女を知って欲しいと。
しかし、シジンの表情は晴れなかった。
「……気が進まぬ」
雉の説明を聴いたのち、彼はふかく嘆息した。
「安否が知れなかった頃は、捜していた。タァハル族に囚われているのなら、救い出さなければと――。だが、そうではなかった。記憶を失ったが、助けられ、今は安全なところで暮らしている」
シジンは、
「ミナスティア国ともキイ帝国とも関係のないところで、幸せに……。今さら、俺と会ってどうする。迷惑なだけだろう」
雉は口を開けて言葉を探したが、見つけられずに口を閉じた。シジンは、一転して険しい眼差しをかれに当てた。
「俺のことより。貴方がたは、何者だ? ニーナイの民ではなかろう。シェル城の壁と塔を壊したのは、貴方の仕業か」
雉は肩をすくめた。そうだった――シジンは、彼が怪我を治すところを観たのだ。鷲の莫迦が湖を凍らせたところも、観たかもしれない。ここにいる者のなかで最も得体の知れないのは、自分たちだ。
雉は、みじかく切った銀髪をかるく掻き、口ごもった。
「おれはケイ、ナカツイ国の出身だ。あいつは隼。もう一人、仲間がいる……。《古老》だとか《
雉はちらりとシジンを見遣ったが、黄金の眉の間に刻まれた皺はまったく解けておらず、彼が納得していないのは明らかだった。
「トグルのところに身を寄せているのは、成り行きでね……。最初は、〈草原の民〉同士の争いを止めたかったんだけど。今は、出来るだけ犠牲の少ない形でこの戦争が終わればいい、と思っている」
シジンは、不審げに首を傾げた。
「トグル・ディオ・バガトルに加担すれば、和平が成るのか? ニーナイ国にとって、タァハル部族がトグリーニ部族に代わるだけではないのか」
『そう考えるのが、普通だよなあ……』 雉は答えに窮した。
現在、トグルは、〈草原の民〉三大部族のうち二つを束ねている。王である彼が『ニーナイの民と戦うつもりはない』と言ってくれたお陰で、ニーナイ国との和平を期待できるようになった。オン大公という共通の敵がいるお陰で、キイ帝国のリー将軍とも停戦できている。トグリーニ部族がタァハル部族に勝てば、ニーナイ国とキイ帝国との境界を保ち、二国と〈草原の民〉が平和に共存できるようになるかもしれない。
『勝てば、だ……』 雉は柔らかな唇を噛んだ。敗ければ、すべてが裏返る。
もし、トグルが死ねば――その先を、雉は想像できなかった。隼の嘆くすがたが脳裡にうかび、慌てて思考を停止させた。心臓がばくばくと音をたて、胸が絞めつけられるように苦しくなる。――駄目だ。とても、そんな未来は受け容れられない。
雉は、自分達がどれほど危うい希望の上に立っているかに気づき、
シジンは眼を
「《古老》と言ったな。貴方がたの、能力は――」
「隼さん、待って下さい!」
朱に染まった空に、馬のいななきが響く。朝日は昇り、融け始めた雪を照らしていた。
出陣の仕度をととのえた騎馬の群れの向こうから、赤毛の少年が駆けて来た。オルクト氏族長と話をしていたトグルは、焦りをふくむ若い声に振り向いたが、すぐ会話に戻った。
シジンは言葉を切り、雉とともにオダを見た。
隼は
「僕も連れて行って下さい」
「女達は、どうした」
隼が答える前に、凛とした声が投げかけられた。トグルが、肩越しに少年に訊ねたのだ。ミナスティア国の元神官を一瞥する、厳格な風貌は変わらない。
いつにもまして厳しい口調に、少年はどぎまぎした。
「奴等を守るのが、お前の仕事ではないのか」
「それはそうですが。《星の子》の意向を伺わなければなりません。僕は、貴方から離れるわけにいかないんですよ……」
「……トゥグス」
トグルの声に溜め息が混じった。オルクト氏族長は苦笑して髭を撫でた。
「仕方がありませんな、
「あ、あの」
オダが感謝の言葉を探している
山々に、出陣をうながす狼の咆哮が響く。オダは小声で礼を述べた。
「有難うございます……」
そんな少年を、オルクト氏族長はふっふと
ラーダを含むニーナイ国の人々が、並んで見送っている。隼は彼等に一礼してから、立ち尽くしているオダと雉に声をかけた。
「どうするんだ。一緒に来るのか?」
「勿論です」
「おれ達は、後ろの方にいるよ。戦闘が始まったら、足手まといになるからね」
雉は、緊張しているオダに微笑みかけた。隼はうなずくと、硬い表情でシジンを見下ろした。
「俺は、タァハル部族を憎んでいるが――」
シジンは、切断された左腕の断端に右手で触れながら、トグルの背中を眺めていた。独り言のように続ける。
「――奴等とともに居たお陰で、奴等がトグリーニ部族を憎む気持ちは解るようになった。奴等には、奴等の理由がある。……俺にも」
シジンは隼に向き直った。鮮やかな藍色の瞳を、隼は見返した。
「
隼は、すうっと眼を細めたが、何も言わなかった。
「シジンさん……」
シジンはオダをちらりと見遣り、雉を顧みた。雉は、仕方がないと言う風に肩をすくめた。
隼は
黄金に煌めく朝日をめざして、軍団は出発した。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(注①)外伝『狼の唄の伝説』を参照: トグルが言ったのは、かつて新婚のアラル将軍が妻と「らぶらぶ」だったことです。
(注②)『
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