第三章 天の贖罪(2)


          2


 太陽がすがたを現すより先に、純白の雪峰に光が射した。息も凍るような朝だが、男達は動き始めていた。

 予想では、明日にはタァハル部族の本隊と、アラル族長が率いるシルカス氏族の主力部隊が、国境の山岳地帯に到着する。こちらも移動を開始しなければならない。

 トグルは、オダとラーダにニーナイ国の女達を任せた。オルクト氏族の重騎兵を三千騎、シェル城の警護に残していく。故郷に帰ったばかりの彼女達の気持ちに配慮したのだ。

『なにがなんでも、国境でタァハル族をくい止めなければならない……』

 隼は、馬の世話をする兵士たちの様子をひととおり見てまわった後、トグルの許に戻った。彼は簡易天幕を片付け、愛馬ジュベって待っていた。葦毛ボルテの手綱をって近づいた彼女は、すぐには声をかけるのを躊躇した。


 金糸で刺繍を施した帽子のほかは飾りのない黒い長衣デールと外套をまとい、頑丈な革の長靴グトゥルを履いた姿は、典型的な遊牧民の兵士だ。ただ長い辮髪はなく、漆黒の髪を短く切りそろえている。独特な新緑色の瞳を東の空へ向け、朝日が昇るのを待っている。精悍な横顔に表情はなく、何を考えているのか隼には解らなかった。

 黒馬ジュベがぶるると鼻を鳴らし、白い息を吐く。鮮紅色の朝焼けの空を背に彫像のように佇む影は、荘厳なものを感じさせた。触れてはならない緊迫した雰囲気に、隼は息を殺した。

『トグル……』

 間近に迫る戦闘のことを考えているのか。消えゆく己の一族の運命に、思いを馳せているのか。声を掛けようとして、隼は気づいた。

 トグルは歌っていた。小声だが、ものがなしい節が聞こえた。

『最近、驚かされてばかりいるな……』 隼が呆気にとられていると、トグルが振り向いた。彼女の表情を訝しみ、首を傾げる。


「どうした?」


 そして――隼が、さらに唖然としたことに。トグルは、突然、声をあげて笑い出した。


「*****、***」

「え?」

「***。悪い。……何でもない」


 トグルは左手で自分の顔をおおい、早口に呟いた。きょとんとしている彼女を見て、さらにくつくつ笑い続ける。優しいその響きに、隼は、にわかに頬が火照った。


「トグル」

「気を悪くするな。俺も他人ひとのことは言えぬと、思っただけだ(注①)」

「何だよ、それ」


 隼は憮然としたが、トグルはくすくす哂っているだけだった。緑柱石ベリルの瞳に朝日が反射する。


「機嫌がいいんだな」

ああラー

「何を歌っていた?」


 トグルは笑うのを止め、ちらりと指の隙間から彼女を見た。悪戯っぽい眼差しは柔和だ。


「『小さな浅黄色の馬ジャーハン・シャルガ』」

「…………」

「”小さな淡黄色の馬のだく脚には、ぐったり疲れさせられる。小さなあの娘の移り気に、心は悲嘆に暮れている”……”鳴いて来たラクダは、牽綱の先で落ち着かせてやればよい。高鳴る心は、どうして落ち着かせればいいのだろう”……(注②)」


 かつて、落ち込んでいる彼女を慰めようとタオが歌ってくれたことを、隼は思い出した。――そうだ。あの時は、トグルも馬頭琴モリン・フールを奏でてくれた。歌詞を小声で訳すトグルの横顔に、隼は懐かしさを覚えた。低い声は単調で、彼は普段の無表情に戻ってしまっていたが。

 トグルは訳し終えると、改めて彼女を振り向いた。


「用があったのだろう?」

「あ、ああ」

「タァハル(部族)の命乞いなら、聴かぬぞ」

「…………」


 隼は絶句した。トグルが実にさりげなく言ったので、一瞬、聞き間違えたかと思う。しかし、彼は平然と、彼女の視線を受けとめていた。

 族長の顔、王の顔……。彼がそこへ立ち戻ったことを察し、隼は、ごくりと唾を飲んだ。


「トグル」

「図星か……。いずれ言い出すだろうと思っていたが」


 トグルは苦々しい狼の嘲笑を浮かべ、眼を伏せた。隼は言葉を失った。


 既にタイウルト部族を滅ぼし、数万人のタァハル部族を虜囚としている。事実上、草原を統一したトグリーニ部族の勢力は、キイ帝国に匹敵するだろう。ニーナイ国、ナカツイ王国、《星の子》の支持も得られれば、いかにキイ帝国の大公と皇帝の力が強大でも、張り合える。

 民族の生き残りをはかるための統一であり、戦争であるならば。追い詰められたタァハル部族と敢えて雌雄を決する必要は、ないのではないか。


 トグルは、隼たちが最初からこの戦争に反対だということを、充分知っていた。同じように他民族から疎外され、同じように滅びに瀕した部族が、草原の覇権を賭けて戦うなど、彼女達にはとうてい理解できない。それが大公の策謀によるものだと知れば、尚更だ。


「駄目か?」

「……アラルが死ぬことになる」


 おずおずと和解の可能性を問う隼に、トグルは冷静に答えた。決して彼女を責める風ではなかったが、隼はおし黙った。


「テディン将軍ミンガンも、俺の兵士達も……。何日もタァハルを追ってきて、連中は疲労している。ここで俺達が戦うことを躊躇すれば、タァハル軍は間違いなく、退路を求めて後方のアラル達を攻撃する。ニーナイ国にも被害が出るだろう」

「…………」

「スー砦の東には、オン大公の軍が迫っている。タァハルにしてみれば、国境を突破すれば形勢を逆転できるのだ。地の利は奴等にある。降伏などするはずがない」

「いや、トグル。降伏でなくとも――」

「それこそ、応じられぬ。ハヤブサ」


 低くさえぎるトグルの唇に、くらい嗤いが過ぎった。底光りのする瞳で彼女を見据え、囁いた。


「俺の方が、断る。奴等を許すことは出来ない。盟約を破棄し、オン・デリク(大公)と謀ってタイウルト部族をそそのかした。ニーナイ国を脅かし、あまつさえ、敵ではないミナスティア国の王女を陵辱した。――奴等タァハルは草原の掟に背いたのだ。並び立つことなど出来ない」

「…………」

「まして、俺達は、既にタイウルト部族を滅ぼしている」


 強い光を帯びたトグルの眸が、一瞬かげった。


の部族を滅ぼし、タァハル部族を許したとあっては。生き残ったタイウルト部族の者は、おさまらぬだろうよ……」


 隼は溜め息を呑んだ。トグルの立場は理解しているつもりだが、今は考えずにいられない。それが己の役割のように感じた。


「降伏させられれば、よいのだろう?」


『新しい、別の方法を――』 呪文さながら胸の中で唱えつつ、彼女は言った。


「鷲がシェル城でしたように、奴等の戦意を喪失させる方法を考えよう。トグル」


 しかし、トグルは無表情に彼女を見詰めているだけだった。深い瞳に感情のいろは窺えない。その闇の中で考えたのち、価値観の違う相手に苛立つというよりは、むしろ哀しんでいるような――憐れむような眼差しで、何事かを言おうとした。

 その時、隼も気づいた。兵士達の喧騒をこえて届いた、狼の遠吼えに。

 一頭の声が、あけの空を流れるように、高く、遠く……。


 隼は聴き入り、葦毛ボルテがぶるっと身震いした。トグルの黒馬ジュベも鼻を鳴らし、二、三度、足踏みをした。歴戦の猛馬には珍しいことだったが、トグルは放っておいた。

 隼が見ると、彼は口を閉じ、眉間に皺を刻んでいた。声のした雪山の方を眺めている。こめかみに宿る緊張に、隼は呼吸を止めた。

 もう一度、哀しげな声が響く。今度は、さらに近くから聞こえた。

 兵士達が動きを止め、辺りは静まり返った。


 神矢ジュベがぴんと耳を立てている。トグルは低く呟いた。


「アラルだ。予定より早い。何か起きたか……」


 トグルは隼に向き直り、静かに告げた。


「トゥグスを呼んできてくれ。出発する」

分かったラー


 それで、隼は、彼の答えを聴けなかった。

 葦毛ボルテの首をめぐらせる彼女を、トグルは黙って見送った。すらりとした背中を眺める。いっとき己の考えに沈みかけたが、面をあげ、黒馬の手綱を引いた。



               *



「鷹ちゃんに――レイ王女のことだけど。会おうとは思わない?」


 駐屯地の片隅で、雉は、ミナスティア国の元神官を説得していた。ラーダ達ニーナイ国の民は、この地に残るのだ。シジンに、今度はトグリーニ部族とともに行こうと誘っていた。

 シジンは困惑顔で黙りこんでいる。

 『既に死んでいる』とトグルは評したが、雉にも、彼は自暴自棄になっているように思われた。……無理もない。本来の目的を奪われ、片腕を斬りおとされた。虜囚の辱めを受け、さんざん利用された挙句、苦難を共にした友を殺された。とっくに自ら命を絶っていても、おかしくはない。

 雉は、彼を鷹に会わせたいと考えた。記憶を取り戻したレイ王女は、シジンに会いたがっていたのだから。彼にも、今の彼女を知って欲しいと。

 しかし、シジンの表情は晴れなかった。


「……気が進まぬ」


 雉の説明を聴いたのち、彼はふかく嘆息した。


「安否が知れなかった頃は、捜していた。タァハル族に囚われているのなら、救い出さなければと――。だが、そうではなかった。記憶を失ったが、助けられ、今は安全なところで暮らしている」


 シジンは、悄然しょうぜんと項垂れた。


「ミナスティア国ともキイ帝国とも関係のないところで、幸せに……。今さら、俺と会ってどうする。迷惑なだけだろう」


 雉は口を開けて言葉を探したが、見つけられずに口を閉じた。シジンは、一転して険しい眼差しをかれに当てた。


「俺のことより。貴方がたは、何者だ? ニーナイの民ではなかろう。シェル城の壁と塔を壊したのは、貴方の仕業か」


 雉は肩をすくめた。そうだった――シジンは、彼が怪我を治すところを観たのだ。鷲の莫迦が湖を凍らせたところも、観たかもしれない。ここにいる者のなかで最も得体の知れないのは、自分たちだ。

 雉は、みじかく切った銀髪をかるく掻き、口ごもった。


「おれはケイ、ナカツイ国の出身だ。あいつは隼。もう一人、仲間がいる……。《古老》だとか《天人テングリ》だとか言われているけれど、根無し草だよ、おれ達は」


 雉はちらりとシジンを見遣ったが、黄金の眉の間に刻まれた皺はまったく解けておらず、彼が納得していないのは明らかだった。


「トグルのところに身を寄せているのは、成り行きでね……。最初は、〈草原の民〉同士の争いを止めたかったんだけど。今は、出来るだけ犠牲の少ない形でこの戦争が終わればいい、と思っている」


 シジンは、不審げに首を傾げた。


「トグル・ディオ・バガトルに加担すれば、和平が成るのか? ニーナイ国にとって、タァハル部族がトグリーニ部族に代わるだけではないのか」


『そう考えるのが、普通だよなあ……』 雉は答えに窮した。


 現在、トグルは、〈草原の民〉三大部族のうち二つを束ねている。王である彼が『ニーナイの民と戦うつもりはない』と言ってくれたお陰で、ニーナイ国との和平を期待できるようになった。オン大公という共通の敵がいるお陰で、キイ帝国のリー将軍とも停戦できている。トグリーニ部族がタァハル部族に勝てば、ニーナイ国とキイ帝国との境界を保ち、二国と〈草原の民〉が平和に共存できるようになるかもしれない。

『勝てば、だ……』 雉は柔らかな唇を噛んだ。敗ければ、すべてが裏返る。


 もし、トグルが死ねば――その先を、雉は想像できなかった。隼の嘆くすがたが脳裡にうかび、慌てて思考を停止させた。心臓がばくばくと音をたて、胸が絞めつけられるように苦しくなる。――駄目だ。とても、そんな未来は受け容れられない。

 雉は、自分達がどれほど危うい希望の上に立っているかに気づき、暗澹あんたんたる心地になった。


 シジンは眼をすがめ、異相の男を見詰めていた。威嚇するかのように、低い声をしぼりだす。

「《古老》と言ったな。貴方がたの、能力は――」


「隼さん、待って下さい!」


 朱に染まった空に、馬のいななきが響く。朝日は昇り、融け始めた雪を照らしていた。

 出陣の仕度をととのえた騎馬の群れの向こうから、赤毛の少年が駆けて来た。オルクト氏族長と話をしていたトグルは、焦りをふくむ若い声に振り向いたが、すぐ会話に戻った。

 シジンは言葉を切り、雉とともにオダを見た。

 隼は葦毛ボルテったまま少年を迎えた。


「僕も連れて行って下さい」

「女達は、どうした」


 隼が答える前に、凛とした声が投げかけられた。トグルが、肩越しに少年に訊ねたのだ。ミナスティア国の元神官を一瞥する、厳格な風貌は変わらない。

 いつにもまして厳しい口調に、少年はどぎまぎした。


「奴等を守るのが、お前の仕事ではないのか」

「それはそうですが。《星の子》の意向を伺わなければなりません。僕は、貴方から離れるわけにいかないんですよ……」

「……トゥグス」


 トグルの声に溜め息が混じった。オルクト氏族長は苦笑して髭を撫でた。


「仕方がありませんな、テュメン

「あ、あの」


 オダが感謝の言葉を探しているに、トグルは馬首をめぐらせた。勝手にしろと言わんばかりだ。

 山々に、出陣をうながす狼の咆哮が響く。オダは小声で礼を述べた。


「有難うございます……」


 そんな少年を、オルクト氏族長はふっふとわらって見下ろすと、励ますように肩にぽんと手を置いた。隼に会釈をして、王に従う。騎馬軍は、東へ向かって移動を開始した。

 ラーダを含むニーナイ国の人々が、並んで見送っている。隼は彼等に一礼してから、立ち尽くしているオダと雉に声をかけた。


「どうするんだ。一緒に来るのか?」

「勿論です」

「おれ達は、後ろの方にいるよ。戦闘が始まったら、足手まといになるからね」


 雉は、緊張しているオダに微笑みかけた。隼はうなずくと、硬い表情でシジンを見下ろした。


「俺は、タァハル部族を憎んでいるが――」


 シジンは、切断された左腕の断端に右手で触れながら、トグルの背中を眺めていた。独り言のように続ける。


「――奴等とともに居たお陰で、奴等がトグリーニ部族を憎む気持ちは解るようになった。奴等には、奴等の理由がある。……俺にも」


 シジンは隼に向き直った。鮮やかな藍色の瞳を、隼は見返した。


あの男トグルを殺すか、この戦いを見とどける義務が、俺にはある。そうしなければ、終らない」


 隼は、すうっと眼を細めたが、何も言わなかった。


「シジンさん……」


 シジンはオダをちらりと見遣り、雉を顧みた。雉は、仕方がないと言う風に肩をすくめた。

 隼は葦毛ボルテに声をかけ、トグルを追って歩き始めた。雉はオダを促して、着替えと食糧の袋を肩に負った。シジンも軽い荷を背負う。

 黄金に煌めく朝日をめざして、軍団は出発した。





―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(注①)外伝『狼の唄の伝説』を参照: トグルが言ったのは、かつて新婚のアラル将軍が妻と「らぶらぶ」だったことです。

(注②)『小さな浅黄色の馬ジャーハン・シャルガ』: モンゴル民謡


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