第三章 天の贖罪

第三章 天の贖罪(1)


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 マナは、たかと赤ん坊のいるユルテ(移動式住居)の前で外套チャパンを脱ぎ、新鮮な井戸水で顔と手を洗った。身なりを整えてから入っていく彼女を、氏族長と長老達は遠巻きに見守っていた。はとはクド(雪豹に似た獣)を抱いて外で待ち、わしとタオがユルテに入る。

 椅子に座っていた鷹は、マナを見ると驚いて腰を浮かせた。


「マナさん!」

「ああ、坐っていて、鷹。お久しぶり」


 鷹は涙ぐんで両腕をひろげ、女達は抱き合った。母のようないたわりをこめて鷹の背をさするマナを、鷲はやや照れくさそうに眺めていた。


「おめでとう、鷹。よく頑張ったわね……」

「お見通しなんだな」


 鷹は涙をぬぐって頷き、鷲の言葉が、マナが自分を『たか』と呼んだことを示していると気づいた。おもてを上げる彼女に、マナは謎めいた微笑をみせた。


「直近の事柄なら、ルツの予知にあったので、だいたい知っているわ。迎えに来たのよ、鷹。貴女あなたと鷲と、その子をね」

「え?」


 鷹は瞬きをくり返し、鷲と、入り口で控えているタオを見遣った。マナは満面の笑みを浮かべ、籠からとびを抱き上げる。鷲は首を傾げた。


「鷹も連れて行くのか? スー砦へ」

「勿論よ。あなた達、離れたくはないでしょう? ……まあ、本当に可愛らしい! 早いかと思ったけれど、そんなことなかったわね。しっかりしていること。もう名前はつけた?」


 鷲は、苦笑しつつ答えた。


「鳶だ」

ちゃん。貴方たちの子どもらしい名前ね。それが真名?」

「区別はしていない。ヒルディアとは関係がないからな(注*)」


 マナは頬ずりせんばかりに赤ん坊の顔をのぞきこむと、彼女と鷹の健康状態について質問を始めた。曰く、初乳しょにゅうを飲んだか、哺乳力は充分か。体重は増えているか。便の色は、黄疸(新生児黄疸)は酷くなかったか。授乳は一日何回か、夜はまとまって眠れるようになってきたか。乳房の張りは大丈夫か、熱をもってはいないか……。

 問われる間、鷹はちらちらと鷲の顔色をうかがっていた(実際、鷲が答えた質問も多かった)。鷲は、彼女の視線に気づくとひょいと片方の眉を持ち上げたが、平静な態度は崩さなかった。

 マナはひとしきり訊ねて得心すると、満足げに頷いた。


「赤ちゃんも鷹も、順調そうで良かったわ。これなら、移動しても大丈夫ね」

「本当に連れて行く気か? 大公軍が近づいているんだろ。危険じゃないのか?」

「あら。それを防ぐために、貴方が行くのじゃない」


 ふふと悪戯っぽくわらわれて、鷲は渋面になった。鷹はとびを胸に抱きながら、二人の顔を見比べた。


「スー砦って、キイ帝国の国境ですよね。リー将軍がいた……」


 マナは、不安がる彼女を安心させるように、やわらかく微笑んだ。


「リー女将軍は、ハン将軍と一緒にルーズトリア(キイ帝国の首都)北のトゥードゥ(城塞都市)にいて、無事よ。スー砦の彼女の軍が、孤立してしまっているの。大公は兵を動かして、国境の外にいるタァハル部族の軍を呼びこもうとしている。ルツはそれを防ぐために、砦に入ったわ」

「ルツさんが……。どうして?」

「国境を守るのが、《星の子》のつとめだからよ。特に、〈草原の民〉と他国との境界はね。鷲の能力ちからが必要なのよ」


 タァハル部族と聞いて、鷹は心持ち蒼ざめた。シジン=ティーマの消息を想い、ふたたび鷲を見遣ったが、荒削りな風貌から内心をうかがい知ることは出来ない。

 鷲は胸の前で腕を組み、重心をゆらりと右脚へ移した。


「事情は分かったよ。人殺しを防ぐためなら、能力ちからを使うのは構わない。すぐ行くのか?」

「いいえ。私もすぐにはないわ……。大公軍が到着するまで、まだ数日の猶予がある。それに合わせて行きましょう」


 マナはとびを抱く鷹をあらためて抱きしめ、身を離した。ユルテを出ていく彼女の後を、タオが追いかける。鷲は、鷹の腕から赤ん坊を預かると、もとの籠におさめた。

 鳶は、泣くこともぐずることもなく、みどりひとみをみひらいて彼を見詰めている。


「鷲さん……」


 鷹はささやいた。きっと、すがるような顔をしていただろう。考え深げに我が子を見下ろしていた鷲は、穏やかに応えた。


「ルツもいるんだ、大丈夫。お前達のことは、俺が守るから。必ず、シジンにも逢わせてやる」


『どうして、そんな顔をしているの』――鷹は、胸を突かれる思いがした。『鷲さん。だいじょうぶと言うなら、どうして、そんなに悲しそうなの』

 鷲は己の感情の扱いに辟易したように肩をすくめ、彼女から視線をそらした。ぎりりと奥歯を噛み鳴らす。苦みを帯びた低い声が、ユルテの床に落ちた。


「お前は何も悪くない。心配しなくていい。……俺は、自分てめえで自分の身勝手さに、うんざりしているだけだ」

「…………」

 鷹は項垂れた。


 鷲に再会してすぐシジンに逢いたいと言ってしまったことを、鷹はふかく後悔していた。

 レイであった期間、彼女は雉と隼と一緒にいた。草原に来てからは、鷲もずっと側にいてくれた。だから、今の彼女タカに記憶の中断はなく、淋しい思いをした覚えもない。

 しかし、鷲にとっては。

 鷹が消え、レイが表れた。半年以上もの間、彼は独りで耐えていたのだ――鷹と同じ姿、声をしたレイ王女が、己を拒絶しつづけるのを。過去を想い、幼馴染を慕うのを。それがどれほどの苦痛だったか、何故、一瞬たりとも思い遣れなかったのだろう。


『身勝手なのは、わたしの方だわ……』

 失った記憶かこではなく、未来を、彼と生きようと決めていたのではなかったのか。亡くしたひと(鳶)を想い続けるのではなく、新しく来たる者を迎えるために、彼が懸けてくれた想いと努力を、知っていたはずなのに。

 今も、赤ん坊みらいはここにいるのに。


あんたレイには、あいつと別人で居て欲しい。でないと、俺は、傍に居られない』 鷲の言葉が、よみがえる。彼のつよさと聡明さに甘え、繊細さを無視していた。鷹であろうとレイであろうと彼が懸けてくれる想いを、当然のものだと思っていた。

 レイであった自分がどれほど彼を傷つけたかと考えると、今更のように、ぞっとした。


 鷹が黙っていると、鷲は小さく溜息をつき、ユルテを出て行ってしまった。故に、彼女の呟きは、彼の耳には届かなかった。


「ごめんなさい……」


 そして、突如湧き起こった煩悶に、鷹は胸を裂かれるような痛みを味わった。

 どうしてこうなのだろう、自分は。――何と言えば良かったのか、後になって気づく。

 シジンに逢いたい。会わなければ、と思う。

 その時に、それから先も、ずっと側にいて欲しいのは、あなたなのだと……。





―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(注*)ヒルディア国では、本名は魂に結びつくと考えられるため、普段は渾名を使う。鷲と隼と鳩はヒルディア出身のため、それぞれ本名が別にある。鳥の名は鷲がつけた渾名。

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