第二章 王と神官(6)


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「タオお姉ちゃん! トグルから使者が来たって本当?」


 天幕に駆け込んだはとは、一斉にふり向いた男達の視線を浴び、息を呑んで立ちつくした。斜幕を引きよせ、身をかくす。少女の邪気のない仕草に、いならぶ氏族長達の幾人かが笑った。

 鳩がざっと見渡したところ、天幕には男しかいなかった。黒かそれに近い暗色の戦闘服姿の氏族長達が、オーラト氏族の使者を囲んでいる。その奥に、長身のわしと、白髭の長老達がいた。男達の汗と家畜のにおい――羊毛の長衣デールと外套や革靴グトゥルに染みついた干し草の匂いに、少女は噎せるように感じた。


「タァハル部族の本隊は、明日の夜にはエルゾ山脈の南へ着くと思われます。我がオーラト氏族は王命を受け、虜囚を連れてこちらへ向かっています。テュメン奴等タァハルを倒した後、氏族長会議クリルタイを開きたいと仰せです」

「異存はない」


 代表して、オロス氏族長が答える。年配の族長は白いものの混ざる顎鬚をなで、眉を寄せた。


「タァハル部族を雌伏せしめれば、作戦はほぼ終了する。キイ帝国への対策と我等の今後について、《星の子》の意向を伺うまたとない機会だ……。気懸かりなのはテュメンの方だ。四氏族だけで、大丈夫なのか?」

「軍団の規模としては、互角といったところだろう」


 〈森林の民〉ロコンタの氏族長が、思案げに頷いた。『みんな、同じようなおヒゲを生やしてる……』と、鳩は思った。


「人材的には、シルカス・アラル・バガトル安達アンダをはじめ、スブタイ、テディン将軍ミンガンもそろっている。これを、オルクト安達アンダと王が指揮なさるのだ。不安はあるまい」

「タァハル部族にとっては、『窮鼠きゅうそ猫を噛む』のたとえもある……。王の容態は、あまりよろしくはないのだろう?」


 誰かが苦々しく呟いた言葉を、他の誰かがシッと言ってたしなめる。鷲は、腰にあてていた腕を胸のまえで組み、重心を左脚に傾けた。珍しいくらい神妙な顔をしている。

 鳩は、互いを牽制する男達の間に、緊張した面持ちで佇んでいるタオを見つけた。

 紅一点のタオは発言を許されてはいないのか、唇を噛み、やや蒼ざめた頬で項垂れていた。鳩に気づいてはいるのだろうが、かまう余裕はなさそうだ。


「今から援軍をさし向けていたのでは、間に合わない」


 若い氏族長の一人が、同胞を見渡した。厳格な言葉とともに、口髭が揺れる。


本営オルドウを空にすることを、テュメンは望まれないだろう。指示通り、我々だけで赴くべきだ。ハル・クアラ殿が参加できないのは残念だが、致し方あるまい」

「長老会に異存はないか?」


 氏族長達は、肯き合って賛意を示した。オロス氏族長が問い、長老達は互いの顔を見合わせた。

 最高長老トクシンが、丁寧に一礼する。


「ございません」

「ならば、本営オルドウの移動と到着するタァハル部族の虜囚の扱いは、長老会にゆだねる。王の許へはこぶ食糧と家畜ボドゥの数を決めて欲しい。シャラ・ウグル殿が通る経路を避け、直接シェル城をめざそう。如何か――」



「ハト殿」


 タオは鷲とめくばせをした後、男達の間から出て、鳩を手招きした。少女の細い肩を抱えるようにして、天幕を後にする。

 このところ本営オルドウを襲っていた吹雪はようやく過ぎ、草原の空は晴れていた。大地は未だ凍り、風は冷たいが、蒼天には春のきざしが感じられる。囲いオウルジョフから出された羊と馬たちが、そこかしこで群れていた。

 タオのユルテ(移動式住居)へむかって歩きながら、鳩は彼女の顔を仰いだ。


「どうしたの? タオお姉ちゃん。トグルに何かあった?」

「ああ、いや」


 末子なため『姉』などと呼ばれ慣れていないタオは、多少の気恥ずかしさを感じながら頷いた。


「ハト殿こそ。慌てて、どうなされたのだ」

「使者が来たって言うから。トグルやオダがどうしているか、聴けるかと思って」

「ハト殿は、耳が早い」


 タオはふふと微笑んだ。常に明るさを失わない少女は、こちらの心を照らしてくれるようだ。黒曜石さながら瞳を輝かせ、鳩は唇を尖らせた。


「だって。ひどいわよ、みんな。あたし達を置いて行っちゃうんだもん。鷲お兄ちゃんが帰ってきたら、今度はきじお兄ちゃんまで」

「ま、まあ。急いでおられたのだ」

「ぶう!」


 少女は頬を膨らませ、タオは吹き出したくなるのを堪えなければならなかった。


「ねえ。あたし達、いつまでここに居るの? トグル達は、ニーナイ国へ入ったんでしょ。追いかけて行っちゃいけないの?」

本営オルドウを離れるわけにはゆかぬのだ。兄上の留守中は、ここを守るのが我等のつとめ。今は状況が穏やかではない」


 タオは優しく首を傾けた。


「ハト殿だけでも、シェル城へ向かわれるか?」

「ううん」


 少女は明瞭にかぶりを振った。革靴の先で凍った雪を蹴る。


「あたししか行けないのなら、ここに居る。タオお姉ちゃんが一緒に行けるようになるまで、待ってる」

「私に遠慮なさることは、ないのだぞ」

「でも、タオお姉ちゃんだって、トグルが心配でしょ」


 タオはフッと息をぬいて微笑んだ。なんとも可愛らしい。おそらく鳩は、彼女とたかと産まれたばかりの赤ん坊の身をあずかるタオの立場を思い遣っているのだろう。


「ああ、もうっ。はやぶさお姉ちゃんも、オダも。どうして、みんな、すっ飛んでいっちゃうのよ。鷲お兄ちゃんは、何だか変だし」

「ワシ殿が、どうかなされたのか?」


 タオは、こみ上げる笑いを噛み殺して訊いた。


「タカ殿の記憶が戻り、無事に御子も産まれて、これ以上はないと思われるが?」

「そう思うでしょ。でもね……なんか変なのよ」


 鳩は、ふたつにわけて編んだ黒髪をぶんっと振った。


「鷹お姉ちゃんが戻って、赤ちゃんにはって名前で、いいじゃない。あたしは大歓迎よ。なのに、お兄ちゃんが変なの。笑ってくれない、喋ってくれないの。それで、鷹お姉ちゃんも黙っちゃう」

「ワシ殿が?」


 少女の口調がやや深刻だったので、タオは頬をひきしめた。彼女には思い当たらないが、鳩には感ずるところがあるのだろうか。


「私にはそうは観えぬが……。疲れておられるだけではないか? ハト殿。心配なさらずとも、ワシ殿は賢者だ。無理はなされまい」


 本営にもどった鷲は、さっそく父親ぶりを発揮した。産褥期の鷹をいたわり、赤ん坊の沐浴やオムツ交換、洗濯、寝かしつけなど、母乳を与える以外のことはほぼ全てやっている。幼い頃のいもうと(鳩)の世話で経験しているとはいえ、そのさまは『甲斐甲斐かいがいしい』の一言に尽きた。お陰で、ミトラやタオが手伝うことはなくなっている。

 昼夜の別のない新生児の世話に、慣れない夫婦が疲れるのは当然だろう。


「そう、かなあ……」

 鳩は、桃色の花びらのごとき唇に右手の人差し指をあて、考えこんだ。不審げに首をひねる。


「おい、鳩。タオ」


 低い声に呼ばれて、二人は足を止めた。折しも、会議を終えた氏族長たちが天幕から出てくるところだった。鷲が、まとめていない銀の長髪をゆらしてやって来る。


「なんの用事だったんだ? 鳩」

「使者が到着したので、いつシェル城へ行けるのかと、確認に来られたのだ」

「ああ」


 タオは、拗ねている鳩に代わって答えた。鷲は頷き、口をおおって欠伸した。


「……鷹が弱っているから、いま行くのは無理だな。それに、本営オルドウの引っ越しがあるんだろ? タオ」

「おひっこし?」


 鳩が大きな目を瞬かせ、タオは頷いた。


「本営をもう少し北東へ動かし、アルタイ山脈へ近づけろと、兄上の指示だ。そのうえで、軍を天山山脈の北側で待機させよと」


 鷲は、大きな鼻の下を手の甲でこすり、肩をすくめて南の山脈を見遣った。


「キイ帝国では、リー女将軍とオン大公が争っている。大公軍が長城チャンチェンを超えて北上してくることを、トグルは警戒しているんだ。トグルが戦っているタァハル部族は、オン大公と手を結んでいるからなァ」

「そうなんだ」


 鷲は、思案気につぶやく鳩の頭に片手をのせ、くしゃりと撫でた。


「俺たちは、タオの手伝いをしよう、鳩」

「うん。まかせて、タオお姉ちゃん」

「よろしく頼む、ハト殿」


 タオは、健気にうなずく少女に微笑み返すと、鷲に視線を戻した。彼女にも、彼がしずんでいるように観えたのだ。赤ん坊の世話で眠れていないのではと案じ、声をかけようとした時、


「お兄ちゃん。あれ――」


 鳩がするどく息を呑み、鷲の外套チャパンの袖をひっぱった。もう一方の手で、草原の一角を指さす。雪に日差しが反射して、一部凍った土がむき出しになったところを。地平線と空が接する狭間で、くにゃりと光が歪んでいた。

 鳩は眼をこすり、タオは瞬きをくり返した。鷲は真顔になり、腰の剣の柄に手を添えた。


 刷毛ではいた筋のような歪みは、ゆたりとたゆたいながら拡がり、見る間に黒い染みとなった。焦げ茶色の毛長牛ヤクの毛皮の外套をまとった人物が、雪の面にひざまづく。後ろ頭で結わえた長い黒髪が、ばさりと肩にかかった。その足下で、白い毛皮に灰色と藍の斑を散らした聖獣クド(雪豹に似た大型の獣)が、音もなくうずくまり、太い尾を振った。


「何者!」

「マナさん?」


 護衛の兵士の誰何すいかと、鳩の歓声が重なった。女は木杖を突いて立ち上がり、外套の頭巾をとると、少女をみて微笑んだ。

「……よかった。野宿しないで済みそうね」

「マナさん! わあ、お久しぶり」


 鳩は恐れる風もなく駆け寄ると、マナの足元にいるクドの首に抱きついた。聖獣は少女に身をすりよせ、ごろごろと喉を鳴らす。マナは眼を細めて哂い、タオと鷲に会釈をした。


天人テングリのご友人か?」

「タオは会ったことがなかったか。〈黒の山〉の……《星の子》の娘だ」


 散開しはじめていた氏族長たちが、侵入者を警戒してざわめいている。鷲は、背後の彼等にも聞こえるように説明した。

 タオは息を呑み、慌ててひざまずいた。長老達が駆けて来る。


「マナ様。〈黒の山カラ・ケルカン〉の巫女が、何故こちらに?」

「お久しぶりです、最高長老トクシン。お元気そうで、何より」


 マナは悠然と微笑むと、クドとじゃれている鳩をその場に残し、彼等に歩み寄った。タオとさらに数人の長老達が、跪いた状態で身をこわばらせる。マナは彼女達に身振りで立つよう促し、鷲に微笑を向けた。

 鷲は、口髭におおわれた唇を歪めた。


「あんたひとりか? 珍しいな」

草原イリは遠くて、独りで『跳ぶ』のが精いっぱいよ。三日かかったわ。……国境を守る《星の子》の使者として、トグルート部族(トグリーニ部族の別称)に警告を伝えに参りました」


 マナは、最高長老とタオに穏やかに告げた。二人の表情が、さっと引き締まる。


「キイ帝国のオン・デリク大公と帝の親征軍は、カザ(キイ帝国の地方都市、リー将軍家の本貫地)を制圧し、スー砦へ向かっています。これに呼応して、タァハル部族が西から国境へと移動を開始しました」


 タオはトクシンと顔を見合わせ、氏族長たちはどよめいた。


「カザが……。スー砦は――」

「タァハル軍は、リタ(ニーナイ国の首都)を目指していたのではないのですが?」


 タオの問いに、マナは冷静に答えた。


「そう見せかけた陽動です。彼等はエルゾ山脈の南で方向をかえ、東へ向かっています。トグル・ディオ・バガトルは予想していたのでしょう。彼の率いる軍勢も、シェル城から東へ進路を変えました」


 オーラト氏族の使者を含む氏族長たちが、鋭い眼差しを交わして頷き合った。

 マナはほっと息を継ぎ、真顔で佇んでいる鷲に視線を戻した。


「《星の子ルツ》はスー砦に入ったわ。貴方を迎えに来たのよ、鷲。国境を守るために、《古老》の能力ちからが必要だわ」


 鷲は眉間に皺を刻んだ。唸るように問う。


「スー砦にいるのは?」

「セム・ゾスタ――セム・ギタの兄と、歩兵三千。大公軍は五万。西からタァハル軍が、三十万とも四十万ともいわれる騎馬軍で迫っている。このままでは、トグルの軍が到着する前に、国境が破られてしまう」


 タオはごくりと唾を飲み、鷲を振り仰いだ。長老達と氏族長達も、白い天人に注目した。

 押し黙る鷲に、マナはにっこりと微笑んだ。


「――でも。その前に、赤ちゃんに会わせてね」





~第三章へ~

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