第二章 王と神官(6)
6
「タオお姉ちゃん! トグルから使者が来たって本当?」
天幕に駆け込んだ
鳩がざっと見渡したところ、天幕には男しかいなかった。黒かそれに近い暗色の戦闘服姿の氏族長達が、オーラト氏族の使者を囲んでいる。その奥に、長身の
「タァハル部族の本隊は、明日の夜にはエルゾ山脈の南へ着くと思われます。我がオーラト氏族は王命を受け、虜囚を連れてこちらへ向かっています。
「異存はない」
代表して、オロス氏族長が答える。年配の族長は白いものの混ざる顎鬚をなで、眉を寄せた。
「タァハル部族を雌伏せしめれば、作戦はほぼ終了する。キイ帝国への対策と我等の今後について、《星の子》の意向を伺うまたとない機会だ……。気懸かりなのは
「軍団の規模としては、互角といったところだろう」
〈森林の民〉ロコンタの氏族長が、思案げに頷いた。『みんな、同じようなおヒゲを生やしてる……』と、鳩は思った。
「人材的には、シルカス・アラル・バガトル
「タァハル部族にとっては、『
誰かが苦々しく呟いた言葉を、他の誰かがシッと言ってたしなめる。鷲は、腰にあてていた腕を胸のまえで組み、重心を左脚に傾けた。珍しいくらい神妙な顔をしている。
鳩は、互いを牽制する男達の間に、緊張した面持ちで佇んでいるタオを見つけた。
紅一点のタオは発言を許されてはいないのか、唇を噛み、やや蒼ざめた頬で項垂れていた。鳩に気づいてはいるのだろうが、かまう余裕はなさそうだ。
「今から援軍をさし向けていたのでは、間に合わない」
若い氏族長の一人が、同胞を見渡した。厳格な言葉とともに、口髭が揺れる。
「
「長老会に異存はないか?」
氏族長達は、肯き合って賛意を示した。オロス氏族長が問い、長老達は互いの顔を見合わせた。
最高長老トクシンが、丁寧に一礼する。
「ございません」
「ならば、
「ハト殿」
タオは鷲とめくばせをした後、男達の間から出て、鳩を手招きした。少女の細い肩を抱えるようにして、天幕を後にする。
このところ
タオのユルテ(移動式住居)へむかって歩きながら、鳩は彼女の顔を仰いだ。
「どうしたの? タオお姉ちゃん。トグルに何かあった?」
「ああ、いや」
末子なため『姉』などと呼ばれ慣れていないタオは、多少の気恥ずかしさを感じながら頷いた。
「ハト殿こそ。慌てて、どうなされたのだ」
「使者が来たって言うから。トグルやオダがどうしているか、聴けるかと思って」
「ハト殿は、耳が早い」
タオはふふと微笑んだ。常に明るさを失わない少女は、こちらの心を照らしてくれるようだ。黒曜石さながら瞳を輝かせ、鳩は唇を尖らせた。
「だって。ひどいわよ、みんな。あたし達を置いて行っちゃうんだもん。鷲お兄ちゃんが帰ってきたら、今度は
「ま、まあ。急いでおられたのだ」
「ぶう!」
少女は頬を膨らませ、タオは吹き出したくなるのを堪えなければならなかった。
「ねえ。あたし達、いつまでここに居るの? トグル達は、ニーナイ国へ入ったんでしょ。追いかけて行っちゃいけないの?」
「
タオは優しく首を傾けた。
「ハト殿だけでも、シェル城へ向かわれるか?」
「ううん」
少女は明瞭に
「あたししか行けないのなら、ここに居る。タオお姉ちゃんが一緒に行けるようになるまで、待ってる」
「私に遠慮なさることは、ないのだぞ」
「でも、タオお姉ちゃんだって、トグルが心配でしょ」
タオはフッと息をぬいて微笑んだ。なんとも可愛らしい。おそらく鳩は、彼女と
「ああ、もうっ。
「ワシ殿が、どうかなされたのか?」
タオは、こみ上げる笑いを噛み殺して訊いた。
「タカ殿の記憶が戻り、無事に御子も産まれて、これ以上はないと思われるが?」
「そう思うでしょ。でもね……なんか変なのよ」
鳩は、ふたつにわけて編んだ黒髪をぶんっと振った。
「鷹お姉ちゃんが戻って、赤ちゃんにはとびって名前で、いいじゃない。あたしは大歓迎よ。なのに、お兄ちゃんが変なの。笑ってくれない、喋ってくれないの。それで、鷹お姉ちゃんも黙っちゃう」
「ワシ殿が?」
少女の口調がやや深刻だったので、タオは頬をひきしめた。彼女には思い当たらないが、鳩には感ずるところがあるのだろうか。
「私にはそうは観えぬが……。疲れておられるだけではないか? ハト殿。心配なさらずとも、ワシ殿は賢者だ。無理はなされまい」
本営にもどった鷲は、さっそく父親ぶりを発揮した。産褥期の鷹をいたわり、赤ん坊の沐浴やオムツ交換、洗濯、寝かしつけなど、母乳を与える以外のことはほぼ全てやっている。幼い頃のいもうと(鳩)の世話で経験しているとはいえ、そのさまは『
昼夜の別のない新生児の世話に、慣れない夫婦が疲れるのは当然だろう。
「そう、かなあ……」
鳩は、桃色の花びらのごとき唇に右手の人差し指をあて、考えこんだ。不審げに首をひねる。
「おい、鳩。タオ」
低い声に呼ばれて、二人は足を止めた。折しも、会議を終えた氏族長たちが天幕から出てくるところだった。鷲が、まとめていない銀の長髪をゆらしてやって来る。
「なんの用事だったんだ? 鳩」
「使者が到着したので、いつシェル城へ行けるのかと、確認に来られたのだ」
「ああ」
タオは、拗ねている鳩に代わって答えた。鷲は頷き、口をおおって欠伸した。
「……鷹が弱っているから、いま行くのは無理だな。それに、
「おひっこし?」
鳩が大きな目を瞬かせ、タオは頷いた。
「本営をもう少し北東へ動かし、アルタイ山脈へ近づけろと、兄上の指示だ。そのうえで、軍を天山山脈の北側で待機させよと」
鷲は、大きな鼻の下を手の甲でこすり、肩をすくめて南の山脈を見遣った。
「キイ帝国では、リー女将軍とオン大公が争っている。大公軍が
「そうなんだ」
鷲は、思案気につぶやく鳩の頭に片手をのせ、くしゃりと撫でた。
「俺たちは、タオの手伝いをしよう、鳩」
「うん。まかせて、タオお姉ちゃん」
「よろしく頼む、ハト殿」
タオは、健気にうなずく少女に微笑み返すと、鷲に視線を戻した。彼女にも、彼がしずんでいるように観えたのだ。赤ん坊の世話で眠れていないのではと案じ、声をかけようとした時、
「お兄ちゃん。あれ――」
鳩がするどく息を呑み、鷲の
鳩は眼をこすり、タオは瞬きをくり返した。鷲は真顔になり、腰の剣の柄に手を添えた。
刷毛ではいた筋のような歪みは、ゆたりとたゆたいながら拡がり、見る間に黒い染みとなった。焦げ茶色の
「何者!」
「マナさん?」
護衛の兵士の
「……よかった。野宿しないで済みそうね」
「マナさん! わあ、お久しぶり」
鳩は恐れる風もなく駆け寄ると、マナの足元にいるクドの首に抱きついた。聖獣は少女に身をすりよせ、ごろごろと喉を鳴らす。マナは眼を細めて哂い、タオと鷲に会釈をした。
「
「タオは会ったことがなかったか。〈黒の山〉の……《星の子》の娘だ」
散開しはじめていた氏族長たちが、侵入者を警戒してざわめいている。鷲は、背後の彼等にも聞こえるように説明した。
タオは息を呑み、慌ててひざまずいた。長老達が駆けて来る。
「マナ様。〈
「お久しぶりです、
マナは悠然と微笑むと、クドとじゃれている鳩をその場に残し、彼等に歩み寄った。タオとさらに数人の長老達が、跪いた状態で身をこわばらせる。マナは彼女達に身振りで立つよう促し、鷲に微笑を向けた。
鷲は、口髭におおわれた唇を歪めた。
「あんたひとりか? 珍しいな」
「
マナは、最高長老とタオに穏やかに告げた。二人の表情が、さっと引き締まる。
「キイ帝国のオン・デリク大公と帝の親征軍は、カザ(キイ帝国の地方都市、リー将軍家の本貫地)を制圧し、スー砦へ向かっています。これに呼応して、タァハル部族が西から国境へと移動を開始しました」
タオはトクシンと顔を見合わせ、氏族長たちはどよめいた。
「カザが……。スー砦は――」
「タァハル軍は、リタ(ニーナイ国の首都)を目指していたのではないのですが?」
タオの問いに、マナは冷静に答えた。
「そう見せかけた陽動です。彼等はエルゾ山脈の南で方向をかえ、東へ向かっています。トグル・ディオ・バガトルは予想していたのでしょう。彼の率いる軍勢も、シェル城から東へ進路を変えました」
オーラト氏族の使者を含む氏族長たちが、鋭い眼差しを交わして頷き合った。
マナはほっと息を継ぎ、真顔で佇んでいる鷲に視線を戻した。
「《
鷲は眉間に皺を刻んだ。唸るように問う。
「スー砦にいるのは?」
「セム・ゾスタ――セム・ギタの兄と、歩兵三千。大公軍は五万。西からタァハル軍が、三十万とも四十万ともいわれる騎馬軍で迫っている。このままでは、トグルの軍が到着する前に、国境が破られてしまう」
タオはごくりと唾を飲み、鷲を振り仰いだ。長老達と氏族長達も、白い天人に注目した。
押し黙る鷲に、マナはにっこりと微笑んだ。
「――でも。その前に、赤ちゃんに会わせてね」
~第三章へ~
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