第二章 王と神官(4)
4
「また、お前か」
トグルは公務用の天幕に入ると、赤毛の少年を見て舌打ちした。オダは、砂に汚れた頬で笑い返した。少年の傍らにいた数人のニーナイ国の男達が、草原の王に頭を下げる。トグルは足を止めずに彼等の前を横切り、部屋の奥の椅子へ向かった。隼は、彼等の中にラーダ(オダの父。西の国の神官)を見つけた。
シルカス・アラル族長の使者がひざまづいて、王に挨拶をする。トグルはそれに応えてから、皮肉めいた声を少年へ投げかけた。
「ニーナイには、他に人間が居ないのか? もう顔を見なくて済むとホッとしていたのに、舞い戻りおって」
「そう毛嫌いしないで下さいよ」
オダは言い返そうとしたが、トグルが使者と話を始めたので口を閉じた。空色の瞳は明るい。言葉は辛辣だが、トグルが自分を認めてくれていることを、少年はもはや疑っていなかった。
ラーダは息子から隼へ向き直り、丁寧に一礼した。別れてから既に二年が経過していたが、この一風変わった美しい女性のことを
隼はラーダに礼を返してから、オダに訊ねた。オルクト氏族長とシャラ・ウグル氏族長に気を遣い、声をひそめる。
「どうなっているんだ? ニーナイの状況は」
「タァハル部族の本隊は、エルゾ山脈の南で進路をかえ、東へ向かっています」
オダは真顔で答えた。若い声は抑制され、苦い響きを含んでいた。
「シルカス族長の軍が、それを追っています。シニュー(ニーナイ国のオアシス都市)と近隣の村の住人は、避難しました」
「そうか」
「我が国の女達を、返して下さったと伺いました」
ラーダが、少し掠れた声で隼に話かける。灰色がかった青い瞳の神官は、緊張した面持ちで、彼女とトグルを交互に眺めた。
「かつて、この地から連れ去った者達を……。タァハル部族を倒した後に、和睦したいと。本気ですか?」
「そう、出来ればいいんだけど」
隼は溜め息まじりに答えた。トグルとオルクト、シャラ・ウグルの三氏族長は、使者の報告を聞き終えて話し合っている。その表情は険しい。
オダが、隼に再び声をかけた。
「《星の子》の助言を頂ければ、我々と彼等の間に和睦を結べると思うのですが――」
「タァハル部族を倒した恩賞にか?」
隼の声の冷たさに、オダは息を呑んだ。トグルの愛人になってからも彼女の聡明さは変わらない。もの悲しい紺碧の瞳が、少年を見下ろした。
オダは、ごくりと唾を飲んだ。
「ご冗談でしょう?」
「――だといいけど、そう取られかねない台詞だ。気をつけた方がいい。
オダは絶句した。ラーダは隼を見詰め、彼女が事態を冷静に把握していることを理解した。
トグルと氏族長達が会話を終え、ニーナイ国の神官に視線を向けた。ラーダは、改めて彼等に頭を下げた。
「トグル・ディオ・バガトル。私はニーナイ国の
トグルは無表情に頷いた。感情をふくまない声音で問う。
「タァハルに囚われていたのか。味方ではなかったのか?」
「私達は交渉役でした。彼等の情報が漏れることを
「
オダは焦って父の袖を引いたが、ラーダは硬い表情を崩さなかった。トグルはつまらなさそうに肩をすくめた。――隼にはそう観えたが、彼のわずかな表情の変化を見慣れていないラーダ達には、判らなかったろう。
トグルは淡々と訊ねた。
「今、シニュー(ニーナイ国のオアシス都市)に女達を受け入れられるか?」
「無理です」
父に代わってオダが答えた。トグルは、緋色の髪の少年に視線を向けた。
「街の人々は、タァハル部族がやって来た際に、略奪を恐れて逃げました。そこへ、今度は付近の村から人々が避難している状況です」
「ニーナイの民衆は、詳しい状況を知りません」
ラーダが厳しい口調で続けた。トグルは、椅子に頬杖を突いて彼等を眺めた。
「タァハル部族もトグリーニ部族も、我々にとっては同じです。貴方がたの姿を見るだけで、大混乱が起こるでしょう」
隼は、トグルの横顔を見遣った。ニーナイ国民の心情を彼が知らないとは思えなかったが――その考えを想像することは困難だった。
ラーダは敵意のないことを示すように両手をひろげ、説明した。
「ニーナイの都市の主だった指導者は、人々を安全な地へ導くのに、手一杯です。申し訳ありませんが、国内の混乱が収まるまで、彼女達を護って下さいませんか」
「我々も、国境を越える正式な許可を《星の子》に頂いたわけではありませんからな。
オルクト氏族長が、思案げに顎髭を撫でて言った。ふだん飄々としている彼も、黒い瞳は神妙だ。
「女達をエルゾ山脈の南へ避難させる策をお考えなのでしょうが、時期尚早かと――。タァハルを掃討してこの地の安全を確保する方が、先決ですな」
ラーダはトグルを睨むように見詰めている。トグルは従兄を顧みることなく、その眼差しを受け止めた。
隼がかつて『族長の顔』と呼んで警戒し、恐れたトグルの無表情――オダにも、気を許すなと言った。――それが、邪悪な意図をかくして敵を
「王」
シャラ・ウグル氏族長が呼んだが、トグルは答えなかった。
全員の視線が彼に集中した。皮膚一枚でそれをはねかえす氷の彫像さながらトグルは黙考していたが、やがて、ぼそりと命じた。
「
「
「オルクト氏族の重騎兵三千にここを任せ、我々は東へ向かう。タァハルの本隊を、スー砦へ到着する前に捕捉する」
トグルは、ラーダ達を底光りのする双眸で見据えた。
「予め言っておこう。我々は、エルゾ山脈を越えない。ニーナイの民と戦うつもりはない。我等の敵はタァハル部族であり、背後で糸を引くオン大公だ」
ラーダは青灰色の眸をみひらいた。トグルは表情を動かさず、厳粛に告げた。
「俺の作戦は、部族間の争いを絶つところまでだ。遊牧の出来ぬ土地に関心はない。この地へ入植するつもりはない。……フェルガナ(盆地)出身の女達とその子ども達が平穏に暮らせるよう計らって貰えれば、それでよい」
この言葉に、シャラ・ウグル氏族長はふかく頷き、オルクト氏族長は胸の前で腕を組んだ。
「オダ、女達のところへ案内してやれ。ハヤブサは、その者たちに天幕を用意してやってくれ」
「は、はいっ」
「
隼が答え、彼とともに動き出そうとした時――
何が起きたのか、オダには解らなかった。
ラーダの後ろには、五人の男達が佇んでいた。外套を頭からかぶって会話を聴いていた一人の男が、突然、少年を押しのけて前へ出た。トグルとの距離が、一瞬で縮まる。
隼は息を呑んだ。
トグルが気配に振り返る。その目に、灯火を反射して煌めく鉄の刃が映った。するどい切っ先が真っすぐ突き出されるのを察し、咄嗟に外套を叩きつける。
その向こうに、隼の痩身が隠れた。
「***!」
オルクト氏族長の声と剣の交わる音が、同時に起こった。トグルと暗殺者の間にとびこんだ隼は、己の長剣を横から男の剣に叩きつけた。それでも勢いの衰えない相手に、身体ごとぶつかっていく。外套がはだけ、黄金の髪がこぼれた。
「シジンさん!」
ラーダが腕を伸ばし、男の衣を掴んだ。オダは、父に突き飛ばされてよろめいた。
勢いあまって足元に倒れこむ隼とシジンを見て、トグルが鋭く叫んだ。
「**!」
草原の男達が、シジンにとびかかった。庇おうとしたラーダ達が、もみくちゃにされる。最も役に立ったのはオルクト氏族長だった。大柄な重騎兵の彼は、素手で男を捻じ伏せた。
隼が、左肩を押さえて立ち上がる。
「……大丈夫か」
トグルが小声で案じる。隼は衝突の勢いで唇を噛んでいたが、斬られてはいなかった。彼女は口元を拭ってトグルに頷きかえし、剣を鞘に収めた。
オダは、困惑顔で父を見遣った。
捕らえられた男は、胸を地面に圧しつけ、右腕を背に捻られた格好で彼等を見上げた。左腕は……無い。褐色の肌に映える藍色の瞳が、白い女とトグルを映した。
「参ったな。これは――」
トグルは左手を額に当てて呟いた。『これは』――その先の言葉がみつからない。捜す手間が省けたと歓ぶべきか、事態が更に混乱したと嘆くべきか。
結局、トグルは何も言えなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます