第二章 王と神官(3)
3
ひとかかえもある鉄の大鍋を焚き火にかけ、
隼は、彼等に会釈をかえしながら、毅然とした表情はかえなかった。
オダ達の説得が功を奏し、シェル城下にいたタァハル部族の兵士たちは全員、総攻撃を待たずに降伏した。ニーナイ国の民衆も。
トグルはオーラト氏族長に命じて、武装解除したタァハル部族の兵士たちを(負傷者を除き)直ちに
それからトグルは、シルカス・アラル氏族長と彼の軍団を、エルゾ山脈方面へ派遣した。敵の伏兵がいるという情報があるからだ。シャラ・ウグル氏族とトグル氏族の兵士たちは、盆地周辺で敵の捜索を続け、オルクト氏族の軍団は、駐屯地の警戒とシェル城の復旧を行っている。
隼はオダとともにニーナイ国の民の状況を観察し、彼等が困らないよう気を配っていた。雉は、いつもどおり、負傷者の治療だ。
崩れた城壁のかたわらに佇む
「トグル」
柱の陰にうずくまる人影に声をかけ、相手が眠っていることに気づく。隼はかるく息をつき、彼の隣に腰をおろした。
このところ暇さえあれば、トグルは眠っていた。無理もないと隼は思う。
ニーナイ国、タァハル部族、キイ帝国のオン大公とリー姫将軍の動向にまで、気を遣わなければならない。連れて来た女達と捕虜のことも、駐屯地の治安も。――世界の半分の命運が彼の肩にかかっていると言って、過言ではない。
隼は消えかかっていた火を熾し、彼の肩に外套をかけなおした。坐った姿勢で眠るトグルの黒髪を撫でて思う。――大丈夫なのだろうか?
あれから、トグルは倒れていない。体の不調を訴えることもないが、たとえそうでも言わないだろうと思え、隼は心配していた。自分のことだけで精一杯のはずなのに、彼の
その毅さが時には彼自身をも傷つけてしまうと、隼は知っていた。オルクト氏族長や彼女に任せて眠っている間は、現実を忘れていられる。けれども、任せて欲しいと願うことさえ彼にとっては重荷だと、彼女は理解していた。
「…………」
隼はそっと嘆息した。『ぎこちないな』 と思う。
トグルと暮しはじめて二十日以上が過ぎたが、隼は未だに彼との距離を測りかねていた。トグルは変わらない、きっと、彼女の迷いなど想像もしていないだろう。
トグルはいつも早朝から仕事を始める。隼が起きる頃には、自分の食事(乳茶のみ)を済ませ、彼女の為にチャパティ(薄焼きパン)を焼いて出掛けている。夜遅く帰っても――彼女が待っていると知り、帰るようになったのは進歩だが。――その日の出来事を話してくれるわけではない。さっさと寝てしまうか、地図や本をひろげて考え込んでいる。
隼は、己の役割を考えずにいられなかった。トグルが彼女に家事を期待していないことは承知しているが、(彼は身の周りのことは全て自分でこなすので)、邪魔にならないようにしているしかない。
それでも。トグルが
隼が髪を撫でていると、トグルが目覚めた。陰を宿した
隼は、息だけで呼んだ。
「トグル」
「お前か……。アラルから連絡はあったか?」
「いや」
トグルは、ゆるやかに欠伸を噛み殺した。隼は胸が痛んだ。
「ごめん。用も無いのに、起したね」
この言葉に、トグルは黙って隼を見詰めると、左手で彼女の腕を掴んだ。身を退きかける彼女を引き寄せ、ふわりと口づける。銀糸の髪に指をさし入れ、梳きながら囁いた。
「報告を、聴こうか。女達の様子をみに行ってくれたのだろう?」
「……食糧が尽き始めている」
「…………」
「水もだ。鷲の莫迦が凍らせた湖が一向に融けてくれないうえ、寒さで
「定員を超えているからな」
トグルは隼の髪を弄びつつ話を聞いていたが、手を止めて呟いた。
もともと、この地に大軍を駐屯させるつもりはなかった。シェル城にたてこもるタァハル軍を屈服させた後は、女達の護衛に少しの兵を残し、敵の本隊を追って南下する予定だった。
ところが、タァハル軍を説得している間に敵の本隊をみうしない、降伏した兵士とニーナイ国民の面倒をみる羽目になった。真冬に、狭い盆地に四十万近い人馬がひしめいていては、食糧が尽きない方が不思議だ。そのうち、病も流行り始めるかもしれない。
トグルにとっては、タァハル部族の本隊の行方も気懸かりだろう。眉間に皺を刻む彼の横顔を、隼は見ていた。
「ニーナイの女たちを、一旦イリ(トグリーニ族の本拠地の草原)へ退がらせるか……」
「トグル」
『一度返した女達を、また連れて行くのか?』 と訝しむ紺碧の瞳に、トグルは冷静に答えた。
「ここは危険だ。アラルとテディン
トグルは、こわばっている隼の顔をみて、うすく苦笑した。
「感情的に判断されると困る……。俺達が約束をたがえ、再び奴等を略奪するつもりだと思われると、弁解が難しい。信用がないからな」
「長引くのか?」
隼の関心は別のところにあった。トグルは首を横に振り、冴えた眼差しを彼女に当てた。
「オン・デリク(キイ帝国の大公)とタァハルが謀った戦いだ。最初から、奴等の手の中で踊らされている。タイウルトを使って時間をかせぎ、俺達を最も苦手な土地におびき出したのだ」
「…………」
「俺の戦法は、この地に向かない。冬季に山岳地帯で戦うなど。俺達が
トグルは隼の頬をふちどる銀髪を撫でて、眼を細めた。呟く声は、やがて低い囁きへと変わった。
「座して滅びを待つわけにはゆかぬから、ここまで来た。苦戦は承知だ。……タァハルを退けても、《星の子》は、今のままの俺達とニーナイ国が結ぶことを許しはしないだろう」
「どういう意味だ?」
隼の問いに、トグルは答えなかった。眩しげに……どこか哀しげに、彼女を見ている。
「トグル?」
「……お前を、連れて来るのではなかったな」
隼の胸を、一瞬するどい痛みが走った。
トグルは、優しい仕草で彼女の髪を梳いている。隼は彼の手に触れ、一語一語を確かめるように囁いた。
「あたしは、お前と一緒に行くと、決めたんだ」
「…………」
「山での戦いなら、あたしの方が慣れている。ルツに話も出来るよ。だから――」
『そんな風に言わないでくれ』 言いたくて、しかし、隼は言えなかった。鮮やかな碧眼に、言葉と想いを吸い取られる。
トグルは彼女の手が赤くなっていることに気づいて眉をくもらせると、その凍えた指先を唇に押し当てた。
隼の頬が燃えあがった。
「ト、トグル……」
「手袋を持っていなかったのか。凍傷になるぞ」
『つけるのを忘れてただけだよっ、大丈夫だ。てか、これは、不意打ちだろーっ!』
隼は大いに慌てたが、トグルは平然と血色の透ける細い指を口にふくみ、舐めあげた。熱い息が掌にかかり、隼は背中がぞわぞわした。逃げようにも、手首をがっちりつかまれて動けない。思わず涙目になる彼女を、トグルは抱き寄せた。
トグルは彼女を温めようとするかのように頬を寄せ、
「ちょっと……待て。トグル。まだ――」
「黙っていろ」
まだ、日は高い。天幕の外には護衛の兵士もいる。途方に暮れる隼は、トグルに囁かれて言葉を失った。彼がこんなふうに自分をいとおしむということが信じられない心地がしたが、続けられているうちに思考は融けた。
トグルの唇が、首筋から胸元へ、鎖骨の隆起をたどって下りていく。肌に触れる吐息が彼女の鼓動を速め、身体を熱くした。
いつしか隼の手は彼の肩にかかり、黒髪に触れた。冷たく滑らかな感触をたどるように掻き撫でる。吐息が漏れた……。眼を閉じて彼の腕に身を委ねかけた時、天幕の入り口から、さっと光がさしこんだ。
「
「…………」
トグルの動作が止まった。慌てはしなかったが、一拍おいて隼を離した。
邪魔をしたオルクト氏族長の方も、抱き合っている二人を見ると天を仰ぎ、片手で眼を覆った。
隼は、急いで襟を寄せ合わせた。
「トゥグス……***、*******」
トグルは従兄(オルクト氏族長)を振り向いた。低い声は苦々しく、雰囲気で悪態だと判るが、早口過ぎて隼には何を言っているか聴きとれない。額にかかる前髪ごしに従兄を睨み、わざと歪めた唇に不敵な嗤いを浮かべている。
オルクト氏族長が太い声で言い返す。黒い瞳は笑っていた。
男達の掛けあいが本物の笑い声に変わっていくのを、隼は呆然と眺めていた。
「**。ディオ、*******」
「******。……言ってくれるな」
トグルはひとしきり声をあげて笑った。隼は、『これが、トグルの素顔かもしれない……』と考えた。
彼は横目で彼女を見遣り、笑いを呑んだ。
「何の用だ。食糧のことなら、今、ハヤブサに聞いたぞ」
「それで
トグルの
「来たか。タァハルが」
「
「……ハヤブサ。ついて来い」
トグルは立ち上がり、焚き火を踏み消した。肩に掛けていた外套に袖を通して、歩き出す。
隼は、彼の後を追って行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます