第二章 王と神官(2)


             2


 子どもが産まれた瞬間のことを、たかはよく覚えていない。きっと、あまりに凄い痛みだったので、神経が一時的に麻痺したのだろうと思う。暫くまどろんでいた彼女は、気づくと清潔な寝台に寝かされていた。

 彼女と赤ん坊の身のまわりの世話は、タオとミトラがやってくれていた。ミトラは、トグリーニ族の遠征にしたがいシェル城下へ帰る予定だったが、鷹のお産をたすけるために留まってくれている。三人の子どもを産んだ母である彼女の存在は、初産ういざんの鷹には勿論、妊婦をあずかるタオにとっても頼もしかった。

 きじは早速、父親になった鷲を呼び戻しに向かった。鷹は、彼が帰ってくるまで子どもに名前をつけるのを待つつもりだ。


 産後の鷹は、ほとんど赤ん坊とおなじ生活を送っていた。うとうとと眠り、おむつを換え、母乳を与えてはまたおむつを換える。空腹になるとタオとミトラが用意してくれた食事を摂り、また乳を与える。ときにはとに赤ん坊をあやしてもらい、その間に身を清めた。

 本営オルドウ周辺は吹雪いていたが、安全であたたかなユルテ(移動式住居)で同性と赤ん坊にかこまれて過ごすうちに、鷹の身体はゆるやかに回復していった。三日もすれば自由に動けそうな気分になったが、ミトラとタオに止められた。月の満ち欠けがひとめぐりするまでは、外出するものではないと。

 それで、鷹はじれじれしながら鷲の帰りを待っていた。


 日付の感覚が曖昧になり、産後五日目か七日目だったのか、鷹には判然としない。

 彼女が目覚めたとき、うすぐらいユルテ(移動式住居)の中には、夜の気配が感じられた。わざと細くともされた灯火と部屋をあたためる炉の向こうに、人影が見えた。

『鷲さん……』

 すぐには呼びかけられなかった。鷹は、信じられない気持ちで彼を見詰めた。


 濃紺の長衣デールをまとう長身に、彫りの深い相貌かおが載っている。四角い顎をふちどる髭と肩から背へゆたかに流れる髪は、銀色だ。切れ長の眼はするどいが、瞳は明るい碧色をしている。春の日差しに透ける若葉の色だ。――懐かしい。凄く久しぶりに会えた気がする。永い永い夢をみていて、今、やっと目覚めたような新鮮さだった。

 鷲は立ったまま籠に入った赤子の顔をのぞき込み、小さな掌に触れていた。ぎこちなさを伴う真剣さで細い指をいっぽんいっぽん確かめる彼の仕草を観ているうちに、鷹の眼から涙がこぼれた。

 鷲が彼女の視線に気づき、微笑んだ。


「目が覚めたか、お姫様」


『鷲さん』

 鷹の胸に激しい感情がわきおこり、まばたきのうちに彼女を呑んだ。熱い流れが頬を伝う。近づいて話しかける彼を、鷹は茫然と見上げた。


「女の子だって。良かった、あんたも、この子も無事で。……ありがとう。俺は――」

「鷲さん」


 声が出なかった。鷹は息だけで囁き、鷲は言葉を切った。身をかがめ、覗きこむ。まとめていない銀髪のひと房が肩をすべり落ち、彼女にふれた。

 不安げな若葉色の瞳を、鷹は、狂おしい想いで凝視みつめた。


「どうした? なんで泣くんだ。痛いのか?」


 鷹は、声もなく泣きながら首を横に振った。喋れないのがもどかしい。あまりに激しく、あまりに大きな感情に支配されると、人は何も言えなくなるのだろうか。

 鷲は戸惑っていた。雉から聞いていないのだろうか。鷹は、彼が雉やルツのように読心どくしんしてくれないことを恨めしく思った。


「……?」


 突然、鷲は眼をすがめ、囁いた。鷹ははげしく肯いた。

 髭に覆われた唇を動かし、彼は呆然とくりかえした。


「鷹……か? 思い出したのか?」

「鷲さん……」


 掠れ声で呼んだ次の瞬間、鷹は彼に抱きしめられていた。殆ど、おおいかぶさるようだった

 ひろい胸に押し当てられた頬に、ほつれた銀髪がかかる。赤ん坊の鮮やかな緑の瞳が間近に見え、彼のにおいが触れた。汗と馬のにおい、懐かしい陽だまりのにおいだ。鷹は鷲の背中に腕をまわし、彼が震えていることに気づいた。


「……変だ、俺」


 鷹が仰ぎみると、彼は歯を喰いしばっていた。天を仰ぎ、反らした喉が笑っているかのように震えている。

 鷲は、大きくふるえる息を吐いた。


「声が出ない……。話したいことが、沢山あったはずなのに。鷹」

「どうして、居てくれなかったの?」


 鷹は囁いた。涙があふれる。嗚咽を呑む彼女の顔を、鷲は、赤ん坊を驚かせないよう気をつけながら覗き込んだ。


「どうして、わたしを一人にしたの? 会いたかったのに」

「俺も、会いたかった……」


 鷲は微笑み、彼女をかたく抱きしめた。強く、息が詰まるほど。鷹も彼を抱く。じっと互いの鼓動に耳を澄ませていると、ふいに、鷲の背がだ。


「鷲さん?」

「いや。はは……気が抜けた」


 傾いて、そのまま鷲は寝台に片手をついた。長髪がぱさりと胸にこぼれる。無精髭に覆われた横顔に、目元に、鷹は疲労の影をみつけた。

 鷲は、鷹を安心させるように微笑むと、傍らの籠を指さした。

 鷹は、改めて赤子を眺めた。泣きもせず、きょとんとこちらを見上げている。多分、まだよく見えていないのだろう。瞳はまるく綺麗な新緑色で、髪は栗色で少し巻いている。くしゃくしゃの顔はお世辞にも可愛らしいと言えるものではないのだが、それが可愛らしくみえてくるのが不思議だった。

 鷹が顧みると、鷲は、今にも吹き出しそうな顔をしていた。


「お前にそっくり」

「そ、そお?」

「ああ。笑えるくらい、なところが」


 鷹は唇を尖らせて彼を叩いた。鷲は避けもせず、くっくっ笑いを噛み殺す。


『そりゃあね。美形の新生児なんて聞かないわよ。わたしだって、この子が銀髪じゃなくてちょっと残念、くらいは思ったわよ。鷲さんに似てくれたら綺麗だろうなって、思ってたし……。でも、ぶさいくは、ないじゃない。不細工は』


「冗談だよ。可愛いって。不思議な可愛さだよな。俺、自分がそういう風に感じる奴だとは思っていなかったから、驚いているんだ。……やっぱ、いまいち人間に見えねえけど」

「欲しがってた女の子だものね」


 鷹が心地よい安堵感にひたりながら言うと、鷲は、くるりと瞳を動かした。驚き半分、興味深そうに彼女を眺める。


「覚えてるのか」


 鷹は彼女をびっくりさせないよう気をつけながら、赤ん坊を抱き上げた。見飽きることのない彼の顔を顧みる。


「名前、つけて、鷲さん」

「お前がつけろよ」


 鷲は決まり悪そうに横を向いた。


「いいよ、俺は……こっぱずかしい。今回、功労者はお前なんだ。好きにつけていいよ」

「いいの?」


 鷲は、ぼりぼり頭を掻いた。鷹は、あらためて赤ん坊を眺めた。


 確かに奇妙な顔だった。ちいさくて、皺だらけで、頬を引っ張ったらいくらでも伸びそうだ。柔らかな仔羊の毛の産着に包まれていると、肌の赤さが目立つ。

 鷹は、この子は自分より色白になるかもしれないと思った。栗色の髪やまるい顔の輪郭は自分に似ているが、整った鼻筋や碧眼は、明らかに鷲のものだ。

『良かったね。きっとお前は、母さんより美人よ』

 もろくいじらしいその顔を見ていると、一つの名が浮かんだ。


とび……」


 鷹は赤ん坊に頬ずりをした。――この瞳。夢に見た、子どもの頃の鷲さんに似ている。隼の、トグルの……タオの新緑色の瞳だ。

 真夏の日差しを受けて輝くタマリスクよりも青く、夜の森よりも深い。情熱を秘めた瞳。それを思い出させてくれたのは、

『鳶さん……』


 鷹は視線を上げた。


「鳶さんの名前をもらっちゃ駄目? 鷲さん」


 鷲の声にかるい動揺が過った。


「いいけど……何故だ?」

「忘れないって、約束したのよ」


 鷹は、我が子の腕を手に取った。力をこめたら折れてしまいそうなそれを掌までたどり、呟いた。


「鳩ちゃんに……。鳶さんが居たこと、好きだったこと、幸せだったこと。――だから」

「……俺には、何のことだか全然判らないんだが」


 鷲は片方の眉を跳ね上げた。眼差しは優しい。


「いいんじゃねえか。お前がいいなら、俺は構わねえよ。しかし、ユアンか……。考えもしなかったな」

「鷲さん」


 今度は鷹が驚いた、それは彼の優しさか残酷さなのだろうかと……。けれども、鷲はうっとりと微笑み、彼女の髪を撫でた。ほつれ毛を撫でつけてから、もう一度、とびとともに抱き締める。

 鷹は、胸に直接ひびく彼の声を感じた。


「ここで、待っていてくれ」

「行くの?」


 鷲は身をはなし、彼女を見詰めて頷いた。


「トグリーニは、タァハル部族と戦っている。シェル城では被害を抑えたが、次はそうはいかんだろう。トグルとオダが心配だ。今は、雉が俺の代わりに向こうにいるんだ。タオと鳩と一緒に、待っていてくれ」

「鷲さん」


 鷹は鳶を抱きなおして呼んだ。鷲は首を傾げている。明るい若葉色の眸に、鷹は一瞬ひるむような気持ちになったが、意を決して切り出した。


「わたしを、トグルの所へ連れて行って」


 鷲は真顔になった。

『言わなければならない……』 鷹は、声に力をこめた。


「シジンが生きているの、タァハル族のところで。彼は、わたしが生きていることを知らないの。だから復讐しようとしている……。トグルと彼を、戦わせたくないの」

「……待て」


 鷲は、低く呻いた。すうっと眼を細める。ひどく困惑した声だった。


「待ってくれ、鷹。お前が言っているのは――」

「お願い、鷲さん。わたしを連れて行って。シジンと話をしたいの。ニーナイ国とトグリーニ族の戦いを、終らせられるかもしれない。だから――」


 鷲は口をつぐみ、身体の芯が凍える心地で彼女を凝視みつめた。我が子を抱いている鷹を。


 この時、鷲は理解した。ここに居るのは《鷹》であったことを思い出したレイ王女であり、レイ王女の記憶を失くした《鷹》ではない。彼女が戻って来たわけではないのだと。

 一方、鷹は知らなかった。彼女の中では全ての記憶が整然と並び、何の矛盾も生じていなかった。レイであった自分と今の自分が同じなように。シジンと鷲のことも、綺麗に繋がっていた。

 彼女は理解していなかったのだ。トグルが『時期がある』と言っていた理由を。――鷲がレイの傍で、何を考えていたのか。


 誰よりも大切なはずの、彼のことを。

 鷹は、全く理解していなかった。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る