第一章 風追い(5)


            5


 一夜明けると、草原は真っ白だった。

 赤は締めくくりの色、白は全ての始まりの色。年の始めに降る雪を〈草原の民〉は縁起の良いものと考え、その雪で築いた高台で火の女神を迎える儀式を行う。

 明けの明星とともに、今度は白い晴れ着にきがえた氏族長達が、乳製品を捧げ、香を焚き、降臨する女神を迎えた。


 レイは儀式を見物できなかった。ユルテ(移動式住居)の中で、うち続く陣痛に疲れ、ぐったり横になっていた。

 一般的な初産ういざんでは、陣痛は半日くらいかけて次第に強く規則正しくなって行き、一日あれば子どもは産まれて来る。レイは最初の痛みが酷く、仲間に心配をかけた。

 鷲と隼は勿論、出陣前のトグルも見舞いに来た。

 不安をかきたてる不気味な疼痛は一晩中つづき、規則正しくなったのは明け方だった。その頃には、レイは呻く体力もなく、痛みが押し寄せるたびに歯を喰いしばり、ただ息を殺していた。

 鷲は真顔で、めっきり無口になっていた。レイの寝台の傍らに坐り、時おり痛がる彼女と目が会うと、ぎこちなく頭を撫でた。


 トグリーニ族の出陣の仕度は整っていた。故郷へ帰る約五百人の女達の乗る馬車を手配してもらったオダ少年は、こう報告した。


「盆地を抜けて、シェル城(ニーナイ国の城)に避難しようと思います」


 トグルは、一瞬、呆れて彼を見下ろした。


「……本気か」

「勿論です」


 少年は、晴れた空色の瞳で草原の王を見詰めた。


「彼女達の殆どは、あの土地の出身です。国の受け入れ体制が整うまで、あそこで待ってもらいます。かつて、貴方が攻めた街ですから――」

 褐色の肌に白い歯を閃かせて笑う少年を、トグルは、やや憮然と眺めていた。

「タァハル部族から取り戻すのも、貴方にして頂きます。お手並み拝見させて下さい」

「…………」

「それから。僕を、リタ(ニーナイ国の首都)まで送って下さい。彼女達とオン大公のことを、報告しなければなりませんから」


 少年の傍らに立つオルクト氏族長が、にやにや嗤っている。トグルは、舌打ち混じりに言い捨てた。


「勝手にしろ。せいぜい置いて行かれぬようにするのだな」

「遅れはしませんよ」


 涼しい口調で返す少年を、緑柱石ベリルの双眸が一瞥した。それから、トグルはレイに向き直り、帽子に片手を当てて会釈すると、ユルテを出て行った。

 オルクト氏族長が一礼して、主に従う。戸外では、馬のいななきや車輪の軋む音に交じって、兵士達に命じるシルカス・アラル族長の声が聞えた。

 ミトラと雉は、レイの傍に控えている。


 レイは、オダの挨拶を聴いている余裕がなかった。眼を閉じて痛みに耐える彼女の額にかかる髪を、鷲はそっと掻きあげた。

 そして、

『……待ってろよ』

 レイは初めて、頭の中に直接ひびく彼の《声》を聴いた。

『必ず、連れて来てやるからな……』


 息を呑んでレイは眼をあけ、悪戯好きの少年のような鷲の微笑をみた。優しくて、不敵で、泣きたくなるくらい透明な瞳を。彼女が呼びかける前に、彼は立ち上がった。


「お兄ちゃん?」

「おい、鷲」


 鳩と雉が、怪訝そうに呼ぶ。鷲は二人に軽く片手を振り、ユルテを出て行った。長い銀髪が後に従う。隼が、足早に追いかける。

 雉は、レイが鷲の去った後を懸命に凝視みつめていることに気づき、やはり彼を追った。


「鷲……」

 追いついたものの、雉は、咄嗟に何と言うべきか分からなかった。隼も戸惑っている。

 鷲は仲間に構わず、鹿毛かげ馬に跨った。


「……どうした?」


 騎乗してアラルと話していたトグルが、彼等に気づき、黒馬ジュベを近づけた。鷲の行動については諦めている彼だったが、今回は、かるくたしなめた。


「居てやらぬのか?」

「んー……」


 鷲は片目を閉じ、首の後ろを掻いた。おどけた、滑稽さを強調する仕草だが、目に笑みはなかった。問い返す。


「お前なら、そうするのか?」

「……いや」


 トグルは囁いた。ちらりと隼を見遣り、うすくわらった。


「俺は族長トグルだが、お前は自由戦士ノコルだ」

「ありがとよ」


 雉は馬上の二人を見比べた。隼は緊張した面持ちで唇を結んでいる。


「けど。俺は、《あいつ》と約束しちまったからなあ……」


 歌うように言う鷲を、トグルは眼をすがめて眺めた。オダも、鷲の足元にやって来る。

 隼は葦毛ボルテの手綱を引き寄せ、ひらりとその背に跨った。首を振って風に銀髪をなぶらせ、前方を見据える。

 雉は、もう止めようとは思わなかった。


「雉」

 隼に呼ばれて振り向いた雉は、晴れた夜空のような瞳に出会った。

「鷹を頼む」

「何かあったら、連絡するよ。――鷲!」


 雉は、馬上の相棒に《星の子》の杖を投げ渡した。鷲は、振り向きざまにそれを受け取った。


「すぐに、迎えに行ってやる。気をつけて行けよ」


 鷲は無言で杖を掲げると、馬を進めた。もう、振り返らない。

 馬上で剣の所在を確かめる隼とトグルの目が出会ったが、交わす言葉はなかった。トグルは顔を上げ、アラルに声をかけた。


御意ラー。***」


 シルカス族長が復唱し、男達は、各々の馬に合図した。騎馬の群れが進み始める。

 凍った雪を踏んで行く黒い軍勢を、雉は、立ち尽くして見送った。



         *



「キジ殿」


 レイは、鷲が思いとどまってくれることを祈っていた。身体がだるい。タオの声に顔を上げると、ひとりで戻って来た雉に鳩が駆け寄っていた。

 雉は、静かにレイを見下ろした。レイは眼を閉じた。


「レイ」

 レイは、寝台の傍らにしゃがむ雉を改めてみた。不安げなタオや鳩とは対照的に、彼は微笑んでいた。滑らかな声で囁く。


「鷲は、あいつなりの方法で闘ってるよ。だから、きみも頑張ってくれ。おれ達がついているから」

「……違うの、キジさん。そうじゃないの」


 やっと声が出た。レイは痛みに耐えながら、掠れた声で言った。


「シジンが――」

 雉の頬から微笑が消え、タオがはっと息を呑んだ。レイは、素早く息を吸いこんだ。

「シジンが、生きているの。タァハル族の処で……。お願い、ワシさんを止めて。トグルを……。殺されてしまう。シジンが、ワシさんと、戦ってしまう」


 雉はじっと彼女をみつめた。長い銀の睫毛にふちどられた眸が、ふと哂ったようだった。柔らかな唇が動いて、優しい吐息を滑り出す。


「きみは、奴等がそんなに弱い人間だと思っているのかい……?」



 それから、レイはながい悪夢の中に入って行った。

 果てしなくつづく陣痛に、いつしか時の感覚を失った。痛みがおさまれば休憩できるのだが、押し寄せる次の苦痛に呼吸が止まり、呻き声をあげる。ひとつの波を超えても、次の波を予想しているので安らげない。間隔が短くなってゆくにつれ、懊悩おうのうも深まった。

『どうして、こんな……』


 時が止まっているようだった。或いは、酷くゆっくり流れている。ミトラが一日のことだからと慰めてくれたが、冗談ではなかった。

 内臓を捻られて気を失いそうになり……少し楽になって何刻経ったのかと思えば、四半刻しはんときも過ぎていない。

 最初のうちは痛みも殊勝に受け止めていた。《タカ》の為だからと。しかし、やがて我が身の不運を呪わずにいられなくなり、そんな己に嫌気がさし、考えるのもおっくうなほど疲れた。遂には恥も外聞もなく悲鳴をあげ、自分の声の凄さに愕然とする始末だった。

(いつかも、こんなことがあった……)


 雉は彼女の傍にいたが、男性なので外へ出された。タオとミトラが、泣き叫ぶ王女を励まし続けた。

 レイはずっと、一人の声を探していた。

『シジン……』


「タカ殿。もう少しだ」

「頑張って!」


 レイは、タオとミトラの声の向こうに彼の声を探していた。それだけが、自分を悪夢から救い出してくれるように思えたのだ。


『レイ……!』

 シジン! 救けて、お願い。何故私が、こんな目に遭わなければならないの。教えて、ここから逃げる方法を。私が、私でいる為に――。

たすけて、鷲さん。手を貸して……。貴方に会いたい。どうして、側に居てくれないの? どうすれば、あなたに追いつけるの)

 ――疲れ、思考にしびれた頭に、悪夢が蘇る。

 トグリーニの族長の相貌かおを想い出した。隼と同じ、凍てついた夜の森のような眼差しを。冴え冴えとしたその声が告げる。


『内なるお前自身を、裏切るな……』


 シジンが彼に斬りかかってゆく場面を、夢にみた。別れた時そのままの姿をした幼馴染が、憎しみに長剣を振りかざす。ところが、無表情に佇む〈草原の王〉の頭に剣が叩きつけられた瞬間、それは鷲に代わっているのだ。――彼女は、悲鳴をあげて目を覚ました。おののきながら我が身を抱くと、ぐっしょり汗をかいていた。痛みに、また眼を閉じる。

 荒波にもまれる小船さながら突き上げられ翻弄されるレイの額の汗を、ミトラが拭っていた。お礼を言いたくても吐き気がして声が出せない。喰いしばる歯の間から、呻きが漏れた。

『どうして? シジン……』


 日差しに煌めく黄金の髪と、褐色の肌、深海色の瞳。つよい意志で導いてくれていた彼の声が、レイのうちにこだまする。

『レイ!』

 伸ばした指先が、触れそうで届かない。砂を吐いて呼んだ時、唸り声をあげて振り下ろされた鉄剣が、彼の腕を切り落した。

 嗚呼、覚えている。視界にかかる血と、砂と、彼の悲鳴――

 シジン……!

 レイは、成す術なくそれを見詰めていた。何かが彼女の中で砕け、踏みにじられ、吹き散らされる。見上げた太陽は、残酷なほど眩しかった。


 ――伸ばした手が空を掴み、たかの背筋を冷たいものが走った。少年が振り返る。痩せた素足で大地を蹴って駆け出そうとする。

 汚れた銀灰色の長髪の間から、鮮やかな新緑色の瞳が覗く。拒絶と敵意と悲しみを宿した眼差しが、彼女の胸を貫いた。


『あんたには、あいつと別人でいて欲しい。でないと、俺は、傍に居られない』

 囁いて、淋しげに微笑んだ。銀の睫毛にけぶる優しい眼差しが、レイの胸に焼きついていた。

 いつも静かに接してくれていたけれど、彼は、どんな気持ちでいたのだろう……?


『おれ達に、君を、仲間だと呼ばせてやって欲しい』

『《鷹》は、あんたから逃げようとはしていなかった』


 キジさん、ハヤブサさん。私を励まし、支えてくれた《星の子》。最初は腹を立てていたけれど、やがて温かく接してくれるようになった、ハトちゃん……。

 皆が、《彼女》を愛していた。私の中の《タカ》を認めてくれた。――彼等の中に《彼女》が居ると、私は感じていた。私を守ってくれていると。

 今度は、私が《彼女》を守る番……。


「う……あああっ!」

「タカ殿!」


 叫ぶレイを、タオが励ます。歯をくいしばり、レイは喘いだ。いくつもの記憶の断片が脳裏に浮かび、幻影が馳せた。

『レイ!』

 血を吐くような、シジンの声。『ああ、私達は、もっと別の暮らしを夢みていたはずだったのに』――永久に、閉ざされた想い。心の底で、幽かに、けれど、いつまでも燃え続ける。

 気の遠くなるほど晴れた空の下、心と身体を引き裂かれて、剥き出しにされたそれが砕け散るのを見ていた。茫然と。

 シジン……。


 追いかけても届かない。触れられない彼の姿は、鷹の胸を締め付けた。銀の髪の少年……抑え切れない情熱を、碧の瞳の奥に秘めている。

(鷲さん……)


『俺が、こわいか?』

 鷹の顔を上目遣いに覗き込み、悪戯っぽく笑う。大きな手で、彼女の腕を掴んで。

 切ない影を宿した若葉色の瞳は、なんと温かく見えたことだろう。

『俺は、こわいんだ。同じ過ちを繰り返しそうで』

『ずるいよな。一緒に居て欲しいと言いながら、お前を怕がっている。お前が、隼やルツのように強い女であってくれたらと、思っちまう』


『お前はさ。いじらしくて、可愛いらし過ぎるんだ。ほんと、俺には勿体ない……』


 が出会った鷲さんは、強くて、いつも飄々としていて、決して弱音など吐かない人に見えた。

 だけど。が見つけた鷲さんは……。


 ――そうだ。は、彼を知っている。……彼に出会う前から。

 鷲さん。


こわかった。お前を失うことを恐れ続けるくらいなら、このままで居られないかと考えていた。だけど、もう、自分に嘘はつきたくない』

『鷹、有難う。俺を、待っていてくれて。何て礼を言ったらいいのか、判らないけれど』

『俺は、あんたのなかに《鷹》を捜そうとして、もうちょっとで、あんたを壊すところだった』


『目覚めたあんたに俺がどう観えるか、考えると恐かった。俺に出来るのは、シジンとナアヤとかいう仲間を捜して、会わせることくらいしかない……』


 鷲さん。ああ、とびさん! 隼、雉さん、鳩ちゃん、オダ。……トグル、タオ、ヴィニガ姫。ルツさん、マナさん。

 みんな。皆、覚えている。《鷹》であった日の、全て。レイであった、の全て。

 思い出したわ……。


 みひらいた眼から涙がどっと溢れ出し、レイの頬と寝台を濡らした。苦痛に喘ぐ喉から嗚咽が漏れ、余計に息を詰まらせた。

 鷹は、必死にこうべを上げ、懐かしい顔を探した。タオは、急に泣きだした彼女に驚いていた。


「タカ殿?」

「タオ。お願い、雉さんを呼んで。……思い出したの、。思い出したの……!」


 タオとミトラは顔を見合わせ、それから、タオは急いで駆けて行った。その背を見送りながら、鷹は再び枕に頭を埋めた。祈るように思う。


『鷲さん。お願い。どうか、もう一度、ここから始めて……』


「鷹ちゃん?」

「タカ殿!」

 雉とタオの声を聞きながら、鷹は、最後の苦痛の波に呑まれて行った。





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