第一章 風追い(4)


            4


 レイは動揺していた。考えまいとしても、思考は同じところを巡っていた。

 シジンが生きてくれていた……。今すぐ会いに行きたいと思うのに、足がすくんでしまう。

『彼のことを忘れていた私を、シジンはどう思うだろう?』

 否――問題は、今の自分の心だった。どうしたいのか、全く判らなくなっていた。



「タァハル部族が、南下を始めた」


 その日、トグルは氏族長会議クリルタイを終えると、鷲たちのユルテ(移動式住居)にやって来た。絨毯の上に革製の地図をひろげ、説明する。


「タサム山脈を越え、リタ(ニーナイ国の首都)方面へ向かっている。シェル城(ニーナイ国の城)に三万、峠に五万の伏兵を残して行った」


 いつもながら、敵方の状況を細かいところまで把握している。彼らの強さはこの情報によるのだと、今ではオダも理解していた。


「追わなかったのですか?」

「宗教上の理由があってな」


 トグルは、緊張した面持ちの少年を見遣り、わずかに唇を歪めた。


白い月チャガーン・サル(陰暦の一月)まで本営オルドウを離れるわけにはいかない。餓鬼ジルにつけ込まれる、火の女神が帰って来られなくなるというのが名目だが……要は年末の忙しい時期に出歩くのは縁起が悪いのだ」

「はあ」


 返答に困るオダに代わり、すかさず鷲が口を挟んだ。


「お前が縁起をかつぐ奴だとは、知らなかったぜ」

「ああ。俺も知らなかった」


 トグルは友の揶揄やゆに平然と言い返し、ちらりと歯をみせて笑った。すぐに表情を消す。

 タオが、一同にお茶を煎れて配った。トグルは、乳茶スーチーで唇を湿らせて続けた。


「冗談はさておき。火の祭祀ガリーン・タヒルガをおして出兵するとしても、伏兵のひそむ路を南下するのは危険だ。――と言って、放置すれば、いずれリー女将軍を倒した大公軍が攻め寄せて来る。奴等(タァハル部族)に挟撃の機会を与えることになる」

「僕に、リタへ行かせてくれませんか?」


 トグルはオダを振り向いた。厳格なかおに嵌め込まれた緑柱石ベリルの瞳を見つめ、少年はごくりと唾を飲んだ。


「タァハル部族から手を退くよう、ニーナイを説得させて下さい。オン大公の陰謀を説明すれば――」

「……ジョロー・モリ」


 トグルの声は地を這い、少年を黙らせた。


「取り違えるな。これは我々の戦いだ。……貴様は、そんなことをする為にここへ来たわけではなかろう」


 オダは口を開いたが、声を発することが出来なかった。

 トグルは射るように眼を細めた。


「俺達が奴等(タァハル部族)を追って南下を始めれば、当然、行く先々で戦闘が起こる。それに女達を巻き込ませるのか? 安全に故郷へ送り届けるのが、貴様の使命ではなかったのか」

「…………」

「オルクトを護衛につける」


 トグルは傍らの黒髭の氏族長を目で示し、冷ややかに告げた。


「オルクト氏族の重騎兵三千……充分ではないかもしれぬが、これ以上は割けない。奴と相談しろ」

「はい。有難うございます」


 冷淡にあしらわれて、オダは淋しげに頭を下げた。トグルは左手の親指の爪を軽く噛み、次の作戦を考え始めていた。


「宜しくな、小僧」


 愉快そうに会話を聴いていたオルクト氏族長が、野太い声で話しかける。少年は会釈を返した。

 鷲が、トグルの横顔に問い掛けた。


「南下するのか」


 訊ねると言うより、確かめる口調だった。一同の間に緊張が走る。

 トグルは、横目で彼を見遣った。オルクト氏族長だけが、にやにやと嘲っている。


「……そうだ」

「危険じゃないのか」

「リタ(ニーナイ国の首都)を、タァハル(部族)に奪われても良いのか?」


 トグルは、鷲の質問に質問で応えた。新緑色の瞳が、少年の赤毛を映す。


「ルーズトリア(キイ帝国の首都)を、オン大公に……。それが、奴等が自ら選びみちなら、俺は構わぬが」

「訊いてんのは、俺だぜ?」


 鷲はいささか憮然と言い返し、トグルはフッと嗤った。

 トグルは瞼を伏せ、いっとき鋭い眼差しを蓋いかくした。小声でひとりごちる。


「国など滅びてしまっても構わないと、言った奴が居たが――」

 トグルは、瞼を上げて鷲を見た。隼は黙っている。

「血筋よりそこに宿る精神を、俺達はのこしたい。機会を待っている余裕はない。罠だろうが何だろうが、やるしかあるまい」

「……聴こうか」


 鷲は長い脚を折り曲げ、片方の膝を立てて身を乗り出した。トグルは地図上の一点を指す。行く先を示す指先を、隼も見詰めた。


本営オルドウを空にするわけにはいかない。故に、軍を二分する。トグルートとオルクト、シルカス、オーラト、シャラ・ウグル族が南下する。タァハル族を追い、フェルガナを抜けてエルゾ山脈へ向かう」

「敵の罠の中に、真正面から入って行くおつもりですか?」


 オダが驚いて声をあげ、トグルに睨まれた。レイも意外に思った。


「いかに天人テングリとて、六十万の大軍をリタへ運ぶことは不可能だ」


 トグルの素っ気ない言いぐさに、鷲は苦笑した。トグルは、少年を見据えて続けた。


「我々だけでお前の国へ入ろうものなら、たちまち恐慌が起き、進軍どころではなくなる。……安心しろ。たかが八万の伏兵を蹴散らせぬほど、疲弊してはいない」


 オダは、ものすごく不安そうに口を噤んでいた。鷲は、無精髭の生えた顎に片手を当て、地図を眺めた。


「速度は?」

 トグルは、愉快そうに友を見遣った。

「何故、解った?」

 鷲は、当然だと言わんばかりに肩をすくめた。


「ちんたら進軍すれば、各個撃破の的になる。これだけの兵力があるのなら、一息に敵を倒す方が得策だ。――分散したタァハルの兵力が再集結する前に、一気に勝負カタをつける。それだけの移動速度が得られれば、の話だが」

「そうだ。そして、俺達は遊牧民だ」


 狼のように嗤う、トグル。その瞳が、ちらりとレイを映した。


「奇襲速攻は、最も得意とする戦法だ。それを忘れ、俺達をニーナイ国と同様にあしらおうとした連中には、たっぷり煮え湯を飲んで貰おう」

「最高で、どのくらいと思えばいい?」

「三日だ」


 トグルの口調は常に淡々として、揺るがない自信を表していた。オダは少し蒼ざめている。

 鷲はかるく眼を瞠った。


「三日?」

「先行は俺とシルカス、オルクトが務める。寝ている暇は無いぞ。本営オルドウの移動はしない。途中でついて来られない者は置いて行く。小僧はオルクトから離れるな」

「はい……」

「タオ。お前は、オロス族と一緒に本営オルドウを守れ」


 毅然と命じられて、タオはおずおずと頷いた。

 緊張した面持ちの妹に向かい、トグルは、流麗な声を滑り出した。


「テイレイ、キズグス、イエニセイ族を、アルタイ(山脈)まで退がらせる。向こうには、ハル・クアラ部族が居る。万一……そんなことはないと思うが。タァハル(部族)が北上して草原イリを脅かすようなことになったら、お前は〈森林の民〉の許へ行け。俺達が敗れ、更に大公軍がリー女将軍を倒して北上してくるなら、ハル・クアラ部族にも伝えよ。……無駄な戦闘を避け、生き延びることを考えろ。他民族に吸収されようが構うな、とな」

御意ラー


 頷く妹を、トグルは既に見ていなかった。オルクト氏族長に視線を向ける。氏族長は、口髭をこすりつつ頷いた。


「後続は、オーラトとウグルに任せる。エルゾ山脈でオルクトの重騎兵は止まるだろう。その場合、俺とシルカスで南下する。軍団を分断されたら、奴等に北上の機会を与えてしまう。タサム山以南で食い止めねばならない」

「それは大丈夫だろ」


 煙草を口へ入れながら、鷲が、のんびり口を挟んだ。豊かに波打つ銀髪を肩へ掻き上げ、ぼりぼり頭を掻いた。


「俺も行くんだ。六十万は無理でも、お前等くらい運んでやれる。ニーナイ国が相手なら、話し合いも可能だ。戦争のやり方は、お前に任せるが――」


 トグルは、無表情に彼を見た。鷲は、ちらりと歯を見せて哂った。


「雉がいる。本営オルドウが危険になれば、こいつが働いてくれるさ。逃げ足だけは速い野郎だから、任せておけばいい」

「おれっ?」


 レイの隣に座ってぼんやり話を聞いていた雉は、目をまるくした。トグルが振り返る。彼と目が会い、雉は狼狽えた。


「ちょっと待て。何でおれが……。ここに居るなんて言った覚えはないぞ」


 トグルのかおは仮面のように動かない。鷲は、する相棒を、悪戯っぽく眺めた。


「何だ、居ないのか? 俺は、てっきりまた文句言いながら怪我人の手当てをするのかと思っていたのに」

「どうして、おれがそこまでしなけりゃならないんだよ。嫌だよ」


 トグルの冷静な眼差しを受けて、雉は口ごもった。


「おれが治した奴等を、連れて行くんだろう? そうして、また人を殺して、負傷させて……キリがないじゃないか。助けられない兵士はどうなるんだ。敵は? ……おれ達の能力は、おれ達だけのものじゃない。人殺しの手助けなんて、していられるかよ」


 トグルの視線に怯みながらも、雉は言い切った。

 オダは神妙に項垂れた。隼は無言で会話を聴いている。

 鷲の声に、皮肉とからかいが混じった。


「ふうん」

「……何だよ」

「いや。そうか、帰るのか。と思って。来ないのか、お前。


 雉は慍然むっとして黙り込んだ。何か言い返してやりたいのだが、言葉がみつからない。迷っていると、突然、トグルが笑い出した。

 雉は唖然とした。レイ達も驚いた。それまで己に対する非難を黙って聴いていたトグルが、何故、ここで笑い出すのだ? 

 全員が呆れて見詰める視線の先で、滑らかな声を押し殺し、肩を震わせて、草原の男は笑い続けた。


 やがて、トグルは、一同の沈黙に気づいて笑いを呑みこんだ。


「いや、済まない。――失敬。面白かったので、つい。気を悪くしないでくれ」

「お前のそういうところが、俺は、わっかんねえんだよなあ」


 鷲は、胸の前で腕を組んでかぶりを振った。


「どうして、そこで笑えるんだ? 今の話の、どこが面白いんだよ。……解らん。俺、お前の笑いの感覚だけは」

「そうか? 文化の違いだろう」

「そういう問題じゃないと思う。変なのは、お前だけだ」


 トグルはしかし、穏やかに微笑んでいるだけだった。しばらく考えた後、正面から雉を見詰めた。


「お前に、居て欲しい」


 雉は、あからさまにギョッとした。狼に吼えかかられたタルバガン(地リス)さながら身をこわばらせる彼に、トグルは、笑みをふくむ声で繰り返した。


「人殺しの手助けは不要だ。だが、お前が居てくれれば、女達は心強かろう……。無理にとは言わぬ。鷲では頭痛の種になるが、お前なら、本当に助かる」


 雉は、すっかり困惑して項垂れた。


「言ってくれるよなあ」


 言いたい放題のことを言われ、鷲は舌打ちした。トグルは、膝に片手を置いて立ち上がった。


「……さて。俺の話は、これで終わりだ。替え馬を用意しよう。一緒に来るか?」


 この言葉に、オルクト氏族長とオダが立ち上がり、鷲と隼も身を起した。当たり前のような彼等の態度を確認して、トグルは踵を返した。

 レイは鳩と並んで戸口に立ち、彼等を見送った。ユルテ内では、雉とタオが食器を片付けている。



『ああ、そうだ』

 火の女神の夫を表す氏族長たちの紅い外套が、雪に映える。鷲と隼の銀髪は、雪明かりを反射して煌めいていた。その様子を眺めながら、レイは思った。――私は、この人達が好きなのだ。

 シジンのことを知らされて、怯んだ理由が解った。鷲、雉、隼、鳩とタオと、オダ。トグリーニの族長さえ、彼女は好きになっていた。《タカ》に対する罪悪感ではない。ただ彼等が好きで、見守っていたいのだ。

 胎内で、子どもが動く。

 彼等とともに生きることは、レイには不可能だ。それが出来るのは、《タカ》だけだと承知している。――でも、見ていたい。

 シジンに会いたい……あの頃に帰りたいと思うのと、同じ強さで願う。

 子どもが動く。あのが……。それは痛みをともない、レイは眉根を寄せた。懇願する、嘆きの声が聞えてくるようだった。

(出して……わたしを、ここから出して。助けて、お願い。みんな――)

『泣かないで』――レイは、胸の中で呼びかけた。


 泣かないで、《タカ》。貴女あなたの気持ちが解る。失いたくないものが、ここには、沢山あり過ぎる。でも、私には、どうすることも出来ない。

 次第に強くなる痛みに、レイは腹部を抱えた。胎動が掌を押し上げる。――ごめんなさい、もう一人の私。私も、きっと、貴女と同じ。

 失いたくない、大切なもの。自分がこの世から消え去っても、変わらずに居て欲しいもの……。どんなに祈り、願っても、叶わないと知っている。

 時は止まらない。立ち止まる者には容赦のない残酷さで、行き過ぎる。

 だからこそ、いとおしいのだと……。


 痛みに耐え切れず、レイは呻いた。彼女がうずくまったので、雉は若葉色の目をみひらいた。


「レイ。どうした?」

「タカ殿?」


『キジさん、タオ……』 呼びかけたくても、レイは息継ぎをするだけで精一杯だった。押し寄せる痛みの波に眉根をよせる。

 鳩が不安そうに呼ぶ。


「お姉ちゃん?」


 雉が、緊張した声で指示した。


「タオ、ミトラを呼んで来てくれ。鳩は、鷲と隼を。……《鷹ちゃん》のお産が始まった」





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る