第一章 風追い(3)
3
ガタン、と揺さぶられてシジンは目覚めた。途端に身体をつらぬく激痛に呻き声をあげる。
「気づかれましたか、シジンさん」
聞きなれた
ラーダを含むニーナイ国の男達が、同じ荷台に座っていた。ラーダは悲し気に微笑んだ。
「貴方は、三日間、気を失っておられたんですよ……」
「ナアヤは?」
シジンの声は掠れ、話すと
ラーダは眼を閉じて首を横に振った。シジンは、身体がずんと重くなるのを感じた。
「私達が埋葬しました。それから、これに載せられたのです」
「そうか……。済まない。巻き込んでしまった」
「いいえ」
ラーダは儚く微笑んだ。よく観ると、
「私達も耐えかねたのです。お陰で彼等(タァハル部族)がどんな人たちか、よく解りました……」
それからラーダは、起こったことを手短に説明した。
テス=ナアヤを射殺したのは、あの場にいた兵士達の『
ラーダは、小さな布に包んだひと房の金赤毛をシジンに見せた。
馬車は、うすい雪におおわれた荒野を、ガタゴトと粗く揺れながら進んでいた。水や食糧、木桶やユルテ(移動式住居)の
「西へ向かっています」
シジンの姿勢では、周囲を充分に眺めることが出来ない。ラーダ達は彼を援け起こし、荷物の陰に坐らせた。
「昨日、彼等はタサム山脈を超えました。明日にはシェル城に着くと話しています」
「シェル城……。ニーナイ国の領内へ入ったのか」
タサム山脈とエルゾ山脈の間の盆地を、フェルガナと呼ぶ。ニーナイ国と〈草原の民〉が、何十年も領有を争っている土地だ。シェル城はニーナイの民が築いた
タァハル部族と手を組んでトグリーニ部族に対抗するつもりだったニーナイの民が、強制的にかの地へ送り戻されるとは、何とも皮肉な成り行きだった。
ラーダは、沈痛な面持ちで項垂れた。シジンは、他の男の手で水を飲ませてもらい、嘆息した。
砂漠の民は、自分達の不明を恥じるかのごとく呟いた。
「彼等(タァハル)が私達をどう考えているか、よく解りました。対等な同盟などあり得ない。……これから、どうすれば良いのでしょうね」
ニーナイの民は争いを捨て、武器を持たない平和の民だ。移動と商才には長けていても、軍事には弱い。シジンは、彼等を責める気持ちになれなかった。
シジンは吹きさらしの荷台の柵に寄りかかり、周囲の騎馬の群れを眺めた。
「トグリーニ部族との衝突を避けて移動しているのか?」
「分かりません。まさか、リタ(ニーナイ国の首都)に攻め入るつもりはないと思いますが……」
ラーダは呻くように言ったが、希望的観測にすぎなかった。季節は冬だ。遊牧民にとって、南方の定住民の居住地を攻めるのは難しいことではない。三年前の事件を繰り返すのかと、暗澹たる気持ちになった。
『この俺が、トグリーニ族の介入を期待する立場になろうとは、な……』
シジンはかわいた唇を舐め、自嘲気味に考えた。
事情を知り過ぎた彼等を、タァハル部族が生かして解放するつもりがないことなど、少し考えればわかりそうなものだった。己ひとりの生命など今さら惜しむものではないが、親切にしてくれたラーダ達の故郷が
『ナアヤ』――シジンは亡き友を想い、
約束されていた将来を捨て、親を捨て、闘うつもりで国を出た。追い詰められていたのかもしれないし、他国へ行けばなんとかなると思っていたのかもしれない。それが逃げだったのか、若さ故の思い上がりだったのかは知らないが。
己の正当さを証明するのなら、戻って戦い、勝たねばならないはずだった……。負けることなど許されない、あってはならないはずだったのに。結果は見事に地に墜ちて、こうして彷徨い続けている。
シジンは、残った右手の甲で目元をこすった。頬と手にこびりついていた砂粒が、ぱらぱらと落ちる。
泣くことなど、許されないのだ。
何を解った気になっていたのだろう、自分は。何に対して憤り、何と闘い、何を変えることが出来ると考えていたのだろう。
神官のくせに《神》を知らず、歴史を学びながら、草原に生きる者の何たるかも知らなかった。己の無知もわきまえず、自惚れて友を巻きこみ、王女の人生を変えてしまった。
自ら生命を絶つことさえ出来ず、他人からも殺して貰えず、惨めな生き恥を晒している。
何と言って詫びればいいのだ、死んでいった者たちに。自分を信じてくれていた、あの日の少女の笑顔に。
もう、戻ることは出来ない。今さら悔いても、取り返しがつかない。
それなのに――
ラーダ達は、シジンに声をかけなかった。今は将来を思い悩むより、
国は違い、従う神は異なっていても。追い詰められた境遇にあっても、彼等が示してくれる思い遣りに、シジンは心から感謝していた。
――在りし日の
片脚を斬りおとされ、『慈悲があるなら、殺してくれ』 と懇願していた。彼を抱き締めて、死ぬなら一緒に逝こうと誓ったのだ。自由になったら、その時に……。それまで、自分の為に生きて欲しいと。
今は、もういない。
『シジン……』
眼を閉じていたシジンの頬を、やわらかな風がそっと撫でた。その感触は、ありし日の少女の掌に似ていて、彼の胸に裂かれるような痛みを喚び起こした。
砂ぼこりが眼に沁みる。
この期に及んで己の過ちを認めずにいられるほど、厚顔ではない。ただ、せめて目標が誤っていたわけではないのだと思いたかった。そうでなければ、死んだ仲間達は何だったと言うのだ。
彼女の受けた災難は……。
己の生を、誰かに望んで欲しいとは思わない。そんなことを望んで貰っても、犯した罪が消えるわけではない。過去はなくならない。やり直しはできない。
確かに、自分は愚かで傲慢な人間だったのだ。――『愚かだ』ということにさえ気付けなかったほどに。
失うものは、全て失った。ただ己が生きているという事実だけが残った。
なら、それを嘆いていても、仕方がない。
《生きる》ことしか出来ないのなら、恥でも晒して生きるしかない。愚かで、浅薄で、傲慢だった日々の結果がこれならば、甘んじて享けるしかないのだ……。
シジンは面を上げ、荷車の行く先に視線を向けた。
神々の慈悲に見放された荒野を、彼等は西へ運ばれていった。
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