第一章 風追い(2)


            2


「それは、本当ですか?」


 思わず、声がうわずった。ルドガー神(暴風神)の幻は、もう無い……。

 勢いこんで訊ねたレイは、トグルの落ち着いた態度をみて、我にかえった。


「ごめんなさい……」 

「いや」


 トグルはフッとわらった。なめらかな低い声は、彼女の胸に優しく沁みた。


「謝る必要はない。お前に謝られると、俺の方の立場が無くなる」

「…………」

「それに……それでは、俺が伝える意味が無かろう。ワシにもハヤブサにも言わず、最初に報せた意味が。……遠慮は不要だ。俺には、奴等ほど《タカ》に対する思い入れはない」

「はい。有難うございます」


 タオはシルカス・アラル族長を促して、二人から離れた。少し距離を置いた所に立ち、辺りを窺う。トグルの指示か――闇にしずむ濃緑色の瞳から、考えを窺うことは出来なかった。 

 レイは、おずおずと訊ねた。


「でも、どうして?」

「タァハル部族から、使者が戻った」


 それが彼の性格なのか、口調はあくまで淡々としていたが、軽い溜め息が混じったことに、レイは気付いた。


「奴等(タァハル)がお前達を襲ったのは、オン・デリク(キイ帝国の大公)の差し金だろう。タァハル部族は俺達同様、使える人間は生かそうとする。ミナスティア王国の神官なら、諸国の事情に通じている。利用しない手はない」

「誰です?」


 胸が騒いだ。レイは息をひそめ、既に知っている答えを待った。


「シジン=ティーマ」

「…………」

「お前の神官だろう? 王女」

「ナアヤは? テス=ナアヤは、どうしました?」

「俺が聴いたのは、シジン=ティーマという名だけだ。タァハル部族の許へ出向いた使者が会った」

「無事で……シジンは無事でしたか?」

「左腕をなくしているが、元気だ。ミナスティア王国の元神官だと名乗った。通訳をしている」


『ああ』

 レイは胸の奥が熱くなり、眼を閉じた。涙が溢れそうだった。

 殆ど諦めかけていただけに、嬉しかった。同時に悲しくなる。

 傷を負ってしまったシジン。行方の知れないナアヤ。『私のせいで……』


 両手で口をおおう彼女を、トグルは黙って見守っていた。やがて、レイは面を上げて訊ねた。


「タァハル部族のところで? どうして?」

「分からぬが、人質でも捕られているのではないか。或いは……俺を殺すためだろう」


 トグルは、息だけで嗤った。緑柱石ベリルの瞳は、レイがぞっとするほど澄んでいた。


「三年前、俺達はニーナイ国へ侵攻した。タァハル部族は俺達を避け、リタ(ニーナイ国の首都)付近まで南下していた。そこで、お前達を襲ったのだ。――我々の諍いに巻き込まれなければ、お前は記憶を失わず、天人テングリと出会うことはなかったろう。現在お前が身ごもっていることも、ワシの苦悩も……俺に全く責任がないとは言えぬ」

「そんな――」


 レイは否定の言葉を探したが、彼はかぶりを振った。


「俺がお前の男なら、そう考えても不思議ではない。お前を救い出そうとして、果たせなかった男なら……どんな手段を使ってでも、仇を討つ。俺の生皮を剥いで、タァハル部族に叩き付けたいことだろう」


 レイは混乱した。シジンの気持ちを想像したら、そうかもしれない。

『でも、私はここに居るのに……!』


「実は、少々困っている」


 彼女の動揺を眺め、トグルは口調を和らげた。片手をあげて、かるく頬を掻いた。


「王女。俺としては、戦いは最小限度に抑えたい。味方の、敵の損害もだ。タァハル部族とオン大公は致し方ないとしても、ミナスティアとニーナイ国を敵に回したくはない。神官の力を借りたいところだが、お前がここに居ると知れると、奴の怒りの火に油を注ぎそうだな……」


 レイの脳裏には、シジンの深海色の瞳が浮かんでいた。やわらかな蜂蜜色の髪と、日に焼けた褐色の肌が。

 亡国の王女は眼を閉じ、自分の掠れた声を聞いた。


「彼を、殺すの?」


 レイは瞼を開け、夜の森のように深いトグルの瞳を見詰めた。彼は、怯むことなく彼女を見返した。


「シジンを殺すのですか? タァハル部族と一緒に」

「その時になってみなければ分からぬが……俺は、、殺したくない」

「…………」

「知恵を貸してくれないか、王女」


 トグルは胸の前で腕を組み、重心をゆっくり右脚に傾けた。


「ミナスティアは遠い。砂漠とニーナイ国とタァハル部族を挟んでいては、互いの情報は殆ど伝わらない。……ムティワ族(ミナスティア国の王族)の状況を教えてくれないか。策を考えよう」


 彼の相貌かおは表情が読めない。骨張った輪郭も鋭いひとみも、荒削りな彫像を想わせる。

 レイは隼を思い出した。トグルの眼差しは、彼女と同じく静穏だった。



「……シジンは、国の体制を壊すつもりだったのです」


 レイは、ゆっくり語り始めた。夜目に、トグルの眼が細くなるのが判った。


「ミナスティアには、三種の民がいます。先住民と、彼等を支配する貴族と、それを導く王族です。王族ムティワナが貴方がたと同じ祖をもつことは御存知でしょう。私達は、絶えかけています」

「…………」

「シジンは、昔から、少数の異民族による国の支配に反対でした。王権を倒し、国を民の手に戻そうと考えていたのです」

「……成る程」


 トグルの声に溜め息が混じった。彼は、面倒そうに言った。


「それで内乱か。態度のはっきりしない国だと思っていたが……。支配層の意識がそうではな。神官は、貴族階級の者だろう?」

「はい」

「シジン=ティーマは、それがオン大公の意図に沿う行為だとは、知らなかったのか?」


 レイは息を呑んだ。

 トグルは無表情のまま淡々とそれを口にしたのだが、レイは、剥き出しの刃を突き付けられたように感じた。口の中が急速に渇く。

 トグルは彼女の反応を観ながら、単調に続けた。


「ミナスティアとキイ帝国は、同盟関係にある。古い話だが、我々ほどではない……。ラージャンは、自国内の支配を強化する為にキイ帝国の皇帝と結ぼうとした。それがオン大公の意に背くとは、気付かなかったのか」

「あの、どういう――」

「……草原を離れて五百年以上が過ぎたお前達に、俺達の戦いの意義を理解しろと言うのは、酷かもしれぬが」


 戸惑うレイに、トグルはくらい声音で告げた。眉間に皺が刻まれる。


「俺達は、世界を二つに分けて考える。遊牧民と定住民、我々〈ふるき民〉と、それ以外の民だ……。俺達の間にあるのは、滅ぼすか、滅ぼされるか。利用するか、されるか」

「…………」

「〈新しき民〉から見れば、お前と俺は同類だ。数百年を隔てようと敵対していようと、同じ血を引いていることに変わりはない……。自国内に閉じこもり素直に言うことを聴いている間は利用価値があるが、一度そこを出れば、奴等にとっては敵となる」


 レイは耳を疑った。思いもよらないことだった。

 トグルは、濁った声で呟いた。


「孤立し、隔離されたものの行く末か……」

「ミナスティア国の王族は、もういません」


 レイは、茫然としながら言った。トグルは、短く髪を切った自分のうなじに片手を当て、困った風に首を傾げた。


「私は国を棄てた身です。私が戻らない以上、王家は絶えます。――シジンも国に戻れないのは、私と同じです。彼を殺しても、貴方には意味がありません」

「……約束は出来ない」


 トグルは首を横に振った。諦めを含む回答だった。


「努力はしよう。俺の力が及べばよいが。……アラル」


 トグルが小声で呼ぶと、シルカス族長が足音を立てずにやって来た。

 トグルは、レイを宥めるように言った。


神官ティーマのこと、天人テングリには黙っていてくれ。隠していても知れるが、時期と言うものがあろう……。俺達は、間もなくタァハル族を追って南下する。準備をしておくがいい」


 レイは言葉をなくしたまま一礼し、シルカス・アラル族長に促されて踵を返した。足元を照らして貰いながら、ユルテへ戻る。



 レイの背を見送る兄に、タオは声をかけた。


「兄上。また、天人テングリに隠し事をなさるのか?」

「……俺などが報せなくとも、どうせ、ワシは知っている」


 トグルは溜め息とともに呟いた。タオが見ると、彼は組んでいた腕を解き、夜空を仰いでいた。


「俺よりも――当の王女よりも、あいつは、シジンが生きていることを確信していたのだからな……」


 タオは視線を足元に落とし、この言葉の意味について考えた。

 トグルはじろりと妹を一瞥し、レイの去った方を眺めた。


 兄は何故、ミナスティアの王女に神官の消息を教えたのだろう? と、タオは訝しんだ。――国を棄てた王女に、その立場を考えさせることを。

 そうして、気づく。

 妹の説得に応じて隼を、天人テングリを受け入れたトグル。そのことを、隼は勿論、鷲も知っていた。承知してなお、彼と共に生きることを必要としている。彼と出会い、彼を愛してしまったが故に。

 しかし――既にどうしようもないところで、自分達は彼を喪っているのだ。

 《鷹》と同じように……。


「……言っても、どうせ聴かぬのだろうな」

 タオは、トグルの独り言を耳にして、視線を上げた。

「己の卑小さを数え上げても、キリはないか……」


 自嘲するトグルを、タオはぞっとする思いで見詰めた。兄も承知しているのだ。

 今、より多くの援けを必要としているのは隼であり、鷲だった。己より多くのものを喪わなければならない者の手を、必要としている。


『あたしは、残酷なことをあいつに要求しているのかもしれない……』


「兄上」

 心の中で隼の声を聴きながら、タオは呼んだ。きっと縋るような顔をしていただろう。

 トグルは、穏やかに答えた。


「タオ。お前は奴等の側に居ろ。俺は大丈夫だ。タカとハトを看てやってくれ」

了解ラー

「それから、ビトゥニ・ウドル(大晦日)に、トゥグス(オルクト氏族長)とニーナイ国の小僧(オダ)に天幕へ来るよう伝えてくれ。ニーナイ国の女達を故郷へ帰す経路を、決めなければならない」


 トグルは夜の向こうを見遣った。眼差しは沙漠のように乾いている。


「兄上」

 妹の呼びかけには応えず、トグルは踵を返した。火の女神の夫を模した紅い外套が、広い肩に従う。これを彼が着るのは最後かもしれないと、タオは思った。


 いずれにせよ……希望とは、どんなに違う運命が降りかかって来ようとも。人生が、どれほど歪められようとも……途中で投げ出すことは、誰にも出来ないのだ。



          *



 祭礼の夜に政務はない。タオと別れたトグルは、自分のユルテ(移動式住居)に戻った。玄関先に設えた臨時の炉で、あかい火種が燃えている。部屋はとうに冷えているだろうと予測しつつ扉を開けた彼は、暖かな空気に包まれて瞬きをくりかえした。

 天窓を支える柱には灯火がかかり、室内をやわらかく照らしていた。移動用の簡易炉が据えられ、その上で乳茶スーチーがほとほと煮えている。甘い香りがただよっていた。

 炉の傍で椅子に腰かけていた隼は、彼に気づいて立ち上がった。白銀の髪が肩を流れ落ちる。愁いにしずんでいた顔が、ぱっと輝いた。


「おかえり。寒かったろう?」

「…………」


 トグルは、しばし絶句した。

 留守中にユルテに人が入ることはよくある。タオが家事をしてくれていたり、トゥグス(オルクト氏族長)が来ていたり。鷲が泊まったことも、隼が押しかけて来たこともある。

 しかし、この展開は予想外だった。そんな言葉があったことすら忘れていたと気づく。


「どうした?」


 彼が固まっているので、隼は首を傾げた。紺碧の瞳が不安気に揺れる。

 胸の底がふるえるような温もりを感じて、トグルは苦笑した。この発音でよかったかと考えながら囁く。


「……タダイマ」


 隼は、はにかみながら近づいて、すっかり冷えた彼の身体に腕をまわした。触れるように唇を重ねてから、凍えた頬を両手で包み、凛々しい風貌かおを覗きこむ。

 トグルは己の野暮を詫びるように眉をひそめていたが、左腕を動かすと、そっと彼女を抱き寄せた。





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