第五部 約束の樹

第一章 風追い

第一章 風追い(1)


            1


「リー女将軍(キイ帝国の将軍)が苦戦をしているらしい」

「そうなのか?」


 数日後、レイ達は、トグル・ディオ・バガトルのユルテ(移動式住居)に招かれた。火の祭祀ガリーン・タヒルガという儀式のためだ。新年までの七日間、火の女神を天に送り返し、翌年の幸運を祈願する。

 族長トグルのユルテは、特に大きいというわけではなかったが、レイ達とオダ、ミトラというニーナイ国の女性が全員はいれる程度には広かった。


 トグルはシルカス・アラル族長とともに、この日のために選んだ羊を、ユルテの外で屠殺した。わしは、二人の手際を眺めていた。タオはミトラと、ユルテのなかで料理をしている。

 トグルは、血を一滴も流さずに羊を殺すと、その胸の肉を切り取って炉に入れ、牛酪バターや胡麻飴なども火にくべた。飴の一つをはとに与え、説明する。


「火の女神は、人間の男に恋して、天から地上に追放されたのだ。年に一度、赦されて里帰りする。天神テングリに地上の悪口を言われては困るので、機嫌をとっておく」

「そうなの?」

「ああ。ご馳走や菓子を用意してな。……そうやって、うっかり食べると、口がにちゃついて話せなくなる」


 胡麻飴を食べていた少女は、柔らかい飴が歯にくっついて困り顔になった。戻って来た鷲が、そのさまを観て笑いだす。鷲は、絨毯に胡坐あぐらを組んだトグルの後ろにごろんと寝そべり、頬杖を突いた。

 トグルは、情けない表情になった少女の頭を軽く撫でると、ミトラから乳茶スーチーを受け取って彼女に与えた。

 オダが神妙に訊ねた。


「リー女将軍が苦戦なさっているというのは、本当ですか?」


 トグルは少年を振り向いた。凛々しい風貌と鮮やかな新緑色の瞳に、オダはどぎまぎした。


「ハル・クアラ族が案じている」

 トグルの返事は、やや婉曲的だった。

「オン大公は、皇帝の親征と称してルーズトリア(キイ帝国の首都)を攻撃する一方、スー砦へも兵を差し向けた。我々を牽制しているのだ。遠方へ兵を割く余裕があるのは、将軍方が苦戦しているからだろう」

「…………」


「ずるいよなあ、オダ」

 黙りこむ少年を、鷲が庇った。トグルの片方の眉が持ち上がる。


トグルこいつの所には、寝ていても情報が集まる仕組みになっている。そのくせ、そいつを独り占めして、俺達には何も教えないんだから」

「……それは、悪かったな」

 トグルの切れ長の眼が、ふと和んだ。


「お前に情報を与えると、何をしでかすか判ったものではなかろう。前例もある。大人しくしていて欲しかったのだ」

「してたじゃねえか」


 鷲は、抗議をこめて語気を強めた。若葉色の瞳はたのしげだ。


「ええ? ここへ来てから、俺が何か問題を起したかよ? 他人ひとの縄張りだと思って遠慮して、遠慮しすぎてカビが生えかけてたってのに。そんなに俺が信用できないのかよ」

「そういうわけではない。余計なことに首を突っ込んで、怪我をされては困るからだ。特に、ハトには」

「よく言うぜ。お前こそ、『年寄りの冷や水』だったくせに」

「誰が年寄りだ、誰が」

「お前」

「失礼な……。同じ歳だと知っているか?」

「俺は、お前みたく精神的にけてねえもん」

「ますます失礼な奴だな。何を根拠に、そんなことを言う?」

「改めて言う程のことか。並みに頑固になりやがって」

「これは性格だ」

「直せよ」

「……お前こそ。その、いちいち他人事ひとごとに首を突っこむ癖は、何とかならぬのか? 自分で問題を起さなければ、他人の問題に飛びこんでよいというものではなかろう。いったい、大人しく静かに過ごすということが、お前には出来ぬのか?」

「ああ。性格なんでね」

「直せよ」


 言い返されて、鷲は苦笑した。お茶を口に含むトグルの瞳にも、不敵な光が宿っている。

 レイ達はこれで終わりかと思ったが、鷲は負けていなかった。


「なに言ってやがる。俺がすんなり引き下がったら、困っていたのは、お前の方だろう。意地を張って二進にっち三進さっちも行かなくなってたくせに。俺はてっきり、お前はのかと思ったぞ」

「…………!」


 トグルは、乳茶スーチーを盛大に吹き出した。新緑色の眸をまるく見開き、口元を拭いながら鷲をみる。

 鷲は悠然と寝そべったまま、喉の奥でくつくつわらい出した。やがて声をあげ、膝を叩いて笑う。

 トグルは、恨めし気に苦虫を噛み潰した。その瞳が、ちらりときじを映す。


 戸外で馬の世話をしていたはやぶさが、鷲の笑声を聞きつけて、戸口から顔を覗かせた。


「どうしたんだ?」

「何でもない……。」

「大したことじゃねえよな、トグル。っちまったことくらい」


 隼は意味が分からず、首を傾げながらユルテに入って来た。

 遂に、トグルも笑い出した。口調は厳しかったが、眼差しも頬も綻んでいた。


「ワシ。お前とは、一度、じっくり話し合う必要がありそうだな」

「まあ嬉しい。やっとその気になってくれたのね」

「どちらが干上がった年寄りか、決着をつけよう」

「おう、望むところだ。だいたい、お前には、トランを教えて貰う約束だった。クレシュを(注1)。覚えているか? 先延ばしにしやがって。おまけに、いつの間にか、右手を駄目にしやがって」

「お前の腕ではなかろう」


 きわどい言葉だったが、トグルの眼は笑っていた。革の手袋をはめた己の右手首を、左手で掴む。


「俺は、もとは左利きだ。これくらいの方が、お前には丁度よかろう」

「……表に出ようか」


 二人は、獲物を狙う狼さながら嗤い合った。

 シルカス・アラル族長が、黄金の鹿の装飾のついた角杯を差しだし、あるじを促した。


テュメン。***」

「ラー。*****。……悪いが、また延期だ、ワシ」


 鷲は肩をすくめて答え、身を起こして胡坐を組んだ。

 隼とタオは、男たちを半ば呆れて眺めていたが、トグルが立つと居ずまいを正した。ミトラが赤ん坊を抱いて、レイの隣に腰を下ろす。鳩とオダが坐り直し、雉は背筋を伸ばした。

 トグルは、全員の準備が整ったのを観ると、蓋を開けた炉の上に杯をかざした。


「少し、退がっていろ。始めるぞ」


 トグルは、炉に近づき過ぎていた鳩に注意を促してから、杯の中身を炎に注いだ。途端に、天窓に届かんばかりの勢いで、火焔が音をたてて立ち昇る。オダと鳩が眼をみはった。

 トグルは朗々と声をあげてうたった。



    高い蒼天が宮殿であった太古のときから

    母なる大地が踵ほどであったときから

    生まれ授かった火の母に

    乾酪ホロート牛酪マルスを捧げん

    馬乳とアルヒを注がん

    向上する大いなる福のなかで

    平安にあれかし


    …………



 トグルが『平安にあれかし』と謡うと、タオとアラル、ミトラが、声を揃えて繰り返した。火の女神の由来を述べ、褒め称え、それを祀る人間側の営みを描写し、幸福と繁栄を乞う。――その声を聴きながら、隼は、ちょうど一年前の同じ儀式を思い出していた。あの時は、先代のシルカス族長(ジョク・ビルゲ)と、オルクト氏族長が一緒だった。今、仲間とともにここに居られることが、不思議に感じられる。


 トグルが祝詞の最後にもう一度焼酎アルヒを振りかけると、炎は明るく輝いて、それから急に小さくなった。タオが、戸外に作っておいた即席の炉に火種を移す。

 一同を見渡すトグルの目は、面白がっているようだった。アラルから帽子を受け取り、説明する。


「今日から七日間、この炉を使ってはならない。火の女神が留守の間は、餓鬼ジル跋扈ばっこする故、獲り憑かれないよう身を慎んで過ごすのだ。俺はこれから、アラルと祝詞ユルールを語りに行ってくる」

「あたしも行っていい?」


 弾むように鳩が問い、トグルはフッとわらった。


「構わぬが、食事をしている暇はないぞ」

「うん、いいの。お腹空いてないから。後で、トグルと一緒に食べたいけど、駄目?」

「俺も行こう」


 鷲が片膝に手をついて立ち上がり、緊張しているオダ少年に片目を閉じてみせた。トグルに言う。


「暇なんだ、相手してくれや。お前を観ている方が、面白そうだ」

「……好きにしろ」


 トグルは、タオの差しだす華麗な金の刺繍のついた紅い外套を羽織り、しろい牙を見せた。


「ジョロー・モリのような奴だな、お前達は……。では、タオ、羊の頭を残しておいてくれ。あれを食べないと、年を越せないからな」


 そう言うと、アラルを促して出て行った。鳩が、嬉々としてついて行く。シルカス・アラル族長は、レイ達に会釈をして席をたった。

 オダは迷っていたが、鷲が当然のように出掛けるので、慌てて後を追った。


 ミトラが、エイル(赤ん坊)のオムツを替えはじめ、レイに手順を説明する。雉はタオを振り向いた。


「ジョロー・モリって、何だ?」


 タオは、羊料理を皿に盛りつけながら答えた。


の仔馬のことだ」

「だく脚?」

「同じ側の前脚と後ろ脚を、同時に動かして歩くことだ。ちょこちょこと落ち着きのない人間を言う(注2)。私も子供の頃、そうからかわれた」

「成る程。鷲にぴったりだな」


 ここ数日、雉の表情は冴えなかったのだが、毒舌は健在だった。

 タオは隼に料理をすすめつつ、唇を尖らせた。


「あれは、ニーナイ国の小僧のことだ、キジ殿。ちょろちょろとうるさい。兄上は、よく我慢している」

「おれは、どっちもどっちだと思うけどね……」

「タオは、オダが嫌いか?」


 隼が、羊の肉をつまんで訊ねる。タオは眉根を寄せた。深い紺碧の瞳に見詰められると、彼女は己の心を隠せなくなる。


「努力しているのだろうが……ワシ殿やハヤブサ殿と対等だと思っている風なのが、腹が立つ。天人テングリに迷惑をお掛けして、それで当然と考えているようなのが、気に障るのだ」

「そうだね」


 隼は苦笑して囁いた。


「あたしも不思議だよ。どうしてお前が、そんなにあたし達を買いかぶるのか……」


 雉は、二人の会話を居心地わるそうに聞いていた。レイとミトラが赤ん坊をはさんで談笑しているのを横目に眺め、隼に声をかける。


「隼……。お前達、どうするつもりだ?」


 あの日から、隼は、トグルのユルテ(移動式住居)に通っていた。体調の回復したトグルは氏族長会議クリルタイに復帰し、部族の天幕で政務を執っている――そのまま天幕で寝泊まりしているらしいのだが、彼女は彼と『暮らそう』と努めているのだ。

 タオから家事や羊の世話を習う隼の努力を、雉は健気だと思っていた。


「トグル次第だよ」


 隼は、指についた脂を舐めとり、悪戯っぽく微笑んだ。ちらりとタオを顧みる。


「分かってる。お前が説得してくれたんだろう? タオ。……トグルは、あたしを心配して逢ってくれたんだ。まだ考えている」


 タオは不安げに眉をくもらせた。雉が問い返す。


「トグルがそう言ったのか?」


 隼は瞼を伏せ、ゆっくり首を横に振った。


「観ていれば、解るよ。……雉。あたしは、少しだけ、トグルの気持ちが解った。あたしは、とても残酷なことをあいつに要求しているのかもしれない」


 雉とタオは、顔を見合わせた。兄と隼のことでは心配の尽きないタオをおもんぱかり、雉は慎重に訊ねた。


「お前ら……結婚する気はないのか?」

「今そんなこと言ったら、トグルはあたしを追い出すだろうな。」


 台詞の内容に関わらず、隼の苦笑はやわらかく、口調は落ち着いていた。額にかかる銀糸の前髪を掻き上げる。


「トゥグス(オルクト氏族長)に訊いたよ。氏族長会議クリルタイが選ぶ王は、一代だけだって。でも、族長の妻はそうじゃない。氏族に対する責任が生じて、草原を離れられなくなる。『自分がいなくなっても』……そんな風に考えているんだろう、トグルあいつは。あたしにも、それくらい解る」


 雉は眉間に皺を刻んだ。タオが真顔になる。草原の娘は、沈んだ声音で言った。


「ハヤブサ殿。私が心配しているのも、そのことだ。お気持ちは嬉しいが、ご自分の人生を大切にして頂きたい。我々の犠牲になっては欲しくない」

「犠牲になんて、なる気はないよ」


 隼は、あわく微笑んだ。薄桃色の唇の端を、綺麗に吊り上げる。


「タオ、ありがとう。あたしは、あいつと一緒には、なれない」

「ハヤブサ殿」

「あいつを治す方法を、見つけるまではね……」


 レイが顔を上げ、ミトラとともに三人を顧みた。泣き出しそうなタオに、隼は首を横に振ってみせた。

 雉は、黙って隼を見詰めた。

 隼は、溜息まじりに囁いた。


「いろいろ考えたけど、今は、これしか言えないんだ。――トグルあいつが戦場に行くと、心配でたまらなかった。病気のことを考えると、眠れなくなった。死ぬかもと思うと、食べられなくなった」

「…………」

「だけど、トグルに呼ばれれば歩けたし、食べろと言われれば、食べられた。あいつの側で、あたしは、やっと眠ることが出来た。――あたしには、あいつが必要なんだよ」


 隼は、ぎこちなく微笑んだ。照れているような悲しんでいるような複雑な苦微笑をうかべ、睫毛をふるわせた。


「雉、タオ。あたしだって、いつか死ぬんだ。一度しかない人生なら、あたしの好きなように使わせてくれ……」



             *



 その夜、レイは、なかなか寝つけなかった。

 火の祭祀を終えた本営オルドウは、魔物から逃れる為に人々は身を慎しみ、静か過ぎるくらいだった。しかし、何故か王女は目が冴えた。秘められた予感のようなもので胸が騒ぎ、寝床の中で息を殺していた。

 お腹の子も、いつもより動いている。

 鳩の寝息が聞こえる。耳を澄ませば、胎児の鼓動さえ聴こえてきそうな静けさだ。

 祝詞を謡うトグルの姿が、レイのまなうらに宿っていた。隼の言葉と、夜空色の瞳が。それは、湖の水面に映る月さながら冴え冴えとして、周囲に波紋をひろげていた。

 振れて、揺らめいて、そこから何かが現れてくる。


 深夜、誰かが扉をかるく叩いて入ってきても、レイは大して驚かなかった。その人影が近付き、肩に触れた時も――


「タカ殿。起きておられるか?」


 囁く声で相手が判った。レイは、天窓から射しこむ細い月光のなかで背を屈めている草原の娘を見た。

 タオは指を唇の前にたてて合図した。


「ハト殿を起さずに、来て頂けるか。兄が待っている」


『トグル・ディオ・バガトルが……』

 先刻の予感はこれだったのかと思いながら、レイは頷いた。タオの手をかりて身を起す。タオは、妊婦の身体を冷やさぬよう、あたたかな羊の毛皮で包んだ。

 レイは、本営オルドウへ来てから族長とは話をしていないことを思い出した。鳩を起こさぬよう、静かにユルテを出る。


 外では、各ユルテの炉から移された火が小さく燃えていた。藍色の闇にほつほつと、黄色い光が並んでいる。

 タオは、まだ晴れ着の紅い長衣デールを着ていた。一日の仕事を終えたばかりなのだ。お腹の大きなレイの足元を灯火で照らし、案内する。

 雪を踏んでしばらく行くと、焚き火の傍らでシルカス・アラル族長と並んで立っている、トグルがいた。


「兄上」


 〈草原の王〉は、妹に頷いてから、レイを見下ろした。彼も、儀式用の紅と黄金の外套を着ている。冷たく怜悧な眼差しだった。


「夜遅く呼び出して済まない。タカ。……いや、レイ=ムティワナ」


 トグルの声は、夜の底に深く響いた。レイが頷くと、彼はわずかに眼を細めた。


「どうしても、ハヤブサとワシ抜きで、お前と話をする必要があったのだ。無礼を許してくれ、ミナスティアの王女。……俺を覚えているか?」

「いえ……。でも」


 レイが懐から首飾りを引き出すと、トグルは微かにわらった。厳格な眼差しは相変わらずだが、雰囲気が和む。独り言のように呟いた。


「タカとワシの役には立たなかったが、お前の身を守る役目は果たしているようだな」

「あの。テュメン?」

「お前に伝えることがある」


 トグルは、感情のこもらない口調に戻った。物悲しいほど毅然としたその声は、己に対する厳しさを感じさせた。


「何でしょう?」

「ミナスティアの王女。お前の神官は、生きているぞ」


 レイは面を上げ、彼をみた。雪明かりに照らされた精悍な狼の風貌かおを。トグルは、正面から彼女の視線をうけとめた。

 レイの脳裏を、長い銀髪をひるがえす鷲の姿が過ぎった。





―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(注1)トラン、クレシュ: トランは古代拳法、現ウズベキスタン共和国の国技『サンボ』のルーツの一つ。カンフーのような動きが特徴。クレシュは柔道のような競技。現カザフスタン共和国の国技。豪快な投げ技が特徴。

   第三部 第二章(1)で、鷲とトグルはこれらを使った試合をしています。その時の約束です。


(注2)だく足: 側対歩のこと。揺れが少なく、長距離を走るのに適した歩き方で、産まれながら側対歩の馬は貴重とされる。調教して側対歩にする場合もあります。従って、『将来有望な』くらいの誉め言葉でもあります。


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