幕間 無垢の聖女(3)

*重度の熱傷の描写があります。苦手な方はご注意下さい。



              3


 どうして。

 濁った水に呑まれながら、少年は考えた。縛られた母の身体を、懸命に抱く。

 どうして、こんな。何故、こんな。

 何が悪い。誰のせいだ?



 対岸で、ファルスは目覚めた。

 紫色に染まった空をぼんやり仰ぐ。水の流れる音が聞こえた。それから急に火の塊のようなものが喉にこみ上げて、彼はせた。熱ととともに水を吐き、砂利の上を転がる。苦痛に背をまるめる彼の頭上から、男の声が降って来た。


「気づいたか。大丈夫か?」


 からだが、あつい。

 皮膚という皮膚が、内と外から無数の針に刺されている。痛みは全身を包み、く。吸い込む息に咽喉のどを切り裂かれるように感じて、彼は喘いだ。声が出ない。

 鮮やかな紅い色が目を引いた。見ると、それは彼の腕だった。剥がれた皮膚の下から覗く、紅。

 ファルスは眼をみひらいた。

 麻の衣はかろうじて形を留めていた。縁から燃えた跡が焦げ目になって残っている。脚にも腕にも、数え切れない火傷と擦り傷を負っていた。


「水が飲めるか? おい」


 ぶっきらぼうな男の声が呼ぶ。しかし、ファルスの思考は停止していた。

 何がどうなったのか、どうして此処にいるのか。すぐには思い出せなかった。融けたように記憶が曖昧になっている。ぶるんと頭を振って額にかかるモヤを払おうとした途端、首筋に激痛が走った。

 片掌を首に当てて、彼はうめいた。やはり、声にならない。

 夕陽を浴びて黄金色に照らしだされる河原に、人影がいくつも伸びていた。


 ――そうだ。母を抱いて河に跳び込んだのだ。あそこから、どれくらい流されたのだろう。

 父と母は、どうなったのだろう。


「《火の聖女サティワナ》か」


 うずくまる少年の耳に、男達の会話が入って来た。


「だろうな、この姿は」

「いまどき」

「気の毒に……」


 そちらを向いたファルスは、丸太のように並ぶ人影の向こう――濁った河の流れとの境界に、ぽつんと置かれた小さな塊に気づいた。本当に、小さい。

 かすむ目に、紅と白と黒のまだらな色彩が映る。ところどころ灰色の泥がこびりついている。燃え残った衣が、もうしわけ程度に掛けられていた。

 焼けて皮膚の剥がれた部分が、『まだら』になっているのだ。傾いた日差しに陰る輪郭がひとのものだと判った時、ファルスは痛みを忘れた。


「(母さん!)」


 喘ぎ、少年は母に這い寄った。影達が道を開ける。見知らぬ視線が集中するなかで、すがり着こうとしたファルスだったが、思わず躊躇した。

 彼がひるむほど、母の姿は無残だった。

 ファルスは『それ』を凝視した。

 『違う』と囁く自分の声が、脳裏で聞えた。違う。何かの間違いだ……。


 母の火傷は、ファルスより酷かった。手足に殆ど正常な皮膚が残っていない。胸元に布が掛けられているように見えたのは、首からべろりと剥がれた皮膚の一部だった。真っ赤にただれ、血が滲んでいる。豊かだった髪は燃え落ち、ちぢれ、黒っぽく変色した断端を晒していた。額から顔の右半分に拡がる傷が眉を消し、右目を塞いでしまっている。

 唇は引き攣り、以前の面影はなかった。

 しかし、

 左の目。傷と苦痛に歪む顔のなかで、かろうじて開かれた青い瞳が、少年を映していた。その澄んだ輝きを見て、彼は理解した。

 間違いない。これは、自分の母親だ……。


「悪かった」

 あの男の声が降りて来た。少年の様子に構わず、こう続けた。

「《火の聖女サティワナ》と知っていたら、救けなかった」


 ファルスは項垂れた。さもあろう。だが、そんなことはどうでもいい。

(どうして、こんな……)

 その思いは、一瞬で彼の心を占めた。油のようにふつふつと煮え、内側から身を焦がす。噛み締めた顎がふるえ、膝に置いた拳がふるえた。

 どうして――

 疑問で、頭がいっぱいになる。呼吸が出来なくなる。身体をおおう傷より、心の方が痛かった。あまりの息苦しさに、このまま死んでしまうかと思えた時、


「それで、どうする」

 先刻とは違う男が、冷めた口調で言った。

「《火の聖女サティワナ》、なんだろ」


 声に含まれた侮蔑に触れて、ファルスの頭に血がのぼった。気が遠くなりそうな怒りに駆られ、少年は言い返した。


「(黙れ! オレの、母だ!)」


 掠れた声に、男達は、鼻白んだように黙り込んだ。痩せた小さな身体を震わせて精一杯にらみつける少年を、男達は呆れて見下ろした。

 身の内で暴れる感情に翻弄される少年の腕に、ふと、何かが触れた。


「…………」

 ヒューヒューと息を吐きながら、母が、片手で息子の腕に触れていた。一本の指先が与える痛みと柔らかさに、ファルスは息を呑んだ。気持ちがくずおれる。母が触れているその一点から、苦痛と悲しみが、じわりと円を描いて拡がり、彼の身を包んだ。涙が溢れそうになる。

 最初の男が、しずかに言った。


「そうだ。お前の、母親だ」


 ファルスは顔を上げた。今更のように、自分を囲む男達を見る。


 夕焼けを背に並んだ男達は、ファルスより年上ではあったが、一様に若かった。二十代から三十代……十数人もいただろうか。痩せた者もいれば、屈強な者もいた。ある者は憮然と顔を背け、ある者は痛ましげに母子を見下ろしている。全員よく焼けた褐色の肌に似たような麻の衣を着て、腰に黄色い布を括りつけていた。少年と同様、靴は履いていない。

 鮮やかな黄色が、ファルスの目を射た。

 噂を聞いたことがある……。

 ファルスは、ごくんと唾を飲み込んだ。痛みがのどをはしったが、無視した。


「あんた、達は……盗賊タグー、か……?」


 男達は、ちらりと互いを見遣ったが、黙っていた。

 少年に最も近いところにいた男が、ニタリとわらった。薄暮に融ける顔の影で、しろい歯が閃いた。


「だったら、どうする」


 その声は、最初に話し掛けてきた男のものだった。ファルスは彼を見詰めた。ゆっくり気持ちが凪いでくる。


 タグーとは、近年この国を荒らしまわっている盗賊だ。元は逃亡奴隷とも言われているが、ファルスは詳しいことは知らなかった。聞いているのは、彼等が村々を襲っているということ。腰につけた黄色い帯で、地主だろうと奴隷だろうと、抵抗する者は容赦なく絞め殺すのだという噂。

 恐怖は感じなかった。

 死に損なった少年と女を、男達は、憐れみとも侮蔑ともつかない眼差しで眺めている。しかし、彼は少し違っていた。短く刈り上げた緋色の髪の下で、冴えた青い瞳が、まるで一人前の男を見るように少年を映していた。


「安心しろ。《火の聖女サティワナ》と《修行者サドゥ》は、俺達には関係ない。お前もだ」


 そう言って唇の片端を吊り上げたのは、微笑のつもりなのだろうか。ファルスが答えられずにいると、気負いのない声がまた言った。


「ダル(豆のスープ)とチャパティ(薄手のパン)がある。食べるか? お前は運がいい。今日は俺達、実入りがいいんだ」

「…………」

「母親にも、分けてやるがいい」


 跪いたままの少年と母親を残して、男達は動き出した。河原から離れ、くさむらに腰を下ろす。

 先刻の男が戻って来て、ダルの入った椀とチャパティを、ファルスの眼前にぬっと突き出した。少年が戸惑いながら受け取ろうとすると、


「ここから少し上流の村で、手に入れたんだ」


 ファルスの手が止まった。


 『上流の村』――その言葉の意味を、彼はすぐに理解した。上流に何があるのか、彼等が何であるのか、そのことに思いを巡らせた。

 だが……それが何だと言うのだ。

 父は死に、母は殺された。自分はもう死んだと思われているだろう。彼等が救ってくれたのだ。助けようと、手を差しのべてくれている。

 その手にすがって、何が悪い。


 ファルスは器を受け取ると、自分の指先を浸して、少しずつ母の唇へ運んだ。

 黙ってその様子を眺めていた男が、おもむろに訊いて来た。


「お前、名前は?」

「……ファルス」

「ファルスか。俺はデオだ。指導者アナンダー・デオと呼ばれている」


 ファルスは顔を上げなかった。苦しげな息をする母の口に、慎重にダルを運び続ける。

 夕闇の中で、デオは、ニタリと嗤った。



               *



 時と距離を超えて、二人の子どもがめぐり逢う。

 母に殺された子どもと、母を殺された少年。

 もう一つの物語の始まり――





~第五部 『約束の樹ガンディー・モド』 へ、つづく~

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