幕間 無垢の聖女(2)
*R15レベルの殺人の描写があります。
2
ひび割れた石畳のうえを、少年は走っていた。
まひるの太陽は容赦なく彼の足元を照らし、反射して、褐色の肌を焼く。流れ落ちる汗も、その厳しさを和らげてはくれない。熱帯特有のねばった重い風が、喘ぐ喉を詰まらせた。
少年は憑かれたように、細い脚を前へと運んでいた。
報せを聞いて村外れの小屋に着いた時には、父の遺体は既に運びだされた後だった。――熱病に
だが、
砂に素足をとられて、少年はつんのめった。駆けて来た勢いで前方へ投げ出され、石畳に胸を打ちつける。茶がかった赤毛が頬にこぼれ、口の中に血の味がひろがった。
それでも、彼は歯を喰いしばって立ち上がり、休む間もなく走り出した。息が切れ、心臓が破れそうに感じる。みひらいた青い瞳に、それより蒼い空が反射した。眼に汗が流れ込み、視界がかげろうのようにぼやけ始める。砂埃が
「…………!」
行く手に横たわる褐色の大河。その岸に佇む一団の人影と、立ち昇る黒い煙に、彼は目を瞠った。
石畳が水面に突きだした先端に、こんもりと積まれた薪。その傍らに、後手に縛られて立ちつくす、母が。
「やめろ!」
彼の喉からは、かすれた喘ぎ声しか出なかった。
もがく母親を、村人が、竹の棒を使って追い詰める。遺体を燃やす紅い炎の舌が彼女の衣に触れ、舐めるように這い上がった。彼女の叫び声をかき消すために、銅の鐘が打ち鳴らされる。
「やめてくれ! 離せ!」
駆けつけた少年を、大人たちの手が引き戻す。
竹に突かれて母の身体が反り、長い髪が炎にあおられて蛇のようにうねった。ひときわ長い絶叫が、川面にこだまする。
どよどよと騒ぐ声が響いた。報せを聞いて駆けつけたのだろう、神官と地主、護衛を含む男達がやってきたのだ。村人たちより薄い色の肌、明るい金髪をもつ神官が、手を振って叫んでいる。
「何をしている? やめろ!」
「ファルス!」
男たちの腕を振り切って、少年は跳び出した。熱の壁を超えるとき、炎は数千本の矢となって、彼の身体を貫いた。
少年は母を抱きしめ、そのまま、聖なる河に身を躍らせた。速い流れは、瞬く間に、二人の身体を呑み込んだ。
後には、驚いて立ち尽くす村人達と、若き神官と、燃える遺体が残された。
「なんという、ことを……」
村人たちの暴挙を止められなかったシジンは、茫然と立ち尽くした。テス=ナアヤも、口元をぬぐいつつ河の流れを見下ろしている。
ナアヤはすぐ我に返り、仲間達に指示した。
「探せ! 助けるのだ」
騎士階級の男達が川下へ去って行ったあとも、テス=ナアヤは友の傍らに残っていた。村人たちが彼等を攻撃することを警戒したのだが、そうはならなかった。
粗末な麻の衣をまとった浅黒い肌の村人たちは、神官の登場に、きまり悪そうに顔を見合わせていた。彼らの背後の祭壇では、熱病で死んだ男の遺体が燃え続けている。
シジンは、ゆっくりと首を巡らせて彼等をみた。
「……《
彼の声は掠れ、ひび割れていた。拳を握り、唾を飲んで言い直した。
「ルドガー神は、人身御供を
震える声を抑えながら、シジンは己の身から力の抜けるのを感じていた。膝が嗤い、
教わったはず、教えたのだ。その同じ口で、〈
他ならぬ
絶望と羞恥から、シジンはそれ以上つづける言葉を失っていた。
村人たちにとっては、また事情が異なる。彼等は不安げに顔を見合わせ、誰からということもなく呟いた。
「でも、熱病なんで……」
「
シジンは項垂れ、肩を落とした。友が心配してくれているのを感じたが、とりつくろうことは出来なかった。
地主は地主、農夫は農夫、騎士は百代を経ても騎士であり、奴隷は死後も奴隷として扱われる。――限界まで搾取され行き場を失った民衆の憤懣は、より弱い者へと向けられる。そこに反省はなく、良心の呵責は生じない。
彼らは、教えられたとおりに行動しているだけだ。
知識の是非を検討するための情報は、あたえられていない。
「……わかった。弔いを続けよ」
シジンは項垂れたまま首を振り、踵を返した。
熱病に罹った者の遺体は
ただ彼の心が痛んでいるだけなのだ。滅びかけたこの国で、人々の愚行を止められない己の無力さに魂を
『滅びかけた』……?
シジンは足を止め、川岸の祭壇を顧みた。ちょうど村人たちが、燃え崩れた遺体を河へと掻き落としているところだった。風にあおられた灰が、砂と炎と泥のにおいとともに舞い上がる。
「あの子を探そう、テス。母親は無理でも、助けたい」
「ああ、そうだな」
友は頷き、彼等は肩をならべて歩いた。整備された
翌年、シジンの予感は、現実のものとなる。
虐げられた民衆の不満は、遂に王制への叛旗となった。各地で暴動が起こり、鎮めようとする貴族たちの努力は、人々の怒りの波に呑まれた。
シジンとテス=ナアヤは、身分を棄て、民の側に身を置こうとした。
うら若き王女の身の安全を、確保して――。
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