幕間 Ⅱ「無垢の聖女」

幕間 無垢の聖女(1)

*時系列では、本編(第一部)開始前になります。シジン=ティーマの回想です。



              1


 古い記憶の窓辺で、午後の日差しが揺れる。薄い更紗をとおして、くすんだ紅色の砂岩で築かれた宮殿の床に色とりどりの影を落とす。生あたたかな風がけだるく夢幻をかきまわし、銀鈴のような少女の笑い声を運んできた。

 本を読んでいたシジンが顔をあげると、少女は長い髪をひるがえして扉の後ろにかくれ、くすくす笑った。無邪気な笑声に、少年は思わず頬を綻ばせた。

 真珠色の肌に、星を宿した夜空色の瞳と髪――傷つくことなど想像もしていなかった、幼い少女。

 少年の世界は、彼女を中心にまわっていた。

 亡くなった王妃に代わり、神官の一家が育てることになった第三王女レイ。シジンの母が彼女の乳母だったので、彼等は兄妹のように暮らした。ともに学び、ともに遊び、ともに未来を夢見て……。

 しかし、わずかに年齢が上であった為に、彼の見る世界は、まもなく彼女のものほど単純ではなくなった。


『シジン。ねえ、おやすみでないなら、話を聞かせて』


 夜毎、少女に神話をせがまれる度、少年の疑問は増していった。世界を創造し、邪悪とたたかう、神々の物語――


 創造神は、偉大なる幻力マーヤーを駆使して世界を三度焼き払った。

 一度目で、罪を犯した旧人類の文明は破壊され、ひとびとは瀕死の状態におちいった。二度目に神の力は水界に及び、地上と海中のほとんどの生命を滅ぼした。三度目の炎は大地を裂き、めくりあげて津波を起こしたので、世界はかつての半分以下の大きさになった。

 残った幻力は太陽神となり、神々はその光のもと三界(天と地とその間の空)を測定した。雨を降らせて河の水を増し、呼気をヴァーユに変えて地上を冷やした。

 太陽神は、火焔のたてがみをなびかせた二頭の馬の曳く黄金の戦車に乗って天を駆け、旱魃かんばつをもたらす悪魔を打ち斃す。

 暁の女神ヒルダは、真紅の衣に身をつつみ、黄金のヴェールをかぶって海の向こうから姿を現す。永遠の者でありながら常に若く、全ての生あるものに生命の息吹を与え、あらゆるものに富と光をもたらしてくれる。――まるで、かの聖山に住む《星の子》のように。その一方、彼女は、死を免れぬものに年齢をもたらすのだ。

 ヒルダの妹ラーマ(夜)は、黒い衣をまとい、輝く星とともに出かける。ひとびとに休息を与え、鳥たちを巣に戻し、家畜を横たわらせる慈愛の女神だ。闇の危険、盗人、獰猛なけもの達からひとびとを保護する。

 ウィシュヌ神は、あたたかな光の粉末で世界を包み、慈悲と秩序ダルマを守護している。普段は穏やかな大神だが、善悪の均衡が崩れる時には、無数の化身アヴァターラとなって正義の闘いにおもむく。

 そしてルドガーは――王女は、特にこの神を好いていた。――嵐と風を従えて天空を馳せ、死の矢をはなつ神聖弓手であり、霊界の王だった。病を癒すものであり、知識を持つものであり、歌と生命を与えるものでもある。額に第三の瞳を持ち、銀の長髪をなびかせ、苦行に臨む修行者サドゥの姿で現れる。


 息もつかせぬ神々の冒険譚を、レイ王女はときに怯え、ときに目を輝かせて聴いていた。語る少年シジンの心は、次第に重く沈んでいった。

 万物を司る神々の物語。それはつまり、民族の戦いの歴史だ。

 神々は天から降臨した。ラージャンはその血族から生まれ、民衆は神によって創られた。故に、この国を支配する王族ムティワナは、神にその権利を委ねられている。

 神民の王族と、混血の自分達と、民衆。その間には、血と身分の壁が厳然と存在する。王宮内を歩く神官族ティーマのために道をあけ、ひざまずく大人達を、十代のシジンは理解できなかった。


 この世界に矛盾はないのか? 

 常に正しいはずの聖人達は、今はどこへ行ったのだ?


 少女が喜ぶ一方、歴史を学べば学ぶほど、シジンは疑問とやりきれなさを感じるようになった。


『ねえ、シジン。お祭りのとき、犠牲を捧げるのは何故?』


 祭壇に飾られた色鮮やかな花々。そのなかに積まれた血のにおいも生々しい犠牲に心をいため、少女は細い眉を曇らせた。

 シジンは彼女と手を繋ぎ、くらい声で答えた。


『神のちからマーヤーの源は、生命の力プラーナだ。多くの犠牲を捧げ、より多くのプラーナを奉ることで、神々は恵みを授けて下さる』

『ふうん。そうなの?』


 シジンは唇を噛んだ。そうだ――その最大のものが、人身御供だ。


 ルドガー神は、雨を降らせてくれる豊穣の神だ。嵐を起こして人々を死に至らしめる戦いの神でもある。神話では、生きものの生命の力「プラーナ」を集め、その神力を高めたと伝えられている。

 かつてルドガーには、人間の妻がいた。スウェリという名のうつくしいむすめに恋をした男神は、天上の生活を捨て、地上に降りて来た。二人は幸福に暮らしていたが、スウェリの父の率いる部族が、ルドガーの守護するムティワ族と対立した。スウェリは父を説得しようとしたが果たせず、嘆き苦しんだ挙句、犠牲祭の火にとびこんで死んでしまった。

 ルドガーは妻の生命の力プラーナを得て敵をたおしたが、人間の世界に絶望して〈黒の山マハ・カーラ〉に籠ってしまった。


 ――この神話を基に、ルドガー神の能力を高めるため、生きた人間を犠牲にする行為が行われるようになった。明らかに異端であり、神殿はやめさせようとしているのだが、密かに行うものが後を絶たない。

 犠牲に捧げられる女性を、《火の聖女サティワナ》と呼ぶ。奴隷身分の女性や子どもが捧げられることが多かった。


 ルドガー神の妻スウェリは称えられたが、サルナームのない奴隷ネガヤーは、ヒトになることはない。

(何故?)

 一方的な父の怒りに、黙って耐える母の姿。その母の八つ当たりに、黙って耐える奴隷達。全ての家族に君臨する彼の小さな王女には、そんな姿を見せたくない。

(何故だ? どうして?)

 間違っていると感じても、ひとりでは変えられないもどかしさ。歪んでいると感じる社会で、その恩恵を受けて安穏と生きているおのれが、シジンは最も嫌だった。


 自分の考えは、他人とは違うのだろうか。間違っているのだろうか?

 間違っているのだとしたら、何故?


 賞賛される側から読めば、違和感のない神話。王女のように疑うことを知らぬ幼い者にとっては、胸を躍らせる夢のような物語。そこに仕組まれた巧妙な罠に気づいた時、若き神官の疑問は、怒りへと変化した――


           *


「シジン! シジン=ティーマ!」


 戸外から自分を呼ぶ声に、青年は振り向いた。透かし彫りの木枠のはまった窓から、外をみる。豊富な水を引いてつくられた四角形の池の周囲に、繁茂する木々が観えた。

 旱魃しらずの王宮の内庭は、しかし、治安の悪化と民の不安を反映して、どことなく荒れていた。手入れのなおざりになった木々の枝は伸びて萎れ、石畳の床には木の葉や小枝が散らばっている。その小道の向こうから、駆けてくる友の姿があった。


「シジン!」

「どうした? テス」


 シジンは窓を開けた。騎士階級ナアヤの友は足を止め、声の出所を探して頭を巡らせたが、すぐに気づき、手を振って呼ばわった。


「《火の聖女サティワナ》だ! 早く、止めてくれ!」

 シジンは、己の顔面から血がひくのを感じ、急いで立ち上がった。




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