第一章 風追い(6)
6
トグリーニ部族の騎馬軍団は、タサム山脈の北の
雪はこちらでも積もっていたが、盆地を流れるテュー川はまだ凍っていなかった。およそ三十万の軍勢は、川の北岸を南東へ遡った。事実上、この川が、トグリーニ部族とタァハル部族、草原とニーナイ国の境を成している。
乾いた冷たい風が頬を刺す。馬上で食事を摂るトグルの右隣には、隼がいた。左には、鷲が。
白い
オダは集団の後方にいて、故郷へもどる女達の馬車の群れを先導していた。馬車はみな荷台の上にユルテ(移動式住居)を建てた大型のものだ。なかは暖かく、食糧も燃料も十分積まれている。
騎馬軍は黙々と速歩で進み、陽が西へ傾きかけた頃、シェル城とその防壁を望む湖の北岸に辿りついた。馬を替えろと号令が下る。
進軍を続けるため、彼等は、騎乗している馬の他に二、三頭の替え馬を連れていた。馬の数は人間の三倍にのぼる。飼料も大量だ。
『この軍団を、シェル城にたてこもるタァハル部族の兵士達は、どんな思いで眺めているだろう』 と、オダは思った。
トグルはどんな時も、漆黒の名馬・
馬を愛する遊牧民にとって、脚の速い丈夫な馬を育てることは生きがいと言っていい。隼の
そのジュベの美しい
「ワシ、時間がない。お前なら、どう攻める?」
台詞とともに白い息が風に流れる。苦笑を含むトグルの声に、鷲は彼を見遣った。悪戯めいた光が瞳に閃く。
「何だ? 俺に、やらせてくれるわけ?」
鷲の声が嬉しそうに聞えたのは、隼だけではなかったろう。
トグルは
「うずうずしているのではないかと、思っただけだ」
鷲はにやりと笑い返し、馬を降りた。《星の子》の杖を片手に、鹿毛の頚を軽く撫でて歩き出す。手綱は、シルカス・アラル氏族長が預かった。
鷲は、軍団の前にすすみ出て、腕を組んだ。
強風が、鷲の長髪をもてあそぶ。夕暮れの日差しと凍った空気を反射して赤銅色に輝く
鷲は足元の湖を見下ろし、そこから流れでる川を眺め、雪をいただく遠い山並みへと視線を動かしたのち、ぼりぼり項を掻いた。のんびりとぼやく。
「余計な物が多いんだよなあ……。おお~い、オダ」
鷲は、眼をまるくして首を伸ばす少年に、まるで夕食の
「わりぃ。ちょいと冬越えしにくくなるかもしれないぜ」
「え?」
トグルは、きょとんとする少年と鷲を交互に眺めた。鷲は、湖岸の凍った土を杖でつついている。
「鷲」
小声で呼ぶ隼に、鷲は片目を閉じてみせた。それから、頬をひきしめて山々に向き直る。
全員の視線が、世界を破壊する
鷲は杖を握った右腕を伸ばし、両足をひろげ、静かに立っていた。巨大な世界を前にひるみなく佇む男を、トグルは眩しげに眺めた。
と。
風になびいていた鷲の長髪が、背景から浮き上がった。蒼白い光に縁取られてぼうと輝く長身を、一同は息を呑んで見守った。
鷲は、湖を見詰めている。髪が戦旗さながら激しく揺れ、ふちどる光が強くなる……雪よりも、星よりも明るく。
「鷲……」
もう一度、隼は呼んだ。彼女は眼を細めなければ仲間を観ていられなくなっていた。
トグルは左手をあげ、目陰をさした。
馬たちが首を振って足踏みをし、兵士達がざわめく。光とともにビリビリと振動が伝わって毛を逆立て、不安をかき立てた。
「鷲さん!」
オダは息を呑んだ。彼が、おそらく今までで最も強大な力を発揮しようとしていると気づいたのだ。
鷲の表情も平静ではなくなっていた。眉間に皺を刻み、山々を睨みつけている。その姿が完全に光に没した、次の瞬間、
「うりゃ!」
短い掛け声とともに鷲はおおきく杖を振った。――光は、彼の腕を離れて球となり、空気を震わせて飛んだ。大地も身震いしたようだった。
男達は手綱を引き、逃げようとする馬をなだめた。
白い光球は、表面に青い雷光を幾筋も走らせて急速に巨大化した。津波さながら拡がって湖面を覆うと、ビキビキと音を立てて凍らせ、一気に対岸へと駆け抜けた。氷の粉を含む風が吹き抜け、重い大気が軍勢を圧しつつんだ。
男達は、凝然と見詰めていた。
光と風と稲妻の固まりがぶつかると、どおんという鈍い音を立てて、シェル城の防壁が崩れ落ちた。続いて、石造りの塔が。振動は城の麓の街を抜け、その向こうの山体を震わせ、幾重もの木霊となって返って来た。錯覚ではなく地面が揺れる。
凍った湖はひび割れ、厚い氷がメキメキと唸りながら無数に立ち上がった。
そして、鷲は己の能力の反動を受け、尻餅をついた。帽子が落ちる。
「鷲!」
隼は、両脚を投げだした仲間が肩で息をするのを見た。ひどく疲れてはいたが、頭を掻いて呟く口調は、普段どおりだった。
「ふう。まずった……。怪我人が出たかな」
トグルは呆然とし――己が観たものを
「ワシ。……愛してるぜ」
「嬉しいわ。それで、何番目の奥様にして頂けるの?」
「生憎、俺は独身主義者だ。トゥグス!」
疲労困憊の鷲を、トグルは既に見ていなかった。長剣を抜き、高くかざして、滑らかな声を張り上げる。
「ウグル! 貴様に任せる。行くぞ、アラル!」
「
「……ちょっと待てよ、おいー」
勝鬨をあげて駆けてゆく騎馬の群れを避け、鷲はぼやいた。踏まれそうになった帽子を拾い、尻餅をついたその場に胡坐をかく。流石に、冗談を言う気力は失せていた。
「人遣いのあらい野郎だな、まったく。今回、俺は、いいとこなしじゃないか……」
「鷲!」
隼が呼ぶ。鷲は、彼女が鹿毛の手綱を握っているのを見つけ、苦虫を噛み潰した。
トグル率いる軍勢は、凍った湖を迂回して駆けて行く。
隼は、鷲のそばまで
鷲は帽子をかぶり直すと、ふうと溜息をついて立ち、
ブルルルルッ…!
普段おとなしい牡馬が鼻を鳴らしたので、鷲はかるく驚いた。構わず手綱を引き寄せる。
「おい、どうした?」
鹿毛は歯をむき、足を踏んばって抵抗した。怯え、眼をみひらいている。
『え……?』
鷲は彼の首を撫でようとして、違和感に気づいた。己の右掌を凝視する。
何が起きているのか。鷲には、まだ分かっていなかった。
オダは迷っていた。自分も行きたいが、成すべきことはここにある。女達の馬車を無事にシェル城下に入れ、落ち着くのを確認しなければならない。しかし、それからでは、彼等を見失ってしまうだろう。
途方に暮れる少年の肩を、誰かが叩いた。
「
振り向くと、いつの間に来たのか、オルクト氏族長が側に居た。彼は、ふさふさの黒髭を動かして少年に話しかけた。
「と、言うことは。我々に代わり、オーラト族が王に従うということだ。
「え?」
「早く行け、小僧」
氏族長はにやりと嗤い、厚い胸を揺らした。
「女達は、儂とウグルが責任をもって城下に入れてやる。
「はいっ!」
オダは頬を染めて叫ぶと、馬に鞭を当てた。馬首にしがみつくようにして駆けて行く少年を、オルクト氏族長は頼もし気に見送った。勇んで攻め入ろうとする部下達を、のほほんと宥める。
「こらこら、無駄な殺しをするなよ。……殺すな、いいか。それが王と天人の御意志だ。我々は、これ以上、殺しても殺されてもいかんのだ」
ニーナイ国の女達は、荷車のユルテから顔を覗かせ、戦況を見守っている。
笑って天を仰いだオルクト氏族長の目に……天人達と一緒に風を追って駆けて行く
~第二章へ~
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