第五章 馬頭琴(5)

*性的な描写があります。


            5


 夜明けが近づくにつれて、重い冷気がユルテ(移動式住居)を包んだが、炉中の炎の勢いは衰えず、部屋をあたため続けていた。消えた灯火の代わりに、やわらかな緋色の光を周囲へ投げかけている。その光と蒼い夜の影が交わる境界に、二人は身を横たえていた。

 柳の枝を組み合わせ、羊の毛皮を重ねた寝台は、ひろく温かい。さらに、トグルの腕に抱かれ、かたい胸に頭を預けて、隼はまどろんでいた。

 感情のたかぶるままに求めあう激しいひとときが過ぎると、二人の間には、深い愛情といたわりがあった。トグルは優しく彼女を抱き、隼も、彼を抱いた。果てなく打ち寄せる波のごとく、草原を揺らす風のごとく、繰り返す行為は、二人を何度もたかみに押し上げた。隼は歔欷きょきの声をあげ、かれをいだきながら名を呼んだ。トグルは無言だったが、湧きおこる愛しさをもはや押しとどめようとはせず、忘我のときに浸っていた。

 やがて二人は、情交の後の気だるい身体を寄せ合い、暖かな毛布と長衣デールに覆われて眠りに就いた。


 隼が眼を開けると、トグルは彼女の肩に片手をのせたまま、天窓を仰いでいた。

 怜悧に切れあがった瞼の下で、半ば伏せられた睫毛に、新緑色の瞳がけぶっている。消えかかる星の光を眺める横顔に表情は無かったが、双眸に宿る影は、淋しそうにも哀しそうにも見えた。

 孤高の狼を想わせる風貌をしばらく見詰めたのち、隼はそっと訊ねた。


「何を、考えている……?」


 静かな囁きに、トグルは瞬きをして彼女をみた。隼は身を起し、両肘を立てて顔を上げた。白銀の髪が炎の光を反射してきらめきつつ、なめらかな裸の肩を滑り落ちる。

 トグルは、かすかに唇を歪めた。


「……こんな時に考えるようなことではないか」


 怪訝そうな隼に自嘲気味に嘲ってみせると、トグルは左手を動かして、彼女の髪をいた。ほつれた毛を撫でつけ、息だけで言う。


「どうすれば、ニーナイ国に、タァハル族から手を退かせられるか、考えていた……」


 隼が真顔になる。深い湖のような瞳を見返し、トグルは瞼を伏せた。


「仲間と俺達の間で、お前を悩ませたくなかった。『自分が人質になるから兵を退け』 などと、言わせたくなかったのだ……もう二度と」

「だから、あたしを〈黒の山〉に置いて行ったのか?」


 トグルは真摯に頷き、また考え込んだ。

 隼は、彼の思索の邪魔をしないように黙っていたが……ふと、その右腕に触れた。


「感覚はあるんだろう?」

「あ? ああ」


 不思議な病気だと、隼は思った。トグルの肩幅も胸の厚みも、引き締まった腹や大腿の筋肉も、記憶のなかのそれと変わりはない。うち続く戦闘によって、以前より逞しさを増したようですらある。それなのに……。

 そこだけ奇妙に痩せて骨の形が判る前腕を、隼は、いとおしむように撫でた。浮き上がった血管を、指先でたどる。


「痛くはないか?」 

「大丈夫だ」


 トグルの声にわらう響きが混ざった。彼女を安心させるためだったが、真実を求めるひたむきな眼差しに出会うと、ためらい気味に付け加えた。


「……筋肉が壊れると、時に引きるようになる。その時だけは、痛い……。心の臓が攣ると、痛みとともに脈が跳んで意識を失う。脈が元に戻るまでは、動けない」


 説明を聴いた隼は、身を伏せ、彼の右手に片頬をおし当てた。トグルの胸に、絹のような銀糸の髪がこぼれ落ちる。

 掌に口づけする彼女を、トグルは、眼を細めて眺めた。


「……あたしが、お前の、手になるよ」


 頬をおし当てたまま、隼は囁いた。


「右手になる。左手に……。歩けなくなったら、足になる。お前を守る、剣になる。だから――」


 隼が言い終える前に、トグルは首を横に振った。彼女の頬にかかった髪を指先で戻しながら、言葉を探した。


「これは、俺達の闘いだ」


 トグルは、慎重に応えた。


「ハヤブサ。お前の……お前達の申し出は、有難いと思っている。しかし、分かってくれ。強情を張るようだが」

「…………」

「数百年に渡ってニーナイ国とキイ帝国と戦い、同じ草原の中でさえいがみ合い、殺し合って来た。憎しみは、俺達が自分で創り、育てたものだ。俺達の手で、葬らなければならない」


 隼のどこまでも真っすぐな瞳を、トグルは眩しげに見詰めた。


「お前達や《星の子》の助力を得たいのはやまやまだが、それでは問題の解決にならない。まず、俺達自身が、憎しみを消す努力をするべきだ。その為に、タァハルとタイウルト族と話し合い、共存の道を探した。だが、拒絶された……。そうなると、俺達のやり方としては、剣をって戦うしかない」

「…………」

「俺達は、〈平和〉を知らぬのだ、ハヤブサ」


 ぽつりと言ったトグルの言葉に、隼は息を呑んだ。


「お前の言う〈平和〉がどのようなものか、俺も、タオも知らない。幼い頃から、俺達にあったのは、戦争とその間の休息だけだ。……お前達から見れば愚かでも、他に採るべき方法を知らぬ。奴等が戦うのなら、俺達も戦う。奴等が必死なように、俺達も必死だ。上から与えられる〈平和〉では、意味を成さぬのだ」

「……分かるよ」


 隼が吐息混じりに応えたので、トグルは口を閉じた。彼女は、冴えた眼差しを彼に当てた。


「トグル。あたし達が関わりたいのは、お前達ではなく、『お前』だよ……。お前を怒らせたことは反省している。でも、あたしは、ここに居たいんだ。お前と、生きていたいんだ」


 トグルは、やや眼を細めて彼女を見詰めた。隼の瞳が、一瞬、哀しげに揺れた。


「あたしとお前は、確かに、考え方が違う。文化が、価値観が、言葉が違う。それを変えてくれとは言わない。あたしも変えられそうにない。けれど、」

「…………」

「お前に会えなかった間、ずっと考えていたんだ。トグル。お前が目差しているものと、あたし達が求めているものは、同じだ。方法は違っても、同じものを追うことは、出来る」

「…………」

「あたしは、お前が間違っていると思えば、そう言う。可愛げのない女だ……。それでも、お前の側に居たい」


 トグルの眼が、元の大きさに戻った。切れ長で陰りがちな瞳が、緑柱石さながら彼女の顔を映す。

 隼は、その瞳を見返せなくなり、項垂れた。


「一緒に生きて、方法を考えたいんだ。お前と……。それでは、駄目か?」


 トグルは眼を閉じ、深く息を吸い込んだ。彼女が身を寄せている広い胸がゆるやかに上下し、溜め息とともに言葉を吐いた。


「この地を平和にしてから、迎えに行きたかったのだがな……」


 トグルは、野性味を帯びた微笑を唇に浮かべ、痩せた右手で彼女の髪を撫でた。


「分かった、ハヤブサ。だが、俺の手足となる必要はない。お前は……、そうだな」


 トグルは軽く首を傾げた。低い声は、触れている胸から直接、隼の身体に響いた。


「俺が死んだら、瞼を閉じさせてやってくれ……」


 隼は、ほそい腕をひろげて彼を抱いた。胸に胸をかさね、首筋に頬をおし当てる。

 抱き返さずに、トグルは彼女の髪を弄んでいたが……そっと囁いた。


「許してくれ。お前を、傷つけた。……お前達を」


 彼の肩に顔を埋めたまま、隼は首を振った。

 トグルは細い弓のような彼女の身体を抱き、しならせた。


「許してくれ。お前を傷つけることより……お前達を失うことより、俺は、俺自身を失うことの方が、恐かったのだ」


 この言葉に、隼は、かたく彼を抱き締めた。今生きている彼の生命と、一つになろうとするかのように。素肌を通して伝わる鼓動とぬくもりが、たまらなく愛しく感じられる。

 このまま、時が止まって欲しかった。


 隼を抱きながら、トグルの目には、ユルテの壁に立て掛けたままの馬頭琴モリン・フールが映っていた。薄闇の中で、それは本来なら鮮やかな色彩を見せているはずだったが、うっすら埃を被り、手入れされないまま打ち捨てられていた。

 二度と、奏でることはないのかもしれない。


 トグルは眼を閉じると、もう一度、彼女を強く抱き締めた。己の中から流れ出してゆくものを、ぬくもりで塞き止めようとするかのように。左腕で骨も折れんばかりに抱いてから、腕の力を緩めた。彼女の玲瓏としたかんばせを覗き込む。

 くらい緑の瞳の奥に、隼は、確かな意志を見出した。

 トグルはわずかに表情を和ませると、身を起こし、彼女を置いて寝台から降りた。濃紺の長衣デールをまとう。

 広い背に、隼は訊ねた。


「どこへ行くんだ?」


 不安げな声に、トグルは振り返り、穏やかに微笑んだ。襟をとめ、腰帯ベルトを締めながら言う。普段の彼の口調だった。


「馬の様子を見に行って来る」

「…………」

「放牧地に出しているのだ。ジョルメとタオが何とかしてくれているはずだが、この雪だ。今年生まれた仔馬が、気に懸かる」


 隼は、眼を伏せた。そうだった。――遊牧民にとって、家畜の群れは財産である以上に、文字通り生命だ。ひとたび本営オルドウへ戻れば、休む間もなく本来の仕事が待っている。深夜の吹雪に対しては、羊達を寄せ集め、馬を凍えさせないよう一晩中追って歩かせることすらあるのだ。

 彼のことで頭がいっぱいだった彼女は、己を恥じた。


「ごめん。あたしのせいだね」

「何を、言っている」


 トグルの声はわらっていた。彼は、少し迷ってから片手を差し出した。左手をひろげ、誘う。


「お前も、一緒に来るか?」


 隼はぎこちなく微笑むと、寝台から滑るように降り立った。蒼い長衣デールを羽織り、片手で胸元を掻き合わせながら、もう一方の手を彼に預ける。

 月光が人の姿を借りて降りて来たような彼女を、再び抱き寄せると、トグルは、想いをこめて唇を重ねた。



               *



 雪原を鹿毛かげって駆けて来たタオは、馬上から雉の姿を見つけ、手綱を引いた。

 ユルテから少し離れた斜面に、雉は佇み、厚手の外套チャパンの懐に片手を入れている。端麗な横顔を、白い朝日が縁取っていた。

 タオは、一瞬、彼に声を掛けることを躊躇した。

 少女か未熟な少年のように繊細な風貌は、内心を窺わせない。柔らかな若葉色の瞳は長い睫毛にけぶり、ゆるく巻いた銀灰色の髪が北風に吹かれている。ゆったりとした外套チャパンの中で、痩躯が折れてしまいそうだ。ただでさえ天界から降りた天人テングリのように非現実的な姿が、いっそう儚く見える。


「キジ殿?」


 タオは馬を降り、近付きながら呼んだ。吐く息が白くなって風に流れる。

 雉は弱々しく微笑んだ。額にかかる前髪を掻き上げ、薄桃色の唇から、やや皮肉めいた声を滑り出す。


「おはよう、タオ。早いね……。隼が戻らず、君が来たってことは。話がついたみたいだな」


 突然、タオは気づいた。勝気なひとみを大きくみはり、息を吸った。


「キジ殿。もしかして、キジ殿は……?」


 雉は答えずに、彼女から顔を背けた。苦虫を噛み潰す。

 タオは狼狽うろたえ、思わず頭を下げた。


「申し訳ない。気づかずに、私は……。随分失礼なことを、申し上げたのではないか?」

「君が謝るようなことじゃないよ」


 雉は彼女に向き直ったが、トグルと同じ鮮やかな新緑色の瞳に出会うと、瞼を伏せた。


「本当に、謝るようなことじゃない……」


 タオは混乱し、何と言ったらよいか判らなくなった。


「何故、教えて下さらなかったのだ? ハヤブサ殿は御存知なのか? あの方を連れて行く機会は、いくらでもあったはずなのに」

「タオ」


 雉は溜め息を吐き、舌打ちした。


「――言わないでくれないかな。ただでさえ、今、自分の莫迦さかげんを痛感しているところなんだから」


 タオは、おろおろと両手を揉み、視線を彷徨わせた。


「私が、あのようなことを申し上げたからか?」

「そうじゃないよ。おれは……」


 雉は首を横に振った。滑らかな声に疲労が混ざる。タオが彼の視線の先を見遣ると、ちょうど鷲がユルテから出てくるところだった。

 鷲は、腰を覆うほどもある豊かな銀髪を揺らし、のんびり欠伸をしてからやって来た。〈黒の山〉の巡礼者が身につける外套チュバを羽織った彼は、悠然と二人を見下ろした。


「よお、早いな。何やってんだ? こんな所で」


 タオは雉を顧みた。雉は苦嘲いした。

 鷲は煙草を口に入れ、二人の顔を怪訝そうに見比べた。


「どうした。朝っぱらから深刻そうな顔しやがって。邪魔したんなら、帰るぜ」

「鷲」


 踵を返そうとする相棒を、雉は呼び止めた。鷲の片頬に、苦笑が浮かぶ。

 鷲は、鼻の下を手の甲でこすり、深くひびく声で言った。


「やっと結論が出たようだな」


 タオは黙っていた。雉は、自棄やけ気味に言い返した。


「まったく。おれだけ、莫迦みたいだ」

「当然だろ。お前、莫迦だもん」


 雉は絶句すると、片足を上げ、相棒を蹴る仕草をした。鷲はひらりと避ける。かわされて新雪に足を突っ込んだ雉は、それ以上追おうとはしなかった。鷲が、ゆるやかに声をあげて笑い出す。

 タオは、二人を呆れて見ていた。


「鷲」


 瞼を伏せ、雉は囁いた。相棒の片方の眉が持ち上がる。


「これで良かったのかな、隼は……。あいつら、本当に」

「俺が知るかよ」


 タオには言わなかった雉も、相手が鷲なら心情を吐露するらしい。鷲の方は、タオの存在を気遣い、やや憮然と言い返した。


「そんなこと、俺に判るわけがないだろう。奴等にだって判らないんだから」

「そうだよな……」


 雉はふかぶかと嘆息した。鷲は、相棒を心配そうに眺めた。雉は顔を上げ、口調を変えて話し掛けた。


「鷲。お前が隼を止めなかったのは、意外だった」


 鷲は眼をすがめた。雉は唇の片端を引き、陰気にわらった。


「お前は、トグルの考えを知っていたはずだ。それなのに、何故だ? おれは莫迦だが、お前はんじゃないか」


 雉は胸の前で腕をくみ、挑戦的に鷲を見上げた。

 鷲は煙草を噛みながら、左脚にかけていた重心をゆらりと右へ移した。煙草を噛むのを止め、ぼそりと答える。


「……俺も、いつか死ぬからだろうよ」


 鷲はぼりぼりと首の後ろを掻き、雪原を眺めた。鼻から息を吐き、静かに語った。


「トグルが隼から距離を置きたがっているのは、分かっていた。一緒にいられないと考えていることは……。けどなあ、俺達は、自分で自分の気持ちを常に把握できているわけじゃない。トグルあいつみたいに、王やら族長やら果たす役割が多くて、周りの期待や駆け引きに応じなきゃならないんじゃ、なおさらだろう」

「…………」

「トグルのほんとうの希望を知りたかった。――俺は自分勝手で弱いから、もし 『一人が犠牲になれば、世界中の人間を助けてやる』 と言われれば、手近の嫌いな野郎の背中を蹴って前へ出す。トグルがそいつを買って出たいんなら、勝手に死ねと言うつもりだった。……でも、そうじゃない」


 鷲は肩をすくめ、困ったように苦笑した。首を反らして天を仰ぐ。黎明の空は、東から昇る朝の光を浴びて、紺から紫、紫から紅に染めかわり始めていた。


夏祭りナーダムの時に、トグルの友人(シルカス・ジョク・ビルゲ)が死んだ。あいつは、その友人の為なら人を殺すのも構わないと言っていた……。即位は、トグルにとって方便だった。目的の為に、俺達と衝突はしたくない。まして、病気を知られて同情なんざされるのは、死んでも嫌だった。そんなところだろ」


 身も蓋もない言い方に雉は呆れたが、鷲の口調は、子守歌のように穏やかだった。


「なあ、雉。お前は病人を治す、怪我人を。それは誰かの為か? だろう? やってるだけで、他人ひとからどう思われようと、知ったことじゃないよなあ。トグルも同じだ。それが戦争になっちまうところは、あいつらしいが」


 鷲はにやりと唇を歪めたが、すぐにわらいを消し、しみじみと続けた。


「俺は、トグルと俺は似ていると思った。俺達の誇りは、他人に認められることじゃない。自分てめーに背かず生きるということだ。今の自分に必要なことを、あいつはちゃんと知っていた。それは、隼と運命を嘆いたり、寿命を延ばす為に養生したりすることじゃない。――隼にそれが解ってるなら、俺が止める理由はねえよ」


 雉は黙って、相棒の言葉の意味について考えた。

 タオが、やや茫然と言った。


「ワシ殿がハヤブサ殿に 『考えろ』 と仰ったのは……兄上のやまいのことでは、なかったのか」


 鷲はフッと苦笑すると、からかいをこめて言った。


「『病気だから』 別れるんなら、そうでなければ 『誰でもいい』 んだな? 隼にとって。雉でも、俺でもいいわけだ」

「それは……」


 タオは息を呑み、雉は眼を丸くして相棒を見詰めた。

 鷲は、二人の反応をたのしんでいた。


「違うだろ。俺達は、一緒に生きる相手を、そんな風に選んでいない。ただ、トグルが 『隼とやっていけない』 と思うなら、やっていけないんだ。病気だろうが健康だろうが、明日死のうが百年先だろうが」

「…………」

「勘違いするなよ、タオ。悪い意味じゃない。お前のそれは、思い遣りだ。トグルは俺達を思い遣るあまり、どうしたらいいか分かんなくなって、全部ひとりで抱え込んだんだ。――隼も、今は分かっている」


 鷲の苦笑はほんとうに優しいと、タオは思った。


「トグルに 『やっていけない』 と思わせたのは、隼だ。トグルが欲しいなら、隼が、自分でそいつを変えなきゃならない。そんなの、俺が口出すことじゃねえよ」


 雉は、急に肩の力が抜け、嘆息した。


「単純だなあ、お前は」

「そうか? お前がややこしくしているだけだろ。お前と隼だって、そうだろうが。どちらか一方が駄目だと思っている限り、どうにもならん。……俺が 『鷹じゃなきゃ駄目だ、あのお姫様とはやっていけない』 と思っているのと同じだ」


 ギクリとする雉に、鷲はわらいかけ、長髪を肩に掻き上げた。己に言い聞かせる口調だった。

「大丈夫。あいつはヤワな女じゃない……。俺は、トグルと一緒に行くと決めた」

「おれは、一旦〈黒の山〉に帰るよ」


 雉は静かに応じた。タオが眼を瞠ったが、鷲の態度は変わらなかった。

 雉は、自嘲気味に肩をすくめた。


「おれは、もう少しで、トグルに言うところだった。『王を退位しろやめろ』 と。『部族を捨て、隼と一緒に〈黒の山〉で暮らせ』 と。『隼の為だけに生きると誓うなら、たすけてやる』……」


 タオは、こぼれ落ちんばかりに眼をみひらいた。鷲は、苦嘲にがわらいしてかぶりを振った。

 雉は、うすく哂った。


「勿論、トグルは死ぬ方を選んだろう。おれも、自分が出来ないことをふっかけるほど、性悪じゃない。でも、《星の子ルツ》はこうなることを知っていたはずなんだ。あいつの病気も」


 鷲は、白い息を吐いて雉を見下ろした。真摯な若葉色の眸に、雉は笑い返した。


「あいつらがいちゃついてるのを見せられるのは、癪だからな。いま治療中の負傷者と、レイのお産が終わったら、おれは、〈黒の山〉に帰ってルツと相談するよ。〈草原の民〉を救う方法を探す。……トグルあいつだけでも、救けたい」

「キジ殿……」


 タオは、涙ぐみつつ微笑んだ。

 鷲は外套チュバの懐に片手を入れ、雪原に向き直った。なだらかな丘陵に、ところどころ身を寄せ合っている馬たちがいる。


「今度は、お前の番だな」


 雉が小声で言うと、鷲は眉根を寄せ、フンと鼻を鳴らした。

 雪原に、二頭の馬が現れた。あおと葦毛だ。速歩はやあしで、雪を蹴立ててやって来る。

 タオは、鷲の独り言を聞いた。


「さて……さんざん、ひとを振り回してくれたんだ。どんなつらで会いに来るか、見物させてもらおう。たっぷりおちょくってやるからな」


 雉は黙っていた。繊細な相棒と対照的に、鷲の笑みはふてぶてしい。

 風が三人の髪を掻きあげ、外套の裾とともにはためかせた。白金の日差しを浴びて、吹き上げられた雪片が煌めく。


 仲間の姿をみつけた隼は、葦毛ボルテの足を止め、振り向いた。深遠なる闇を宿す緑柱石の瞳がそこにあるのを確かめて、手綱を引く。


 晴れた空と白い大地の境界でふたたび集う彼等を、レイは、ユルテの戸口の柱に寄りかかって眺めていた。






―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

* トグルとシルカス・ジョク・ビルゲの病気は違います。

 ジョクにはDuchenne型筋ジストロフィーや肢帯型ジストロフィーの、トグルには筋強直性ジストロフィーや遺伝性筋萎縮性側索硬化症(FALS)、脊髄性筋萎縮症(SMA Ⅳ型)などを連想させる描写が登場しています。しかし、本作品はフィクションです。遺伝形式や浸透率、細かい臨床症状などは、いずれの疾患にも当てはまらないようにしています。〈草原の民〉の疾患は、すべて架空のものです。

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