第五章 馬頭琴(4)


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 まとまらない気持ちのままユルテ(移動式住居)を訪れた隼は、扉を開けた途端、小麦の焼ける香ばしい匂いに包まれて驚いた。

 みひらいた瞳に、トグルの姿が映る。絨毯に直に胡坐あぐらを組んでいた彼は、長い前髪の下から底光りのする碧眼で彼女を見据えた。


「入れ」

「…………」

「入って、扉を閉めろ」


 隼は、部屋に足を踏み入れた。丁寧に扉を閉めて、向き直る。

 トグルは、チャパティ(薄焼きパン)を裏返した。いつものように真ん丸なそれが綺麗に焼き上がっているのを確認すると、皿にのせ、彼女に視線を投げた。


「座って、まず、これを喰え」

「あの。トグル?」

「喰、え。話はそれからだ」


 仕方なく、隼は、彼の向かいに腰を下ろした。胡坐を組もうとしかけて止め、膝を崩して坐り直す。トグルは、彼女に焼きたてのチャパティを差し出した。


「……喰わないと、俺は話をしないぞ」


 乳茶スーチーをいれた椀に岩塩を添えて、彼女の前に置いた。

 隼は戸惑いながらチャパティを手にとり、口をつけた。乳酪チーズの甘い薫りがする。上目遣いにみると、トグルは胡坐を崩し、片方の膝を立てた上に左腕を載せて彼女を見ていた。

 鮮やかな緑柱石ベリルの眸と目が会い、隼は項垂れた。しおれた少女のような彼女の仕草を、トグルは、やや憮然と眺めていた。


 隼と同じく、トグルも、話の切り出し方に悩んでいた。ぼそぼそとチャパティを齧っている隼とそれを眺めている自分という図は、傍目には滑稽に映るだろう。とりあえず、彼女が食べてくれたので、安堵する。

 トグルは、内心で舌打ちした。今更のように、捕らわれた己の心に気づく。


 隼がチャパティを半分食べ、お茶を飲み終えるのを待って、トグルは口を開いた。


「お前、俺を困らせたいのか?」


 隼が、彼を観た。

 透徹な冬の夜空のような瞳を直視するのが辛く、トグルは眉根を寄せた。繰り返す。


「俺を困らせるのが、たのしいか……?」

「……ごめん」


 隼は残りのチャパティを皿へ置き、項垂れた。紺碧ラピスラズリの瞳が銀の睫毛にけぶり、白い肌が炎に照らされて輝くのを、トグルは眼を細めて眺めた。

 懐かしい声が、弱々しく囁いた。


「分かっていたんだ。でも、自分ではどうしようもなかった。有難う、心配してくれて。……余計な心配をかけて、ごめん」

「分かっているなら、帰ってくれ」


 疲れた声でトグルは言い、隼は呼吸を止めた。ゆっくり顔を上げ、彼を見る。

 灯火に透けそうに儚い風貌かおを、トグルは凝視みつめた。


「ハヤブサ。二度は言わない。仲間と一緒に、本営オルドウを離れてくれ」


 凍った表情を痛ましげに眺め、トグルは嘆息した。


「お前に隠していて、済まなかった。だが、ないがしろにしていたわけではなく……今のような思いをさせたくなかったからだ。お前を、俺達の運命に巻き込みたくない。頼む」


 隼は眼を伏せ、小さく首を横に振った。口惜しげに唇を噛む。


「帰れない、あたし達は。そんな理由じゃあ」

「…………」

「お前こそ。あたし達の気持ちを、解っているのか? あたしの、気持ちを――」


 隼は思い切って問い返したが、トグルの怜悧な眼差しに出会い、途方に暮れ、また項垂れた。

 およそ思いだせるかぎり常に毅然としていた彼女が動揺しているさまに、トグルの胸も苦しくなった。


「お前、あたしのことが、嫌いになったのか……?」

「……何故、そういう話になるのだ」


 隼が呟くと、トグルの眼がわずかに見開かれた。滑らかな声に呆れた調子が交じる。緑柱石の瞳の表面に、一瞬、感情が過ぎった。


「だって」

「どこをどうしたら、そういう結論になるのだ」


 己の心が波立ったことに気づいて、トグルは苦虫を噛み潰したが、言葉を留めることは出来なかった。それほど、彼女の様子は頼りなかった。

 故に、


「何をどう取り違えて、お前がそんなことを言っているのか、分からぬが、」

 苦渋に濁る声で、トグルは続けた。

「――その気になれば、俺はお前達を追い出せることを、忘れたのか」

「でも。あたし達は、お前に迷惑ばかりかけている……」

「お前達のすることで、世話が焼けると思ったり、心配したりしたことはあるが、迷惑に思ったことはない」


 疲れていたが、彼の声には真実の響きがあった。隼が顧みる。

 トグルは、彼女を真っすぐ見詰めた。


「ハヤブサ。お前と価値観が異なり、生き方が異なることを、残念には思うが、それでお前を嫌ったり、重荷に感じたりしたことはない……。お前の望むようにしてやれない俺自身が不甲斐なく、申し訳ないと思っているが、お前達が間違っているとか、まして、俺に合わせて変えようなどと、考えたことはない」


 トグルは眼を伏せ、いったん言葉を切った。眉間に深い皺が刻まれる。しばらく考え、呻くように言った。


「俺は、お前達の正しさを痛感している。自分が選び認めた者の正当さを確認することは、苦痛ではない……。お前は、それでいい。俺の方が、お前の望むように生きられないだけだ」


 隼はこの言葉を聞くと、視線を己の膝に落とした。両手の拳を膝にのせ、そのままじっと耐えていたが、やがて、震える声で訊いた。


「ここに、居させてくれないか?」


 面を上げる隼を、トグルは見た。隼は懇願した。


「そう思っているのなら……嫌っているわけでないのなら。お前の側に、居させてくれないか、トグル」


 トグルは重々しくかぶりを振った。隼のやわらかい紅色の唇が、わなないた。


「何故?」

「……言ったろう。俺は、病人だ」


 隼は、彼を見詰めたまま呼吸を止めた。トグルは彼女から顔を背け、ユルテの壁にかかった氏族旗を眺めた。


「やがて動けなくなり、死んで行くと判っている身だ。その間、どんなに短い時間だろうと、嫌でも、他人の情けに縋らなければ生きていけない身体となる……。そんな姿を、お前達に見せたくない。お前には」

「…………」

「こんなことを、言わせるな」


 トグルは深々と溜め息をついて、左手で顔を覆った。低い声に苦痛が滲む。隠し切れない苦悩が、精悍な頬を歪ませた。


「そんな顔をするな、ハヤブサ。お前の気持ちは承知している……有難いと思っている。だが、解ってくれ。何故お前に隠していたのかを、察してくれ」

「…………」

「タカやニーナイ国のことがなくとも、こんなことを教えれば、お前は、必ずここへ来ると言い出した。お前達は、そういう人間だ……。そして、俺は、拒めなかった」

「…………」

聖山ケルカンで……あの時、お前がそう口に出していたら。俺は拒めなかっただろう。ますますそうなると承知していた。……病が重くなれば、俺とて心が弱くなる。お前達のことを考える余裕がなくなる。己を見失えば、俺は、お前に縋りたくなるだろう。……同情だろうが何だろうが構わずに、居て欲しいと言い出すだろう」


 言い返そうと鋭く息を吸い込む隼を、トグルは首を振って制した。ふだん単調な声が感情を抑制して震え、彼女の胸を切り裂いた。


「一度でも、そんなことを口にしてしまったら。俺は、お前を憎まなければならなくなる……。お前達を、いつか必ず、憎み、軽蔑するようになるだろう。だから――」

「同情?」


 隼は、さあっと蒼ざめた。囁く声が凍える。


「同情していると言うのか、あたし達が、お前に。……あたしを、そんな風に、思っていたのか」

「そんなことは、どうでもいい」


 傷ついた彼女の口調に、トグルは動揺した。眼を閉じて己の気持ちを落ち着け、言い直さなければならなかった。


「今更、そんなことを言っても仕様がない。聖山ケルカンへ帰ってくれ、ハヤブサ。もう、俺を放っておいてくれ」


 しかし、隼は彼を凝視みつめていた。

 灯火を反射して揺れる紺碧の瞳を見返せず、トグルは苦渋を呑んだ。


「頼む。これ以上、お前を見ているのは辛いのだ。俺を苦しめないでくれ。――お前を苦しめたくはない。不幸になったお前達を、見たくはない」

「…………」

「それが、結局、お前の為だ」


 隼の耳に、トグルの言葉は届いていないようだった。彼女は眉根を寄せ、かすかに首を横に振った。徐々に動作を大きくしながら、独語のように繰り返した。


「分かっていない……。お前は、何も、解ってない」


『ハヤブサ』トグルが呼びかける間もなく、隼は、正面から彼を見据えた。血の気を失った唇がわななく。見開かれた眸に光るものを見つけ、トグルは息を呑んだ。


「トグル。お前は、あたしの気持ちを解っていない。何があたしにとって不幸かなどと、勝手に決めるな……!」

「解っていないのは、お前の方だ」


 トグルも口走った。感情を抑えきれず、叩き付ける口調になった。


「ハヤブサ。俺が、好きでこんな話をしていると思うのか。どんな気持ちで、お前をここに呼んだと思う。約束をたがえることを、俺が、平気でしていると思っているのか……!」


 トグルは彼女から顔を背け、強く奥歯を噛み締めた。激した感情を抑えようと眼をかたく閉じ、息を吐く。

 隼は、しばし茫然とその横顔を見詰めていた。凍っていた相貌が解け、眸が濡れる。ため息交じりに囁いた。


「トグル。本当に、あたしのことを考えてくれるのなら……もう、そんなことは言わないでくれ。もう一度、あたしを呼んでくれ」

「…………」

「あの時のように、言ってくれ。お前を見ていろと。あたしは、他に、何も要らない。お前が、あたしに何も背負うなと言ってくれたように、お前も、あたしを背負う必要はないんだ。だから、」


 トグルに応えることは出来なかったが、隼の声は聞えていた。眼を閉じたまま、彼女が動く気配を感じた。

 衣ずれの音に、トグルは振り向いた。


「…………」


 瞼を開けた時、隼のかおは彼の間近に迫り、その手は彼の肩に届いていた。首に腕を回し、抱き締める。

 トグルが身を退こうとする前に、隼は、自分の唇を彼の唇に重ねた。


「……お前を、愛している」


 隼の頬を涙が伝い、低い声が、彼の心を切り裂いた。苦痛に陰る瞳を覗きこみ、隼は、吐息で囁いた。


「側にいさせてくれ」

「……言うな」


 隼に、しかし、トグルは触れることすら出来なかった。彼女の身体を離させようとする行為が、全く別のものに変わってしまいそうで。

 濁った声で、トグルは呻いた。


「そんなことを、言うな……。俺に、触れるな。頼むから」

「いくらでも、言うよ。お前を愛している、トグル。側に居たい……。お前を愛していたいんだ。あたしから、お前を、取り上げないでくれ」


 トグルは項垂れ、首を左右に振った。胸が締め付けられ、呼吸が出来ない。今すぐ、この場から消えたかった。

 隼の声が、切なくふるえた。


「愛している。お前を、失いたくないんだ……」

「言うな。頼む」


 辛うじて搾り出したトグルの声は、掠れ、血を吐くようだった。左手で顔を覆う。

 隼が呼ぶ。


「トグル」

「……俺は、強くはない。……独りで居られるほど。独りきりで生きて行ける程、つよくはないのだ。だから――」


 皆まで言わせずに、隼は、再び彼にしがみついた。今度は、トグルも彼女を抱き締める。動かせる左腕と、不自由な方の腕も使って、力の限り、細い身体を抱き締めた。

 隼は息が詰まり、涙が零れ落ちても、彼の頭を離さなかった。


「トグル」

「……俺は、卑怯者だ」


 トグルの身体は震えていた。嗚咽を抑え、奥歯を噛み締める。

 隼は、彼の髪を掻き撫でた。


「卑怯者だ、俺は。お前に、言えなかった。別れを。……聖山ケルカンで、言わなければならなかったのに。どうしても、言えなかった――」

「そんなことをしたら、一生、恨んだよ」


 隼は腕を緩め、トグルの顔を見た。取り乱してなお精悍な、いとしい男の顔を――見詰め、吐息を震わせた。


「お前が何も言わずにあたしを置いて行っただけでも、あたしは、充分傷ついた。そんなことをされたら、悲しむのを通り越して、憎んだよ。……愛している。それが言いたくて、ここへ来たんだ。もう、あたしを、独りにしないでくれ」


 無言で隼を見詰めたトグルは、彼女を抱き寄せると、柔らかいその唇に、唇を重ねた。左手で頭を支え、舌を絡ませて吸う。その力にかすかに怯えた隼だったが、すぐに頭の芯が朦朧とした。身体から力が抜け、彼の腕に委ねる。

 彼女の細い銀髪を掻き上げて白い耳をのぞかせたトグルは、形のよい耳朶に口づけを繰り返しながら、深い溜め息とともに囁いた。


「お前を、愛している」 


 初めて聴く彼の言葉に、隼は、ふるえた。


「愛している。……ずっと、お前を、抱き締めたかった」


 トグルは、隼の頬の涙を指で拭うと、泣き濡れた眸に微笑みかけ――どこまでも美しい彼女の顔に、密かな感動を覚えながら。その全てを、抱き取っていった。





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