第五章 馬頭琴(3)


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「兄上」


 久しぶりの氏族長会議クリルタイから帰って来たトグルは、ユルテ(移動式住居)に入った途端、冷え切った妹の声に迎えられ、苦虫を噛み潰した。

 聴く前から、話の内容は予想できた。隼に会えと言うのだろう。しかし、いきなりこう言われると、驚いた。


「兄上は、ハヤブサ殿を殺すおつもりか?」


 帽子を脱ぎ、靴底についた雪を落としていたトグルは、動作を止め、妹を見下ろした。

 静かな夜の森を宿す眸を見返し、タオは、硬い口調で繰り返した。


「兄上は、ハヤブサ殿を殺してしまうおつもりか?」

「……何の話だ」


 トグルは躊躇ためらった後、妹が火を熾してくれていた炉の前に腰を下ろした。絨毯に胡坐あぐらを組む。

 タオは蒼ざめた顔で言った。


「もう三日間、ハヤブサ殿は食事をしておられない。兄上が倒れてからというもの、心配で、夜もろくに寝ておられないご様子だ。御存知か?」

「ワシに聞いている」


 脱いだ帽子を傍らに置き、トグルは答えた。帽子にのせた自分の左手を眺め、眉間に皺を刻む。


「まだ、そんなことを続けているのか……」

「兄上」


 くり返し呼ぶ妹を、トグルはうるさげに眺めた。

 タオは、血の気の失せた唇を震わせた。


「ハヤブサ殿に心配をおかけして、何も感じぬのか?」

「俺のせいなのか?」


 珍しい兄の反論に、タオは続く言葉を呑んだ。


「タオ。いつ俺が報せて良いと言った。放っておけば、連中は諦めて聖山ケルカンへ帰っただろう。余計なことをしたのは、お前の方だ」


 左手で顔を覆うトグルに、タオは、すぐには返す言葉をみつけられなかった。トグルは、「お前には、無理だったか」と呟き、頭を振った。

 タオはごくりと唾を飲み、炉を見詰める横顔に言った。


「私が報せずとも、ワシ殿は知っておられた。あの状態が続けば、キジ殿は、我々の思考を読んだであろう」

「…………」

「兄上。天人テングリを部外者として扱おうとしたことが、誤りだ。相手がニーナイ国であれキイ帝国であれ、黙って傍観している方々ではない」

「俺に、どうしろと言うのだ」


 トグルの口調は厳しかった。叩き付けるような言葉に、タオは絶句した。


「言えば良いのか、ハヤブサに。俺には病があって、治る見込みはない。衰えてゆくだけの惨めな姿を見せたくはないから、帰ってくれと。どんな女も幸せに出来ないから、見捨ててくれと?」


 唇を歪め、トグルは、くらわらいを瞳に閃かせた。


「それとも。奴等が、いかにもやりたがりそうなことだ。――同情でも側に居てくれと、頼めばいいのか。見捨てないでくれと、泣いてすがればよいのか。……死んだ方が、マシだな」

「そうしたいのなら、なさればいい」


 タオは、胸を衝かれる心地がしながら、自分と同じ鮮やかな新緑色の瞳に対峙した。


「兄上の言葉とは思えぬ……。兄上は、御自分の気持ちを、誰も考えないと思っているのか。自分だけが不幸だと」

「…………」

「ハヤブサ殿やワシ殿が兄上に同情しているだけだと、本気で考えておられるのか。だとしたら、兄上に同情しているのは、他の誰でもない、御自身だ。自分で自分を憐れんでいるのだ」

「……タオ」


 トグルは眼を伏せ、そっと言い返した。低い声は、少し憮然としていた。


「お前、そこまで言うか?」

「申し訳ない……」


 タオは頭を下げたが、兄の眼差しに普段の穏やかさが戻ったことに気づき、安堵した。

 どうかすると、時折、張り詰めた弦のような危うさを垣間みせるようになってしまったトグルだが、己を制御する冷静さを失っているわけではない。黙然と考えこむ横顔に、タオは沈んだ口調で話しかけた。


「兄上は、シルカスの兄上(ジョク・ビルゲ)がご病気になられた時、あの方を見捨てようと考えたか? それとも、憐れんでおられたか?」


 トグルはかるく眼を瞠り、かぶりを振った。どちらも思いもよらなかった。シルカス・ジョク・ビルゲは友であり、病んで寝たきりになろうと、尊敬する友であることに変わりはなかった――彼にとって。

 タオは神妙に続けた。


「では何故、己がしなかったことを、ハヤブサ殿がすると考えるのだ。我らが敬愛する天人テングリを、うたがうのか? ……いったい、何をおそれているのだ?」

「…………」

「分かっておられるのだろう? これほど離れ、ないがしろにされ、へだてを置かれても、変わらぬ気持ちを示して下さっている、あの方の御心を」


 トグルは返す言葉がなく、項垂れた。

 タオはそんな兄を眺め、嘆息した。


「兄上は、ハヤブサ殿のことばかり考えているが……気づいておられるか? ワシ殿とキジ殿も、兄上を案じて下さっている。ハト殿、タカ殿……ニーナイ国の小僧さえ。私を入れれば、七人だ。ジョルメ(若長老)にアラル、トゥグス兄者あにじゃ(オルクト氏族長)――」


 タオは泣き笑いになった。思い出し笑いにほころぶ頬を、透明な涙が伝った。


「十対一だ。雪合戦なら、敵うものではない。いい加減に観念なされよ」

「雪合戦?」


 何を言っているんだといわんばかりにトグルは訊いたが、タオは答えなかった。トグルは眉根を寄せた。――『何をおそれている?』 胸のうちで、繰り返す。

 ぽつり、呟いた。


「俺は、ジョクではない……」


 今なら、真の意味で解るのだ。友がどれほど強靭な精神力を持っていたのか。つよさと賢明さと忍耐力において、何人なんぴとも足下に及ぶものではなかったと。与えられた時間も。

 トグルは左手で顔を覆い、嘆息した。


「お前達は、俺を買いかぶり過ぎる……。二年だぞ。たった二年、俺が、まともでいられるのは――」

「その『たかが二年』を惜しんで、あの方に一生の後悔をさせるのか? 二十余年間シルカスの兄上と生きて来たのは、我々にとって無駄だったと? 二年間で出来ることをする責任が、兄上にはあろう」

「…………」

「決めるのは、兄上ではない」


 雉と同じことを、タオは言った。涙声で。


「ハヤブサ殿の人生だ。誰とどう生きようと、ハヤブサ殿が決めることだ」




「……そうだな」


 ながいながい沈黙の果てに、トグルは呟いた。眸は、己の内面を見詰めている。


「俺が、ハヤブサに、言うべきなのだろうな」

「兄上」


 タオは安堵の息を吐いた。また新しい涙がまなじりにうかぶ。

 トグルは痩せた手で顔を覆い、切れ切れに呻いた。


「お前には、俺の気持ちが解ると思っていたのだがな……」

「解るとも」


 ぐいと目元をこすり、タオは気丈に微笑んだ。


「私が兄上でも、同じ事をしようとしたかもしれぬ。だが、私は兄上の『妹』だ。兄上なら、どうなさった?」


 トグルはフッと息を抜いた。眼を閉じ、首を振る。孤高な相貌に、一瞬、幻のような苦笑が浮かんだが、声は毅然としていた。


「ハヤブサを、呼んでくれ」


 息を呑むタオを、冴えた瞳が見上げた。


「俺が呼んでいると伝えてくれ。それと……何か、食べさせなければならないのだろう」

了解ラー、兄上」


 タオは勢いよく踵を返し、ユルテ(移動式住居)を出て行った。その後ろ姿を、トグルは『仕様の無い』と言うように見送ったが、扉が閉まると真顔に戻った。炉の中で燃える火焔に視線を戻す。

 タオから小麦の生地を受け取った後も、トグルは考えこんでいた。慣れた手つきでチャパティ(薄焼きパン。ナンと違い、発酵させない)を焼き上げる間、脳内では複数の声が響いていた。



「ディオ。……間に合わなくなるわよ。あなた達が、在り方を、変えなければ」


 《星の子》は、彼を抱きしめた。彼女自身が不治の病であるかのように無力感に打ちひしがれたその顔は、先日の雉に通じた。


「おれのためだ。……おれがあいつを愛していようと、今のお前には関係ない」

「僕は、貴方を誤解していました」


 径路剣アキナケスをさしだす少年の瞳の青空は、彼のまなうらに焼きついていた。鳩の涙は――


「泣いちゃうよ、あたし。トグル。死んじゃ、やだ……」


 ――苦笑する彼を、タイウルトの娘の澄んだ声が打ち据えた。


「お前の女達が奪われたとして、同じことが言える?」

「夫と息子が見たものを、この子にも見せてやって欲しい」


 ミトラが掲げたのは、彼の子に相違なかった。〈草原の民〉の王に、民の子の親の責任を問うているのだ。


「覚悟しろ。地獄の果てまで追いかけて、絶対、改心させてやる」


 ルドガー(暴風神)の銀髪が翻る。怒りと慈悲で世界をおおう、偉大なる神鳥ガルダの翼が……。


「兄上に同情しているのは、他の誰でもない、御自身だ。自分で自分を憐れんでいるのだ」



 眼を閉じて、トグルは溜め息を呑んだ。彼をぶ声はいつまでも響き合い、止むことはなかった。

 彼は、胸の中で呼びかけた。

『ジョク』


 少年の頃の、友の姿がよみがえる。眩しさに縁取られた微笑が。――ジョク。俺は、族長おさには向かないようだ。執着する魂が増えすぎた。家族であっても必要であれば割り切らなければならないと、教えられてきたものを。

『俺には出来ない相談か……。そうと知っていて、何故、俺に望んだのだ?』

 の少年は答えず、黒曜石の瞳で彼を見詰めた。

 怯むことなくこちらを見据える幾多の眼差しが、彼の喉を詰まらせた。鳩の、オダの、トゥグスの。タオの、鷲の、《星の子》の。

 そして、雉と、隼の……。


「どうして、黙っていた」

 教えれば、お前は、必ずここへ来ると言ったろう……?


 自嘲を呑んで、トグルは首を振った。生命が枯れるような感覚に、息を殺す。――違う。

『ジョク。俺は、自分に嘘をつきすぎた』

 少年の眼差しが、悲しげに曇った。かたくなに閉ざしていた扉の向こう、幾重にも覆い隠していたものが解けて、一滴の真実が姿を表した。彼の掌をこぼれ落ち、心の水面みなもに小さな波紋を拡げる。

 ――俺は、おそれていただけだ……。


 氏族の、戦いの為でなく。病のせいでもなく。優しさに触れることが恐ろしい。崩れてしまう。天人テングリを大事に思うためではなく、彼女を愛してしまったせいでもなく。

 ただ、生きていくのが慄ろしい。戦ってたおされるのではなく、成す術なく朽ちてゆくのが、怖かったのだ。

『お前も、そうだったか? ジョク』


 やつれた友の顔がうかぶ。己の脚で歩くことはおろか声を発することも出来なくなった彼の、最期の願いは、トグルに後事を託すことだった。――その気持ちを想わずに居られなかった。

 許してくれ。何も無かったお前より、遥かに恵まれているはずなのに。俺は、お前ほどつよくなれない。

 身体の芯が凍るような感覚がして、トグルは眼を閉じた。その耳に、在りし日の友の声が聞えた。


「おれには、お前が居たさ」 と……。


 幻聴だと承知して、トグルは嗤った。――そうだな。お前が居る。生きている、あらゆるものを失おうと。お前はそこに居てくれる。

 ジョク。都合良くこき使うと思うのだろうが。せめて、俺がお前にとってもそうであったと、判る術があればいいのだが。


「…………」


 少年の幻は、黙って消え去った。取り残されて脆くなったトグルの心に、その瞬間、記憶が奔流となって流れ込み、彼の呼吸を止めた。

 トグルは天を仰いだ。硬く凍った心の殻を打ち砕き、少年の日の夏の陽光が彼に降り注いだ。


 ユルテの外の気配に、トグルは振り向いた。扉がおずおずと叩かれ、ゆっくりと開く。

 群青の夜を背景に、隼が佇んでいた。





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