第五章 馬頭琴(2)
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深夜に降り始めた雪は、枯れた草原を埋め尽くした。翌朝には膝の高さまで積もり、ユルテ(移動式住居)の扉がなかなか開かなかった。
こんなに沢山の雪を、生まれて初めて見た。レイ王女がそう言うと、タオは微笑んだ。
「まだだ。これからは、毎日、雪が降る。閉じ込められて、外に出られなくなる」
この地で冬を過ごしたことのある隼も、フッと口元を綻ばせた。
雉は、いつものように兵士や捕虜達の怪我の手当てに出掛けた。鷲は、オルクト氏族長と一緒に行動している。
オダは、トグリーニ部族の中にいるニーナイ国出身の人々と会えたので、そちらへ行き、鳩は雉の手伝いに行った。
各々が自分の仕事に出掛けてしまったので、ユルテには、レイと隼が残っていた。隼の依頼で、タオがレイ王女の世話をしに来たのだ。
臨月が近づいたレイのお腹は、大きく盛り上がり、実に重くなっていた。押し上げられて深呼吸できないが、苦しくはない。たまに狭い場所を通る時に、つかえるくらいのことだ。もっとも、草原では、狭い場所はユルテの入り口だけだった。
時折、胎内で子どもがぐるんと動く。蹴っているのかつねっているのか、痛くなることもある。そんな時、レイが言うと、鳩は勿論、鷲も隼も、掌を当てて確かめた。(雉だけは、なかなかそういうことをしなかった。彼がそうするのは、彼女と胎児の健康を確かめるときだけだった。)
それで、レイは、自分のことに関しては気楽に過ごせていた。
『皆、私には不安を与えまいとしているのだろう』と、レイは考えていた。トグルを心配しているわりには、鷲も雉も、オダも冷静だった。淡々と自分の仕事をこなしている。
最も動揺しているはずのタオと隼も、取り乱してはいなかった。
ただ、隼は、食事を摂らなくなった。
「悪いな、タオ」
あれからというもの、隼は、ほぼユルテに閉じ篭っている。表情は穏やかで思い詰めた風には見えないのだが、殆ど何も口にしていないのを、レイは心配していた。
「ルツかマナが居ればいいんだが……。何しろ、あたし達の誰も、子どもを産んだこともなければ、出産の手伝いをしたこともないんだ」
「私も、人間の子どもは初めてだ」
タオは
ひととおりレイの身支度を整えたタオは、二、三歩離れて彼女を眺め、満足げに微笑んだ。
「なに。人も、牛や馬と変わりはない。これまで健康で何事もなかったのだから、大丈夫だ。タカ殿は、立派な腰をしておられる。何人でも、するりするりと産めるだろう」
『……私は、牛並みなのだろうか?』
安産の太鼓判をおされて喜んでいいのか
「大丈夫だ」
タオは繰り返した。
「〈草原の民〉は、みな、家畜の出産を手助けする。私も、数え切れないほど取りあげた。キジ殿もおられるし、産婆も手配する。任せて下され」
「お願いします」
他に言いようがなくて頭を下げると、タオは満足げに頷いた。感慨深くレイを眺めたのち、小さく呟いた。
「せめて、兄上に
レイが返答に困っていることに気づき、隼が呼んだ。
「タオ」
「気に障ったら申し訳ない。何という巡り合わせだろう、と」
タオは淋しげに眼を伏せた。勝気で凛とした顔立ちの彼女は、そうすると、いっそう
「記憶をなくしていなければ、タカ殿はワシ殿と出会うことはなく……今また、記憶を取り戻したせいで、苦しむことも無かっただろう。ハヤブサ殿も――。それを、どう思われる? 私としては、お二人が悔いておられぬことを願うしかない」
レイと隼は、顔を見合わせた。しんみりと問うタオに、すぐには答えられなかった。
レイは、鷲の
今はもう、〈草原の民〉を野蛮だとは思えない。あの族長をそんな風に考えることは難しい。鷲と雉に出会えたことを、後悔はしていない。《タカ》として生きていたことを。
子どもの誕生を楽しみに思いこそすれ、苦しいとは思わない。隼やオダに会えて良かったと思えることが、沢山ある。
『でも……』
これを思うと、王女の胸はどうしても痛んだ。――私が逃げ出さなければ、シジンとナアヤは、あんな目に遭うことはなかった。
今、どこに居るのだろう?
気づくと、隼が、じっとこちらを見詰めていた。冷たい夜空のような瞳に、レイは心を見透かされたと感じた。
王女と目が会うと、隼は瞼を伏せ、静かに言った。
「……後悔はしていないよ、あたしは。鷹に逢ったことも、お前やトグルに出逢えたことも」
「ハヤブサ殿」
ホッとするタオに、隼は、抑えた口調で訊ねた。
「トグルは、どうしている?」
「今日は、
隼は視線を上げた。低い声に驚きが混じった。
「あいつ、起き上がれるようになったのか」
「病が治ったわけではない」
タオの口調は苦かった。二人に横顔を向け、唇を噛んだ。
「私は、それで寿命が縮むというのなら、兄上にはじっとしていて頂きたいのだが……。寝ていろと言って、聞き入れて下さる方ではない。部族に
隼は、切れ長の眼をすうっと細めた。やるせなく首を振る草原の娘を、紺碧の瞳が映す。
「兄上がそれを望んでいるのであれば、仕方がない。倒れたのは二度目だが、命尽きるまで、兄上は王で在り続けようとなさるだろう」
「そうか……」
「タカ殿とワシ殿が、私は羨ましい」
レイは、ちょっとうろたえた。タオが嘆きと期待がないまぜになった眼差しで、彼女のお腹を見下ろしたのだ。
隼は瞬きを繰り返し、首を傾げた。白銀の髪が肩にこぼれる。
「何故、そういう話になるんだ?」
「だって、ハヤブサ殿。子どもは、ひとつの希望だ」
レイは項垂れた。お腹の中で子が動くのを感じ、掌を当てる。
タオは、どこか夢見るように、一語一語を区切って言った。
「一つの命が地上にあったことを示すのは、その子だけだ。次代を残すことで、生命は個ではなく、永遠の流れに組み込まれる。タカ殿の子は、タカ殿とワシ殿が生きていた証となるだろう。だが、兄上が生きていたことを示すものは、どこにもない」
「…………」
「草原を統一するという、先人の誰も果たせなかった偉業を成し遂げても、何も遺せない。兄上を亡くせば、私の家族は居なくなる。それは、とても淋しい」
隼は草原の娘から視線を逸らし、惑うように訊ねた。
「あいつは、子どもを作れないのか? 今からでは……。そんなことを言っていたが」
「末期にはそうなるが、まだそこまで重篤ではない。故に、トクシン伯父(最高長老)とトゥグス兄者(オルクト氏族長)が、兄上に女を
隼は、改めてタオを見た。心持ち、紺碧の眸が見開かれる。
タオは、さすがに決まり悪くなったらしく、もじもじと身じろぎをした。
「本当だ、ハヤブサ殿。この際、全てお話するが……。タイウルト族の残党を討つ前に、
「政略結婚か……。ことごとく、あたしの知らないところで話が進んでいたんだな」
隼は溜息をつき、苦
「申し訳ない、ハヤブサ殿」
「いいよ。トグルは王で、あたしだけのものじゃないんだし。そんなこと、話せないよな……。だけど、
隼は瞼を伏せ、かつての彼との遣り取りを想い出した。戦場で奪い合いをされていたという、彼の母――気を病んで
「あたしが責めなくても、トグルは、自分で自分を
この言葉に、タオは虚を突かれたように瞬きをくり返し、唇を噛んだ。
「……兄上は、もう誰も娶るつもりはなかろう。あのようなこと……」
「お前は?」
隼に訊かれ、タオは彼女を振り向いた。隼は、極めて冷静に彼女を観ていた。
「お前は大丈夫なのか? タオ。トグルのような病気はないのか。遺伝するんだろ?」
「あれは、男だけに遺伝する
タオは、淋し気に微笑んだ。
「
「そうか」
「ハヤブサ殿こそ」
タオが口調を変えたので、隼は首を傾げた。座っている彼女を、タオは気遣わし気に見下ろした。
「ハト殿に聴いた。食事をしておられぬそうだな。どこか具合でも悪いのか?」
隼は柳眉を寄せ、端正な顔をくもらせた。レイとタオの視線に答える言葉を探し、項垂れる。
女たちの沈黙は、ふいに破られた。
「入ってもいいか?」
扉を叩く音とともに、鷲が顔を覗かせた。一応、遠慮気味に様子を窺ってから、入って来る。
入り口で頭をぶつけないよう背を屈める、彼の肩にも髪にも、雪が積もっていた。
「ふう。凄い雪だぜ」
鷲は炉の側へ来ると、靴を脱いで、中に入った雪を落した。レイに肩をすくめて見せる。
隼が苦笑し、タオは眼を丸くした。
「また降り出したのか? ワシ殿」
「いや、そうじゃない。こいつは鳩なんだ」
「は?」
「……何をしてんだよ、お前」
察しがついた隼は、クスクス笑った。
鷲はレイに片目を閉じてみせ、長い髪を首の後ろへ掻き上げた。
「雪合戦」
「え?」
「参ったぜ。鳩とやってたら、通りすがりの
「は、はあ」
「お陰で、靴のなかがびしょ濡れだ。気持ち悪い。乾くまで、ちょっと匿ってくれ」
呆然とするレイの代わりに、隼が言った。
「お前、
鷲は、絨毯の上に裸足で
「トグルもな」
「…………」
「あいつが復活してくれたお陰で、話が早くなった。ニーナイ国の者のなかで帰りたい者を故郷へ送ることと、タァハル部族へ使者を送ることを決めて、今日は終わりだ。今、誰を使者にするか相談している。報せようと思って来たんだ、隼。トグル、動けるようになったぜ」
それで、レイにも彼が急にやって来た理由が判った。
隼は頷き、囁くように応えた。
「タオから聴いたよ」
「そっか。なら、いいんだ」
「何とか言って下され、ワシ殿」
タオは、彼に新しい
「ハト殿の話によると、もう三日、ハヤブサ殿は食事をされていないそうだ。これでは、兄上が良くなっても何にもならない」
跳ね上げた眉を、鷲は器用にしかめた。湿った頭をぼりぼり掻く。
「全然食べていないってわけじゃないよ」
隼は、弱々しく反論した。
「鳩は、だいたい大袈裟なんだ」
「では、キジ殿は? キジ殿も同じことを仰っていたぞ。このようなハヤブサ殿を初めて見ると」
黙り込んでしまった彼女に、タオは、心情のこもった声音で説いた。
「ハヤブサ殿。兄上を心配して下さる気持ちは有難い。はっきり言って、兄上には勿体ないと私は思う。だが、貴女が倒れてしまっては、元も子もないのだぞ?」
「…………」
「兄上も、申し訳なく思うだろう。
鷲は、乾いた新しい脚帯を下腿に巻きながら、静かな眼差しで彼女を見ていた。
隼は瞼を伏せ――レイが初めて聞く、消え入りそうな声で囁いた。
「ごめん……自分でも、何とかしようと思うんだ。でも、駄目なんだ。食べようとすると、吐き気がするんだよ」
タオは口を開け、何事かを言おうとしたが、鷲が片手をあげて遮った。彼は微笑み、片目を閉じた。
「頭では分かってても、身体がついて来られないって時はあるよな。俺も経験がある」
「ワシ殿」
隼は、唇だけで苦笑した。鷲は頬を引き締めた。
「無理に喰えとは言わねえが、隼。お前、落ち着いて考えろよ」
「ああ。判ってる」
「
隼は神妙に頷いた。その様子を見て、鷲は満足した顔になると、火にかざしていた
「んじゃ、俺、そろそろ戻るわ」
「いくらも休んでおられぬではないか」
「んん、いーの。お姫様のご機嫌伺いに来ただけだから」
そう冗談めかしてレイに笑いかけ、鷲は、さっさとユルテを出て行った。いちいちうろたえるレイの様子に、隼が、くすりと哂う。
疾風のように慌ただしく去った鷲を見送り、タオは軽く嘆息した。隼に向き直る。
「ハヤブサ殿。兄上に、お会いになるか?」
「……いや」
隼は
「今は、あいつに会えない。あたしは行かない方がいい」
「…………」
「会えば、取り乱す……。もう少し落ち着いてからでないと、あいつを傷つける」
溜め息をついて、隼は額にかかる髪を掻き上げた。途方に暮れているタオに、ゆるく微笑みかけた。
「タオ。お前は妹だから、ずっとトグルの傍にいたんだろう? いるんだろう、これからも」
「
「羨ましいよ」
隼は、少女のように膝を抱えた。
「
「…………」
「トグルは、あたしを、そこにいさせてくれなかった。きっと、あたしの
「ハヤブサ殿」
タオは、眉根を寄せて囁いた。隼は、自分の膝に顔をうずめた。
「その理由が分からないと、会えない……。ただ、今は悲しくて、冷静になれないんだよ」
タオは、困惑した表情で黙り込んだ。
レイは、《タカ》がトグルに貰ったという狼の牙のお守りを――ずっと首に下げていたそれを、無意識に片手で弄んでいた。
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(注*)フェルトの脚帯: 靴下の代わりに、下腿から足にかけて巻く布です。
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