第四章 蜃気楼 燃ゆ

第四章 蜃気楼 燃ゆ(1)


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 西風が、枯草と馬のにおいと、冬の気配を運んで来る。レイは、雉と鳩とともに丘の上に立ち、出陣する軍勢を眺めていた。

 隼は居ない。彼女は、くだんの罪人の見張りをしている。

 王女の周囲には、出陣する家族を見送る人々の姿があった。今回は、タイウルト部族の残党が相手なので、騎馬の数は、前回の半分だと言う。それでも、かなりの規模だ。鳩は背伸びをして鷲とオダを捜していたが、黄金の草原いっぱいにひろがる黒衣の軍団に紛れ、どこにいるのか全く分からなかった。

 雉は腕を組み、重心を右脚にかけ、柔らかな髪を風に任せていた。レイが観ていることに気付いて、首を傾げる。


「……私、キジさんは、きっと怒るだろうと思っていたわ」


 雉は訝しげに瞬きをしたのち、唇を歪めた。彼には珍しい、もの憂い苦笑だった。


「鷲がそう言ったの? おれと隼が、あいつに腹を立てるって?」

「え、ええ」

「仕様の無い奴だな」


 そう思ったのは、鷲だけではないのだが……そこは、気にならないらしい。

 雉は土煙にかすむ地平線を眺め、軽く舌打ちをした。ゆるく巻いた前髪を掻きあげながら言葉を探し、王女を振り向いた。


「レイにまで、そんな愚痴を言うくらいなら、手を出さなきゃいいのに。案外、気に病むんだな……。おれは、怒ってなんかいないよ。何故だろうと、考えていたんだ」


 雉は、懸命に背伸びをしている鳩を観て、微笑んだ。囁くように続ける。


あいつはおれ達にではなく、トグルに遠慮していたんだ。どうしてだろうと、不思議だった」

「……でも、キジさんは、戦争に反対でしょう?」


 レイが問うと、雉は、少女のように淡い紅色の唇を噛んだ。滑らかな声に、寝不足の為ばかりではない疲労がにじむ。


「鷲と隼が守ってくれているから、戦わずに済んでいるだけだよ。一人なら、とうに殺されていた。今も、自分が甘いことは承知している」

「…………」

「おれは、一生、戦わないと決めているんだ。もずを死なせたから……。おれが戦ったからといって、あの人を守れたとは思わないけれど。鷲と隼の足を引っ張らなければ、とびは死なずに済んだかもしれない」


 レイは、息を詰めて雉を見た。温和な性格と優美な外見のせいで、争いごとからは程遠い印象だが、彼も戦える男性であったと思い知る。

 ふるえる瞼を伏せ、雉は、そっと囁いた。


「あの時、おれは、殺されるより殺すことが恐かった。そのせいで、鵙と鳶と、鳶のお腹の子と……三人を死なせた」

「…………」

「鷲と隼と、鳩に、おれは謝る術がない。だから、剣を持たないと決めた。たかがおれの命が危険になった程度ではね。――臆病者の言い訳だよ。盾にされる鷲と隼は、たまったもんじゃない。二人が死ぬときは、おれも死ぬんだ。あいつらには、口が裂けても言えないけどね」

「キジさん」


 雉は、肩をすくめてわらった。瞳に、いつもの穏やかさが戻る。


「ユルテに戻ろう。あの二人の見張りをしないと。……鳩」

「うん」


 鳩は小走りに、雉の側へ戻って来た。二人は、並んでゆっくり丘を下り始める。

 その背中を見ながら、レイは、暫く立ち尽くしていた。


 彼等のことを理解するにつれ、少しずつ、《タカ》の気持ちが解ってきた。

 過去を思い出したくなかった《タカ》……彼等と、ずっと一緒に居たかったのだろう。きっと、とても幸せだったのだ。鷲を愛し、隼に支えられ、鳩や雉と、どんな会話をしていたのだろう? 沢山のことを教わり、成長していたことが推測できた。過去を思い出しても、自分が《レイ》で居られるほどに。

『シジン……』

 心の中で、呼びかける。――シジン、ナアヤ。私は、彼等ほど、貴方達のことを思っていなかった。当然のように思い遣りを受けて、返すことを考えていなかった。

 《タカ》には、大切なものが沢山あったのだ。愛して、愛されて、ずっとそばに居たいと思える人が。

 なくして、はじめて解る。己の存在すら危うくなる程のものに。《タカ》はそれを知っていた。何が真実、大切なのか。

 それを、レイは、彼女タカに代わって守らなければならなかった。今度こそ、逃げることなく……。


「レイ?」


 雉が振り返り、呼んだ。鳩も待っている。

 レイは、二人を安心させるように微笑んで、丘を下り始めた。そのとき、行く手に、一人の女性が佇んでいることに気がついた。

 タオだ。鮮やかな朱色の長衣デールに身を包んだ草原の王の妹は、五本に編んだ黒髪を風になびかせ、思い詰めた表情で立っていた。

 雉は、彼女の近くまで下ってから、話し掛けた。


「タオ、どうした? 昨夜は、顔を見なかった。騒ぎがあったことは知ってるかい? 鷲が馬を借りに行ったはずだけど」

「ああ。二頭、お貸しした。それで……キジ殿。ハヤブサ殿は?」

「ユルテにこもってるよ」


 タオの小さな顔は蒼ざめ、緊張のあまり強張っていた。緑の瞳が、濡れたように輝いている。

 雉はレイと顔を見合わせ、肩をすくめた。


「昨夜、あんなことがあったから、ふて腐れているんだ。鷲の我が儘はいつもだけど、トグルに何とか言ってくれ。今度という今度は、おれは、隼を連れて〈黒の山〉に帰るぞ」

ああラー。キジ殿のお怒りは、もっともだ。しかし、私の話を聴いて下さらぬか。ご相談したいことがある」

「何だい、改まって」


 レイには、雉が本気で帰ると言っているように聞こえた。

 タオは、項垂れて迷っていたが、小さく呟いた。


「ハヤブサ殿に報せるのは、待って下され。私はおそろしい……。あの方に知られたら、兄上がどうにかなってしまいそうで」

「……何だよ」


 雉の口調は無愛想だったが、流石に真顔になった。

 タオは、彼を真っすぐ見詰め、静かに膝を折った。


「兄は、病気なのだ」

「…………」

「キジ殿は、ご覧になったろう。我ら〈草原の民〉に伝わる業病のひとつだ。聖山ケルカンの《星の子》にも、治すことかなわぬ……。既に、一度倒れている」


 タオがゆっくりとひざまずいたので、レイと鳩は息を呑んだ。

 雉は、柳眉をくもらせた。片手を額に当て、掠れた声で囁く。


「待ってくれ、タオ。……ええ?」

「貴方がたが本営オルドウに来られた日の夜に、倒れたのだ。それで、しばらくお目にかかることが出来なかった。氏族長会議クリルタイを開き、テュメンを立てようという大事なときに、盟主の病など、民の口のに上らせるわけにいかぬ。……いや、そうではない」


 タオのまなじりに、ぶわりと水滴が湧き、頬を伝い落ちた。後から後から流れる透明な雫に化粧がくずれ、唇がふるえた。


「たいせつ、なのだ……。病が進んでいると知ってから、兄は、ハヤブサ殿をさけている。心から、大切に、思うゆえに……。誤解され、愛想を尽かされて、離れようと。あの方を、己の運命に巻き込まぬために。このまま、独りきり、死ぬつもりなのだ」


 レイは、すばやく雉を顧みた。美しい天の御使みつかいを想わせる彼の横顔からは、血の気がひき、凝然とタオを見下ろしていた。

 天人テングリの足元に、タオは、泣きながらひれ伏した。


「お怒りは重々承知している、キジ殿。だが、力をかして頂きたい。救ってくだされ。兄上と、ハヤブサ殿を……!」



            **



「無視しているんでしょうか」

「さあな」


 その日は雲の多い天気だったが、軍団が西へ進むにつれ、ますます多くなった。遂には厚く垂れこめ、日差しが届かなくなる。気温も低く、風が強いので、いっそう肌寒く感じられた。

 オダは前回の教訓から、トグルに貰った紺色の長衣デールを着て、きっちり襟を合わせている。鷲は、いつも通り外套チュバの片袖を落として羽織り、ひとつに纏めた銀の長髪をなびかせている。


「そんな、陰険な奴じゃないだろう。単に、用がないからじゃないか」


 鷲は煙草を噛みながら平然と答えたが、少年の不安は消えなかった。


 本営オルドウを出発してから半日、彼等は、一度もトグルと話をしていなかった。

 軍団の先頭にはシルカス・アラルとテイレイ族の族長が並び、トグルはその後で、例の赤ん坊を鞍に載せ、黙々と馬を進めている。鷲とオダは、彼等より、さらに後方にいた。

 馬の頭越しに、トグルの横顔が見える。そちらを眺めてから、鷲は、オダを振り向いた。


トグルあいつに無視される理由があるのか?」

「僕、『天人テングリを連れて帰れ』 と言われたんです。『お前達は、どうしようもないお人好しだ。利用する気にもなれないから、帰れ』と」


 オダには、トグルの言葉の意味が判っていなかった。鷲の意見を聞きたかったのだが、


「ふうん」


 鷲はトグルを見遣り、頷いただけだった。髭に覆われた唇がにやりと嗤う。

 少年は、置き去りにされた気持ちで項垂れた。


「鷲さん。僕には、あの人が何を考えているのか、想像もつきません。でも、あの人は、何と言うか……」


 鷲は、片方の眉を跳ね上げ、赤毛の少年を見下ろした。オダが言葉を探して口ごもっていると、


天人テングリ!」


 滑らかな男の声が呼んだ。二人が振り返ると、シルカス・アラル族長が、隊列を迂回して引き返して来るところだった。

 鷲は、片手を挙げて応えた。


「おう、何だ?」

天人テングリ――(自由戦士)・ワシ・(ルドガー神の尊称)、国ノ使者どの。てゅめん(王)から、伝言デス」


 そんな呼称になったのかと、鷲は眼をまるくした。アラルが二人に馬を寄せる。


「雨にナルので、今宵は早目ニ宿営シマス。冷えるノデ、気をツケるようニ、と。ソレカラ、後デ、くりるたい(氏族長会議)ニ参加シテ頂きタイ……。我等ノ言葉、解りマスカ?」

「いや……」

「デハ、コチラガお合わせシマス。てゅめん(王)へ伝えルコト、ありマスカ?」


 鷲は、首を横に振った。

 用事は終ったはずだが、シルカス・アラル族長は、じっと彼を見詰めていた。逸る馬をなだめつつ、異相の男を値踏みするように眺めたのち、改めて一礼した。


「のこる。不躾トは存じマスガ、ひとつ、私ノ願イヲ、聞いテ頂けマせんカ」


 鷲は、二、三度まばたきを繰り返した。オダも意外だった。タオや最高長老トクシン以外の〈草原の民〉が話し掛けて来るのは、珍しい。

 アラルは、生真面目そうな面をひきしめ、真摯に言った。


「ワシ殿、御使者どの。ドウカ、我々ノ盟主おさヲ、苦しめナイデ下さい」

「苦しめる?」


 オダは息を呑んだ。鷲の眼が、すうっと細くなる。

 鷲は、沈んだ声で訊き返した。


「……俺達は、トグルあいつを苦しめているのか?」

「イイエ」


 シルカス・アラルは、彼から目を逸らさずに首を振った。涼やかな黒い瞳のなかに、僅かな哀しみが宿っていた。


「苦しめテイるノは、我々ノ方ダト思いマス。不甲斐ない、我々ガ……。私ニハ、喜んでオラレルようニ見えマス。貴方がたノコトを」

「…………」

「人ヲ喜ばせる者ハ、ソノ人ヲ、苦しめるコトも出来マス。ダカラ、お願いデス、天人。貴方がたダケは、あの方(トグル)ヲ苦しめナイデ下さい。ソウイウ方デ、いて下さい」

「……アラル」


 鷲は軽く首を傾げて、この物静かな戦士を観た。低い声は馬蹄の音にかき消されそうだったが、アラルはちゃんと聴きとった。


「ハイ?」

「お前、確か、シルカスの族長を継いだんだよな?」

御意ラー


 アラルの黒曜石の瞳に、大袈裟ではないよろこびが表れた。にっこり微笑んで頭を下げる。


「先代シルカス・ジョク・ビルゲに、病床デありナガラ、族長おさノ任ヲ与えテ遇して下さったノハ、あの方(トグル)デス。ソレ以上ニ……。あの方ノお人柄ヲ、我々ハ、よく存じてイマス。タダ一人にナッテモ、我等シルカスは、あの方ノ供ヲするツモリデス」

「知ってるよ」


 鷲は、ぽつりと呟いた。


「よく、知っている……」

「てゅめん(王)ハ貴方がたヲ、〈白き蓮華ノ国〉 ノ住人と言いマシタ。天人テングリ。草原ハ、かノ地トハほど遠い……。我々は、えるリック(地獄)ノ番犬ヲ自称する蛮族デス。シカシ、ソコに、あの方ガ居るコトヲ、お忘れ下さいマスナ」


 鷲は眉間に皺を寄せている。オダは、二人の会話を、息を殺して聴いていた。


「覚えておく……。それは、トグルあいつの希望なのか?」

「イイエ。私の願いデス。ソロソロ戻りマス。てゅめん(王)ガ、不審に思われマス」

「ああ、御苦労さん」


 アラルは丁寧に一礼して戻り、オダと鷲は残された。トグルの方を見遣る鷲の横顔を仰ぎ、オダは訊いた。


「鷲さん。シルカス・ジョク・ビルゲって、誰ですか?」

「トグルの友人だ。お前達が、ここへ来る前――戦争が始まる前に、病気で死んだ。シルカス族の族長だ。……トグルあいつ氏族長会議クリルタイを開くように言ったのは、そいつだ」


 鷲は、オダを振り向かず、ぶっきらぼうに答えた。それきり黙り込む。

 沈黙に圧されて、少年は、言葉を失った。




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