第三章 双面の神(6)

*R15です。自死、流血、死体の描写があります。苦手な方はご注意下さい。



            6


 ユルテ(移動式住居)で仮眠をとっていたトグルの許へ、オロス族の使者が来たのは、まだ、夜が明け切らぬ頃だった。

 タオとシルカス・アラルに起されて、半分眠った頭で報告を聞き……その場でどんな指示を出したのか、覚えていない。妹に急かされ、欠伸を噛み殺しながら、天幕へ戻った。

 その時まで、例の女のことは、すっかり失念していた。

 昨夜の出来事は、全て、疲労が招いた悪夢であったような気分だった。目覚めれば、朝日に融け、消えてしまう。実際、そうでなければ、彼の精神がもたなかったろう。

 だから。

 長剣と外套をとる為に部屋へ入ったトグルは、己の目を疑った。一瞬で、悪夢の中に引き戻された。

 彼を迎えたのは、生々しい血のにおい……せかえる程の。絨毯を染め、壁に、天井にまで飛び散った、どす黒い血痕と、その中でうつ伏せに倒れている、若い女の裸身だった。


「…………」


 声もなく、トグルは立ち尽くし、片手で口を覆った。一目で、既に死んでいると判る。近付いて確かめるまでもない。彼には間違えようのない死臭が、部屋には充ちていた。

 女は、彼の長剣で頚動脈を掻き切っていた。殆ど首を斬り落とすほど深く切れこみ、後方へ突き出た刃が、消え残った灯火の明かりを反射して、にぶく輝いていた。

 トグルは、顔から手を離した。凝然とみひらいていた眼を細める。呆然としていたが、心の底で、納得する声があった。


『そうか……。この手があったか』


 昨夜の、女の表情を思い出す。真っすぐ彼を見据えていた琥珀色の瞳を。紅い唇から発せられた澄んだ声を。――「私がお前に従えば、お前は、私の家族を救けてくれるのか?」


「敗れたのは父であって、私ではない」


 そして、抵抗することなく、彼に抱かれた身体を。


 トグルは、ふいにわらいたくなった。激しい嗤いの衝動が身体の奥からこみ上げ、あらがう術なく、声をあげて嗤い出した。

 哄笑……。それは、硝子の杯を硬い岩に叩きつけたように、突然、狭い部屋に響き渡った。他に生きた者の居ない室内に。

 白い女の抜け殻に向かって、トグルは、吐き出すようにわらい続けた。息が切れ、声が掠れ……苦しさに、涙が滲む程。声がれ、呼吸が出来なくなるまで、衝動は止まらなかった。

 喘ぎ、眼をこすって、トグルは思った。噛み締めるように。

『見事だ』――戦わず、負けを認めず。かつ、誇りを失うこともなく。復讐を成し遂げた。戦争に、男に、そしてトグルに。

 彼女が意図していたかどうかはともかく、彼はそう感じた。表情が消え、碧眼が女を映す。


『そうして、俺を、追い詰めるわけだ……』


 女が意図していなかったのなら、感服するしかなかった。彼を知るはずもないのに、これ程の衝撃を与えたことを。

 意図していたのなら、滑稽だった。トグルは単純な男ではない。敵の女に同情し、命を投げ出したからといって心情を思い遣る程、甘くはない。それを予想せず、自ら命を絶った、女が。

 いずれにしろ――トグルは、強く眉根を寄せた。どう受け止めればよいのだ、この行為を。

 己の感情に、彼は戸惑っていた。衝撃、怒り、罪悪感……軽蔑と焦りと、諦念に。


 血溜まりに彼女は突っ伏し、表情は窺えない。栗色の髪は、生きていた時の豊かさで、絨毯の上に流れていた。外套は彼女の腰にかかり、端から白い脚がむき出している。滑らかな肩も。

 灯火に照らし出される姿を眺めているうちに、トグルは、胸のなかに深い憐憫れんびんの情があることに気づいた。それは瞬く間に成長し、他の感情を閉め出してしまった。

 憐れだった、彼女は。――男の世界の中で、その願いによって男達を止められず、見捨てられた気持ちのまま、憎むことしか出来なかった女。

 誇り高いが故、己の弱さを認められず、憤りのあまり、自ら命を絶つしかなかった女。トグルの気持ちを、知る由もなく。

 独りで怒り、闘い、絶望し……独りきりのまま、逝った。彼女は、トグルに、母の姿を想い出させた。タオの、鳩の、隼の……。

 そして、自分自身の。


 ――「お前の女達が奪われたとして、同じことが言える?」


 トグルは、首を横に振った。完敗だった。

 大軍を率い、何万人の敵を殺そうと、たった一人の小娘に、彼は敗れたのだ。その行為を予測出来なかったのは、トグルの責任だ。

 彼を拒絶したのは、彼女の方だ。誰にも、救えなかったろう。己を責めても仕様がないと、彼は承知していた。死者を蘇えらせることは出来ない。

 だが……。


 現実を、直視できない者。己の置かれた状況を、処理できない者……。妄想、虚栄、やり場のない怒り、絶望、狂気……。それらは全て、ただの弱さの産物なのか。

 無作法な運命に翻弄され、渦を巻く時間に惑わされた挙句に、行き着く先が、これなのか。

 どんなに誇り高く、賢く、才能と美と力を兼ね備えようとも、一寸先には闇が待ち受け、救いの手も、真に信じられる何ものも、得られないのか。

 だとしたら……?


 トグルは、無表情に女を見下ろした。跪き、細い肩を抱き上げる。まだ、ぬくもりが残っていた。

 うすく開かれていた瞼を閉じさせてやってから、剣を抜き取る。血まみれの外套で身体をすっぽり覆ってやった後も、暫く、彼はそこにいた。

 こんな時、何と言えばよいのだろう……。

 鷲やトゥグスなら、適当な言葉を思いつけたかもしれないが。トグルには、解らなかった。

 彼は立ち上がると、自分の辮髪の一本を、血濡れた剣で、無造作に切り落した(注1)。切ると言うより、引きちぎる、という動作だった。それが女の身体の上に落ち、黒い蛇さながらうねるのを、嵌め込まれた碧の瞳で見下ろした。


「兄上? …………!」


 あまりに彼が遅いので様子を見に来たタオは、部屋の惨状に息を呑んだ。丁度、トグルは剣を鞘に収めたところだった。

 妹の顔を見ることなく、その脇をすり抜けながら、彼は、低く言い捨てた。


「タオ。片付けておけ。出陣する」

「って、あに……兄上?」

「……やっていられるか」


 慌てて彼を呼び止めようとしたタオは、吐き捨てるような悪態を耳にし、眼をまるくした。

 トグルの辮髪が一本無くなっていることに気付いたタオは、ざあっと音を立てて頭から血の気がひくのを感じた。


「兄上……!」


 天幕を出たトグルの前には、眩むような世界が広がっていた。

 目を射抜く朝日に、彼は眩暈を感じて立ち止まった。馬のいななき、蹄の音……武器が鳴り、男達が、口々に呼び合う。己を包む空気の濃厚さに圧倒されて立ち尽くしていると、甲高い声が聞えた。


テュメン! トグル・ディオ・バガトル!」


『今度は何だ……?』 虚ろな目をそちらへ向けながら、細い精神の糸が悲鳴に似た音をたてるのを、トグルは聞いた。

 張り詰められ、傷つけられた心の弦が、今にも切れそうに震えている。――『やめてくれ。もう、俺を放っておいてくれ』


『俺に、どうしろと言うのだ……』


 巨大な世界を前に、トグルは、あまりに無力だった。無防備に立ち尽くす。視界の片隅に、こちらへ向かって歩いて来る、鷲とオダの姿が映った。


「王! 族長トグル!」

「王! ***、*****……!」


「……良い。通してやれ」


 絹を裂くような女の声に無理やり意識を引き戻すと、トグルは、懸命に近づこうとしている赤毛の女に視線を向けた。ニーナイ国の女だ。何やら、大きな荷物を抱えている。麻痺しかかった頭でそう認識すると、彼女を押し留めようとしていたシルカス・アラルを退がらせた。


「兄上」


 追いついたタオが呼ぶ。無視して、トグルは、足元に跪く女を見下ろした。三十代の半ばくらいだろうか。茶がかった赤毛を二本に編み、遊牧民の装束に身を包んでいる。

 オダが、急いで駆けて来るのが見えた。


「……俺に、何か用か」


 女は、澄んだ、異様にかがやく空色の瞳で、トグルを見上げた。


「〈草原の民〉の王よ。貴方に、申し上げたいことがある」


 ごくりと唾を飲み下し、女は、感情を抑えた声で言った。オダが来て、彼女の隣にあたふたと跪く。ゆっくり到着した鷲が、離れた所に立ち止まり、腕を組んだ。

 同族の少年に構わず、女は、一心にトグルを見据えている。掠れた声で、トグルは応えた。


「何だ……?」

テュメン。私は、ニーナイ国、フェルガナに住んで居た者です」


 オダが、目を丸くした。タオが、兄の背後で、するどく息を吸う。


「八年前、貴方の軍に村を襲われ、夫を殺されて、幼い息子とともに草原イリへ連れて来られました。ここで、今の夫と出会い、子どもを二人もうけました」

「…………」

「トグリーニはおそろしい蛮族だと聞いていましたが、夫は優しい人でした。異民族の私達を、貴方がたは温かく迎え入れて下さった。――前の家族を殺された恨みはありますが、私は、まだ生きている。貴方の治世は、悪く無かった……。トグリーニには良い族長が居ると、夫と息子は話し合っていました」


 トグルの眸に、表情は無かった。


「何が言いたい」

「王よ。生き残れたことを、息子は天に感謝していました。諦めもありますが――〈草原の民〉になることを願って、此度の戦に参加しました。夫は、貴方に心酔していました。名もなき自由民アラドでしたが、貴方の民であることを、誇りに思っていました」

「…………」

「そして、二人は出陣し……二人とも、死体になって、私の許へ帰ってきました」


 タオは、シルカス・アラルと顔を見合わせた。アラルは、剣把けんぱに手をかける。仕草に気付いたトグルは、右手をわずかに動かして部下を制した。アラルは、不安げに主人を見遣った。

 鷲は、強く眼を細めている。

 女は、きらきら輝く瞳でトグルを見据え、息を吸い込んだ。次に発せられた声は、ぎりぎりまで感情を抑制していた為、震えていた。


「王。貴方を責めはしません。私は、二度夫を喪いましたが、二人は二人とも、自分の意志で出陣したのです。逃げようと思えば、逃げられた……貴方が隷民ハランには従軍義務を課していないことを、息子は知っていました。それでも、彼等は戴冠式の貴方の呼びかけに応え、出掛けて行きました。死ぬと分かっていても、そうしたでしょう」

「…………」

「おそらく、貴方もそうなのでしょう、王。私には、理解出来ません。理解したくもありませんが……教えて欲しいのです」

「…………」

「ここに、私の、三人目の息子が居ます」


 女が言葉を切り、抱えていた包みを解いたので、流石のトグルも目を瞠った。〈草原の民〉の血を引く黒目黒髪、黄色い肌の赤ん坊がいた。

 アラルやオルクトを含め、周囲の男達をぐるりと見渡すと、女は、挑むように、赤子を高くさし揚げた。


「今の夫に嫁いで最初の子は流産しましたので、この子が、私に残された唯一人の息子です。かけがえのない、息子です。ですから、教えて欲しいのです」

「…………」

「この子に……。この子の父と義兄あにが、何故死んだのか。貴方がたが何故戦い、人を殺し、殺されたか。王よ」

「…………」

「貴方の民であり、貴方の下で戦えることを、夫は誇りにしていました。貴方の間近に侍る日を、息子は、心待ちにしていました。――息子は知りたかったのです。父を殺した敵でありながら、自分を庇護してくれたのが、どんな人間かを。この子が長じ、いつか、同じことを願ったとして。私には答えられません。教えて頂きたい、王よ。夫と息子が見たものを、この子にも見せてやって欲しいのです」


 女は、トグルの眼前に赤ん坊を突きつけたまま、彼の答えを待った。

 全員が、半ば呆れて、そのさまを見た。トグルが何と応えるかを、固唾を呑んで見守っていた。

 鷲は、ゆらりと、重心を片脚に移した。


 トグルは茫然と、赤ん坊と女を観ていた。――何を言っているのだ? この女は。

 空色の瞳は陽光を反射し、強大な力をもって彼に迫ったが、追い詰めてはいなかった。脅威ではなかった。ただ、どこまでも澄んでいる。

 その瞳を、オダも、息を呑んで見詰めた。


「…………」 


 あらがい難い眼差しに従い、トグルは、手を差し伸べた。女の腕から、赤ん坊を抱き上げる。

 彼女は、ほっと息をついた。

 きょとんとしている幼子の黒い瞳を見下ろして、トグルは、囁き声で訊ねた。


「どうすればいい?」

「お任せします」


 女は、両手を地面に着き、深々と一礼した。トグルは、まとまらない思考で続けた。


「……俺の遣り方で、良いのか」

御意ラー。その子は、〈トグリーニ〉ですから」


 まだ当惑している様子で、トグルは女を見ていたが……やがて、赤ん坊の入った包みを、首に提げた。アラルが手を出そうとしたが、身振りで断った。

 トグルは、ごそごそと赤ん坊の位置を動かして悩んでいたが、結局、左の脇腹に、挟むようにして落ち着けた。深い緑の瞳が、ちらりと鷲を見たが、何か意志を伝えるわけではなかった。

 そして、男達を見渡し、トグルは、低く声をかけた。唇を歪めたのは、苦笑らしかった。


「行くぞ。タイウルトの残党狩りだ」


 無言で、或いは『御意ラー』と答え、男達は動き始めた。何事も無かったかのように。

 トグルは、アラルから黒い外套を受け取って歩き出した。


 女は、額を地面に擦りつけたまま、彼等が行き過ぎるのを待った。やがて面を上げたが、その目に宿る意志の強さに、オダは声をかけられなかった。

 彼女は少年に一礼すると、立ち上がり、トグル達とは反対の方向へ歩き出した。タオとジョルメ若長老が、小走りに後を追う。夫と息子を同時に喪った母親の精神状態を、危惧したのだ。

 鷲は、佇んで彼女達を見送り、充分遠ざかってから、トグルへ視線を戻した。


「鷲さん」


 オダが、混乱した様子で、彼の許へ駆けて来る。

 鷲は、オルクト氏族長とシルカス・アラルと並ぶトグルの背を眺めた。辮髪が二本に減り、無残な断端を晒していることに気付いて、眉を寄せる。


「ルドガー(暴風神)は、《双面の神》だと言うが……。俺より、あいつの方が、よっぽど(注2)」

「え?」


 言葉を切り、鷲は頭を振った。傍らに突き立てていた長杖を手に取る。神妙な表情で考えていたが、やがて、肩をすくめた。


「行こう。急がないと、を見失っちまうからな」

「はい」


 大股に歩き出す鷲の長身を、オダは、慌てて追いかけた。








~第四章へ~


(注1)辮髪を切る: スキタイ、フン、突厥、女真、匈奴などの北方ユーラシア諸民族の葬礼で、霊魂が宿るとされる髪の一部を切って死者に捧げる風習です(『剪髪』と言います)。顔面や身体に刀傷をつけて血を死者に捧げる行為(『り面』と言う)もありました。いずれも、殉死を形式化し、死者への哀悼を示す行為です。


(注2)双面の神: ルドガー神は雷神であり嵐をもたらす神ですが、沙漠地帯を潤す恵みの神でもあります。恐ろしい破壊神であり死神ですが、同時に医療と再生の神でもあります。このような二面性を表して、《双面の神》と呼ばれます。

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