第三章 双面の神
第三章 双面の神(1)
1
タイウルト部族がトグリーニ部族との戦いで大敗を喫した報は、直ちにタァハル部族の天幕へ伝えられた。
シジンは虜囚のユルテ(移動式住居)から連れ出され、使者同士の話し合いに立ち会わされた。援軍を求めるタイウルトの使者と、挙兵を要求するキイ帝国の使者の話をひととおり聴いた後、通訳不要と判断された。
シジンは、男達が気勢をあげる天幕を後にすると、霜の降りた草原をジャリジャリ踏んで戻った。
最近になってようやく火の使用を許されたユルテの扉がうすく開き、見張りの男たちが
「ああ、帰って来た」
「シジン」
ナアヤは、珍しく身を起こし、寝台に坐っていた。
見張りは彼を中に入れると、扉を少しひらいたまま茶会に戻った。シジンは、微笑んでいるラーダと連れの男を、やや呆れて眺めた。
「さし入れを持参したところ、融通を利かせてくれたのです」
見張りの男達の足元には、葡萄酒の瓶があった。大胆なことをする、とシジンは思ったが、彼等の勇気はありがたかった。
ニーナイ国の神官たちは、時折、彼等を訪ねて来た。ナアヤの傷に薬を塗って清潔な布を巻き、干し葡萄の入った
ゆえに、
「礼を言う……。面倒をかけて、すまない」
シジンが神妙に頭を下げると、ラーダは首を振った。
「困っている方をお助けするのは、当然のことです。[本当は、ここから出して差し上げたいのですが……私達に出来るのは、ここまでです。お赦しを]」
外で耳を澄ませているに違いない男達を意識して、ラーダは神官同士が使う言語を交えたのだが、シジンの表情は変わらなかった。
ラーダは、外の男達をちらと流し見て訊ねた。
「今日は、何があったのですか?」
「タイウルト部族が、トグリーニ部族と戦って敗れたそうだ」
「タイウルト?」
首を傾げるラーダに、シジンは頷いた。
「タァハル部族とトグリーニ部族の間に縄張りをもつ、北方の小部族だ……小さくはなかったろうが。トグリーニ部族の方が、大きくなった」
ウィシュヌ神(慈悲と平和の神)の神官は、頬を引き締めた。シジンは、草原の男達の言葉を思い出しながら説明した。
「今のトグリーニ部族の盟主は、
「ひゃ、百万?」
「こちらの外圧が強かったからだろう。
シジンは、感心している風に呟くと、乳茶を口に運んだ。ニーナイ国の神官と使者は、顔を見合わせた。
「タァハル部族に、対抗策は?」
ミナスティア国の元
「トグリーニ部族単独であれば、優勢だったはずだ。ニーナイと、キイ帝国の支援もあるのだからな。キイ帝国のオン大公は、自国の将軍たちと争っていて、援軍を出す余裕はなかろう。もとより、〈草原の民〉の
「そんな……」
「ここまで、攻めて来るでしょうか?」
ラーダの連れが、周囲を見回し、ぞっとしない調子で訊いた。ナアヤも蒼ざめている。
シジンは、フッと嘆息した。
「攻めてこない理由がない……。タァハル部族もトグリーニ部族も、エルゾ=タハト山脈以南へは、攻めてもすぐ撤退するであろうが。シェル城周辺は、無事ではいられぬだろうな。[貴方がたには気の毒だが、タァハル部族がどれだけ持ちこたえられるかにかかっている]」
ニーナイ国の男達は、黙然と考え込んだ。
正面から戦っても勝ち目のない相手に怯えるより、同盟を結ぼうという策は、殆ど意味を成さなくなっていた。戦う術のない〈砂漠の民〉を、タァハル部族は
トグリーニ部族の本営へ向かった、
簡単に打開策が得られるわけではない。ラーダは頭を振って不吉な考えを断ち、話題を換えた。
「ナアヤさん」
「テスです」
ナアヤは、右脚の大腿を両手でさすりながら、わずかに微笑んだ。
「テス=ナアヤと言います」
「テスさん……。シジン=ティーマさん、でしたね?」
シジンは、軽く顎を揺らして肯いた。ラーダは、息を吐いて続けた。
「ナアヤは騎士、ティーマは神官という意味だと伺っています。お二人とも、
二人はややきまり悪そうに顔を見合わせた。シジンは眉尻を下げ、ナアヤは左手で頭を掻く。ラーダは、二人を交互に見遣った。
「タァハル部族がタール砂漠(ニーナイ国の大部分を占める乾燥地帯)を越えて他国へ侵攻したという噂は、聞いたことがありません。お二人がここにいることが、新たな紛争の原因になるのでしたら――」
「いや、それはない」
シジンは、無精髭に覆われた唇にうす嗤いを浮かべ、遮った。片方だけの手を、胸の前で振る。
「……ミナスティアが我々を探すことはないし、我々の為に兵を動かすこともない。心配は無用だ」
「
ラーダの問いに、ナアヤは上目遣いに相棒を見遣ったが、シジンは困って眉根を寄せた。ラーダは
「あの。差し支えない範囲で構いませんが……」
「そうではない」
シジンは苦笑し、改めて一礼した。
「支障などないが、どこから話せば良いか、悩んでいるのだ。……
テス=ナアヤは瞼を伏せ、相棒に話を任せている。ラーダは促した。
「それで?」
「ミナスティア王には、三人の妃との間に、王子が二人、王女が三人いた。第一王子と第二王女は幼い頃に病死し、第一王女はナカツイ国に嫁いだ後、亡くなった。……第三王女は、キイ帝国へ輿入れが決まっていた。我々は王女を逃亡させ、王太子を殺害することにした」
「待ってください」
ラーダと使者は、瞬きを繰り返した。今、とんでもない話を聞いたように思う。
「王太子を殺害? 貴方がたが?」
「そうだ」
シジンは、平然と肯いた。
「俺とナアヤが王女を連れ出し、その隙に、仲間が太子宮を襲う作戦だった。
ラーダは眼を瞠ってシジンを
自分が話している相手は、一国の反逆者なのだ。
シジンは、ニーナイ国の男達の頭に言葉の意味が浸透するのを待って、単調に続けた。
「俺達は、王女をリタ(ニーナイ国の首都)へ逃がしてから、ミナスティアへ戻るつもりだった。その途中で、タァハル部族に襲われたのだ。仲間は殺され、王女はどうなったか……」
「ミナスティアでは王権が崩れ、内乱が続いていると伺っています」
ラーダは、慎重に告げた。シジンは頷き、ナアヤは顔を上げて彼を観た。
「熱病が流行り、治安も悪化している、と……」
「さもあろう。早く帰って、新たな国造りに参加したいものだ」
「何故――」
――王太子を
しばしの間、囚人のユルテ(移動式住居)は、重い沈黙に浸された。炉のなかで燃える小枝がはぜる音と、外で酒を飲んでいる男達の笑声が、場違いに響いた。
やがて、シジンはむっつりと口を開いた。低い声は苦々しい。
「ニーナイ国の
「はい、そうです。村の名や、父親の名を繋げることがあります」
シジンは、丁寧に答える神官に、深い藍色の眸を向けた。
「我々には、姓がある。ティーマは神官、ナアヤは騎士、ムティワナは王……
「は……い」
ラーダは頷きながら、胸の底が冷えるのを感じた。はっきりとは判らないが、彼の言葉に空恐ろしい響きを聴きとった。
シジンは、視線を外すことなく続けた。
「ミナスティアでは、一語きりの名で姓のない者のことを、〈
「え?」
ラーダは息を呑んだ。シジンは、重々しく頷いた。
「遠い昔、かの地を征服した
「そんな」
「
慈悲と友愛を重んじるウィシュヌ神の
元神官は、憤りをこめて奥歯を噛み鳴らした。
「どの聖典を探しても、史書を紐解いても、そんな
シジンは声を抑えていたが、悲痛な感情があふれ出しそうだった。書庫の中で真実を求め、いくつもの記録を漁る少年の姿が見えるように、ラーダは想った。他でもない、己の先祖が民を騙していたと
「しかし――」
何と言うべきか、ラーダは、言葉選びに苦労した。
「――国を治めるために、秩序は必要でしょう。先人たちが考え抜かれた方法ではなかったのですか?」
シジンは、無言で首を横に振った。ナアヤが、代わりに応えた。
「〈
「生きたまま、祭壇の火に投げ込むのだ」
ナアヤの静かな声に、シジンの呻くような声が重なる。ラーダは耳を疑った。
「……何ですって?」
「悪習であり、無論、神殿が奨励したことは一度もない。
シジンは言葉を切ると、再び面を伏せて黙り込んだ。ナアヤも。
ラーダは言葉を失っていた。
社会を変えるため、もっと穏やかな方法はなかったのか。王太子を殺害するのではなく、次世代を担う彼に働きかけ、政策にするか。――思いは次から次へと湧いたが、そんな悠長な状況ではなかったのだろうと想像できた。王太子が話の分かる人物であったかは判らず、かの国の内乱の報は、数年前から伝わっていたのだから。
シジンは彼の動揺を理解し、囁くように告げた。
「ニーナイ国の人々は平等で、王も貴族もないと聞いている」
「はい。もともと、戦乱を避けて砂漠に流れ着いた人々が、オアシスに造った村の集まりですから……。村をまとめる長老と、私たち神官はいますが、
「羨ましいことだ」
シジンは、素直に感心していた。
「国の成り立ちが違う故、理解して頂くのは難しいだろうか。……ミナスティアは、〈
「血統を表す容姿……ですか」
「左様」
シジンは溜息をつき、やわらかな蜂蜜色の髪を揺らした。
「五百年に渡る王族との混血の程度が、姿に表れる。
ラーダは改めて、二人の虜囚の
ナアヤは頷き、シジンは淡々と続けた。
「
「〈草原の民〉、ですか」
ラーダと使者の男は、思わず、ユルテの戸口を顧みた。見張りの男達は、こちらの話には興味を示さず、談笑している。
シジンは、
「彼等ほどの黒髪ではないがな……似ている者は、いるかもしれない。我々は、どちらも〈旧き民〉だと伝えている」
ラーダは溜息をつくしかなかった。
ミナスティア国の王族が、民の身分を固定し、通婚を禁じた理由を理解した。混血が進み、権力が分散することを
シジンは小さくぼやいた。
「タァハル族に紛れられては、見分けがつかない。何処にいるのか……」
「誰です?」
ラーダが首を傾げると、シジンは苦虫を噛み潰した。ナアヤが、相棒の代わりに答えた。
「シジンは、レイ王女を捜しているのです。我々と一緒に、タァハル部族に捕まった――我々が連れ出した、第三王女です」
「……とっくに、殺されているかもしれぬがな」
一同から顔を背けて呟くシジンと、ナアヤを、ラーダは交互に見遣った。キイ帝国へ輿入れする王女を攫い、その騒動の隙に王太子を殺したという話だった。彼等にとって用済みであるだけでなく、王家をたおす為には、生きていては都合の悪い王女のはずだが……。
ナアヤは悲し気に微笑み、彼の内心の疑問に答えた。
「殿下とシジンは、乳兄妹だったのです。我々の活動にも理解を示して下さっていたので、殺すには忍びなかった……。キイ帝国に輿入れすれば、かの国の軍事介入の口実となるやもしれず。リタ(ニーナイ国の首都)で、自由にして差し上げたかったのです」
『ああ、それで』 ニーナイ国の男達は納得し、同情をこめて頷いた。シジンは、視線を外している。
二度、三度と首を揺らしていたラーダの脳に、ふと、ある考えが閃いた。
「……待って下さい。二年前、リタの近くで――。〈草原の民〉に似ている、と仰いましたね?」
この言葉に、シジンとナアヤは、怪訝そうに神官を振り向いた。ラーダは、ウィシュヌ神(慈悲と平和の神)の奇跡に思いを巡らせながら、ごくりと唾を飲んだ。
「私は、知っているかもしれません……」
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