第五章 荒野の少年
第五章 荒野の少年(1)
*暴力と殺人の描写があります。ご注意ください。
1
雨は、最初こそ激しく吹きつけて来たが、すぐに勢いを減じ、断続的な降りへと変わった。
雷は遠去かったが、太鼓のような重い音が続いている。垂れこめる雨雲のせいで、辺りは薄暗かった。
風は、雨と枯草のにおいを運んで来る。暗紫色の雲は空をうめつくし、渦を巻いて速く流れ、その隙間から陽光が光の剣さながら射しこんで、地上を照らしていた。淡い黄金色の光には、うすく虹が架かっている。
それは、オダには、とても神秘的な光景だった。馬のはやい息遣いと蹄の音が重なり、どこか非現実な空間へ少年を連れ去っていく。
まるで、世界の創造の瞬間に立会い、生まれたばかりのそこを駆け抜けて行くような荘厳さだった。
トグルの馬は、素晴らしかった。あまり詳しくはないオダにも、凄さが分かった。たてがみは燃える炎さながら風になびき、艶やかな毛皮は
トグルは無言で
皮製の外套を翻し、長い辮髪をなびかせた姿は、オダには、とても威厳があるように見えた。
しかし、若い……鷲と同歳くらいか。しげしげと眺めていると、少年の視線に気づいたトグルが、声をかけてきた。
「どうした。疲れたのか、小僧」
「その『小僧』というのは、やめて下さい」
『足手纏い』だの『阿呆』だの。言いたい放題のことを言われ、最初は驚くだけだったが、そろそろ頭に来た。オダは
「そうか、小僧。で、何だ」
「……見えるんですか?」
気にしないことにして、周囲を見回す。先刻から気になっていたのだが、
彼の部下達は、どこに行ったのだろう。雲間から洩れる光の傾斜で西へ向かっていることは察せられたが、薄暗く、オダには物の輪郭も判然としなかった。
トグルは前を向いたまま、ぼそりと応えた。
「見える……五騎、ついて来ている。……左。土手の向こうだ。様子を伺っている」
湿った土を跳ねあげて、馬は駆ける。オダは揺られながらそちらを見遣ったが、判らなかった。――確かに、蹄の音は一騎だけではない。振り返ると、鮮やかな緑の瞳に出会った。
「お前の赤毛は目立つ」
トグルは、心持ち眼を細めて囁いた。
「俺達が、何者か……どういうつもりで追っているのか。後続の数は……。調べているのだ」
「タァハル部族ですか?」
「いや」
オダの目にも、なだらかに続く丘の向こうに閃く影がみえた。少し考えて訊ねる。
トグルは
「奴等は、
「カザック?」
「……どの部族にも氏族にも属さない、離れ者の集団を、俺達はそう呼ぶ」
大地は登り坂となり、左の丘と同じ高さの場所に出た。追っ手の騎馬が姿をあらわす。トグルの言った数より増えていた。
彼等を横目で警戒しつつ、トグルは続けた。
「部族の体制を嫌って、離れる者がいる。それが、
「一匹狼たちの集団ってわけですか」
「そう言えば、聞えは良いが――」
馬足をはやめるトグルの眼差しはいよいよ鋭くなり、声には苦いものが混ざった。
「要は、社会に馴染めない、はぐれ者の集団だ……。大部族から離れれば、追撃と報復を受ける。良い草場も得られず、大抵、盗賊に成り下がる。こうした部族同士の争いがある際は、どちらかに付かねば生き残れず、戦闘において最前線に立たされる。……憐れな連中だ」
「彼等は、タァハル部族の?」
「奴等は、俺の部族からの
黙りこむオダを、トグルは一瞥した。
「一度離れた者を、簡単に受け入れる部族はない。連中は、俺達の戦法を熟知している。――まず奇襲。それから一時退却して、相手の出方を見る。相手が追撃して来るなら、さらに退却を繰りかえし、味方の縄張りの奥深くに誘い込む。時には、馬で数日かかる距離を、退走し続けることもある」
「…………」
「相手が疲れた頃に、全軍で打って出て、巻き狩りの要領で片をつける。故に、草原の戦いでは、軽騎兵が中心になる」
「軽騎兵……」
どうして、こんな話をするのだろう。こんな時に。――怪訝に思ったが、オダは聴き入った。遊牧民の戦法が、彼等自身の口から語られることは、まずない。しかも、これは、とびきりの男だ。
馬蹄の音にかき消されそうな低い声に、オダは懸命に耳を傾けた。
「防具を着けていない馬に、革製の胸当てだけを着けて
「その兵で、シェル城を陥としたんですか」
「城塞を相手に戦うときは、重騎兵が中心だ」
呟くように答え、トグルは、じろりとオダを見下ろした。少年はドキリとしたが、彼の視線はすぐ追っ手へ戻った。話を再開する直前、唇が嗤うように歪んだ。
「城壁に矢を射掛けても、仕様がない。故に、包囲する……。重騎兵は、人も馬も
「それで、五千人もの人々を、殺したんですね」
「小僧」
凄みのある声に、オダは息を呑んだ。ここまで聞いた以上、ただでは済まされないだろうという考えが、頭を過ぎる。
だが、トグルは少年を見ていなかった。行く手から新たに現れた十数騎の
「しばらく黙っていろ。舌を噛むからな……」
オダは、ごくりと唾を飲み、馬の首にまわした腕に力をこめた。
逞しい黒馬の脚は、疲れを知らなかった。雨を吸って柔らかくなった土を蹴り、飛ぶように走り続ける。
敵は、なかなか追いつけなかった。ようやく近づいた一騎から、男が怒鳴った。
「*****! ***……*****!」
「***」
トグルが短く言い返す。ぼそぼそとした喋り方が嘘のように、気迫のこもった声だった。
「***、トグル・ディオ・バガトル!」
トグルが名乗りをあげた途端、彼等の表情が一変した。口々に喚き、鞭を振るう。馬上から弓を構える者もいた。
トグルは身を起すと、手綱から完全に手を離した。瞠目するオダには目もくれず、
「ジャー!」
――と、オダには聞えた。
目前に、こちらへ向かってくるカザックの男が迫っていた。少年は身を伏せ、前方へ突き出された馬の首へしがみついた。
歯を食いしばるトグルの顔が一瞬視界をよぎり、戟の刃が、男の胸に吸い込まれて行くのが見えた。
どすっ……という鈍い音と同時に、反動を受けて、トグルの身体が揺れた。そのまま、戟から手を離さず、身体を二つに折り曲げる。肋骨の砕ける音と同時に、真っ赤な血が噴き上がった。
目を大きく見開いた少年の顔に、生温かい血が降りかかる。トグルにも。
男の剣は空を切り、トグルの腕に達したが、わずかに外套の袖を切り裂いただけだった。男が馬の背から落ち、後続の馬蹄に踏み潰されるのを、オダは茫然と見送った。
トグルは、戟から手を離した。精悍な顔に表情はないが、荒い息を吐いていた。
カザックの男達が、口々に怒号をあげる。抜き放たれた刃が、雲間から射し込む夕陽を反射した。
少年を庇ってトグルが身を伏せると、突然、馬が方向転換した。
「わっ!」
黒馬がくるりと向きを換え、反対方向へ駆け出したので、オダは、勢い余って放り出されそうになった。トグルが襟首を掴んで引き戻してくれる。彼の身体は、愛馬の動きに滑らかに対応し、揺らがなかった。
「頼んだぞ、ジュべ」
オダに覆いかぶさるようにして
後ろからは、先刻の倍に増えた追っ手が、矢を射掛けてくる。
ジュべが速力を増す。まだこんな力が残っていたのかと、オダは驚いた。漆黒の馬体はぐっしょり汗に濡れ、目は血走り、口には泡が散り始めていたが、主の信頼に応えて必死に疾走する姿は、オダの胸を打った。
トグルが外套をひろげる。降り注ぐ矢から少年を守る為に、その身を覆おうとしていた。
「何の話を、していた……?」
馬体から飛ぶ汗が、雨よりも激しくオダの頬を叩いていた。やがて、追っ手との距離が少し開くと、トグルが口を利いた。言葉を失っていた少年は、冷静なその口調に驚いた。
トグルは、顔についた血を袖で拭いながら、息を整えていた。額にも汗が流れている。
オダは、ごくりと生唾を飲んだ。
「貴方が、五千人を、皆殺しにしたという話です」
「ああ、そうだった」
『そうして、今もまた、一人』
冷徹な緑柱石の瞳を見詰め、オダは、自分の歯が鳴る音を聞いた。全身の毛が逆立つように感じる。
恐怖ではなかった。むしろ興奮し、
『トグル・ディオ・バガトル。この男は――』
「戦法の話をしていたのだったな。シェル城をどうしたと――。で?」
「で?」
「だから、どうした」
「…………」
「俺達がシェル城を陥とし、
「何がって……!」
オダは、頭にカッと血が上るのを感じた。瞬間、純粋な怒りに我を忘れた。
「よくも、そんなことが言えますね! 平気な顔をして。五千人もの人々が、全員、敵だったとでも言うんですか! その殆どは非戦闘民だった。老人も、子どもも、赤ん坊まで、貴方は殺したんですよ!」
トグルは、表情のない瞳で、少年を見下ろした。
「彼等が、殺されなければならないような、何をしたと言うんですか! 貴方がたに対して! こんなに多数の犠牲を出す戦いを、我々が、今まで貴方がたに仕掛けたことがありました? ないでしょう!」
「…………」
「争うことを知らず、ただ平和に、静かに暮らしていた人々を。貴方がたは襲い、蹂躙し、思うまま殺し、奪い去った! さぞ楽しかったでしょうよ、貴方がたにとっては! だが、罪も無い同胞を殺された我々は、家族は、どんな気持ちで居ると思うんだ。それを、よくも……! 我々は、決して貴方を赦さない。僕は、貴方を赦さない!」
少年の晴れた空色の瞳を、トグルは無言で眺めていた。無表情に。烈しく純粋な憤りだけで人を殺せるのなら、彼はその場で息絶えていただろう。
言葉よりも、何倍、何十倍の強い憎しみをこめて、オダは彼を睨み据えた。
トグルは、ちらりと追っ手との距離を目で確かめてから、他人事のように語り始めた。
「
「…………」
「九世紀間に渡り、俺達は、春と夏はこのイリで過ごし、秋になるとタサム山脈を越え、冬はフェルガナで過ごす習慣だった……。狭いあの土地に一年以上居座っては、家畜は草を食べ尽くしてしまう。それ故、俺達は定住しなかった」
トグルの声は単調で、何の感情も含んでいなかった。追っ手の矢を外套で叩き落とし、同じ口調で続けた。
「そこに、百年前、お前達が移り住んだ。城を建て、防壁を築いて、俺達を閉め出した。……それはいい。そこまでは、許そう。俺達は、草原がある処なら、どこへでも移動して暮せるのだからな……。だが、どうしても、俺達遊牧民にとって我慢がならなかったのは。お前達が、草原に、
オダは息を呑んで、草原の男の顔を見詰めた。
「あの痩せた、硬い土を掘り起こし、お前達は麦を撒き、畑を作った。
オダは口を開け、何事かを言おうとしたが、何も言えず、口を閉じた。
トグルは表情も口調も変えなかった。あくまで淡々としていた。
「たかが家畜と、お前達は思うだろう。しかし、お前達が囲いの中で飼っている山羊や鶏と違い、一頭の羊を養うのに、どれだけの広さの草原が必要か、知っているか? ……定住民と違い、他に食べる物のない俺達にとって、羊は命だ。十頭の羊の死は、それを飼う一人の人間の死に相当する。百頭なら、家族の……。ひと冬を越えるだけで、それだけの数の羊が必要だ」
「…………」
「フェルガナで、冬越えが出来なくなって五十年……。俺が知るこの十年で、百万頭の羊が凍死した」
「あ……」
オダは声を発しようとしたが、馬に揺られて舌を噛んだ。――そんなことがなくても、言い返す言葉があっただろうか。怒りは霧散し、混乱が少年の脳を支配した。
『武器を手に攻めるだけが、侵略ではないのよ』
《星の子》の涼やかな声が、頭蓋内に反響した。
『むしろ、戦いとは関係のない人々が普通に暮らしていることこそ、脅威になる場合がある』
『オダ。あなた達だけが正しいわけではないわ……』
感慨もなく、無知を責めるわけでもない、静穏な男の顔を
ふいに、トグルが嗤った。唇を歪め、白い牙を見せて。瞳に宿る光は怜悧なままだったので、それは己自身を嘲るようだった。
「お前には関わりのないことだな、小僧。殺された五千人にも、関係ない。――そうだ。俺は人殺しだ。だが、お前は俺を責める為に、わざわざ来たわけではなかろう。俺が赦しを乞うたとて、殺された人間は蘇らない。俺一人を殺しても、お前達の怨みが消えるわけではない」
「ええ。でも、僕は貴方を殺します」
トグルの目が、愉快そうに少年を映した。
オダは、震える声で囁いた。
「いつか必ず……。貴方は、生かしておいては危険な人だ」
「……成る程」
トグルは呟いたが、もうオダを見てはいなかった。追っ手を見遣り、方向を換える馬に合わせて身体を傾ける。
彼の表情が、ふと、オダにはかすんで見えた。
「とりあえず、生かしておいてくれるわけだ」
「今だけですよ」
歌うようなトグルの口調に違和感を覚えながら、オダは言い返した。
「ニーナイ国の人々を、救い出したら……。その前に、彼等が貴方を殺すかもしれませんが」
「生憎、それはないな」
トグルは、ぼそりと答えると、
「奴等は、俺の挑発に乗った。生きて
「…………!」
オダが深く息を吸い込んで、叫ぼうとした時――。
雨を貫いて、無数の狼の咆哮が、大地に轟いた。
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