第五章 荒野の少年(2)


             2


 形勢は逆転した。族長を囮に待ち構えていたトグリーニ族の大軍が、罠の中に入りこんだ離れ者カザック達に、一斉に襲いかかった。

 トグルに教わった〈草原の民〉の戦法を、オダは思い出した。彼を奇襲したつもりの敵は、逆に操られていたわけだ。

『それにしても』――オダは戦慄した。『自分達の族長を、囮にするなんて……』

 それが、トグル・ディオ・バガトルという男か。

『氏族に関わる問題なら、平気で自分を殺す』――隼の言葉を想い出した。


 軍を指揮していた二人の将軍は、すぐに族長の許へ駆けて来た。トグルが荒い息を吐き、馬もそろそろ限界だったことを、オダは理解した。


「一騎も逃すな……片づけろ」

御意ラー


 族長の指示に、将軍達は短くこたえて駆け去った。トグルはもはやそちらに注意を払わず、悲鳴と怒号がうずまく戦場に背をむけ、愛馬を走らせた。

 黒馬は徐々に速度を落しつつ、本営オルドウへ向かった。馬に任せて、トグルは考え込んでいる。

 首尾よく敵をほふったというのに、彼の表情は冴えなかった。鞍橋くらぼねに両手をあずけ、肩を落としている。霧のようになった雨を浴びながら、半ば伏せた眸が暗い陰を宿しているのは、疲労の為ばかりではなさそうだ。


「……何だ?」

「いえ」


 オダの視線に気づき、トグルは、ぶっきらぼうに訊いた。機嫌も悪くなっている様子に、オダは戸惑った。自分がこの男の心配をしている事実にも。

 トグルは軽く舌打ちをして、少年から顔を背けた。帽子を脱ぎ、汗と雨に濡れた前髪を掻きあげる。


「……情けない」


 小降りになった空を仰ぎ、眉根を寄せて、トグルは確かにそう呟いた。低い声は掠れ、驚くほど心情がこもっていた。


「俺達、トグリーニ十万……。氏族の力を全て集めても、ワシひとりの超常の力に及ばぬか」


 そう言うと、眼を伏せ、唇を歪めて嗤った。己の無力を痛感し、自嘲しているさまが意外だった。


「……お言葉ですが」


 恐る恐る話しかける少年を、トグルは穏やかに見返した。


「僕は、あの人達の特別な能力ちからを当てにして、一緒に来て貰ったわけではありません」

「判っている」


 トグルは、フッと苦笑した。疲れたようなはかない苦微笑に、オダは当惑した。


「そんなことを言っているのではない……。奴等の理想や優しさに惹かれて、お前達は集まるのだ。能力など無くとも、時には、それだけで脅威となる。――俺のように」

「…………」

「奴等は、容姿すがたの特異さから忌み嫌われようと、崇拝されようと、己を見失わない。前向きに生き、それを人に示すことを恐れない。その心に、惹かれるのだ」


 オダは意外だった。《草原の黒い狼》――敵であるはずの男の口から、これほど優しい言葉を聞かされるとは。

 トグルは頭を振った。しようのない、という風に。


「奴等は、子どもと同じだ。己のやりたいことを、心のまま、やりたいようにする。それで好きな相手とだけ付き合っていられるのなら、世の中、こんなに楽なことはない」

「…………」

「だが、奴等はそれをしたがる。その為の苦難をものともせず。――そうさせておいてやりたいと思うのは、何故なのだろうな」

「トグル」


 思わず敬称抜きで呼んでしまったオダは、深い眼差しに出会い、うろたえた。

 トグルは、殆ど息だけで囁いた。


「お前は、奴等を連れて来るべきではなかった。ここは、お前達が考えている程、優しい世界ではない。人々は常に飢え、死と隣り合わせに生きている。この冬を越せるか――民族が滅びるかという、不安に怯えながら生きている」

「…………」

「俺達を支配しているのは、獣の論理だ。弱い者は生き残れない。知恵のない者は……。病者は蔑まれ、老人は忌み嫌われる。そういう世界だ」


 トグルは眼を閉じ、言葉を切った。改めてオダに告げる声には、苦い響きが含まれていた。


「奴等の理想は、美し過ぎる。人は、奴等が思っている程、強くも優しくもない。判っているはずなのに……それでも信じようとする。人の、人であり続けようとする心を。そうして、必ず裏切られるのだ……。奴等は利用され、傷つけられるだろう。その心が強靭であるが故に。――奴等の夢は、下界では儚い蜃気楼ガンダルヴァに過ぎない(注1)。現実にはあり得ぬ『白き蓮華の国』の住人を……何故、連れて来た」

「…………」

「見なくて済むのなら、見ない方が良いのだ。知らずに生きてゆけるなら」

「族長」

「お前は、観て行くがいい」


 トグルは溜め息を呑み、肩越しに顎をしゃくった。背後でつづく殺戮を示す。オダを見据える眸は、くらく厳しかった。


「――こんなことを、五百年、俺達は続けて来たのだ。略奪と復讐、同盟と、裏切りを……。その間に、刻一刻、滅びは近づいて来た。もはや逃れられないところまで。未だに、くだらぬ争いを続けている」

「…………」

「この悪循環を断ち切らなければ、確実に、俺達は滅亡する。他者を利用する横の繋がりだけでなく、縦にも、糸を張らなければならない。人を繋ぐ糸を……。さもなければ、俺達は、決して獣の世界から出られない」

「…………」

「そして、獣のままでは、俺達は、滅びるしかないのだ」


 少年が混乱しているさまを観て、トグルは、かすかに唇の端を吊り上げた。しかし、瞳は嗤っていない。彼が何か大変なことを言おうとしていると、オダは察した。

 地底から響く声で、トグルは言った。


「俺の言っている意味が判るか、小僧」

「何となく、ですが――」

「タァハル(部族)とオン・デリク(キイ帝国の大公)と、お前の国がしようとしていることは、先刻の俺達と変わりがないということだ。――未だに、互いを利用することしか考えていない。己の利益しか。それが人を動かす力であるのは確かだが、解決は得られぬ」


 トグルの声は、単調な馬蹄の音と重なって、オダの胸に響いた


「二年前、シェル城下を襲った俺達の現状を、観るがいい。子どもの死ぬ数は減らず、病者は増えるばかりだ。このうえ、お前達の怨みを買ったとして、何が得られると言うのか……タァハル(部族)の焦りは判るが」


 トグルは考え込んだ。精悍なその顔を、オダは凝視した。――ここまで聴いて、彼の意志が理解できない程、愚かではない。

 少年は、ごくりと唾を飲み、おずおずと言った。


「共存は、出来ないのでしょうか、我々は。理解し合うことは、不可能なのでしょうか」


 トグルの緑柱石ベリルの瞳が、ふと和んだ。


「……お前は、それが言いたくて、ここへ来たのか?」

「スミマセン」


 謝ると、トグルは、今度は明らかにフッと哂った。狼のような苦微笑は、しかし、嫌なものではなかった。

 オダから視線を逸らし、遠い地平を眺めて、トグルは囁いた。


「そこまで行くと……それはもう、俺の仕事ではない」

「…………」

「俺の仕事は……今、民をいかにして生かすかということだ。この軌道を修正し、、滅亡という間近に迫った現実を直視させなければならない。それが出来なければ、何も始まらない」


 トグルが何故『滅亡』という言葉を使うのか、オダには判らなかった。言葉は、己自身に言い聞かせているように聞こえた。


「悪戯に虚無や怒りに捕らわれていては、生存への道を踏み外す。獣の世界へ、立ち戻ってしまう……。そうして、俺達には、迷っていられる時間はない」

「…………」

「時間がない……手を打たなければ。生存も、共存も、それから先の話だ……」


 再び、トグルは黙りこんだ。項垂れ、じっと前方を見詰めている。藍色の陰を宿した双眸を見て、オダも口を閉じた。

 馬の速歩に合わせて、濡れた前髪が揺れる……美しい漆黒の髪が。華麗な刺繍を施した帽子を握りつぶし、外套からは血と汗の匂いがしたが、それでも彼は優雅だった。

 痩せぎすな長身が折れてしまいそうに、オダには見えた。


 いつしか雨は止み、黒馬は常足なみあしになっていた。トグルは空を見上げ、気だるい口調でひとりごちた。


「我が事ながら……後続を一騎も連れずに飛び出したのは、初めてだ。トクシン(最高長老)に言うと、卒倒しそうだな」


 オダは、顔からさあっと血の気が引くのを感じた。てっきり作戦だと思っていたのだ。

 トグルは悪戯っぽく、喉の奥で笑声を転がした。


「悪かった。教えない方が良かったか。どうも、ワシに乗せられたらしい」

「…………」

「行こう。少し、時間を掛け過ぎた。ハトやハヤブサが、お前を心配しているだろう。……くだらんことを、随分言った。忘れてくれ」


 そう言うと、トグルは手綱を引き、黒馬は本営オルドウへ向かって足を早めた。



              *



「お前の剣を、預かろう」


 焼け落ちたユルテの残骸が散らばる本営オルドウに辿り着いたのは、辺りがすっかり暗くなった頃だった。雲は消え、星が瞬き始めている。

 襲撃を受けた場は、未だ騒然としていたが、あちこちに松明が点され、天幕も残っていた。

 天幕を囲んで、あかい灯が幾つも揺れている。ぼんやりと眺めていたオダは、トグルに話し掛けられて、驚いた。


「お前の剣を、預かろう」


 トグルは無表情に、同じ口調で繰り返した。緑柱石の瞳が涼やかに澄んでいる。

 少年は、ごくりと唾を飲み込んだ。


「……気づいていらしたんですか」


 懐に隠し持っていた短剣を。隼にも気づかれなかったというのに。

 トグルは、やや投げやりに言い返した。


「俺とアラル……テディン、ジョルメ。それに、ワシが気づいた」

「…………」

「言ったろう。天人テングリの足手纏いになられては困ると。あの時、ワシが声をかけなければ、アラルはお前を斬っていた」

「…………」

「平時、本営オルドウで剣を抜く者は、死刑に処せられる(注2)。そうでなくとも、俺の前で剣を隠し持っていては、刺客とみなされても仕方がない。……預かろう。それが、お前の為だ」


 オダは短剣を取りだすと、トグルに手渡した。不思議と、反発は感じなかった。彼の態度が静か過ぎた為かもしれない。

 敵意をおし通すには、トグルはあまりに繊細で、無防備だった。


 トグルは、手袋をはめた手で少年の剣を受け取り、興味深げにそれを眺めた。


「ニーナイ国の製鉄術も、少しは向上したと見える」


 呟くと、長衣デールの懐に片手を入れ、腰帯ベルトとの隙間から、一本の径路剣アキナケスを取りだした(注3)。革製の鞘に収めたそれを、オダに差しだす。

 少年が戸惑いながら受け取ると、トグルは唇を歪めた。


「丸腰では、心もとなかろう」


 息を呑むオダを、深い瞳が見下ろした。


「それなら、誰が見ても俺の物だと判る故、咎められない。……隠すなよ。誤解で殺されたくなければな」

「族長は、細工もなさるんですか?」


 オダは訊いたが、トグルは答えず、馬を走らせた。毅然としたかおを前方へ向けて。濡れた黒髪が星明かりを反射して、群青色に輝いて見えた。


 天幕に近づくと、トグルは馬から降りた。オダにも降りるよう促す。

 トグルは、人に合わせてゆっくりと歩く馬に並びながら、愛馬の首に手をのせ、労わった。


「***、**。よくやった、ジュべ。本当に、よく頑張ったな……」


 立ち止まる馬の首を叩く《黒い狼》の眼差しが、この上なく優しいのを、オダは観ていた。

 二人の男が、松明を手に出迎えていた。若い方に、トグルは機嫌よく話しかけた。


「半馬身ほど遅かったな、ジョルメ。死ぬかと思ったぞ」

「*****、***」

判ったラー。移動は完了したか?」


 男は、丁寧な仕草で頭を下げた。トグルは、さっと表情を消した。この男の頭の切り替えの速さに、オダは感服した。


「無事、河岸へ集合しております」

「我々も本営オルドウを移す。仕度しろ」

御意ラー


 若い男は一礼して、その場を離れた。もう一人、高齢の男が声を掛けて来た。長く美しい白髭を片手で撫で、微笑んでいる。

 トグルは、無愛想に老人を一瞥した。


「トクシン(最高長老)。天人テングリに、ユルテ(移動式住居)を用意してやれ。二帳あれば充分だろう。人数分の馬と、羊も……俺が出す。連中は、俺とタオの客人ジュチだ。そのように遇せ」

「長老会の方からも、歓待をいたしますが?」

「いや」


 トグルは溜め息を呑み、ゆっくり首を横に振った。表情は変わらなかったが、口調は沈んでいた。


「構うな。放っておけ。連中は、今度の戦に関わりがない。好きなだけ居れば、聖山ケルカンへ帰るだろう。……自由にさせておいてやれ」

御意ラー。ミナスティア国の王女は、如何いたしましょう? あのむすめがここに居ると外に知れますと、些かややこしいことになりますが」

「……知らんな」


 オダはギクリとした。トグルは、手綱を老人に預け、帽子の形を直しながらうそぶいた。


「誰のことだ……。俺が知っているのは、タカという、ハヤブサの友人だ。あの娘に関しては、ワシが正当な権利を持っている。俺は、他人の女に興味は無い」

御意ラー

「くれぐれも、礼を失することのなきよう。困ることがあれば、力になってやってくれ」


 立ち去ろうとする族長に、老人は、深々と頭を下げた。

 ふいにトグルが足を止め、オダを振り向いた。


「……ニーナイ国の女達を、連れて帰りたいのだったな?」

「え? あ。はい」


 背筋を伸ばす少年を、トグルは、冷ややかに見下ろした。頭を下げている老人にちらりと視線を投げ、少年に向き直る。


「許可しよう。女も子どもも、技術者達も――およそ、故郷へ帰りたいと望む者は、連れて行くがいい。お前の言うように、確かに、奴等は戦に関わりがない」

「え?」


 オダは耳を疑ったが、トグルは、少年の動揺に頓着しなかった。


「ただし――俺達は、奴等を虜囚として扱っているわけではない。囲いに入れているわけでも、鎖に繋いでいるわけでもない。奴等は、己の意志で留まっている……。俺達は、本来、家族単位で行動し、一箇所に集まることはない。今は夏祭りナーダムの為に集まっているが、部族の全てがここに居るわけではない」

「…………」

「女達は、遊牧している自由民アラドと共に、草原イリに散らばっている。集まるまで、ひと月はかかる。待てるか?」


 老人が、黒馬の手綱を手に、若い盟主を見上げている。オダが頷くと、トグルは真摯に続けた。


「では。お前は、奴等が到着するのを待って、連れて行くがいい。邪魔はしない。だが、手を貸すつもりもない故、天人テングリと相談しろ。理由は……言わずとも、判るな?」

「……はい」


 頷いて、それから、オダは短く答えた。偽善者ぶる気は、彼にはないのだ。その態度を、少し尊敬する気になった。

 トグルは、心持ち瞼を伏せた。


「ひとつ、頼みがある……。帰りたがっている者を連れて行くのは構わんが、奴等の中には、ここに馴染み、帰りたいと思っていない者も居るだろう。そういう者を、無理に連れて行かないで欲しいのだ。どうせ、戦闘員ではない……。俺達とて、奴等を危険に曝さぬ努力は、しているつもりだ」

「はい……判りました」


 オダが囁くと、トグルは試すように彼を見詰めたのち、踵を返した。動作に合わせて、外套と辮髪が揺れた。老人が、丁寧に一礼する。

 オダは、立ち尽くして見送った。――短い時間にこれほど話をするとは、思いもよらなかった。頭のいい野生の獣を相手にしている気がする。誇り高く、寡黙な、草原の狼を。


 オダの口から、声が洩れた。


「族長」


 トグルは足を止め、肩越しに振り向いた。

 少年は、ゆっくり頭を下げた。


「……有難うございました」


 トグルは何も言わず、次の仕事をする為に歩いて行った。






―――――――――――――――――――――――――――――――――――――(注1)ガンダルヴァ: インド神話ではインドラ(帝釈天)に仕える半神半獣の奏楽神(団)。仏教では乾闥婆(けんだつば)。

    サンスクリット語の「変化が目まぐるしい」という意味から、魔術師や蜃気楼のことを「ガンダルヴァ」と呼びます。


(注2)「平時~死刑に処せられる」: 本作品内の〈草原の民〉の身分制度や税制、法律、軍の体制は、13世紀チンギス・ハーン時代の「ヤサ(ジャサ)」、それ以前からの「ビリク」、「ヨスン」などに基づきます。


(注3)径路剣アキナケス: 腰刀ホタクッと違い、径路剣は、実用より御守りとして扱われています。



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