第四章 狼の末裔(6)
6
風を渡る咆哮は、トグルの耳にも届いていた。
アラルが、緊張気味に声をかける。
「
鷲が、片方の眉を跳ね上げた。訝しむ白い男に、トグルは、ちらりと歯をみせた。
「嵐が来る。少し、騒がしくなるぞ」
「族長!」
ユルテ(移動式住居)の集落から、ジョルメ
トグルは、頷いて彼等を迎えると、再びゆっくり歩き始めた。独り言のように会話を続ける。鷲は不得要領だったが、トグルが彼にも判る言葉で話してくれたので、状況がみえてきた。
「何騎だ?」
「およそ、三百。南西から北へ向かっています」
「先触れだな。タイウルト(部族名)か?」
「いえ」
「
ジョルメと将軍達の緊迫した面持ちにくらべ、トグルの無表情は
鷲は感心した。トグルの態度が変わらないので、周囲の緊張が解けてゆくのだ。
トグルは天幕へ向かいながら、鮮緑色の瞳をジョルメへ向けた。
「オルクト族は、どうしている? 確か、一番近くに宿営していたな」
「
「伝令を遣れ。日没までに五百騎到着させろ。オーラトと、オロスにも。それまでは何とかするが、翌朝までは待てないと言ってやれ。カブルとタオを、至急――」
「兄上!」
トグルの言葉に、妹の甲高い声が重なった。彼が苦笑しかけたとき、天幕の傍らに、一群の馬が駆け込んできた。
タオと長老達が、来訪者の
「兄上、ワシ殿! ハヤブサ殿が――」
トグルの唇から笑みが消えた。
色が白く、驚くほど痩身な故、まるで重さというものがないかのように見える。敏捷で無駄のない動きも、一陣の風が吹きこんで来た印象だった。
音もなく、風が、草の上に舞い降りる。細い肢体が柳の若枝のようにしない、すらりと正面に立つのを、トグルは、半ば呆然と見詰めていた。
男達が、口々に警戒の声をあげる。
白銀の髪が一拍おくれて肩に垂れ、冷徹な紺碧の瞳が、臆することなく彼を見た。
「トグル」
凛と呼びかけたものの、隼は、咄嗟に言葉が見つからなかった。
オダとレイも、いきなりトグリーニ族の
『この人が、トグリーニの族長……』 レイは、雉の手を借りて
《草原の黒い狼》――トグル・ディオ・バガトルは、レイが想像していたより、ずっと若い男だった。若く、美しい……。骨ばった輪郭は厳めしく、野性味がありながら高雅で、貴公子然とした顔立ちをしていた。雉より背が高く、その為に痩せて見える。
真っ黒な
トグルは無表情に隼を見詰め、それから、すばやく一行を見渡した。
レイとオダは、彼と視線が会うと傍から判るほど身体をこわばらせたが、族長の態度は変わらなかった。ただ、オダから隼へ視線を戻したとき、二、三度まばたきをしたのは、驚いていたのかもしれない。
「ハ、ハヤブサ殿」
タオが、うろたえた声をあげた。隼と、正面から彼女の視線を受け止めている兄を、交互に見る。二人の間のはりつめた空気に、戸惑っていた。
周りの男達も、困っていた。侵入者を包囲したものの、どう扱えばよいか判らず、顔を見合わせる。
レイは、トグル・ディオ・バガトルの隣にいる男性に気づいた。
「お姉ちゃん?」
小さな影が、場の緊張をやぶり、横合いからとび出して来た。男達の視線が、一斉にそちらへ向く。
長い黒髪を二本のお下げに垂らした少女が、勝気な瞳を輝かせて、隼に駆け寄った。隼の頬が、わずかに緩んだ。
「鳩」
「隼お姉ちゃん! オダまで、どうしてここに? 雉お兄ちゃん、鷹お姉ちゃんの記憶が戻ったの?」
「え……」
少女の真っすぐな瞳と出会い、レイは動揺した。視界に《彼》が入る。
『ワシさん……』 レイは、息を呑んだ。
鷲は、トグルの隣に立ち、他の男達の肩越しに彼女を観ていた。レイの夢に現れたそのままの白い肌、銀灰色の長髪に顎髭という、ルドガー神の似姿で。首を一方に傾け、腕組みをしている。
彼の眼は、哀しいほど澄んだ若葉色をしていた。切れ長のやや上目遣いに見据える双眸は、こちらの心を射抜くようだ。――射抜かれて、レイは竦んだ。肩と膝がふるえ、恐ろしさが心を浸した。
レイは《彼》から眼を背けたが、横顔に注がれる視線を感じた。胸に、切り裂かれるような痛みが走る。
「ちょっと、どいてくれないか、鳩。……トグル・ディオ・バガトル」
オダは、自分の前に立った少女の肩をそっと押しのけ、隼の前に進み出た。トグリーニの族長を、正面から見据える。
トグルは、少年を冷静に見下ろした。
オダは、一度ふかく息を吸い、抑えた口調で話し始めた。
「トグル・ディオ・バガトル。お久しぶりです。……貴方は覚えていらっしゃらないでしょうが、私は、去年、キイ帝国で貴方にお目にかかりました。ニーナイ国の、
「…………」
「突然、前触れなく押しかけた非礼を、お許し下さい。ニーナイ国の公使として、貴方にお願いがあって参りました。単刀直入に申し上げます」
「オダ?」
少女がちいさく呟いたが、族長は動かなかった。冷たく輝く
「ニーナイ国の女達を、返して頂きたい」
「…………」
「子ども達を……。貴方がたが、シェル城下より連れ去った人々です。およそ三千人の我が国の民を、お返し頂きたい」
「…………」
「我々は、オアシスに住み、農耕を営む平和な民族です。争いは好みません。しかし、五千人もの同胞を殺され、田畑を焼き払われ、街を破壊されてなお被害者で甘んじるほど、意気地なしではありません。戦う勇気は持っています」
「…………」
「貴方がたの虜囚を解き放ち、二度と我が国を侵略しないと、お誓い頂きたい。そうすれば、私は、この足でタァハル部族の許へ出向き、
「…………」
「我が国は、タァハル部族とともに、貴方がたと戦います。我ら数十万のニーナイ国民は、子々孫々、貴方がたから受けた仕打ちを忘れず、赦さない。最後のひとりが死ぬまで、戦い続けるでしょう」
少年は、可能なかぎり感情を抑えて口上を述べる努力をしていたが、途中から頭に血がのぼって来たらしい。若い声に力がこもり、頬に朱がのぼり、瞳が煌めいた。晴れた空を宿す眸を、トグリーニの族長は、黙って観ていた。
草原の男達が顔を見合わせ、指示を求めて族長を見遣る。
トグルは、心を動かされた風ではなかったが、あまりに永く黙しているのはどうかと考えたのだろう。おもむろに口を開いた。薄い唇から発せられた声は、憂鬱に響いた。
「赦されようなどとは、考えていない」
「…………?」
「お前達に、タァハル(部族)との仲介を頼むつもりはない。奴等の方も、ないだろう。これは、遊牧民同士の戦いだ。ニーナイ国が首を突っ込もうがどうしようが、俺の知ったことではない」
「なっ……!」
オダは気色ばみ、場の男達に、さっと緊張が走った。同時に、のほほんとした声があがった。
「お前ら――」
鷲は、自分の顔を片手でおおい、呆れ声で言った。
「――自分達が、どういう状況に飛び込んで来たか、判ってんのか?」
「鷲さん」
「……鷲」
オダと隼の声に、突然、狼の咆哮が重なった。先刻よりずっと近い、大合唱だ。
トグリーニの族長の眸に、鋭い光が閃く。
どおんという鈍い音がして、空が真紅に染まった。
「兄上!」
タオが呼び、少女が悲鳴を上げた。レイは両手で耳を覆った。熱い突風が、その場に居た全員の頬を叩き、髪と外套を躍らせる。
トグルは敢然と面を上げた。編んだ黒髪が風に舞い、彼は、舌打ち混じりに呟いた。
「
今頃になって、レイも理解した。先刻から聞えていた遠吼えは、ほんものの狼ではなく、この
草原のあちらこちらから火の手が上がり、爆音とともに、複数のユルテ(移動式住居)が焔に包まれた。悲鳴をあげて、人々が駆け出してくる。怯えた馬が後足で立ち上がり、逃げ惑う羊の声が辺りに響いた。
うずくまる少女を、隼が庇う。レイと馬の間に雉が入り、手綱を掴んだ。
トグルは、滑らかな声を張りあげた。
「アラル、テディン!」
「
「ジョルメ!」
「
「カブル、タオ! 羊を連れ戻し、女達を退がらせろ! 東に河がある。そこで死守しろ。翌朝になっても戻らなければ、河を渡れ。オルクトの迎えが来るはずだ」
「
「あたしも行く」
族長の指示を受けた男達は、すぐに四方へ駆けて行った。タオとともに身を翻す隼を、トグルは見た。――二人の視線が、一瞬出会った。紺碧の瞳と、夜の森のような緑柱石の瞳が。
疾風のように駆け去る彼女を見送ってから、トグルは、鷲を振り向いた。
「ワシ」
「俺には関係ない。と、言いたいところだが――」
「お兄ちゃん!」
鳩が、降りかかる火の粉に頭を抱えた。
鷲は片目を閉じ、首の後ろをぼりぼり掻いた。にやりと唇の端を吊り上げる。ちらりとレイを見て、肩をすくめた。
「――そういうわけに、いかないらしい」
「*****」
トグルは眉根を寄せ、何事かを呟いた。うんざりした響きは、愚痴のようだった。すぐいつもの無表情に戻ると、彼は、外套を翻して歩き始めた。
敵の矢が、雨のように降り始める。ジョルメが額に白い紋のある黒馬を引いて来て、トグルは、ひらりとそれに跨った。顧みると、何を思ったか、手を伸ばした。
「来い!」
「…………?」
「お前だ、小僧! 早くしろ!」
「え? ええ?」
トグルは少年の方へ馬を進め、ギョッとしているオダの腕を掴んで引っ張った。少年が逃げようとする暇もない。馬は速歩になり、半ば引き摺られて、オダの足が宙に浮いた。
鷲は、平然と見送っている。
悲鳴をあげる鳩の傍らを駆け抜けながら、トグル・ディオ・バガトルは、片方の腕だけでオダを馬上に引きあげた。天幕の前を横切り、部下から
「……さて、と」
取り残された形のレイと雉と鳩に、鷲は近づいた。胸の前で腕を組み、のんびり歩いて来る。若葉色の瞳に、レイはどきりとした。
鷲は、レイには構わず、雉に片手を伸ばした。
「鷲」
雉は、笑って彼の手を叩くと、それまでずっと持っていた《星の子》の長杖を差し出した。鷲は、杖を不思議そうに眺めた。雉を見て、杖を見て、また雉を見る。
意図を理解した彼は、途端に嫌そうな顔になった。雉が苦笑いする。
「世話になっているんだろ。働けよ」
「仕様がねえなあ……。手伝えよ、雉」
「了解」
鷲は、まだ頭を抱えている鳩を見ると、踵を返し、数歩はなれたところで杖を地面に突き刺した。怒号と悲鳴が響くなか、眼を閉じ、溜め息をついて杖に両手をあてる。
雉は、そっと二人を促した。
「退がってて、鳩。レイも」
「何? お兄ちゃん」
鷲は両足をひろげて立ち、動かない。ユルテが燃え、矢が飛び交い始めているというのに。長い銀髪が、肩から背中を覆い、表情を判らなくさせている。
不安がる少女とレイに、頭巾と外套をかぶらせながら、雉の顔は自信に溢れていた。
「火を消すんだ」
「どうやって?」
「雨を降らせる」
美しい少女のような雉の面は晴れやかで、己の言葉に何の疑問も持っていない風情だった。レイは、訊ね返すのを躊躇した。彼の視線の先を追い、眼をみひらく。鳩も息を呑んだ。
立ち尽くす鷲の長身が、青白い光に包まれている。
草原は炎に赤く照らされ、煙と熱風が、縦横無尽に吹き荒れていた。鷲の身体は、炎でない透明な光にふちどられ、長髪がゆっくり揺れていた。生きものさながらうねり、波をうつ。濃紺の
雉がレイに、胸がすくような微笑を向ける。
遠く、地響きのように、雷鳴が轟いた。木製の杖の先端が輝き、彼等の頭上に、濃い灰色の雲が渦をまき始める。陽射しを遮り、辺りが薄暗くなる。
『この人は、いったい……?』
*
オダは、巨大な(少なくとも、オダにはそう思えた)馬の首に、必死にしがみついていた。そうしながら、感嘆を禁じ得ない。彼を引き上げたトグルは、うろたえる人々を落ち着かせるべく、広大な
本営と言っても遊牧民のこと、ユルテ(移動式住居)が天幕の周りに集まっているだけで、どこが果てということはない。炎に驚いて逃げ惑う民を、族長みずから先導し、安全な方向を示す姿は、威厳に満ちていた。
「*****、***!」
左手は長い戟を水平に構え、右手が手綱の輪の中に入っていた。足と声で馬を操っているらしい。革の
遊牧民なのだから当然と言えばそうなのだろうが、その度に振り落とされそうになるオダにとっては、大変な出来事だった。
どうしてこういうことになったのか、オダは、未だに良く判っていなかった。確か、トグル・ディオ・バガトルに使者の口上をあっさりかわされ……突然、敵が攻めて来たのだ。
トグリーニ族の敵――と言うと? オダは、頭から血の気が引くのを感じた。
タァハル部族か……。とにかく。今、自分はトグル・ディオ・バガトルの馬に乗せられている。大陸全土を震撼させる、《草原の黒い狼》。その愛馬に、彼とまったく身体を接して乗っているのだ。
現状を正確に把握したオダは、密かに身を震わせた。
そろそろ、
避難する人々を見送ったトグルと、オダの目が出会った。真夏のタマリスクを想わせる鮮やかな緑の双眸に、少年は息を呑んだ。仮面のような
「……どうした。しっかり掴まっていろよ」
低い声は、からかいを含んでいる。トグルは右手を挙げ、傾げた帽子を直すと、唇の端をわずかに歪めた。
「
「どうして、僕を乗せてきたんですが?」
オダはごくりと唾を飲み、思い切って訊ねた。途端に、舌を噛みそうになる。
トグルの左の眉が、ひょいと跳ねた。
「お前は、
トグルは、馬の向きを換えながら呟いた。周囲の騒音にかき消されそうな声だったが、オダはどきりとした。
「せっかく治ったハヤブサの
「…………」
「図星か」
茫然とするオダを見て、突然、トグルは
「あいつが
「覚えていらっしゃったんですか」
「いや。ついこの間まで、忘れていた」
「…………」
「気を悪くするな。あの時期、
気を悪くするも何も、驚きすぎて、オダは言葉を失っていた。まさか、トグリーニの族長からこんな言葉を聞かされるとは、思っていなかったのだ。
トグルは無表情に戻り、ぐるりと草原を見渡した。ひとりごちる声は地を這った。
「これで、ことを起した張本人が、全員集まったわけだ。この
「トグル・ディオ・バガトル――」
オダの台詞を遮り、純白の光芒が世界を包んだ。続いて、頭が割れそうな轟音がとどろく。
トグルは平然としていたが、さすがに馬は驚いて棹立ちになった。オダは、再びしがみつかなければならなかった。今度こそ、舌を噛んだ。
馬が姿勢を戻すのと同時に、雨が滝のように降って来た。大粒の水滴が、衝撃とともに少年の頬を叩いた。トグルの肩も。
炎が、みるまに小さくなる。
天を仰いで畏怖する族長の頬には、ほつれた黒髪が貼りついていた。
「……ルドガー神の能力か。これが、ワシの」
「これで終わりですか?」
ユルテ(移動式住居)を包んでいた炎が、水の蒸発する音とともに、つぎつぎ消えて行く。煙の代わりに湯気が立ち、急に風が肌寒く感じられた。
かすれ声で訊ねた少年を、トグルは冷然と見下ろした。オダはふと、懐かしさを覚えた。
「これから、騒ぎを起した連中を狩りに行く。掴まっていろよ、小僧」
呟くと、トグルは愛馬に声をかけ、ジュべは、黒い疾風となった。
~第五章へ~
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