第四章 狼の末裔(5)


             5


 砂まじりの熱い風が、吹きつける。乾いた風が。それは、レイの腕を叩き、長い髪を躍らせた。目をおおう髪を掻きあげて、王女は周囲を見渡した。

 果てしなく続く荒涼とした大地に、言葉をうしなう。砂漠は、感慨もなく、全ての生命を拒絶する。その厳しさに、レイはせた。咳きこむ口の中に砂が入り、ざらざらした異様な味がひろがった。

 誰かが、彼女の背を叩いてくれた。軽く、労わりをこめて。咳が収まるまでそうしてくれ、止まった後は優しく撫でてくれた。

 レイはずいぶん楽になり、気持ちが落ち着いた。


「……ありがとう」


 口を拭って囁くと、手は背中を離れた。レイは視線を上げ、手の主を見た。

 息を呑む……渦を巻き、風に舞う、銀の髪のみごとさに。外套に身を包み、駱駝に乗った《彼》は、白い横顔をこちらに向けていた。

 古代の彫刻さながら彫りの深いかおに、碧玉の瞳が嵌めこまれている。真っすぐ前方を見据え、関節のめだつ大きな手で、手綱を掴んでいる。

 レイの身の内を、震えが駆け抜けた。


『ルドガーだわ。マハ・バーイラヴァ(ルドガー神の敬称)……』


 〈黒の山カーラ〉の神殿にいます暴風神の像を、想いうかべた。濡れたように輝いていた第三の目こそ無いものの、《彼》の姿は、修行者サドゥの神を思わせた。銀灰色の髪はのび放題に伸び、髭とつながって輪郭をふちどっている。

 駱駝が立ち上がる。《彼》は鞍の上から手を差し伸べ、彼女を促した。乗れと。

 レイはかぶりを振った。あとずさりして逃れようとする。

 陽光に透かした春の若葉のような眸を、彼女は、懐かしいと感じた。その場にすわり込み、泣き出してしまいたくなるほど。甘やかで、温かく、はげしい気持ちが胸に溢れ、彼女は戸惑った。目を逸らすことができない。

 レイは、自分で自分の肩を抱いた。おそろしく、逃げだしたいのに動けない。矛盾する気持ちに、混乱はいや増した。


『あなたは誰……?』


 《彼》は答えない。何も言わない碧眼が、ひどく哀しげなことに、レイは気づいた。

『このひとは、こんなに淋しい目をしていただろうか? 出会った頃から――』そんなことを思う。莫迦な。《彼》が誰かも判らないのに。


 ――知らない?


 くらりと眩暈がした。世界が回転する。同時に、ぐるりと内臓の動く感覚がした。下腹を手でおさえてうずくまる彼女の口から、言葉が洩れた。


「鷲さん」

『たすけて、シジン』


 体内で、もうひとりの自分が膨らむのが判った。愛おしさが、渇望する。出口を求めて身を叩く。痛みに、レイは、身体を二つに曲げて呻いた。


「鷲さん。たすけて……」

『救けて、シジン』


 膨らんで行く。翻弄され、みえなくなる。――私は《レイ》なの? それとも、《タカ》? シジン、教えて……。

 そして、目が醒めた。



               *



「それが、鷲だよ」


 〈黒の山〉の《星の子》の許を発ってから、十日以上が過ぎた。レイ達は、キイ帝国の国境を越え、リバ山脈に入っていた。遊牧民が天山テンシャンと呼ぶ山脈だ。峠の東には、〈白い聖山ウル・ケルカン〉と呼ばれるハン・テングリ山がそびえていた。

 レイと雉、隼、オダの四人は、二頭の馬と二頭の毛長牛ヤクに分乗し、北の草原をめざしていた。イリ盆地――トグリーニ族の本営オルドウへ。族長トグル・ディオ・バガトルに逢うために。

 《タカ》の夫だという《ワシ》に、逢うために。

 彼の居る土地に近づいている所以か、レイは、最近、無くした記憶の断片を夢で見るようになっていた。


「《ワシ》さん……」


 レイは呟いた。夢の記憶が消えないうちに、面影を脳裡に刻もうとする。夢占いをしているわけではない。

 《星の子》によると、人間の脳は、眠っている間にも起きている時と同じように活動していて、体験したことを記憶のなかに保存したり、記憶を勝手にび起こしたりしているのだという。それで、夢に過去が現れたら雉と隼に報告し、失った時間のどこか、登場人物が誰なのかを、検討しようということになったのだ。

 これまでに、隼と雉と、キイ帝国のリー女将軍が、夢に現れた。シジンとナアヤは、何度も……。《ワシ》を見たのは、初めてだった。

 隼は、レイを乗せた毛長牛ヤクと自分の馬の手綱を引いて歩きながら、慰めた。


「鷹は、あんたやシジンの夢の話をしたことはない。同じように記憶を無くしても、あんたの方が本物なんだな……」


 『頭にくる』という逆説的な表現でレイを焚きつけた彼女は、しばらく、どう接すればいいのか判らなそうにしていたが、徐々に慣れたようだ。

 多分、これが普段の彼女なのだろうと、レイは思った。――相変わらず、言葉遣いは乱暴で、態度は素っ気ない。しかし、言葉の端々に、さりげない思い遣りが感じられる。少年のような美貌と冷たい眼差しに隠されているが、心根は温かい人なのだろう。

 ただ、隼は、彼女を《レイ》とは呼ばなかった。鷹か《あんた》だ。レイと鷹を、お互いの一部として理解しようとしている。


 一方、

「レイは、どう思った?」


 こういう訊き方をするのは、雉だ。彼は、レイと《タカ》を別人のように扱っている。二人の違いを面白がっていた。


「その。鷲のことを、さ」

「……印象的な人ですね」

「「印、象、的……」」


 雉と隼と、オダ少年の声が重なった。隼は唖然と、オダは困って眉根を寄せ、雉はくすくす笑い出す。三者三様の反応に囲まれて、レイは困惑した。


「あの。銀髪の、ルドガー神みたいで……。ハヤブサさんとキジさんも、そうですけど」

「……なんか、褒めるのに苦労しているみたいだな」

「あ、いえ。そんなつもりじゃ――」


 隼が、ぼそりと言う。レイは焦り、雉の笑声に気づいた。――隼も哂っている。紺碧の瞳に微笑をみつけ、レイはほっとした。おそらく、《タカ》の気持ちがあるのだろう。隼の表情が和らぐと、レイはいつも嬉しくなった。


「格好のいい人ですね。男の人にしておくのが勿体無いくらい、綺麗」

「そこまで言わなくっても、いいよ」

「いえ……目が、綺麗な碧色で」


 優しく淋しい……彼の眼差しを、レイは、忘れられないと感じた。あのとき己の内に起こった、心が枯れそうな懐かしさも。

 彼の名を呼んでいたことを、レイは、げるべきか迷った。


 隼は黙っている。雉も真顔に戻った。考えこむ二人を見て、レイは結局、口にするのを止めた。

 しばらく歩き続けた後、隼が呟いた。


「鷹も言ってた。鷲の目が綺麗だって」

「ああ、そうだな」


 雉が、相槌を打つ。彼は、ふわりとレイに微笑みかけた。


 レイは、長衣チャパンの上から、腹部に掌をあてた。毛長牛ヤクの鞍上でははっきりしないが、たまに、なかの動きが感じられるのだ。徐々に重くなる腰と圧迫感から、ここに……自分以外の生命が……育っていると想像できた。

 不安と、あわれを感じる。

 この命は、本来、たくさんの祝福を受け、数え切れない期待と愛情の許に、育っているはずなのだ。それなのに……切ないような、もどかしいような気持ちになった。


 レイが顔を上げると、心配そうに見ていた雉と目が会った。彼の微笑は、いつも彼女を安心させた。


「大丈夫だよ。鷲は、いい奴だから。きっと、君も好きになれるよ」


『そうだといい』 と、思う。――そうであって欲しいと、レイは願った。《タカ》が好きになり、子どもまで授かった人だ。私にとっても、好きになれる人であれば……でも。

 彼にとって、私は、《タカ》ではない。


「何の話だ?」


 隼が、首だけで振り返る。雉はさらりと答えた。


「鷲がいい男だって話をしていたんだ」

「……ああ」

「本当だよ、レイ。おれの知る限り、二番目にいい男だ」

「二番目ェ?」


 一度は気のない返事をした隼だが、胡散臭そうに復唱し、身体ごと振り向いた。雉は、悪戯っぽく笑っている。


「一番は、誰なんだ?」

「知らない。とにかく、鷲が二番目なのは確かだよ。あいつを一番にすると、つけ上がるからな」

「結局、同じことじゃないか」

「でも、教えなければいいんだから、鷲には。二番目と言われれば、少しは謙虚になるだろう」

あいつが、その程度でしおらしくなる野郎タマかよ……。てっきり、お前が一番だと言い出すんじゃないかと思った」

「おれが? 嘘。おれは、そんなに自惚れちゃいないよ」

「どうだか。中身は似たようなもんだろ」

「隼……」


 雉は呆然とし、隼が笑い、掛け合いは一応決着した。

 雉は軽く唇を尖らせると、横を向き、「ま。鷲と同じなら、いいか」みたいなことを呟いた。照れた様子で前髪を掻き上げ、レイを見た。


「《鷹ちゃん》にとっては、一番いい男だったと思うよ。あの娘は、本当に、あいつのことしか見てなかったから」

「そうなんですか……」

「ああ、あれは、ぞっこんだった」


 隼が頷く。オダ少年が、にこにこ笑って参加した。


「ひとめ惚れでしたからね、鷹は、鷲さんに。僕と鳩にも判るくらい。それで、鳩がヤキモチ妬いちゃって――」

「今もだよ」

「本当ですか? 隼さん」

「本当も本当。立派な小姑だ」


 頬が火照る心地がして、レイは、片手を当てた。夢の中の端整な《彼》の顔を思いだし、鼓動がはやくなった。

 シジンは、どう思うだろう。――不可抗力だが、今更のように、抱えた問題の大きさを痛感した。


「そんなに身構えなくてもいいよ」


 レイの表情に気づいて、雉が言った。


「鷲は、君の事情くらい理解できるさ。会ってからの話だよ」

「はい」

「そいつは、どうかな」


 隼が、硬い声音で口を挟んだ。二人を見ず、前方を向いている。雉は、咎める口調になった。


「隼」

「悪いけど……あたしは、鷹でない《あんた》の為に、都合の好い話をしてやるつもりはないんだ。あたし自身の気持ちから言って、こうなんだ。他人が推測して、どうこう言えないと思う」


 この場合の『他人』とは、レイも示していると、彼女は理解した。


「鷲に会うのなら、覚悟して欲しい。逃げたいなら、今のうちにそうしてくれ。――逃げて、どこかで子どもを産んで、忘れたいなら。ただ、その場合は、二度とあたし達の前に姿を現さないで欲しい」


 台詞の内容に反して、隼の眼差しは柔和だった。真摯な紺碧の瞳に、レイは頷いた。


「逃げないわ。もう、いちど死んだ身ですもの……。ワシさんと《タカ》に、会ってみせるわ」

「……オダもだ」


 隼は、レイから視線を逸らすと、オダに声をかけた。ニーナイ国の少年が、馬上で背筋を伸ばす。


「トグルの説得に、あたしや鷲を当てにしたって無駄だよ。殺される覚悟で行くんだね」

「判っています」


 少年は、白い歯を見せて頷いた。


「トグル・ディオ・バガトルって、どういう人ですか? 隼さん」

「トグルは――」


 隼は視線を前方に戻し、言葉を切って考えた。雉は真顔になり、彼女の様子をうかがった。

 やがて、隼は、感情を抑えた口調で話し始めた。


「――あいつに限らず。〈草原の民〉は、現実主義者だ。生半可な理屈や感情論は、通用しない。まして、トグルは……いつも冷静で、慎重だ。滅多に感情を表に出さないし、感情に支配されることもない……。そう見えることがあれば、それは、効果を知ってやっているんだ。それくらい、族長としてのあいつは、慄ろしい男だよ」


 この評価を聴くと、雉は眉を曇らせた。オダは、きりりと頬をひきしめて頷いた。

 隼は瞼を伏せ、淡々と続けた。


トグルあいつの考えの中心にあるのは、常に氏族だ。氏族と家畜達……。奴等を危険に晒す行動を、ることはない。守ろうとする意志のつよさと行動力に、勝てる奴はいない。――想像できないかもしれないが」

「たとえば?」


 少年は、言葉をすべて理解しようとする意気込みをもって、訊き返した。

 隼の頬からは、血の気が失せていた。目元に感情が窺えないことを、雉は憂いた。


「例えば……草原イリの冬は、永く厳しい。『生きている牛の頭が凍って割れる』 寒さだ。砂漠の気候も厳しいが、あそこの冬も、尋常じゃない……。雪が酷いと、放牧されている家畜は餌が食べられなくなる。馬なら雪を蹄で掻いて枯れた草を食べられるけれど、羊や牛には出来ないからだ。そんな時、どうすると思う?」


 オダは首を傾げた。雉が、代わりに答えた。


「移動するだろうな。もっと暖かいところへ……」

「ああ。イリ川かイルティシ河畔まで行けば、雪が少ない。湖の周辺なら……。だけど、奴等は、山を登った」

「え?」


 声を出したのは、オダだった。雉は、逆に口を閉じた。

 隼は少年に頷きかえし、同じ口調で続けた。


「登り始めたんだ、ハンテングリ山へ。あたし達の常識では考えられないが、山の上なら、雪は強風に吹き飛ばされて、草が露出するんだよ。……吹雪のなか、数千頭の羊を追って山を登るのは、危険な行為だ。でも、一刻を争うとき、羊に草を食べさせるのは、遊牧民の鉄則だ。家畜を守る為なら、人の危険は顧みない……。そして、トグルは本当に、羊を一頭も死なせなかった」


 オダと雉は、しばらく黙って、この状況を想像した。レイ王女も。

 沈黙のなか、毛長牛ヤクと馬の蹄の音と、隼の声が、単調に続いた。


「〈草原の民〉は、そういう厳しい土地の住人だ。族長は、自然と人間から、氏族と家畜を守れる者でなければならない。知識は当然で、的確な判断と、行動力がないと……。トグルは生まれながらの族長で、そう訓練されて来たんだ」

「…………」

「もう一つ。奴等のすることに、無駄はない。徹底した功利主義者だ。意図した行動には、必ず目的がある……。トグルの行動に目的を見出せないようでは、話にならない。対等に口を利いて貰えないからな」

「……判りました」


 オダは、心持ち蒼ざめて唇を噛んだ。レイまで緊張しているので、雉は、慇懃にたしなめた。


「そんなに脅かさなくても、いいんじゃないか? おれには、トグルが恐ろしいとは思えなかった。……話の判る、いい男だ」

「あたしは、これでも、オダに言い足りないと思っているんだ」


 隼は、苦い声で言った。


「確かに、トグルは無愛想だけれど人の好い、優しい男だよ……。トグルが真に慄ろしいのは――人柄に関係なく、族長だということだ。氏族に関わる問題では、平気で自分を殺す。そうなったら、誰にも、あいつを動かせない。――困ったことに、何が奴等にとって危険で、禁忌なのか、あたしには判らないんだ」


 隼は項垂れた。気高く優美な横顔が、悲嘆に暮れているように、雉には観えた。

 おし殺した声で、隼は続けた。


「トグルは、『戦う』と言えば戦うし、『殺す』と言えば殺す。徹底している……。オダは、奴等がシェル城を陥として五千人を殺したと言ったが、どんな状況だったか、あたしには判る。氏族の為なら、あいつは、中途半端に止めたりしないだろう」


 雉は、注意ぶかく訊ねた。


「お前が、あいつが鷲に似ていると言ったのは、そういうところか?」

「鷲より恐いよ」


 隼は、顔にかかる髪を掻き上げ、苦笑した。疲れた――哀しげな眼で、馬上の少年を見た。


「鷲なら冗談にしてくれるが、トグルはそうじゃない。気を抜くと、何を言われるか……。忘れるなよ、オダ。あたし達がこれから行くのは、狼の巣だ。お前が相手にしようとしているのは、狼の頭領なんだ」

「……胆に銘じます、隼さん」


 オダ少年は頷き、それだけでは不十分と思ったのか、声に出してこう言った。

 隼は、冴えた眼差しを少年の面に当てたのち、前方に向き直った。雉は彼女を気遣っていたが、もの想いにしずむ横顔から内心を窺い知ることは、出来なかった。



 道は峠を越え、四人の眼下に、広大な緑の草原があらわれた。

 青い絨毯のような草地は、地平線まで途切れなくひろがり、あちらこちらに、なだらかな隆起が存在していた。全体で、長楕円の窪地を形成している。

 東の地平には、純白の雪の冠をいただいた山脈が蒼い影を伸ばし、西方には、天山山脈から流れ下る幾筋もの川が、銀糸さながらうねっていた。北の地平すれすれにも、光の帯が輝いている。

 空には夕暮れの気配が満ち、ところどころ浮かぶ雲には、淡い紫色の影がかかっていた。


 レイは息を呑んだ。とても美しい景色だ。世界はこんなに広かったのかと感じる。一見すると、優しいところであるよう思われた。

 しかし。

 ハンテングリ山の麓。東の窪地に、黒い点のような馬の群れが現れると――辺りに、狼の遠吠えが響いた。

 遠く……近く。高く、低く。ながながと打ち寄せる波さながら、咆哮は山々に木霊して、草原へ流れこんだ。


 一行は、毛長牛ヤクと馬の足を止め、周囲をみわたした。馬達は落ち着いていたが、隼の眸は油断なく煌めいていた。

 オダが、ぶるりと身を震わせる。


「急ごう。本営オルドウは、もうすぐだ」


 隼は促し、身軽に馬にとびった。雉も騎乗する。彼等は、警戒しつつ先へ進んだ。

 狼達の草原へ。





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