第四章 狼の末裔(4)


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 翌日も、みごとな晴天だった。

 早朝、出かけるトグルを見送る為に、鷲は、鳩とタオと一緒に天幕の前に立っていた。タオは、眼に涙をためている。

 騎乗したアラル将軍が、シルカス族長の柩を掲げた男達とともに控えている。柩には、氏族の守護獣トーテムである銀の天馬ペガサスを刺繍した真っ青な旗が掛けられ、銀の縁飾りが風に揺れていた。

 鷲がかるく驚いたことに、アラル将軍も、泣き腫らした眼をしていた。トグル以上に寡黙な男が。毛皮の帽子を目深にかぶり、天幕を睨み据えながら、時折ひきつるようにしゃくりあげ、頬をこすっている。

 長老達と話し合うために天幕にこもったトグルが出て来たのは、鷲達が一刻(約二時間)も待った頃だった。

 トグルは、黒地に黄金の縁飾りのついた長衣デールと帽子という族長の礼装に着替え、腰に長剣を提げていた。革製の外套を翻してタオに近づくと、妹の手から愛馬の手綱を受け取った。


「兄上。気をつけて……」


 ふちの赤くなった眼でタオが言うと、トグルは、黒馬の額の流星紋を撫でながら頷いた。平板な眼差しを鷲に向ける。

 鷲は、左脚に重心をかけ、腕組みをして彼を観ていた。


「トクシン(最高長老)とテディン将軍ミンガンは、ここに残る」


 トグルは、乾いた口調でタオに告げた。


「留守中、急を要することがあれば、テディンを寄越せ。明後日には帰る……。夏祭りナーダムのことは、トクシンに任せておけ。客人ジュチを頼んだぞ」

はいラー


 タオは、やや緊張した面持ちで頷いた。鷲は、煙草を噛んでいる。


「あたし達も、ついて行っちゃ、駄目?」


 鳩が小声で問うと、トグルは、硬い頬をわずかに緩めた。


「天葬(鳥葬)は、子どもが観るものではない。心配しなくてよいから、ワシの傍に居ろ」


 鳩は不満そうにしていたが、トグルにそっと頭を撫でられ、不承不承うなずいた。

 トグルは、鷲ともう一度視線を合わせてから、ひらりと馬に跨った。


「気をつけて行けよ」


 鷲が右手を振り、トグルは、馬首をめぐらせながら頷いた。普段の無表情に戻り、歩き始める。彼の後を、柩を担いだ男達とアラルが。更に、氏族長と長老達が、騎馬や徒歩で続いた。

 十数人の葬列を、見送る者は少なかった。『壮を尊び、老を卑しむ』――弱者をいとう遊牧民の気風がそうさせるのか。既に死んでしまった者には、用がないと言うのか。

 鷲は、トグルの落胆ぶりを憐れに感じた。

 夜が明けると、トグルは元の冷静で無感動な男に戻っていたが、鷲は、彼の心情を推し測らずにいられなかった。痩せぎすの背中が、いっそう細く見える。今にも折れてしまいそうだ。

 兄たちを見送りながら、タオはさめざめと泣き、鳩は、彼女に寄り添った。

 葬列が南の草原の小さな黒い点になるまで、三人は立ち尽くしていた。鷲は、彼等よりさらに遠く、はるかな天と地の隙間に輝く白い空間を見据えていた。


 タオが、涙をぬぐって促した。


「さ、戻って食事にしよう、ワシ殿。ハト殿」

「うん」

「俺は、後でいい」


 鳩は首を傾げた。タオの新緑色の瞳に、鷲は、穏やかに話しかけた。


「飲み過ぎて、頭痛がするんだ。頭を冷やしてから戻るよ。先に食べていてくれ」

承知したラー。行こう、ハト殿」


 タオは、声に出さない鷲の意図を察して頷いた。

 姉妹のように並んだ二人の長いお下げが揺れて行くのを、鷲は見送った。トグル達の去った方へ向き直り、表情をひきしめる。


 万年雪をいただく山々から、冷たい風が吹き下ろして来る。鷲の銀灰色の髪をなびかせ、伸びた髭を震わせた。

 鷲は腕を組み、左脚に重心をかけ、風に向かって立っていた。既にトグル達の姿はない。

 ――天葬(鳥葬)は、遺族が故人の身体を切りきざみ、海清(タカ科の猛禽類の総称)に食べさせる葬礼だ。翌朝までに跡形なく食べられてしまえば、故人の業は浄化されたとする。情景が、鷲の脳裏に浮かび、悲愴さが胸をいた。


『トグル。お前は……』 呼びかけは声にならず、心の中でさえ途切れてしまう。


 鷲は、トグルの緑柱石ベリルの瞳を想った。酒気に底光りし、厳しく己の内面を凝視みつめ、揺るがない。タオやアラルと違い、トグルは、一切、涙を見せなかった。

 鷲は溜め息を呑んだ。苛立ちにも似た哀しみが、胸を浸す。己に対するいかりと、それを凌駕する悲しみを、彼はもて余していた。

 どれくらいの時間、そうしていただろう。

 鷲は、人の気配を感じて振り向いた。一人の老人がたたずみ、こちらを見詰めている。丁寧に一礼すると、真っ白な頭髪と長い白髭が、陽光を反射して煌いた。


「ワシ殿、でしたな?」


 青年がほかっと口を開け、閉じ、それから会釈するのを、トクシン――トグリーニ族の最高長老は、柔和に微笑んで眺めていた。


「少し、宜しいかな?」


 長老は、鷲の返事を待たずに腰を下ろすと、懐から長い煙管キセルをとり出した。胡座を組み、悠然と吸い始める。彼の馬も、のんびり草を食み始めた。

 何歳なのだろう? 鷲は、ちょっと毒気を抜かれたが、老人に促されて隣に坐った。


 しばらく、長老は無言で煙草を吸った。紫色の煙がゆうらり立ち昇り、風に流れて消える。一服吸うごとに、いわおのようなかおが和らいでいく。

 やがて、老人は、皺に埋もれた瞼の隙間から鷲を観た。


「もう、こちらの生活には、慣れられましたか?」

「はあ」

「それは良かった。是非、ゆっくり見物して行って下され」


 曖昧に頷いたものの、鷲は戸惑っていた。長老の意図がわからない。胸にとどく長さの豊かな髭におおわれた顔の中で、灰青色の双眸が、こちらの心底を窺うようなのが気になった。だが、反発は感じない。年齢のせいか、悠々とした物腰のせいか。他の人間だったらかんに障るであろう視線が、気にならなかった。

 老人は、微笑んで言った。


「貴方がたが居て下さると、我々の気持ちが違うのですよ。ハヤブサ殿の御姿を拝見するだけで、天神テングリに守られていると思えたものです……。来てくださって、ようございました」


 鷲は、皮肉をこめて唇を歪めた。


「大した人間じゃないですよ、俺達は。見た目が珍しいだけです。買いかぶらないで下さい」

「だが、貴殿は毅然としておられる。ハヤブサ殿は、嫌われたというのに」

「ああ、あれですか」


 長老から顔を背け、鷲は肩をすくめた。


「居心地のいいもんじゃないですが……。リー将軍のところでも、似たような目に遭いました。慣れましたよ」


 老人は、じっと鷲を見詰めている。鷲は、言葉を続ける必要性を感じた。


「俺は、他人にどう思われようが構わん主義です。この容姿ナリを好かれるのも、嫌われるのも、飽きました。――自分てめえの価値は、自分が知っていればいい」


『隼は、嫌だろうな』 鷲は、喉の奥にこみ上げた苦渋を呑み下した。

 こんな話をするのは、彼は嫌いだった。己の底にある考えを引っ張り出すようなことは……。ただの言葉の羅列に思え、自己の矛盾に気づいてしまう。

 しかし、この時は、喋らなければならないと感じた。そう思わせる何かを、老人は持っていた。


 長老は、ひとつ頷いた。


「辛い目に遭って来られたようですの」


 鷲は、首を横に振った。


「死ぬ程の目には遭っていませんから、大したことはないです……。尤も、『懐かしい』とは、まだ言えません」

「貴殿は、時の意味を知っておられるのですな。時の力を、信じておられる」

「意気地がないから、永い間、苦しいことを考えていられないだけです。辛いことから目を背けるのは、得意です。ひとときでも楽しければいいと思う、軟弱者ですよ。……毅然としているのは、貴方がたの族長の方でしょう」


 鷲が顧みると、長老は、若葉色の瞳を静かに見返した。


「……ご存知でしたか」


 鷲は瞼を伏せ、沈んだ口調で言った。


「俺は、手でひとを観る癖があるんです。――絵を描くので、利き手に気を遣います。他人の手も、気になるんですよ。あとは、シルカス族長の病と……。それで、察しがつきました」

「左様ですか」

「俺には、考えられません」


 トグルの去った方を眺め、鷲は呟いた。


「俺は、自分てめえが幸せならそれでいいと思う、身勝手な人間です。トグルあいつのようには生きられない。……俺なら、他の誰かに押しつけて逃げますよ。それだけは、あいつを凄いと思います」


 鷲は、己の右掌を見詰めた。端正なその横顔を、長老は観ていた。顎をおおう髭のせいで、この青年は一見年配に見えるが、瞳には、族長トグルと同じ若さがあった。――思慮ぶかくありながら、荒々しさを残した光が。

 解き放たれるべき時を知っている聡明なその光を、長老は、頼もしく見守った。


 鷲は溜め息を呑み、息だけで囁いた。


「俺は、逃げて来たんですよ……自分の苦痛から。それを、トグルは解っていたと思う。解っていて、俺の我が儘を聞き入れてくれた。――だけど、あいつ自身は、逃げずに立ち向かおうとしている。凄いと思いますよ」

族長おさも逃げようとしておられたのですよ、かつては」


 長老は、孫のことを話すような口調で続けた。


「よく愚痴をこぼしておいででした。近年、自覚されたのです。更に、あのことが判って、変わられました。変わらざるを得ませんが……。族長が己の運命を受け入れる決意をしたのは、貴方がたに出会ったからだと、私は思います。ルドガー(暴風神)よ」


 鷲は、左眼をすうっと細めた。


「貴方がたの生き様に、希望を持たれたようです。元来、物事をふかく考える御仁でしたが。一層、物事の深みをみようとされています」


 鷲は南の地平を睨み、濁った声で呟いた。


「俺が気になるのは、トグルあいつが考え過ぎることです」

「…………」

「頭がよすぎて、足が地に着いていない。世界がみえ過ぎるので……己の限界を超えて、頑張ろうとする。そうせずにいられない誇りは理解できますが、あれでは、いつか、潰れかねない」

「…………」

「他人の弱さをゆるし、認めても、自分てめえも弱い人間だということを、あいつはゆるせない。その上、優しいから、一人で背負い込もうとする。優しすぎて身を滅ぼすということがあるなら、典型になりかねない」

「…………」

「俺のような者が言うのは、おこがましいと承知していますが」


 鷲の挑戦的な眼差しを、長老は、恐れる風もなく受け止めた。

 感情をぎりぎりに抑制した口調で、鷲は続けた。


「俺は、人間は、手前勝手でいいと思っています。極端なことを言うなら、自分てめえが生きる為なら、他人を殺しても構わない。善悪に関わらず、人はそういう存在だと思っています。――自分てめえもそうだと、俺は、思っていられる。だが、あいつには、それが出来ない」


 けぶるような睫を伏せ、鷲は、哀しげに呟いた。


「族長なんて地位に居るから、世界をてのひらで眺めてしまう。自分も他人も、地の上の存在として認められない。それが、俺は不安です」

「ワシ殿」

「貴方がたにとっては、都合がいいのでしょう。――不興をこうむることを覚悟で言わせて貰いますが。他人に弱さを見せられず、一方的に都合がいい人間なんて、ただの半端者だ。俺はトグルあいつが好きですので、基本的にはあいつの生き方が好きですが。それでも、あいつをあんな風にした貴方がたに、腹を立てていますよ」

「…………」

自分てめえに腹を立てているところです。友人として――こう呼ぶことを、あいつが許してくれるのなら。――手助け出来ないことを、もどかしく思います。あいつには、幸せになって貰いたい。他の誰の為でもなく、自分の為に。まして、あいつでなければ幸せに出来ない女が居る……」


 鷲は、ぎりりと奥歯を噛み鳴らすと、再び、南の地平を見遣った。

 その仕草を見ていた長老は、やがて、満足げに微笑んだ。


「貴殿に、族長おさの傍にいて頂けないかと、お願いに参ったのですが……不要なようですな」

自分てめえのことだけで手一杯ですよ、俺は」


 鷲は舌打ちをした。長老の笑顔に騙された気分になりながら、一方で、奇妙に納得している自分に気づいていた。


「俺は、惚れた女ひとり、掌の中に入れて守れなかった男です……。そのくせ、ああいう奴を横目で観ていられない、莫迦な野郎でしてね」

「…………」

トグルあいつは拒絶するでしょう。天人テングリに力を借りず、その手を汚させないのが、誇りなんだから……。それを傷つけるつもりは、ありません。しかし、生憎、俺にも意地があるんです。男として、あいつにだけ、いい格好はさせません」


 長老はうなずき、腰をあげた。長衣デールの裾についた草の葉をはたき、馬の手綱を取る。遅れて立つ鷲に、ひそやかに告げた。


「長は、クリルタイを開くでしょう」


 鷲は、真顔になった。長老は、淋しげに微笑んだ。


「タァハル部族と命運を賭けて戦うことは、昔から予想されていました。先延ばしにして参りましたが、もはや、どうにもならぬようです」


 鷲は頷き、低く訊ねた。


「クリルタイとは?」

「部族の――いえ。我ら〈草原の民〉の、元首を決める会合です」


 鷲は眼を眇めた。長老は、説明を続けた。


「他の目的で催されることもありますが……。このような危機に面したとき、民族を統合し、強大な軍事力を率いる指導者を、我らは必要とします。それをテュメンと呼び、氏族長会議クリルタイによって推戴します(注*)。テュメンは、もはや氏族連合の盟主ではなく、絶対的な権力を持った遊牧騎馬民族国家の主権者として、軍事・行政・法権を統轄する者となります。……我々は、そのテュメンに、トグル・ディオ・バガトルを推すつもりです」

「…………」

族長おさは、渋っておられましたが……シルカス族長の御遺言が、契機になったようです。近日中に、結論を出されるでしょう。その時……出来れば、貴殿に居て欲しいのです」

「奴が、引き受けると?」


 答えのわかる問いだった。鷲には嫌というほど理解できたが、問わずにいられなかった。

 長老はうなずき、鷲は口を閉じた。――そうだ。そういう男だ。ひとりでも、世界を変えようとするだろう。

 鷲は、投げやりに首を振った。


「俺は、あんた達の指図は受けない。トグルにも……。俺は俺で、好きにするだけです」

「――そう言って頂けると思っておりました」


 長老は、にっこり笑むと、馬の背に跨った。


「ひとつ、教えてくれ。シルカス族長を鳥葬にしたのは、何故だ? 氏族長は、陵墓クルガンに葬るのが普通なんだろ?」


 鷲が思いついて訊ねると、長老は、不審そうに振り向いた。


「ジョク・ビルゲ殿が、望んだのです」


 鷲は、ああ、と溜息を呑んだ。最高長老は、重々しく頷いた。


「我らは、天と地の間で生きる民です。生きるための全てをテングリから借り、死ぬと天へ返します……。シルカス族長の直系は、ジョク・ビルゲ殿で絶えました。繋いできた生命を父なる天へ返すよう、望まれたのです。――今後は、アラル将軍ミンガンが、シルカスの名を継ぎます」

「……分かった。ラーシャム(ありがとう)」


 鷲が礼を言うと、長老は、彼に会釈をして行った。地上にいる時には何の変哲もない年寄りが、馬にると途端に颯爽としてみえるのを、鷲は、感心して見送った。

 栗色の馬の尾が揺れて行く向こうに、三日目の祭りナーダムの仕度をする男達がいた。今日は、トランか競馬か。

 鷲は、『たかがナーダム』という、トグルの言葉を思い出した。


 風に髪をゆだね、鷲は天を仰いだ。――そうだ、トグル。

 裡なる彼に、呼びかける。言えなかった言葉を。『考えても仕様のないことを、考えるのはよせ。判らないことは、判らないまま放っておけ』


『あいつは、天界に生まれ変われるだろうか』

『何故、奴等だけが苦しまなくてはならないのだ』


 何故などと、考えるのはよせ。俺達が居るのは、ただ、居るからだ。出来事が起こるのは、それが起こるからだ。

 ――鷲の呼びかけは虚空に反響し、自身へと還って来た。天は残酷なほど晴れ渡り、己を見失わせるほどおおきかった。

 彼は、ひとり肩をすくめると、ユルテへと戻って行った。







―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(注*)テュメン: 匈奴時代のテュルク語から。漢訳は「頭曼トゥマン」(例:頭曼単于)とも、モンゴル語の「万戸」とも。ちなみに、冒頓単于の「冒頓」は、モンゴル語の「バガトル(バァトル)」の漢訳という説があります。

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