第四章 狼の末裔(2)
*シルカス・ジョク・ビルゲがお好きな方は、終盤、お読みにならない方がいいかもしれません。「さよなら、ジョク」の回です。
2
よほど疲れていたのか、単に面倒だったのか。(トグルと毎晩飲んでいたので、宿酔になっていた、という説もある。) 鷲が
抜けるような青空の下。丘の上に立てられた五大氏族の旗を興味ぶかく眺めていると、トグルがやって来た。
「ワシ」
穏やかな声に振り返る。人と馬が群れている広い窪地から、なだらかな斜面を登って来るトグルがいた。鷲は眼を細め、彼の姿がはっきり見えるようになると、片方の眉を跳ね上げた。
トグルは、苦嘲いを浮かべた。
「やっと出て来たか。何をしている?」
「別に。珍しいと思ってさ」
鷲の視線につられて、トグルも旗を仰いだ。
黒地に黄金の
鷲は、風に銀髪をなぶらせながら、トグルを見遣った。
「お前こそ。何をやっているんだ?」
「
今日は、〈草原の民〉独特の詰襟・筒袖の
トグルの身長は鷲とほぼ同じだが、やや細いので、デールを着ていると痩せぎすな印象があった。こうして改めて観ると、肩から上腕にかけての筋肉は、鷲に劣るものではない。
感心している鷲に、彼は牙を見せた。
「先刻、オーラトとオロス族の試合が終わったところだ。これから、俺達とシルカス族がやる……。シルカスの族長が来るのを、待っているのだ」
「ふうん」
鷲は、大して感銘を受けた風ではなかった。煙草を口の中に入れ、のんびり相槌を打った。
「族長も参加するのか?」
「十五歳以上の男は、全員だ。――身体の動く者は。俺は、
鷲は、疲れた苦嘲いを浮かべて首を振った。
「遠慮するよ、俺は。宿酔で、頭が
「年寄りくさいことを言うな。俺だって、四捨五入すれば三十だ」
鷲が言いかえす言葉を探していると、トグルの肩越しに、こちらへ歩いて来る人影が見えた。鷲の視線に気づいて振り向いたトグルは、途端に、嬉しげに微笑んだ。鷲が意外に思うほど、その笑顔はやわらかかった。
「ジョク」
トグルと同じ格好をしたアラル
アラルは、二人に丁寧に一礼した。トグルは片手を挙げて応えると、鷲をちらりと見てから、彼等に近づいた。
「ジョク、よく来たな。疲れたろう」
鷲は、トグルに軽く頷いて、立ったまま彼を見送った。済まなそうにこちらを見たトグルの眼差しと、アラルに近づく時の子どものような表情の変化に気づいたのだ。
箱に見えたのは、担架だった。鳥や鹿の繊細な刺繍を施した白い絨毯が掛けられ、四方から垂れている。屈強な男達が恭しくそれを掲げ、氏族旗の許にそっと下ろすのを、鷲は、茫然と眺めていた。
担架の上には、痩せた小さな男が横たわっていた。
担架を運んで来た男達は、アラルと二人の老人を残して、来た道を戻って行った。アラルは、担架の男の足元に、片方の膝をついて頭を垂れる。老婆と翁も跪いた。
トグルは、臥している男に親しげに話しかけた。
「ジョク、久しぶりだな。調子はどうだ?」
トグルの問いに、老婆が答えた。
「******。***、****……」
彼女の言葉を聴く間、トグルの顔に、いつもの厳格さが戻った。しかし、向き直った眼差しは、哀しいほど優しかった。
トグルは喉の奥でくすりと哂い、鷲を手招きした。
「ワシ、来てくれ。紹介する。シルカス族の第十四代族長、シルカス・ジョク・ビルゲだ。ジョク、こいつはワシ。*****、*******」
少々のことで驚く鷲ではなかったし、まして、他人を
鷲は、トグルの隣にしゃがみ、シルカス族の長だという男に会釈をしながら、つい、じっと彼を
小柄な男だった。少年だと言われても、信じたかもしれない。かなり痩せていた。
青白さを通りこした土気色の肌に、血管が浮き出ている。裾広がりのゆったりとした紫色の
頬はこけ、落ち窪んだ眼窩から、大きな黒い目が鷲を見上げた。
乾いた唇はひび割れ、呼吸が出来ているのかと疑いたくなるほど色褪せている。しかし、瞳は澄んで怜悧だ。――おそらく、彼が自分の意志で自由にできるのは、それだけなのだろう。左右に素早く動かし、何かを訴えた。
「……『驚いているな』 と言っている」
鷲には全く判らなかったが、トグルが彼の『言葉』を通訳してくれた。気を悪くする風もなく、トグルは哂った。
「『
「……こちらこそ。むさ苦しい格好で、済まない」
鷲が言うと、シルカス族長は口を開け、喘ぐように息をついた。どうやら、彼の言葉を理解して笑ったらしい。
鷲は、何と言えば良いか判らなかった。
シルカス族長の目が、再度、素早く動いた。トグルは珍しく、声を立てて笑った。
「おい、俺を疑うのか? いくら何でも、そこまでして勝とうとは思わんよ。ワシの力など借りなくとも、俺の騎馬は充分強い」
「…………」
「判った判った。お前は、ここで見物していろ。大丈夫、アラルは口の堅い男だから、作戦を洩らしなどしなかったさ。……***、*******、**」
トグルは老婆に声をかけ、二人の老人は、ともに深く
トグルは立ち上がると、もう一度シルカス族長を見詰め、不敵に笑った。
「観ていろ。今年は、お前に勝ってやるからな」
「…………」
「ああ、また来る。アラル、行くぞ」
「
トグルは、鷲をちらりと見て踵を返し、部下達の待つ方へと歩いて行った。アラルは、シルカス族長と鷲の二人に会釈をして、ついて行く。
取り残された形の鷲は、しばらく迷っていたが、結局、寝ている男の隣に胡座を組んだ。彼の左側に座ったのは、病人の顔に日差しが当らないようにという、せめてもの配慮だった。
シルカス族長は、何も言わない。
鷲は、些かきまりが悪いと感じた。先刻のトグルの様子から察するに、傍らの年寄り達にこちらの言葉が通じるとは思えなかったので、声を掛けなかった。片方の膝を立て、その上に腕を預けて、草原を眺める。
あの勿忘草は、どこへ消えたのだろう。
初夏の風は過ぎ去り、秋の気配をふくむ晩夏の烈しい陽光が降り注いでいた。硬い地面に突き刺さるように生える草の葉は、濃い緑で、光を反射して白く輝いている。
鷲は眼を細めた。
馬の群れと、黒髪の男達が混ざっている。男達は皆、上半身裸だった。『どうやって、敵と味方を区別するんだ?』 と、鷲は思った。よく見ると、一部の皮製の胸当てには、白い彩色が施してあった。トグルの胸当ては黒かったから、おそらく、そちらがシルカス族の男達なのだろう。
角笛が鳴り響き、一人、馬に
羊の皮を中心に、彼等は、二手に別れて移動する。
「観えるか?」
鷲は、シルカス族長に声をかけた。彼は鷲を見たが、すぐに男達の方へ視線を戻した。
アラル達が彼をここに運んで来た理由を、鷲は理解した。起き上がれない彼でも、なだらかな斜面に頭を上にして横たわっていれば、楽に
鷲は、にやりと彼に嘲いかけてから、草原へ向き直った。
数百騎はいただろう。騎馬の群れが、二手に分かれて対峙していた。鍛えぬいた身体を持つ、屈強な男ばかりだ。馬は、巨きく頑強なイリ馬で、キイ帝国のリー・ヴィニガ女将軍なら、喉から手が出るほど欲しがるだろう。
応援する家族と他氏族の見物人が、周囲の丘に集まっている。草原全体が騒然としていたが、鷲とシルカス族長のいる旗の周辺には、人影はまばらだった。
再び角笛が響き、わあっという歓声が観衆から起こった。羊の皮が高く放り投げられ、騎馬は一斉に動き出した。
男達の喚声と馬蹄の音が、大地を震わせる。鷲が片手を地面に着くと、ぬくもりと地響きが伝わった。
『昼寝なんて出来ねえなあ……』
内心で舌打ちをしたが、鷲の若葉色の瞳には、不敵な光が宿っていた。
男達の
鷲は、トグルに教わった
各氏族、五百人の騎手と馬を出場させる。騎馬は百騎ごとの隊に分かれ、それを指揮する
鷲には、彼等がちゃんとした作戦に従って動いているようには、とても見えなかった。舌を巻く。
男達は、全員裸足だった。馬は、動きを速くする為に、手綱しか着けていない。鞍もなく、疾走する馬首に身体を傾け、長い辮髪をなびかせた男達は、馬と一つの生き物のように見えた。その状態で敵に掴みかかり、大地に投げ出されてなお、取っ組み合いを続ける。
羊の皮を持ち帰った者には、『
まさに、男達の闘いだった。
鷲は、黙って競技を眺めていた。土煙がひどく、馬の腹の高さから下は、どうなっているのか判らない。トグルとアラルが何処に居るのかも。
惹きこまれるように観ていた鷲の手に、その時、風が触れた。
「…………」
見下ろすと、地面に着いた彼の右手に、シルカス族長の痩せた左手が触れていた。僅かな動きで、彼は鷲の注意を引こうとしていた。
「何だ?」
綺麗に澄んだ黒い瞳が、鷲を見詰める。指先を震わせ、彼は何かを訴えていた。
鷲は申し訳ない気持ちになり、骨と皮ばかりの手に自分の右手を重ねた。
「俺に言いたいことがあるのか? ……おい」
シルカス族長が、目を左右に動かす。鷲は傍らの老婆に声をかけたが、彼女は鷲の望みを察してくれず、平伏するだけだった。もう一人の老翁も。
鷲は辺りを見回したが、他にシルカス族長の『言葉』を訳してくれる者はいなかった。
「俺に、お前の合図が判ればいいんだがなァ」
シルカス族長は、瞬きを繰り返した。彼をみつめる黒曜石の瞳にくるおしい輝きを見つけ、鷲は戸惑った。
「苦しいのか? 弱ったな。俺の言葉が判るのは、トグルと長老達しかいないんだ。待ってくれ。誰か、その辺に――」
「(テングリ)」
「…………」
驚いた。
今にも死にそうなほど衰弱し、やつれた男が、口を開け、息だけで言葉を作り出したのだ。鷲は眉根を寄せた。空気を震わせ、意味のある音をつくるだけで、どれほど彼の身体に負担なのか、鷲にも判った。
シルカス族長は、ひくっと喉を震わせた。
「(テングリ……)」
「判った。だから、喋るな。済まない……」
鷲は、自然に
「俺は、
シルカス族長の顔色は、ますます悪化して、青紫色を帯びてきた。浅い呼吸が続いている。それでも、哂うかのように唇の端を引き攣らせた。
「(ディオ)」
「喋るな。頼むから」
「(……ディオに――)」
彼は繰り返した。瞳を横に動かす。
鷲は息を呑んだ。
「トグルのことか? 呼んで欲しいのか?」
「…………」
「おい」
「*****、***!」
鷲は傍らの年寄りに助力を求めたが、老婆は病人にすがりつき、翁はうろたえるだけだった。揺さぶられて、シルカス族長の細い身体が揺れる。
立ち上がろうとする鷲を、彼は懸命に見詰めた。
「(ディオに……頼む。クリルタイを……)」
「待ってろ」
老婆が泣き始める。鷲は、身を翻しながら、二人に命じた。
「そこに居るんだ。いいな!」
鷲は斜面を駆け下りた。熱い土埃のたちこめている草原へ。折りしも、トグリーニ族の男の一人が、羊の皮を奪い、
黄金の
「トグル!」
声は馬蹄にかき消され、砂が目に沁みた。しかし、気にしている場合ではない。低い声は裏返り、掠れた。
「トグル・ディオ・バガトル! どこに居る? 応えろ!」
「…………!」
小さく声が聞えた気がして、鷲は振り向いた。銀灰色の長髪が、旗のように翻る。
騎馬の間から、栗毛の馬に跨ったトグルが、全身汗に濡れそぼって現れた。
「ワシか。勝ったぞ! 俺達は――」
息を弾ませて上機嫌に言いかけたトグルだったが、鷲の顔色に気づき、口を閉ざした。表情が消えた。
「アラル!」
トグルは鋭い声で将軍を呼び、濡れた馬の腹を蹴って駆け出した。
ひといき入れる間もなく、鷲も後を追う。
「ジョク!」
シルカス族長の許へ辿りついたトグルを、老婆が泣きながら迎えた。
馬から跳び降りたトグルは、迷うことなく友に駆け寄ると、片膝をつき、彼の顔を覗きこんだ。頬を叩いて呼びかける。
「ジョク! 俺だ、判るか?」
それからトグルは、彼の胸に両手を当て、力任せに押し始めた。弾みをつけ、全体重をかけて。額を汗が流れ、顎の先から滴り落ちた。歯を食いしばり、親友の顔を見詰めて、トグルは続けた。
アラル将軍と、他の、報せを受けた氏族長や長老達がやって来た。鷲が戻った時、辺りにはすっかり人だかりが出来、彼らに近づけなくなっていた。
それでも、長老達の頭越しに、トグルの様子を観た。美しい辮髪を振り乱して、懸命に友の胸を押し続ける姿を……。アラルが力を貸す。二人が体重を掛けて押す度に、か細いシルカス族長の身体は、折れそうに軋んだ。
誰だか知らない女のすすり泣きが聞えた。肋骨の折れる鈍い音を聞いて、鷲は眉根を寄せた。トグルは諦めない。彼の指示で、もう一人別の男が、シルカス族長の口に息を吹き込んだ。
二本目の肋骨の砕ける音が、辺りに響いた。続いて、もう一本……。どれくらい、それを続けていただろう。
人々はおし黙り、すすり泣きも止まった。
異様な沈黙の中で、鷲は、長老達の輪の中からふらふらと歩み出るトグルを見つけた。水を浴びたように髪も服も汗だくになって、雫が垂れている。今にも倒れそうな足取りで、彼は人ごみを抜け出した。
わっと女達の泣き声が起こった。アラルが跪き、目元をこすっている。
鷲は、離れた場所からトグルを見ていた。足取りは次第にしっかりしたが、彼は歩みを止めなかった。試合場にも氏族旗にも背を向けて、トグルは歩き続け、人影がまばらになった所まで行って、ようやく立ち止まった。
項垂れていた彼が、左手で口をおおって天を仰ぐのを、鷲は見た。長い辮髪が背中を流れ、風に揺れる。
虚ろに晴れた空を背景に――真緑の大地と天との狭間に、トグルの長身は、刺さった小枝のようだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
*心肺蘇生中に肋軟骨や肋骨が折れたり、気管内挿管の処置中に歯が折れてしまうという事故は、残念ながら、しばしあります……(それ自体が生命予後を左右することは、殆どありません)。
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