第四章 狼の末裔
第四章 狼の末裔(1)
1
雪が降っていた。
まるで空が傷ついて、うすく剥がれ落ちてくるようだった。灰紫色の空から雲もないのに降るそれを、トグルは、不思議な気持ちで手にとった。手袋をはめていない掌に、小さな氷の結晶は、かすかな冷たさを残して消え去った。音もなく、重さも感じられない。
振り向けば、鹿毛馬に
トグルは、声を掛けるのを躊躇った。草原の男は、無駄口を叩くものではない。しかし、良くない事が起きていると、彼も気づいていた。――不吉な兆候を。
彼は父親を気遣っていたが、物想いにしずむ眼は、息子を映してはいなかった。
『……大丈夫だ』
視線に気づいて、メルゲン・バガトルは顔を上げると、鋭い目元を僅かに和ませた。骨張った手を伸ばし、彼の帽子を軽く叩く。
メルゲンの外套の上を、粉雪がいくつも滑り落ちた。
『お前は先に行け。俺は、ここに居る』
「親父」――胸をふさぐ予感にトグルが呼ぶと、メルゲンは微笑んで、帽子を目深にかぶりなおした。馬の足を止める。
トグルの騎った馬は、先へ進んだ。雪の中に、父を残して。メルゲンの黒衣は夜に融け、急速に濃くなる闇のなかへ消え失せようとしていた。
「…………」
ふいに、トグルは眼をみひらいた。息詰まる不安に、立ち尽くす。
己も闇に融けつつあることを、理解したのだ。四肢が痺れ、胸にぽっかりと開いた空洞に、雪が吹きこんで来る――「ソウダ、ソシテ、全テ無クナルノダ」
心が凍るように感じた。
「何モ、残ラナイ。ソウシテ、何モ、ワカラナクナル……」 凍えて、トグルは息が出来なくなった。鼓動が耳に響き、胸苦しさに彼は喘いだが、身体は石のように動かなかった。
ぞっとする。全身が総毛立つ心地がして、彼は、呪縛から逃れようと、必死にもがいた――。
薄暗いユルテ(移動式住居)の中。羊毛の絨毯に直に寝ていたトグルは、目覚めて、嘆息した。『夢か……』 しかし、相変わらず息苦しいと思い、己の身体を眺めた。
喉元に太い腕が乗っている。鷲の左腕だ。
『気楽なものだな、まったく』 起してしまうかと思ったが、彼が熟睡しているので、トグルは溜め息を呑んだ。
大柄な二人の男のまわりには、
トグルは、欠伸を噛みころした。
寝起きの呆けた頭で、考える。『何故、親父が……?』
十年前に死んだ父親と、既に大人の自分が馬首を並べることなど、在り得なかった。今更、夢に出て、何を言おうというのか。――夢に答えなどない。既に記憶から消えつつある。
トグルは首を振り、不毛な考えを打ち切った。
馬の蹄の音が聞える。いななきも。『そうだ。今日は、
朝寝をしていられる客人を、羨ましく思った。
片膝を立てて坐り、大した感慨もなく鷲の寝顔を眺める。いつの間にか仰向けに戻った鷲は、鼾を立てるわけでもなく、静かに眠っていた。彫りの深い端整な
〈草原の民〉でも珍しい程の、いい体格をしている。その頭脳の明晰さを考えても、敵に回せばこれほど慄ろしい相手はいない。逆に、味方にすれば、これほど頼れる男もいないだろう。
トグルは虚しさを覚え、ゆっくり首を横に振った。
『俺も、
腕を膝に預けていたトグルは、握っていた右手をじっと見詰めた。息だけで嗤うと、鷲を起こさぬよう静かに立ち上がった。短刀――
夜明けの草原に、
トグルは彼等に挨拶を返し、まずは愛馬ジュべ(神矢)に水を与えてから、自分も顔を洗った。
「おはよう、トグル」
「…………」
驚いた。
冷たい雫の垂れる顔を上げると、鳩が、手を身体の後ろに組み、遠慮がちに微笑んでいた。タオが与えた臙脂色の
「……ハトか。早いな」
「トグルこそ」
「ワシなら、まだ寝ているぞ」
「ん……ん、いいの。お兄ちゃんが朝寝坊なのは、判ってるから。あたし、トグルと話がしたかったんだもの」
「俺と? 何だ」
鷲ならば苛々して急かしたかもしれないが、こういう時のトグルの辛抱強さは、才能に近かった。少女が、長いお下げを弄びながら黙り込み……ゆらゆらと身体を揺らし、挙句の果てに全く意味不明のことを口走っても、彼は律儀に対応した。
鳩は急に瞳を輝かせて、彼を指差した。悪戯っぽく笑われても、トグルは気を悪くはしなかった。
「ああ~、おひげェ」
「……ああ」
反射的に顎を押さえ、トグルは苦嘲いした。彼の髭は黒いので、剃らずにいると目立つのだ。
「伸ばしてみようかと思っている」
「ええーっ」
「……嫌か?」
「うん」
くすくす笑って頷く、鳩。トグルは、幼い頃のタオを想い出した。
「ワシ程似合わないからな、俺は」
「似合うとか似合わないとかじゃなくて。トグルと雉お兄ちゃんとオダには、いつまでもつるつるでいて欲しいもの」
「つるつる……」
トグル、絶句。鳩は、無邪気に笑っている。
トグルは、少しだけ鷲の苦労を理解した。
「オダとは誰のことだ?」
「覚えてない?」
鳩は
「キイ帝国で会ったでしょ? ニーナイ国の男の子よ」
『ああ、あいつか……』 トグルの脳裏に、カザ砦で出会った、鳩と同じ年頃の少年の姿が浮かんだ。一度見た顔は忘れない自信が彼にはあったが、あの赤毛の少年に関する限り、隼や鷲の印象に及ぶものではなかった。
恐れと敵意に満ちた、空色の瞳。
『ハヤブサはともかく。ワシと《星の子》を動かすのは、あの小僧以外にはないか……』
考え込んでいたトグルは、鳩の声に注意を戻した。
「ねえ、トグル」
ようやく話をする気になったらしい。まだ迷うように眉を曇らせ、少女は、彼から視線を外していた。
「あのね。鷲お兄ちゃん、何か言っていなかった?」
トグルは少女を見下ろした。彼女は、小さな手で口元をこすった。
「その、鷹お姉ちゃんのこと、何か……。お兄ちゃん、あたしには、何も言ってくれないから」
「……聴いていないな」
トグルは、囁き声で答えた。
「タカが記憶を取りもどしたとは、聴いたが。他には何も。……何故だ?」
「なに考えてるんだろう……」
鳩は、ふいに泣き出しそうな顔になった。トグルに横顔を向け、唇を尖らせる。
トグルは、わずかに眼を細めた。
「お兄ちゃんが何を考えてるのか、あたし、全然わかんない。鷹お姉ちゃんがあたし達のことを忘れてしまったから、悲しいのは判るけれど。お姉ちゃんのお腹には、赤ちゃんが居るのよ……。お兄ちゃん、どうして鷹お姉ちゃんの側に居てあげないんだろう。辛いのは、お姉ちゃんも同じはずなのに」
「…………」
「わかんない。あたし、お兄ちゃんが、わかんない」
トグルは、少女を何と言って慰めるべきかと考えた。
「
「あたし、トグルもよくわかんないわ」
突然、少女が振り返り、挑戦的に彼を見たので、トグルは戸惑った。
「俺……?」
「そう。どうして隼お姉ちゃんを、〈
「あれは――」
「隼お姉ちゃんのこと、好きなんでしょう?」
「…………」
今度こそ本当に驚いて、トグルは眼をみひらいた。それから、舌打ちをして顔を背ける。眉間に皺をきざむ精悍な横顔を、少女は容赦なく睨んだ。
「だから、隼お姉ちゃんを連れて行ったんじゃなかったの? 二人とも、好きな人と離れて、どうして平気で居られるの」
「…………」
「それは、鷲お兄ちゃんが鷹お姉ちゃんを嫌いになっちゃって――。トグルが隼お姉ちゃんを好きじゃないって言うんなら、話は別だけど」
「そうではない」
トグルは少女に向き直った。膝を折り、しゃがみ込む。彼女より低い位置から、その瞳を見詰めた。
「違う、ハト。ワシは、タカを嫌いになったわけではない。平然としているわけでもない。――俺も」
「だったら、どうして?」
「そうだな……」
トグルはまた考えた。強く眉根をよせた表情は、苦しんでいるようにも悲しんでいるようにも、鳩には見えた。
彼は、真摯に囁いた。
「……たとえば。お前に好きな相手が居て……お前が居たら、相手を不幸にしてしまうのだとしたら。どうする?」
「わかんないよ」
鳩は、更に困惑して眉尻を下げた。
「あたし、好きなひとなんて、居ないもの」
「ならば、こうしよう」
トグルは、かすかに微笑んで続けた。
「お前は、ワシとタカに幸せになって欲しいよな。二人が好きだろう?」
「勿論よ」
「お前が傍に居たら、二人が幸せになれないのだとしたら。どうする?」
「あたしが――」
鳩は、みるみるうちに泣き出しそうな顔になった。それでトグルは、こう付け加えてやる必要を感じた。
「仮定の話だ」
「うん、判ってる……。でも、本当に、あたしがお兄ちゃんの邪魔になるとしたら――」
「邪魔、とは言っていない。……好きで、幸せになって欲しい人を、逆に傍に居ることで不幸にしてしまうとしたら、と言うのだ」
「だとしたら……。うん。仕様がないよね……」
項垂れて、鳩は呟いた。『
「好きな人の傍に、居たいけれど。好きな人と一緒に居られたら、それだけで何が起きても幸せだって、あたしは思うけど……。そうすることで、その人を不幸にしてしまうのだとしたら。仕様がないよね」
「……ハト」
「でも――」
訴えるようにトグルを見て……それから再び項垂れて、鳩は続けた。
「それでも、あたしは一緒に居たいと思う。……居て欲しいと思うもの、お兄ちゃんに。鷲お兄ちゃんなら、きっと考えてくれる」
「…………」
「一緒に居ても、不幸にならずに済む方法を……幸せになれる方法を。きっと見つけてくれるって思うもの。あたしも考えるから。それじゃ駄目?」
「……そうだな」
トグルは立ち上がり、眼を細めて鳩を眺めた。潤んだように輝く黒曜石の瞳を。少女の頭に左手を載せ、撫でながら、トグルは囁いた。
「ワシならば、そうするだろう。信じてやれ」
トグルは、ユルテ(移動式住居)へ視線を向けた。
「あいつは、今、それを考えているのだ……」
「うん」
鳩の瞳に力が戻った。汚れのない澄んだ輝きを、トグルは眩しく思った。
「そうよね、トグル。きっと、お兄ちゃんは考えてくれてるんだよね。まだ、見つからないだけなんだよねっ」
「…………」
「ありがと、トグル」
トグルの顔に表情はなく、双眸は陰に沈んでいた。己の内面を見据える厳しさに気づくことなく、鳩は、うきうきと言った。
「待ってみる。あたしが信じてあげないと、鷲お兄ちゃんを信じる人なんて、他にいないもんね」
「……ワシを起してやれ」
トグルは、静かに鳩を促した。眸から先刻の陰は消えていた。
「食事にしよう」
「うん。……あ、忘れるところだった」
トグルのユルテへと歩きかけて、鳩は振り向いた。えへへっと、片手で頬を撫でる。
「タオお姉ちゃんに伝言を頼まれたの。あたし、本当は、それで来たの。えっと――『今日の食事は私が用意するので、兄上は
トグルは、両の眼をみひらいた。
「どういう風の吹き回しだ。いつも、自分のことは自分でやれと俺に説教をするくせに。ハヤブサが居た時でも、ここまで殊勝ではなかったぞ」
「鷲お兄ちゃんが来たからじゃない?」
鳩は、悪戯っぽく片目を閉じた。トグルが、さらに眼を瞠る。
「でも、駄目よ。お兄ちゃんには、鷹お姉ちゃんが居るんだからね」
トグルは苦笑した。くるりと踵を返して跳ねるように駆けて行く少女を見送り、前髪を掻き上げる。
『俺も、あんな
『鷲お兄ちゃんなら、きっと考えてくれる。一緒に幸せになれる方法を。あたしも考える』
『その通りだ』 トグルは軽く嘆息した。あの男なら、そうするだろう。
鋭利な刃物で刺されるような痛みを胸に感じ、トグルは、眉根を寄せた。息をころし、首を振る。束ねられていない黒髪が肩を滑ると、ひやりとする感覚が首筋に伝わった。
トグルは、己の右手を見下ろした。それから、時間をかけ、丁寧に髭を剃り落とした。
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