第三章 降臨(6)
6
「うわあ! きれい……!」
鷲と鳩を含むトグルの一行は、およそ十日かけて山脈を越え、彼等の
真夏の草原は、目に沁みるほど青く、一面に白い
彼方に、うすくアルタイの山並みが観えている。手前では、馬と羊の群れがのんびり草を食んでいた。見事に晴れた空と、草の匂いのする風を吸いこみ、鷲も、しばし見蕩れた。
火花がはじけるような笑声をあげて辺りを駆けまわる少女を、トグルは、眩しげに眺めた。
「お前達は、一番いい季節に、
独り言のような口調に、鷲は、草原の男を振り向いた。黒馬に乗り、強風に長い辮髪をなびかせたトグルは、鷲に説明した。
「秋から冬にかけて、ここは雪に閉ざされる。大地も川も白く凍る……。ハヤブサは、秋に来た故、夏を知らない」
鷲は、草原へ視線を戻し、顔にかかった前髪を掻き上げた。束ねられていない銀髪が、風に舞う。顎をおおう髭が日の光を反射して輝くのを、トグルは見ていた。
「そいつは残念だな。俺も一番厳しい時期に来れば、ここが本当にどんな処なのか判るのに」
この言葉に、トグリーニの族長は、フッと
トグルが馬首を巡らせたので、鷲は声を張りあげた。
「鳩! 行くぞ」
「やーん! もう少し、いるぅ!」
「やーんって……」
げんなりする鷲の表情を見て、トグルは
「後で、迎えを来させよう」
「
「どうせ、すぐそこだ。ここでは迷いようがない」
相変わらず独語のように答えると、トグルは部下の男達に指示して、三人を待機させた。その中にアラル将軍が含まれていたので、鷲は彼の気遣いを理解した。
「鳩。先に行ってるからな」
「はあい!」
『つくづく緊張感の無い奴だ』 そう思った鷲の気持ちを察したのか、それとも、同じことを考えたのか。トグルは苦笑したが、すぐにいつもの無表情に戻った。
ハンテングリ山を右手に観ながら進むと、草原に、白い夏用のユルテ(移動式住居)がちらほらと現れた。
羊たちが、そこかしこで草を食んでいる。馬も牛も。こんな一箇所に集めていては、すぐに草を食べ尽くしてしまうのでないかと鷲は案じた。どうやら、族長一行を迎える為に、氏族の者が集まっているらしい。
行く手に、色とりどりの
鷲は、トグルに借りた栗毛の馬を降りながら、しげしげと彼等を眺めた。
「******……***、
「*****!」
トグルが鷲を紹介したのだろう。老人は、紫がかった灰色の瞳を鷲に向け、彼等の言葉で何事かを叫んだ。出迎えの男達に動揺が走る。
好奇に満ちた十数対の瞳を、鷲は、平然と見下ろした。
トグルが、悪戯っぽい視線を鷲に当て、低い声で促した。
「何か言ってやってくれ」
「ども」
鷲が短く言うと、さすがのトグルも、一瞬、呆れたように眼をみひらいた。鷲は煙草を噛みながら、何食わぬ顔で彼を見た。
《草原の黒い狼》の異名をとる男は、ちらりと白い牙を覗かせた。
「……いい度胸をしている」
「お前ほどじゃねえよ」
「ようこそ、
トグルとタオ以外のトグリーニ族の者から、流暢な交易語で話しかけられたので、鷲は瞬きをした。先ほどの老人の隣から、茶がかった髪の青年が声をかけたのだ。年齢は、自分達と同じか、やや若い。長い髪を一本の辮髪に纏めている。
トグルは、鷲の表情を面白そうに眺めた。
「紹介しよう。若長老ジョルメだ。隣は、最高長老のトクシン。……カブル、ザムカ、オーラト族のスブタイ
「ワシ殿!」
鷲が男達に会釈をしていると、よく響く女声とともに、真紅の
無口な族長の唇に、苦嘲いが浮かんだ。
「……
「ワシ殿ではないか。兄上、お帰りなさい。何故、ワシ殿が? ハヤブサ殿は、どうなされた?」
「よお、タオ。久しぶりだな」
鷲は若い娘の勢いに気圧され、抑えた口調で言った。トグルは、そ知らぬ風を決め込んでいる。
タオは、兄とは正反対の人懐こい笑顔をみせた。
「まったくだ! センバイノー(こんにちは)、ワシ殿! イリへよく来られた。歓迎する。ワシ殿お一人か? ハヤブサ殿は? 他の
タオは鷲の腕を両手で掴み、背伸びをして彼の後方を眺めた。鷲は救いを求めてトグルを見遣ったが、彼は最高長老と話をしている。
トグルについて来た男達は、各々の馬を引いて去り始めていた。鷲は、是非それに加わりたかったが、タオに腕を掴まれては、動くわけにいかなかった。
「鳩が一緒だ。隼は、〈
「そうなのか? 残念だな。せっかく
早口にまくしたてられて、鷲は呆気にとられた。『こいつ、こんなに言葉が上手かったっけ?』 兄とはまるで違う口数の多さに、鷲は二人を見比べた。
「……タオ」
トグルは、鷲と妹の遣りとりを、革製の手袋をはめた手で口元を覆いながら眺めていた。緑の双眸が、苦笑している。
タオが、五本の辮髪を揺らして振り返る。
「何だ? 兄上」
「そんなに一気に話しては、ワシの答える隙がなかろう。少しは遠慮しろ。……後で、アラルがハトを連れて来たら、お前が面倒をみて遣れ」
「それは構わぬが。ワシ殿は、どうなさるのだ?」
「お前のユルテ(移動式住居)に泊めるわけには、いかぬだろうが」
「あ。俺は一向に構わないぜ」
「心にもない冗談はよせ」
『うわ。そこまで言う』 いつもの調子で軽く茶化した鷲の台詞を、トグルがあっさり斬り捨てたので、鷲は苦笑した。
タオも、絶句してしまう。
恨みのこもった妹の視線を、トグルは、さらりと受け流した。
「兄上。その言い草はなかろう?」
「ワシにまともに相手をされると考える方が、身の程を知らぬと思えるが」
『言うなー、こいつ』 唖然とする鷲を見て、トグルは唇を歪めた。
「十四歳以上の男女は、肉親以外はともに暮らさぬのが、ここの掟だ。了承してくれ。……行こう。案内する」
何事も無かったように踵を返し、トグルは、馬を連れて歩き出した。見事な漆黒の辮髪が、彼の動作に合わせて揺れる。
鷲は肩をすくめると、同様に馬を引いて歩き出した。タオがついて来る。上機嫌で隣を歩く娘に、鷲は話しかけた。
「ナーダムって、何だ? タオ」
「年に一度の、部族の祭典だ」
トグルは、ちらりと彼等を見遣ったが、何も言わなかった。タオは話したくて仕方がないらしく、うきうきと説明した。
「毎年、この時期に、十日かけて行われる。我がトグリーニの全氏族、全
「ワシは、ハヤブサの剣の師だぞ」
鷲が答える先に、トグルが言った。鮮緑色の瞳は、不敵に嘲っているようだった。
タオが、鷲を仰ぎ見る。
「そうなのか?」
「そうと知って、敢えてワシに試合を申し入れる者はなかろう。今頃は、知れ渡っているはずだ」
「お前には、クレシュを教えてもらう約束だった」
鷲が煙草を含んだ口を手で隠して言うと、トグルは彼を振り向いた。若葉色の瞳が澄んで、胸がすくような光を宿しているのを、トグルは、興味深く眺めた。
「トランも。もう一度、手合わせを願いたいな」
「……悪いが。ナーダムの後で良いか?」
トグルは、囁くように問い返した。鷲は、にやりと嘲った。
「いつでもいいぜ」
「ナーダムは、俺にとって、一年中で最も忙しい時期だ。長老達も。タオに案内して貰ってくれ」
「何があるんだ?」
鷲は訊ねたが、トグルは、話を終えて歩き続けた。硬い横顔だが、眼差しが変わらず穏やかなことに、鷲は気づいていた。
タオが代わりに答える。
「初日は、式典だ。
「いや。ナーダムじゃなく、トグルにさ」
鷲に遮られて、タオは、怪訝そうに瞬きをした。新緑色の瞳が、黒髪に映える。
トグルが振り向いた。
「……俺が、何だ」
「ナーダムがお祭りだってことは、判ったよ。お前は何をしているんだ? まったく会えない程、忙しいのか?」
「俺の仕事など訊いて、どうする」
鷲は、ひょいと肩をすくめた。飄々と明るい碧眼を、トグルは眺めた。
「……ナーダムには、五氏族の族長、長老、
「長老会議?」
「正月と、春と秋の移動の前と、年四回行われる。国事を議定し、
「ふうん」
鷲がそんなものに興味を持つことを、タオは不思議そうに見守っていた。鷲は、彼女の視線に頓着せず、煙草を足元へ吹き捨てた。
トグルは、彼が次に言い出すことを予想していた。
「俺も、出席していいか?」
「それは、俺が決められることではない」
トグルは苦笑した。
「長老会に諮らなければならない。例がないからな……。原則として、氏族長と長老しか参加できないのだ。まして、お前は異国人だ。参加を許されたとして、発言を認められるか――」
「いや。いいんだ」
大きな右手を軽く振り、鷲は、穏やかに哂った。
「言いたいことがあるわけじゃない。国ってもんがどんな風に運営されているのか、観てみたいと思っただけだ」
「……俺達は、参考にならぬぞ」
トグルは、探るように眼を眇めた。口元に、狼の嘲いが浮かぶ。
鷲の左の眉が、ひょいと跳ね上がった。
「そうか?」
「ああ。他国とは違うからな」
「教えてくれ」
鷲の唇が、にやりと歪んだ。白い歯を見せ、繰り返した。
「教えてくれ。知りたいんだ」
「……キイ帝国には、天子が居る」
呆然としているタオを尻目に、トグルは話し始めた。
「『天から遣わされた、神聖なる皇帝』だ。ナカツイ国やミナスティア国では、
鷲は新しい煙草を噛みながら、双眸を煌めかせていた。トグルは、淡々と続けた。
「〈草原の民〉にも、
「…………」
「氏族長は、婚姻、または盟約によって、各氏族を結ぶ役割を果たす。氏族は集まり、一つの部族を構成する。故に、氏族長同士は対等だ。――盟約の中心となった氏族の長が盟主となるが、その行動は常に長老会の監視を受け、承認を得なければならない」
「氏族と部族の違いが、やっと判ったぜ」
「……俺は、トグル氏の族長であり、部族の盟主だが、独裁者ではない」
鷲は、小声で呟いた。トグルは、ちらと
「タァハル部も、ハル・クアラ部族も同じだ。俺達は、少しずつ言葉や習慣が違うのだ。それが、部族を隔てている……。お前達が言うトグリーニとは部族の総称だが、普通は、中心となる五大氏族を指している。――オ―ラト、シルカス、オロス、オルクト、そして、トグルだ」
「先刻の長老達は、その代表だな?」
「そうだ」
タオには、兄が饒舌になっていることが意外だった。彼にとっては自明の事柄を、面倒がりもせず、丁寧に説明する。鷲との会話を楽しんでいる。
トグルのユルテ(移動式住居)には、一見して他のユルテと区別がつくような違いはなかった。周囲には、いつの間にか、ちょっとした人だかりが出来ていた。間違いなく、噂の
トグルは頓着せず、鷲も平然としていた。
「理解できたか?」
「ああ。まだ知りたいことはあるが、後で、ゆっくり教えてもらうよ」
「関わらないのでは、なかったのか?」
ユルテの前に馬を繋ぎながら、悪戯めいた口調でトグルが問うと、鷲は唇を歪めた。トグルに借りていた馬を隣に繋ぎ、言い返そうと口を開けた時、
「お兄ちゃーん!」
少女の声に、人々がざわめいた。鷲は、小さく舌打ちした
トグルとタオが顧みると、アラル
「お兄ちゃん! すっごく、綺麗だった! 羊もいるのよ!」
「怒鳴らなくても、聞えるよ……」
鷲がうんざりしているので、トグルは哂った。傍らの妹に、声を掛ける。
「タオ。お前、案内してやれ。ひととおり観ないと、ハトは落ち着かないだろう」
「
タオは頷き、鷲に会釈をして、アラルの許へ駆けて行った。アラルが馬を降り、代わりに、タオが
鳩は、片手を大きく振った。
「お兄ちゃんも、行かない?」
「後でな……」
鷲は手を挙げ、馬は、離れて行った。アラル将軍が、徒歩でつき従う。
鷲は、両手を腰に当てて重心を左脚に移すと、溜め息をついた。トグルは、愉快そうだ。
「ハトにとって、ここは、遊び場のようだな」
「連れて来るんじゃなかったぜ、まったく」
トグルは、声を転がして笑った。
「どこの国でも、『小姑は、天下無敵』と言うからな」
「天下無敵……」
鷲は絶句した。トグルは踵を返し、彼をユルテへと誘った。
「入らないか。茶でも煎れよう」
「ああ。ラーシャム(有難う)。後でいい――」
鷲が口篭もったので、トグルは首を傾げた。彼に背を向け、鷲は、先刻と同じ姿勢で立っている。トグルは彼の視線の先をたどり、納得した。
鷲を観に来たらしい数人の女達が、両手を着き、頭を土に擦りつけて拝礼していたのだ。
鷲は眉根を寄せ、小声で訊ねた。
「何をしているんだ?」
「……
トグルは、無表情に応じた。いつかもこんなことがあったと思いながら。
「お前達を、その化身と信じている。止めるように言ったのだが、効果がないようだな……」
「構うな」
彼女達の方へ歩き出そうとしたトグルは、鷲の腕に止められ、振り向いた。鷲の表情は穏やかで、普段と変わらない。
鷲は、早口に囁いた。
「放っておいてやれ。何か、理由があるんだろ?」
トグルは、思わず、彼を
「人は所詮、
そう言うと、鷲は両手を
トグルは、黙って彼を見送った。それから、眼を細める。唇の端をゆがめ、嗤った。
「……面白い、男だ」
呟くと、トグルは、女達をそのままにして、自分のユルテへ入った。
~第四章へ~
(注*)ナーダム: 現代モンゴルのナーダムでは、弓、競馬、モンゴル相撲の三種目が行われます。「ナーダム」とは、「祭り」の意味です。
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