第三章 降臨(4)


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 雉の話にレイが衝撃を受けなかったと言えば、嘘になる。

 彼女には、タァハル部族に捕まったときから時間がそれほど経っている感覚はなかった。二年間も記憶を失っていたとは、にわかに信じられなかった。己の置かれた状況に現実味がなさ過ぎて、実感が湧かない。

 生きていること自体、夢のようだ。仲間たちの消息が気に懸かる……。

 彼等の話を、信じないわけではない。かの有名な〈黒の山カーラ〉の《星の子》と、神々の化身アヴァ・ターラのような容貌すがたキジハヤブサに親切にして貰えることは、ありがたいが。

 どうしても、怖かった。

 『ワシさん』……彼等の仲間で、同様に銀髪碧眼、白い肌をしているという。その人と愛し合い、子どもまでいると。妊娠の事実を知らされたレイは、愕然とした。

 これが、彼女の知る相手――例えば、シジン=ティーマであれば、まだ理解できたかもしれない。(それでも、困るが。)肝心の『ワシさん』を、見ていない。

 《鷲》が〈黒の山〉に居ないことは、彼女を当惑させた。《鷹》も他人だ……。その二人の子どもが、自分の中に、居る?

 レイ=ムティワナは、ただただ困惑するばかりだった。


 《星の子》はレイに、既に悪阻は落ち着いて、五ヶ月目に入ると説明した。身をいとうように巫女は言ったが、口調は素っ気なく、元王女の心情にまで気を遣うつもりはなさそうだった。

 雉は、彼女を腫れ物に触れるがごとく扱っている。

 隼は、レイの方から話し掛けない限り、殆ど口を利かなかった。時折、無言のまま彼女をじっと観察していた。隼の瞳は深い海のような陰を宿したみどり色で、光を反射すると瑠璃ラピスラズリさながら輝いた。

 レイと目が会うと、隼はたいてい辛そうに顔を背けたが、眼差しは印象的で、いつもレイに切なくもどかしい気持ちを起させた。

 三人が彼等なりに親切にしてくれていることは、レイにも理解出来た。

 しかし。どうすることが出来ただろう?



「外に出てみないかい?」


 目覚めてから三日目。無くした故郷と、シジンとナアヤたちのことを思って塞ぎ込んでいた彼女に、雉は、ぎこちなく声をかけた。


「閉じ篭っていたら、気が滅入るだろう? 《鷹ちゃん》のことを教えてあげたいし、おれも、君のことを知りたい……。身体が大丈夫なら、歩いてみないか?」


 下腹部が張る感じはあったが、他にすることも無かったので、レイは、彼と一緒に部屋を出た。

 岩盤を削ってつくられた通路を抜け、外へ出ると、乾いた冷たい風と強い日差しが身体をつつんだ。レイには初めて観る風景が拡がっていた。

 眼下のゆるやかな斜面に草はなく、ごつごつした黒い岩肌が、むき出しになっていた。岩陰に残雪が溜まっている。青空との境界をふちどる切り立った山端やまはには、冠のように雪が輝いていた。

『なんという所だろう……』 レイは嘆息した。

 彼女の知る南の海や砂漠とは、全く違う。果てしなく拡がる大洋と、高い椰子の茂る浜辺や黄金色の砂漠も美しかったが、地平線のないここは、巨大な箱庭のようだった。

 神々の箱庭――偉大な力による造形だ。厳しさのなかに、瑞々しい生命の息吹があった。


「そうか。君は、初めてだったね」


 レイが見蕩れているので、雉は腕を伸ばし、山道脇の木陰を示した。


「あそこに、冬でも凍らない井戸がある。《鷹ちゃん》とおれが、毎朝、水汲みをしていた所だよ。ここへ来た時に、鷲と、麓の村の人達が掘ってくれたんだ」

「…………」

「この道を右手へ下ると、村に出る。マナや、チナが住んでいる村だ。時々、毛長牛ヤクの乳や野菜を持って来てくれる。皆、親切な、いい人達だよ。お礼に、おれとルツが病を治したり、鷲が家を建てるのを手伝ったりするんだ。麓の湖で釣りをしたり、狩りに出掛けたりもする」

「…………」

「左へ行くと、《星の子》の神殿へ出る。ルツは、あそこに住んでいるんだ。ここは神殿の裏側で、この家とは中で繋がっているんだよ。巡礼の人達が来るのは、主に南東の参道からだ」

「…………」

「こんなこと、君には、どうでもいいんだろうけど……」


 雉は、淋しげに呟いた。黙って聴いていたレイは、返答に困って項垂れた。

 雉は微笑み、明るい口調に戻した。


「おれ達は――鷲は、子どもの頃から。故郷を追われて、ずっと放浪していた。去年、やっとここに落ち着いたんだ」

「追われた?」


 彼が井戸へ向かって歩き始めたので、レイは従った。雉は、彼女の足元を気遣いながら頷いた。


「おれ達は、この姿のせいで親に捨てられたり、逆に、家族を殺されたりしたんだ。生まれも育ちも違う。一緒に暮らしているのは、その為だよ」

「もともと〈黒の山〉の人では、ないのですか?」

「違うよ」


 雉は、くすりと哂った。悪戯めいた光が、瞳にまたたく。


「自分が何者かなんて、知らなかった。ここへ来て《古老》だと教わった。能力ちからを使えるようになったのも……。でも、ただの人間だ。君には、おれ達が、特別な存在に見えるかい?」


 雉が足を止めたので、レイも立ち止まった。澄んだ彼の瞳を見ていると、不思議に穏やかな気持ちになった。


「いいえ。でも、こんなに綺麗なのに――」

「複雑だなァ」


 雉は笑いだした。


「こんなとこ、鷲に見られたら、何て言われるか。一応、有難うと言っておくよ……。君は?」

「私?」

「そう。ミナスティアの王族が黒目黒髪だというのは、聞いたけれど。王族だけなのかい? 君のことを教えて欲しいな」

「……私達の祖先は、北方の〈ふるき民〉です」


 レイは再び歩き始めた。雉は眼を丸くした。


「そうなの?」

「はい」


 レイは、シジンに教わった話を反復した。


「〈草原の民〉と、祖先は同じです。五百年ほど前に一部族がわかれ、ミナスティアの地を支配しました。私達は、その末裔です」

「じゃあ、君たちとトグリーニ族は、遠い親戚なのかい?」

「そう言えますけど……」


 レイは、嫌悪感を噛み締めた。喉の奥が気持ち悪い。あの恐怖を思い出しかけ、かぶりを振った。


「……彼等とは違います。遠い昔に、野蛮な遊牧は捨てました。ルドガー(暴風神)とウィシュヌ(慈悲の神)神の節理にしたがい、あの国の民を導いて来たのです」


 彼女の言葉を、雉は、やや複雑な表情で聴いていた。複雑な――『おれには、良くわからない』 と言いたげな。

 雉は、彼女が嫌がっていることに気づき、視線を逸らした。


「ごめんよ。無神経なことを言ったみたいだ……。それは君の言葉じゃないね? 君にそういう歴史を教えてくれる人が、あの国に居たんだ」

「はい」

「シジンかい?」


 レイは、ゆっくり頷いた。雉は、眉間に皺を寄せて黙り込んだ。


 二人は、人頭大の石を積んだ井戸を巡って、木立の間を、神殿へ向かった。

 レイは、考えながら歩いた。――白大理石の宮殿の、部屋の窓枠に腰掛けた、シジンの姿を想い出す。窓越しの青空に褐色の肌が映え、しろい歯が煌めく。シジンの鈍くかがやく陽だまり色の髪が、彼女は好きだった。決意を秘めた、深海色の瞳。

 四歳年上のシジンは、彼女にとって兄のような存在だった。いろんな話を聞かせてくれた。神官である彼の父が話すより、彼が語る神話や伝説の方が、何倍も面白かった。

 身振りを加え、表情豊かにシジンが語ると――部屋のなかに雲が湧き、銀の長髪をなびかせた雷神ルドガーや、光の眷属をしたがえた慈悲の神ウィシュヌが現われた。暁の女神ヒルダが、白鳥をその手にとまらせ、紫色の雲の衣をまとい、東の海から現われる。


『シジン……』

 レイは項垂れ、自分の肩を抱いた。――何故、こんなことになったのだろう?

 宮殿の奥でまどろむように暮らしていた王女には、判らなかった。いつから、彼が神官ティーマになる道を離れようと考えたのか。民を解放したいという、その為なら、地位も故郷も棄てて構わないというほどの、決意を。

 もう、殺されてしまっただろうか。二年も経っていては……。

『シジン、私は、どうしたらいいの? ナアヤ、これは、私に下った天罰なの? 貴方たちを忘れて生きて来た、私への』

 心の中で呼びかけても、応えはない。痛みにも似た孤独が、身のうちを切り裂く。レイは、強く自分を抱き締めた。その時、


『……天罰じゃないよ』


 神の啓示さながら、声が響いた。はっと顔を上げたレイは、こちらを見詰めている雉に気づいた。

 一瞬、わけが判らない。

 彼女の頭に、再び《声》が響いた。


『誰も、君を責めてはいない。そんな風に君が嘆くことを、シジンも望んではいないだろう……。彼等が信じたことを、君が無駄にしないでくれ。この二年間は、君にとって無駄ではなかったはずだ』


「貴方は……?」

「来て」


 雉は短く言うと、先に立って歩き始めた。柔らかな銀髪が仕草に揺れるのを、レイは、やや茫然と見送った。急いで後を追う。濃い緑の木立を抜けると、黒い岩盤をくり抜いた神殿が、間近に迫っていた。

 レイは、息を呑む。雉は、慣れた仕草で扉を開け、暗い穴へと入って行った。

 レイは躊躇したが、独りでここに立っていても仕方がないので、彼を追った。


 通路の天井は高かったが、幅は狭く、窓も無かった。押し潰されそうな威圧感がある。

 数歩おきに壁に小さなくぼみがあり、灯火が点されていた。乾酪バターのにおいとともに、ぼんやりとした黄色い光を、辺りに投げかけている。その光を浴びた雉の銀髪は、くすんだ紅に染まっていた。

 レイは、『どこへ行くのですか?』と問おうとしたが、彼の背には質問を拒む雰囲気があった。

 通路は細く、うねうねと続いた。数回階段をのぼり、角を曲がるうちに、レイはどの方角へ向かっているか判らなくなった。故郷の宮殿は、こんなに複雑ではなかったと思う。山のなかをほぼ二周くらいしたか、と思った途端、視界が開けた。


 回廊に、二人は出た。数階分を削って作られた吹き抜けの広間を囲んでいる。巨大な空間に面して、通路が幾つも暗い口を開けていた。

 床にはみがかれた黒い石が敷かれ、凪いだ湖面さながら、つやつやと輝いていた。太い柱に支えられた広間の天井は、遥か上にある。透かし彫りの天窓から、金色の陽光が射しこんでいる。その光と陰の狭間に鎮座するものに、レイは目を奪われた。

 雉は、無言で彼女の様子を見守った。

 巨大な石像だった。

 雷神ルドガーだ。額に嵌めこまれた碧玉の第三の眼によって、そうと知る。ナカツイ国、ミナスティア国、ニーナイ国の民には、馴染みの神だ。沙漠に恵みをもたらす嵐と風の神、医療の神ブテスワラであり、破壊の神バーイラヴァであり、死者に裁きをくだす恐ろしい霊界の主マハ・ナテサでもある。

 ここは〈黒の山マハ・カイラス〉――ルドガー大神の居城とされる聖山なのだから、神殿に像があってもおかしくはない。

 像は長い髪を持ち、首に大蛇を巻きつけて胡座を組む、修行者サドゥの姿をしていた。額以外の眼を伏せ、平和で端正な顔をしている。その表情に、レイは心惹かれた。

 稲妻をはなち全てを破壊する彼の第三の眼が、泣いている。美しい碧玉が、光を反射して濡れたように輝いていた。


 雉は、聞えるか聞えないかくらいにひそめた声で話しはじめた。


「最初に能力ちからが現われたとき、おれは制御できなかった。村が野盗に襲われて……混乱しながら、賊と家族を殺してしまった」


 レイはぎくりとしたが、彼は神像を見上げていた。


「父、母、妹……生まれたばかりの弟、村の人達……。おれの能力ちからが潰し、引き裂いた。化け物だよ、おれは。言い訳はできない」

「…………」

「ずっと死にたかったんだ。死ぬべきだと、今も思う……。おめおめと生きて来たのは、死ぬのが怖かったわけじゃない。そんなことをしても、意味がないからだ」

「…………」

「おれが死んでも、誰も生き返らない。それより……おれを仲間だと、呼んでくれる奴等が居る。実際より少しはマシな人間だと、信じてくれる奴が。生きろと言ってくれた――」

「……ワシさん?」


 レイが訊ねると、雉は振り返り、淋しげに微笑んだ。

 彼は、昔語りをしたことを嘲るように軽く唇を歪めると、銀の髪を掻いた。


「君にとっては迷惑な話なんだろうけど。おれ達に、君を、仲間だと呼ばせてやって欲しい……。君のなかに居る《鷹ちゃん》を、おれ達は必要としている。まとめて受け入れたいんだ」

「…………」

「おれ達を、信用できない?」

「わ、私……」


 若葉色の瞳に見詰められて、レイはうろたえた。

 彼女は未だかつて、他人からこんな風に意見を求められたことはなかった。いつも話はシジンが聴き、彼女の悩みごとは、彼が解決してくれていた。

 シジンとナアヤが――。

 雉の落ち着いた雰囲気は、ナアヤに似ていると、ふと思った。


「私は――」

「雉!」


 おずおず言いかける言葉を、声が遮った。凛ととおる声が、洞窟のような空間に反響した。

 雉とレイが手すり越しに見下ろすと、胡坐を組んだルドガー神の傍らに、《星の子》と隼がいた。


「鷹も、そんな所に居たのか」

「どうした? 隼」

「お客よ、二人とも」


 長杖を片手に、《星の子》が呼ぶ。滝のような黒髪が、ゆったりと波をうち、膝の辺りまで流れていた。


「先刻から、探していたのよ。降りていらっしゃい。レイ、あなたに会わせたい人が居るわ」


 二人は、互いの顔を見た。それから、雉はレイを案内して、神像の左手の階段を下った。

 レイが降りると、隼の後ろに、明るい緋色の髪の少年が待っていた。

 すらりと痩せた少年だった。長い手足が、快活な印象を与える。日焼けした褐色の肌に、砂漠の民独特の薄手の貫頭衣トゥニカを着て、かるくうねる赤毛の下から、利発そうな空色の瞳が二人を見た。

 雉が、親しげに笑った。


「オダか。大きくなったなあ」

「先刻、隼さんにも言われました。お久しぶりです。雉さんは変わりませんね。そして、鷹……元気だった?」

「え」


 真顔で彼が話し掛けて来たので、レイは戸惑った。『彼も、私を知っている? でも、誰……』

 少年は、眉を曇らせた。


「本当に、忘れてしまっているんだ……」

「鷹ちゃん――いや、レイ。紹介するよ」


 隼と《星の子》は黙っていた。雉は、穏やかな口調で教えた。


「彼は、オダ。ニーナイ国の神官ラーダの息子で、記憶をなくしていた君を、救けてくれた人だよ」


 レイは、素早くまばたきをした。話には聞いていたが、少年だとは思っていなかったのだ。

 オダは、怯むことなく、彼女の視線を受け止めた。





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