第三章 降臨(3)
3
それから数日間というもの、《鷹》は、おのれの周囲で起きていることを知らなかった。意識は混濁し、朝か夜かも判らず座り込んでいた。
幾度か視界が晴れることはあった。頭が冴え、周囲の景色が眸に映るときが。
そんな時、彼女の前には、長い黒髪の女性か銀髪の若い男性が胡座を組み、眼を閉じていた。
彼女はそれを不思議がることもなく、すぐにまた、霞さながら灰色に濁った意識の
時折、昔のことを思い出した。日に焼けた漆喰の匂いのする乳白色の王宮の壁や、青い
絹の
そんなことを何度か繰り返した後、突然、意識が晴れ渡った。
彼女の前には、もうすっかり見慣れた黒髪の女性が、白い絹の長衣を身にまとい、胡座を組んでいた。両膝の上に手を預け、軽く印を結んでいる。伏せた長い睫や夜空のような黒髪が、真珠色の肌に映え、それは美しかった。
彼女が思わず見蕩れていると、ルツは、ゆっくり眼を開けた。
切れ長の瞼が開かれると、真っ黒な瞳が現れて彼女を見詰めた。果てのない夜空のように冷たい瞳孔に吸い込まれそうな気持ちがして、彼女は、どぎまぎした。
ルツが、微笑んだ。目だけで――それから、桜貝のような淡い紅色の唇を動かして。穏やかで優しい微笑に、彼女は、ますますうろたえた。
銀の鈴を思わせる澄んだ声で、ルツは言った。
「ようこそ〈
呆然としている彼女に、ルツはもう一度艶然と微笑みかけてから、視線を横へ逸らした。疲労がこめかみに滲んでいた。
『私の名前を、何故知っているのだろう?』
考えかけるレイの耳に、凛とひびく別の女声が飛びこんで来た。
「鷹! たか。大丈夫か?」
更に彼女はギョッとした。珍しい白銀の髪や、透きとおる肌の所為ではない。睫にけぶる鮮やかな碧眼――深い
隼は、彼女の顔を覗きこんだ。レイは、ひとならぬその美貌に息を呑んだ。
「たか……?」
「……無駄よ、隼」
ルツが、寝台から降りながら言う。傍らには雉もいて、彼女の様子を見守っていた。
「彼女のなかに、《鷹》はいないわ」
隼の柳眉が、やるせなく寄せられた。瞳の奥に、身を斬られそうな哀しみが宿っている。
隼は、息を吐いて肩を落とした。そうして、レイが話し掛けようとする前に寝台から離れた。
レイは、改めて周囲をみまわした。
薄暗い、小さな部屋だった。閉じた窓の扉の隙間から、金色の光が射し込んでいる。彼女が座っている寝台は、石を削って作られた上に毛織の毛布を重ねたものだ。壁に飾りはなく、とても質素だ。
その部屋の中で、彼女を囲む三人は、場違いなほど典雅だった。着ているものは素朴で派手な装飾品などないのに、どんな玉も黄金も色褪せるように思われる。
レイは、
「あの……ここは? 私は、いったい」
彼女と視線を合わせた雉は、悲し気に見返すだけだった。隼は背を向けている。
ルツが静かに答えた。
「ここは、〈
「〈
ぼんやりと復唱する。ルツは彼女に横顔を向け、溜息をついた。
すぐには事情の分からないレイだったが、《星の子》の言葉を脳内で反芻するうちに、思考が動き始めた。
「助かったんですか? 私。〈黒の山〉に、どうして……。!」
レイは言葉を途中で切り、両手で口を覆った。
「シジン……!」
「シジン?」
雉が反応した。隼も、顔だけで振り返る。
レイは、背筋が凍るような焦燥を感じて、三人を見上げた。
「シジン! ナアヤはどこにいます? 助かったのは、私だけなんですか? 他の者は、どうなりました?」
三人は、そろって訝しげに彼女を見返した。
レイは、膝に掛けられていた毛布を跳ねのけた。
「大変!」
「どうするつもりなんだい?」
「助けないと。殺されてしまうわ。探さないと――」
「探すって……タァハル族のところへ?」
柔和な雉の声は、こんな場合でなければ心地よく聞けただろう。レイは、彼等が奇妙な目つきでこちらを見ていることに気づいた。奇妙な――
《星の子》が諭した。
「ここからニーナイ国の首都まで、千四百キリア(約千二百キロメートル)はあるわ。それに、あなた達がタァハル族に襲われたのは、もう二年も前なのよ」
「……二年?」
レイは耳を疑った。《星の子》は、冷静に頷いた。
「記憶を失ったあなたは、ニーナイ国で助けられた。それから、別人として暮らしていたの。あなたは、その間のことを忘れてしまっているのよ」
「……何ですか? それ」
「自分の服装を御覧なさい」
レイには理解出来なかった。考えようとすると、混乱が増した。
高名な〈
「信じられないのも無理はないけれど、私の話は事実よ。麓の村人達も、みんな、あなたを知っているわ。――あなたの記憶にはない、あなたをね」
「…………」
「二年間、あなたがどんな風に生きてきたのかは、この二人に訊きなさい。あなたが失ったもの、知らなければならないことは、彼等が教えてくれるわ」
《星の子》は立ち、夏の銀河のように輝く黒髪を揺らして、踵を返した。部屋を出る。
雉がルツを送り出している間、隼はレイの傍らに立っていた。困惑するレイと、隼の眸が出会った。
少年のような人だと、レイは思った。毅然とした凛々しい顔立ちは、華奢な男性だと言われても信じたかもしれない。
隼は、藍色の影を宿した眼を細め、苦しげに彼女を観た。冗談ごとではないその顔色に、レイは口を閉じた。
「鷹……。本当に、忘れてしまったのか?」
今にも泣き出しそうに、隼の瞳は揺れていた。
寒々とした感慨が胸に流れこみ、レイは絶句した。――ほんとうのことなのだ。私だけ、助けられた。シジンと離れ離れになってしまった。ナアヤと……。
『二年前に?』
「隼。今は、そっとしておいてあげた方が――」
雉が戻ってきて、隼に話し掛ける。レイの脳裡は真っ白だった。身体が震え始める。
雉は、早口に囁いた。
「鷹ちゃん?」
「いや……シジン。助けて……!」
己の肩を抱いても、震えは止まらなかった。レイのなかに恐怖が甦り、悲鳴が口を突いて出た。まだ、きちんと現実に戻っていなかったのだ。
雉は、彼女の顔を覗き込んだ。
「鷹ちゃん」
「ナアヤ! いや……シジン。誰か、助けて……!」
「鷹!」
隼も声をあげる。雉に腕をつかまれ、レイは、びくりと肩を揺らした。
「鷹ちゃん。落ち着いて」
「いやあっ! シジン! 助けて!」
「落ち着いてくれ、頼むから。きみを、助けたいんだ!」
振り上げようとするレイの腕をおさえて、雉は、するどく叫び返した。隼が、驚きに眼をみひらく。
台詞の内容を理解したレイの震えが、ぴたりと収まった。
雉は声を抑え、切々と訴えた。
「たすけたいんだよ、君を。おれも、隼も、ルツも……。きちんと話してくれ。君だって、知りたいことがあるんだろう?」
「わ、私は――」
「雉」
隼が咎めるように呟いたが、この時は、彼の言葉が効を奏した。レイは、どうにか己を取り戻した。
「――私は、レイ、と言います。レイ=ムティワナ」
「ミナスティア国の、王女様だね?」
レイが頷くと、雉は、ようやく掴んでいた腕を放した。彼女の腕に指の跡が残ったので、雉は、申し訳なさそうに眉根を寄せた。
「おれ達も、自己紹介しよう。おれは雉、こいつは、隼。《鷹ちゃん》の仲間だよ」
「仲間?」
「君の仲間は? シジンって、誰だい?」
「シジンは――」
レイは口ごもった。彼のことを表現する適切な言葉を、咄嗟に思いつけなかった。
「――シジンは、ミナスティアの王家に仕える神官で、私の幼馴染です。ナアヤは騎士で、シジンの親友」
「その人達と一緒に、ミナスティア国を出たんだね?」
レイは、ぎこちなく頷いた。
雉は、隼と顔を見合わせた。隼は、薄桃色の唇を苦々しくゆがめ、首を振った。仕草に合わせて、珍しい白銀の髪が、肩から胸に滑り落ちる。
レイは、まだ警戒していた。
「貴方がたは、何者ですか?」
「それは……おれ達の方が、知りたいことなんだけどね」
隼は、硬い表情で黙り込んでいる。
雉は曖昧に微笑むと、額にかかる銀髪を掻き上げた。――夢のように美しい人達だと、レイは思った。ここが〈黒の山〉でなく、彼等の話が嘘だとしても。彼等が天上の人間だということは、信じられる気がした。
「《古老》というそうだよ、ルツの話では……。でも、君と同じ人間だ。傷つきもすれば、血も流す。死ぬこともあるし……子どもも作る」
隼が、顔を背けた。雉は、淋しげに続けた。
「絶対に、君に危害を加えないと誓う。信じて貰うしかないけれど……。君達が、逃げたことは知っている。その後のことを、覚えていないかい?」
「その、後――」
「ああ、タァハル族のことは、言わなくていい」
レイは、少しドキリとした。雉は彼女から視線を逸らし、優雅な横顔を向け、さりげなく言ったのだが。
強く眉根を寄せた彼の瞳に、一瞬、険悪な光が過ぎった。繊細な顔立ちに似合わない殺気のこもった沈黙に、レイは呼吸を止めた。
雉はすぐにレイに向き直った。けぶるような微笑を観た時、レイは、彼は全てを知っていると思った。
「奴等から、逃げた後。何があったか覚えていないかい?」
「…………」
「ニーナイ国で、オダに助けられたことは? ……おれ達のことも?」
レイは、首を横に振り続けた。
――自分がいつ救けられたのか。どうやってあの状況から逃げたのか、想像できない。シジンとナアヤは、どうなったのだろう?
記憶に断層があると気づき、レイはぞっとした。恐怖が、再び冷たい手で肩を掴む。しかし、今度は、自分を失わずに済んだ。
隼が、溜め息をついた。レイと目を合わせないようにして、唇を噛む。しばらく黙った後、突然、身を翻し、部屋から出て行った。
雉は、彼女を止めなかった。木製の扉が軋みながら閉じるのを眺めた後で、レイに向き直った。
「……気にしないでくれ」
沈んだ口調で言う。女性のように長い睫を伏せて、雉は囁いた。
「君が自分を取り戻したのと同時に、おれ達は、仲間をひとり失った。隼は、辛いんだ」
そう言って、白い瞼を閉じる。吐息を含む彼の声は、かすかに震えていた。レイには理解できない事情だが、彼の悲しみは感じとれた。
レイは、こわごわと訊き返した。
「先刻、《星の子》は、二年前と仰いましたね?」
雉は眼を開け、真っすぐ彼女を見た。瞳は第一印象よりも大きく、陽光に透ける春の若葉のような色だと、レイは思った。
「別人として暮らしていた、って……。どういう意味ですか?」
「知らずに居た方が、君の為かもしれない――」
雉は、いったん口を閉じた。眼を眇め、探るように彼女を見る。しばらく考え、嘆息をついた。
「――いや、話すべきだろう。これは君の問題だ……。だけど、おれは心配だよ。君の負担にならなければいいけど」
「有難うございます」
初対面の人に、ここまで心配されて――彼にとっては、そうではないのだが。レイは恐縮した。
「大丈夫です……。知らなければならないことなら、教えて下さい。今日聴くのも、明日知らされるのも、多分、同じです」
雉は、うたがわしげだった。レイが怯まずに彼を見返すと、横顔を向けた。
「……君にとっては、とんでもない話だと思うんだ。信じられないかもしれないけれど――おれは、本当のことを言うと誓うよ」
彼女の表情をちらりと確認して、彼は続けた。
「だから、君も、おれの言うことを信じて欲しい……。判らないことがあったら訊いてくれ。出来る限り、説明するから」
レイは頷いた。それから、声に出して言った。
「貴方を信じます。おしえて下さい」
雉は彼女に向き直り、ゆっくり話し始めた。
**
日が暮れようとしている。
戸外へ通じる台所の入り口で、柱に寄りかかり、隼は、ぼんやり空を眺めていた。万年雪をいただく山々の頂上より、さらに高く……天は、淡い紫色に染まっていた。
その光を反射して、山々も、桃色に輝いている。
鷹に出会ったのも、こんな風に良く晴れた夏の夕暮れだった。あそこは、ここよりもっと騒々しく活気に満ちていて、埃っぽかった。ここほど涼しくはなく、太陽は容赦なく照りつけていた。
隼は柱に頭を預け、心のなかで呼びかけた。
『鷹。お前、何処に居る?』
判っている……彼女は此処に居るのだと。そう信じる気持ちはあった。しかし――《鷹》は、何処に居る?
『判らない。あたしが莫迦なのか? あたしだけ、混乱しているのか? 鷲、トグル。どうすればいいんだ……』
人の気配に気づいた隼は、首をめぐらせた。部屋のなかで所在なさげに立ち尽くしている雉を見つけ、無言で外に向き直った。眼を閉じ、嘆息する。
雉は、彼女に話しかける言葉がみつからなかった。
「お前の言う通りだな、雉」
隼の方から、声をかけた。疲れきった口調に、雉は眉を曇らせた。
「あたしですら、こうなんだ。鷲はどんなにかと思うよ」
「隼……」
「鷹は、どうしている?」
「落ち着いているよ、今は。さすがに驚いていたけどね」
「話したのか」
隼は、胸の前で腕を組み、左脚に重心をかけて雉を顧みた。冷たく輝く紺碧の瞳に、雉は頷いた。
「おれ達のことは、全部。子どものことがあるからね……。きちんと聴いてくれたよ。多分もう、大丈夫だ」
隼は項垂れた。
「ごめん、雉。お前に任せきりにしちまって」
「いいよ、無理もない。お前は、しばらく休んでいろ」
そう言って苦笑する彼の面に疲労をみつけ、隼は眉根を寄せた。
雉は、力なく微笑んだ。
「驚いているんだよ、おれは……。いろいろあったし、結構、長い間一緒に居たつもりだったけど。実は、鷹ちゃんと知り合って、まだ一年ちょっとしか経っていないんだ」
「しかも、この一年、あたしは殆ど離れていた」
隼が、掠れた声で呟く。雉は、優しい苦笑を浮かべた。
「口にしてみると、本当に、あっと言う間だった。それなのに、居なくなると途端におれ達がバラバラになってしまう程、大きな存在だったんだ」
「…………」
「大丈夫。きっと思い出してくれるよ」
瞼を伏せる隼に、雉は囁いた。励ますような口調に、隼は視線を上げた。
「鷹ちゃんは、あんなに鷲のことが好きだったんだ。おれ達のことは駄目でも、
「――だと、いいんだけど」
『しかし。《
結局、自分達に出来るのは、待つことだけなのだ。
「……鷲に、鷹を返してやりたいよ」
隼の囁きを、雉は聴いた。泣いているような声で、彼女は繰り返した。
「今はただ、あいつに鷹を返してやりたい」
「……ああ。俺も、そう思うよ」
殆ど息だけで、雉も答えた。そうして、二人は、しばらく無言で佇んでいた。
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