第三章 降臨(2)


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 居間の卓子テーブルに頬杖を突いて、もう半刻(約一時間)、隼は動けなくなっていた。眼を閉じて眠っているのかと思えば、時折うすく瞼を開け、天板を眺めている。

 雉は彼女を心配していたが、隼は周囲に気をまわせる状態ではなかった。


「鳩も、いなくなっているわ」


 神殿と麓の村をひととおり探したマナが、戻って来てルツに報告した。《星の子》は、長杖を片手に頷いた。

 雉は、溜め息を呑む隼を横目に見ながら、口を開いた。


「ありがとう、マナ。鳩のことだ、多分、鷲を追って行ったんだろう。あいつが一緒なら、大丈夫だ」

「そうね。私も、そう思うわ」

「ルツ」


 同意するルツの言葉に、隼の声が重なった。彼女の双眸には、険しい意志のほのおがちらついていた。


「ルツ、雉も。鷲がどこに居るか、判らないか?」


 二人は顔を見合わせた。雉が答える。


「判るけど……どうするんだ?」

「連れ戻す」


 宣言して、隼は立った。天板を睨んでいる。

 雉とルツは、もう一度、顔を見合わせた。


「あたしが追いかけて、連れ戻すよ。悪いが、調べてくれないか」

「ちょっと待てよ」


 ルツとマナは黙っていたが、雉は宥めた。隼が振り返る。紺碧の瞳は澄み、眼差しは射るように鋭かった。


「待てよ、隼。もう少し、様子をみないか」

「何故?」

「何故って……。鷲にも考えがあるだろうし」

「どんな」


 間髪を置かず、訊き返す。彼女の口調の硬さに気づいて、雉は眼を細めた。


「どんな考えがあると言うんだ、雉。――どこをどう考えたら、鷹を置いて行けるんだ。あの状態の、鷹を」

「…………」

「あたしには、判らない。混乱して、訳が判らなくなっているんじゃないか。連れ戻さないと。鷹が気づく前に」


 言葉をなくした雉の代わりに、ルツが声をかけた。


「お待ちなさい、隼」


 涼やかな声に、隼は、彼女を振り返った。


「ルツ」

「隼。あなたがそう思うのは、無理もないけれど。私には、ロウ(鷲の本名)が我を忘れるとは思えない。鳩を連れて行ったのも、彼なりに脈があるということでしょう。今は、そっとしておいてあげた方がいいのではないかしら」


 隼は、溜息をついた。倒れ込むように椅子に座りなおす彼女を、ルツは、悲し気に見詰めた。


「……あたしだって、鷲が感情的になるなんて思えない。だから、余計に判らないんだ。――何を考えている? どうして、鷹の側に居てやらないんだ。それが、あいつの意志なのか? だとしたら、許せないよ、あたしは」


 隼の唇に血がにじんだので、雉は息を呑んだ。嘆きと苛立ちが混合した声で、彼女は呻いた。


「許せない……。鷲が、今の鷹の状態を考えて、それでも置いて行くと言うのなら。冷静に、そう決めたのなら。あたしは、あいつを許せないよ」


 ルツと隼、双方の意見をしばらく考えてから、雉は話しかけた。

「隼」

 隼は項垂れている。雉は、構わず続けた。


「お前はそうだろうが……。鷲の考えは、おれ達とは違うかもしれないだろ」


 隼が、雉を観る。魂を吸い込む深い湖の瞳を、雉は、怯むことなく見返した。


「こうなった以上、おれ達は、考えを変えなきゃいけないんじゃないか。ルツも言ったろう。――鷹ちゃんは、今までの自分を忘れている。今のあのが、彼女にとっては本当の自分なんだ」

「本当の自分?」


 隼の声音は、砕けそうに硬かった。蒼ざめてなお美しいかんばせを、雉は、痛ましく眺めた。


「じゃあ、何か? 《鷹》は、消える為に生まれて来たのかよ。本当の《あいつ》が現実から逃避する為にだけ生まれて、立ち直ったら用無しなのかよ。雉、ルツ、そう言いたいのか?」

「…………」

「それを、あたしに納得しろと言うのか。鷲が……納得していると? なら、《鷹》はどうなるんだ? あいつの鷲への想いは。あいつらの子どもは?」

「…………」

「あたし達が《あいつ》を支えてやらずに、誰が《鷹》を支えるんだ。鷲が支えなくて、誰が……。《鷹》は、誰かの身代わりなんかじゃない。ひとりの人間だ。記憶をなくそうがどうしようが、《あいつ》は《あいつ》だ」


 ルツは無言で立ち、マナを促して、そっと部屋を出て行った。


 自分自身に言い聞かせるように訴える隼に、雉は、返す言葉がなかった。――隼の気持ちは、理解出来た。《鷹》の記憶を垣間みた雉も、彼女への同情に胸を締めつけられる心地がした。

 しかし――。

 雉は、鷲のことを考えた。『あの記憶』を、鷲もているのだ。その衝撃は、自分如きが想像できる程度ではないだろう。

 まして今、鷲は《鷹》に逢えないのだ。相棒がいかに頑強な精神力を持つとはいえ、男として彼の気持ちを考えると、雉は、胸腔を内側から焼かれる心地がした。

 脳裏に、壁に描かれた乱暴な文字が甦る。『雉。鷹を、頼む』と――低い声も聞えた気がして、雉は眼を閉じた。


「おれは、別の考え方をするよ」


 眼を開けて、雉は囁いた。鷲と同じ明るい若葉色の瞳は、その時も曇りはなかった。


「隼。本当にどんな状態でも、鷹ちゃんは、《鷹ちゃん》だと言えるのか? 鷲にとっては、違うんじゃないか?」

「雉……」

「おれ達以上に、鷲はあの娘のことを考えていると、おれは思う。それでも、実際、《鷹ちゃん》はここに居ないんだ。鷲に、あの娘の傍に居てずっと支えていろと言うのは、酷なんじゃないか?」

「よくも、そんなことが言えるな」


 冷たい声に、雉はギクリとした。こちらを見据える隼の目に、蒼い炎のようないかりをみつけ、息を呑んだ。


「《鷹》って何なんだよ、鷲にとって。お前にとって、あいつは何だったんだ? 記憶をなくしたら、他人なのか。鳩の言葉を逆にしただけじゃないか、それじゃあ」

「…………」

あいつは、だろうが。それなのに、どうしてそんなことが言えるんだ。こうなったのがあたしでも、お前はそうなのか?」


 一瞬、雉の顔色が変わったので、隼は口を閉じた。


「ごめん……」


 隼は溜め息をつき、片手で顔を覆った。伏せた睫が、かすかに震えている。項垂れて銀の髪を掻き上げる仕草を、雉は眺めたが、いかりより物哀しさを覚えた。


「悪かった。こんなことを、言うつもりじゃあなかった」

「いや、いいよ」

「許してくれ。混乱している……。自分が何を言っているのか、判らなくなっているんだ」


 途方に暮れる隼は少女のようで、雉は、感慨ぶかかった。彼女がトグリーニ族に囚われていた間の、己の言動を思い出す。――これほど取り乱した彼女を、見たことがないように思う。《鷹》を失ったせいか、鷲が居なくなったせいなのか。それとも、

『トグルが、帰ったからか……?』


 草原の男に出会って彼女が変わったと、雉は感じた。否……隼は、そういう女だ。

 気が強く、照れ屋で、想いを上手く表せない。一見冷淡なそぶりの奥に、実は、激しい感情を隠している。不器用で純真な素顔に気づいていても、雉には、それを引き出せなかった。

 彼女を慕い、気遣っても、重荷にしかならなかったことが、雉は切なかった。そんなことを考えている場合ではないと、承知していたが。

 雉は、内心で自嘲した。


「気にするな。おれも、言い方が悪かったよ」


 隼は項垂れ、首を横に振った。そうではないと、彼女は知っていた。しかし、どうしても、荒れる感情を抑えられない。

 隼は、血のにじむ唇を、さらに噛んだ。――鷲を当てにしていた。信頼する以上に当てにしていたと、己を責めた。『莫迦だ、あたしは』

 鷲を、鷹を思い、感情的になっている。挙句、雉にあたるとは。

『鷲、たすけてくれ。鷹に、どうしてやればいいんだ。トグル、教えてくれ……』


「隼」

 雉の声は相変わらず優しくて、隼は、消え入りたくなった。顔を上げられない。


「落ち着こう、隼。おれ達が取り乱しても、いいことなんて、何もない。お前がそんな風に落ち込むことを、誰よりも、鷹ちゃんは喜ばないと思う」

「…………」

「喜ばないよ、鷲は、絶対……。あいつが、おれ達を信じて、あの娘を預けて行ったんだ。おれ達も、あいつを信じて待ってみないか?」


 隼が、視線を上げる。取り乱してなお澄んだ瞳を見られなくて、雉は顔を背けた。頬を掻く。

 曖昧に苦笑する彼を、隼は、半ば茫然と見た。


「雉……」

「お前は鷲と考え方が似ているから、あいつの考えが判らないと、不安になるんだろうが――」


 雉は、柔らかな自分の銀髪を指先で弄び、口ごもった。


「――おれは、もともと、鷲が何を考えているか判らないから。どういうつもりで出て行ったかなんて想像つかないし、想像しないよ。あいつも、おれに、そんなことを期待していないと思う。……ただ、鷲は、言いたいことがあれば言う奴だ」

「…………」

「言わなかったってことは、言いたくないんだろう。言わずにおれ達を信じてくれたのなら、おれは、その期待に応えようと思う……。隼。鷹ちゃんの為を思うのなら、協力してくれないか?」


 少なからず毒気を抜かれて、隼は、雉を見た。それから、深い息を吐く。首筋に片掌を当てて考える彼女の瞳は、翳っていた。そこに冴えた輝きが戻って来る。


「そうだな。その方が、マシだ……」


 隼は、ぎこちなく苦笑した。透き通るような頬を、雉は見ていた。日差しに透けて、透けて、今にも消えてしまいそうだ。鷲と同等かそれ以上に彼女が傷ついていることを、雉は理解した。

 隼は、《鷹》を失っただけでなく、鷲にも去られてしまったのだ。そして今、トグルは居ない……。



 雉は、自分では彼女の役に立てないと感じた。

 不遜で自信に満ち溢れた、相棒の顔を想い出す。ルドガー(暴風神)のような容貌すがたを――『お前は、俺の仲間だ。連れて行く』 張りのある声とともに。


『お前まだ、もずを死なせたことを気にしてんのか? とびのことを。張っ倒すぞ』

 ひとみしりする雉の地を引き出して、子どものように笑う。時に、年下の雉やオダより無邪気で、生気に溢れた相棒を見上げる度に、雉は、敵わないなと思った。

 何年、何十年経とうと、おれは、こいつに敵わない。どうして、そんなに自信を持っていられるんだ?

 しかし、鷲の自信も冗談も、彼が己を知る上であることを、雉は承知していた。聡明で、いつもどこか冷めた目を、己の裡に持っているのだ。あの男は。

 隼の己に対する厳しさは、鷲の影響かもしれないと思っていた。

『阿呆。欠けてんだよ、俺は。本来あるべきものが欠けているんだ。そんなものを、羨ましがるな。――鵙は、ちゃんと気づいていたぞ』

 彼の台詞を思い出して、雉は首を傾げた。何故、あんなことを言ったのだろう?

 その時は、意味が判らなかった。今、ぼんやり理解する。隼の混乱を観て。

 鷲……何を、怯えていた?

『俺は、鷹が怕ろしい。何故、あんなふうに、人を好きになれるんだ?』

『莫迦だな、俺は。これから、一生、あいつを恐れなければならない。そんな女に惚れるなんて』

 ぞっとして、雉は眼をみひらいた。相棒の苦い声を、思い出したのだ。――そうか。

 知っていた、鷲は。この日が来ると、予想していたんだ……。


『莫迦野郎! イキがってんじゃねえよ。俺がお前を殴らないのは、そんな資格がないからだ』

『雉。お前に、そんなことは出来ない。信じているんじゃなくて、俺は、お前を知っている』

『俺は知らん。今夜だけ、見て見ぬふり、してやる』

 雉は天を仰いだ。――鷲。あの時、おれがどんなに嬉しかったか。お前は知らないだろうな。

 ずっと、怕れていた。お前に見捨てられることは、おれ自身を失うことに等しかった。それなのに、おれが見失っていた自分を、お前は見つけてくれた。だから、今、おれと隼が居る。

 鷲。必ず帰って来い。尻尾を巻いて逃げ出すなんて、らしくない。一度や二度傷ついて立てなくなる程、お前はヤワではないはずだ。

 ――もっとも。おれが信じようと信じまいと、お前は勝手に生きるんだろうな……。



「雉?」


 雉の表情の変化に気づいて、隼が声をかけてきた。雉はかぶりを振った。

 誰にも言うようなことではない。無論、鷲にも――言えば、怪訝な顔をされるのが落ちだろう。声まで聞えてくる。――『熱でもあんのか?』

『なに、青臭いこと言ってんだよ。だから、お前はガキだと言うんだ』


『駄目だなあ、雉は。これだから』

 ――判ってるよ、オヤジ野郎。少し、その減らず口を閉じやがれ。

『へいへい』

 空想の鷲が片目を閉じ、ひょいと肩をすくめた気がした。相棒を熟知する彼は、安堵した。

 鷲は、大丈夫だ。間違いない。


「わるい、隼。考え事をしていたんだ」


 不安げな隼に、雉は微笑み返した。隼に彼の笑顔の意味は判らなかったが、こだわる気にもなれなかったので、視線を外した。

 柱をかるく叩く音がして、扉が開いた。


「隼、雉。ナンを焼いたわ。食事にしない?」


 マナが、長い黒髪を後頭に結い上げた姿を現し、声をかけた。二人は顔を見合わせた。昨夜から一睡もしていないばかりか、昼をとうに過ぎた今まで、何も口にしていないと思い出したのだ。口の中が乾いている。

 雉は、片手を腹にあて、片目を閉じた。


「忘れてたな」

「鷹もだ……」


 隼が、顔色を変えて立ち上がる。マナは、労わるように言った。


「ルツがついているから、大丈夫。今はまだ、ものが食べられる状態ではないわよ。お座りなさい、隼」

「…………」

「休みなさい。そんなに張り詰めていては、参ってしまうわ。貴女に倒れられては困るのだから。これは、ルツと私からの忠告よ」

「隼」


 雉にも声をかけられ、隼は、放心したように、すとん、と椅子に腰を下ろした。

 雉は、マナに視線を戻した。


「鷹ちゃんの様子は?」

「時間がかかりそうよ」


 マナは、眉を曇らせた。


「私には、よく判らないけれど。ルツは、そう言っている。今、彼女の意識を支えているわ」

「ルツが……」


 雉は、隼と顔を見合わせた。《星の子》が能力をつかってくれていることを知り、隼の眼差しがやや穏やかになった。

 雉は、自分の前髪を掻き上げた。


「ルツに伝えてくれ。疲れたら、おれが代わるから、無理をしないように。……おれ達は食事にしよう、隼」


 まだ当惑から抜け出せずにいる隼に、雉は哂いかけた。


「今は、それが、お前の仕事だよ」




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