第二章 黒い瞳(6)


            6


 鷲にとっても隼にとっても、この夜は、本当に長かった。実は三日くらいの間に起きた事ではないかと、後で思えた。

 夜中は過ぎ、一日のうちで最も冷えこむ時間帯にさしかかっていた。


『独りにさせてくれ』 と言って居間を出たものの、すぐに、鷲は後悔した。

 この家で自分の居場所といえば寝室だが、そこには、あの鷹が居る……。雉の部屋に転がり込むのは、気が引けた。

 酔って悪い夢をみているような気分だった。眠ればそれが消える気がした。全てが夢だと、思いたかった。

 しかし、鷲は現実的な男だった。常に状況を考え、採るべき行動を探そうとする。そんな己の性分にうんざりして、溜め息をついた。

 ――自分の心が危機に瀕していることを、彼は理解していた。どこかで、思考を中断させなければならない。そうしなければ、後で最も後悔するような言動を、混乱した頭が選んでしまうとも限らない。

 そこで、彼は考えることを止めた。頭で決めるのではなく、思いに任せることにした。その方が他人を傷つけないと、彼は経験で知っていた。

 鷹や仲間を傷つけることは、彼の本意ではなかった。


 鷲は、結局、寝室に向かった。戻りたいと思える場所は、そこしかなかったのだ。

 扉の前で立ち止まり、暫しそれを見詰める。木製の頑丈な扉をそっと開くと、一つだけ点された獣脂の灯火が、やわらかな光の手を足元に伸ばしてきた。寝台脇の小卓を中心に、輪郭のにじんだ光の輪を、周囲に投げ掛けている。

 その影にしずんだ寝台の上。閉じた窓の前に人影を見つけて、鷲は、片方の眉を持ち上げた。


「鷹。気づいたのか?」


 音を立てないよう後手に扉を閉め、小声で呼びかける。気を失っているとばかり思っていた鷹が、座っていた。

 返事はない。

 鷲は、おそる怕る彼女の顔を覗き込んだ。


「鷹?」


 蒼ざめた彼女の顔は、灯火の明かりに幽かに浮かびあがり、長い黒髪が、頬にほつれかかっていた。眼は半ば開かれていたが、瞳は闇に沈んでいる。彼の声が聞えている風はなかった。

 鷲は嘆息した……やはりという思いと、夢ではなかった落胆に。椅子を持ってきて、寝台の傍らに坐った。

 自分がどう感じているのか、鷲には判らなかった。哀しいのか、腹立たしいのか。口惜しいのか、怒っているのか。

 動かない彼女の顔を観ていると、ふいに、その声が聞えた。


『鷲さん』


 ――甘く、鼻にかかった声。はにかんで笑う、やわらかな微笑が……鮮やかに脳裏に浮かび、鷲は、苦虫を噛み潰した。舌打ちし、顔を背ける。

『参ったな。勘弁してくれよ……』 口の中で呟き、改めて鷹を観た。

 表情のない小さな顔を見詰めていると、胸の底が冷えた。痛ましさに眉をひそめ、鷲は、彼女の頬にかかる髪を掻き上げた。指先が彼女の肌に触れないよう、気をつけながら。

 先刻の、恐怖に引き攣った鷹の顔を思い出し、鳩の、悲鳴にも似た声を思い出した。うちひしがれた隼の、細い肩を。雉とルツの、動揺を隠せない声を。

『鷹』――声を出さず、呼びかける。


『なあ。俺、変だ……混乱している。体の力が抜けて、頭がぼーっとしている。もし、俺がお前だったら、お前もこうだったか? 鷹。……きっと、違うだろうなあ』


 鷲は、そっと鷹の頭を撫でた。触れるか、触れないかに。彼女の様子が変わらないのを確認し、掌を使って髪を撫でつける。

 鷹が鷲の立場なら、取り乱して泣き叫ぶさまが、目に浮かぶようだった。鷲の知る彼女は、そういう女性だった。決して、隼のように黙って耐えられるとは思えない。それが不安でもあり、怕ろしくもあった。

 しかし、今は、彼の方がそうなのだ。

 鷲は、心の中で呼びかけた。ここに居る彼女は、抜け殻なのだと思いながら。

『俺に、どうして欲しい。鷹』


『お願いだから。黙って、少し、じっとしててよ』


 拗ねた彼女の声が聞こえ、鷲は眼をみひらいた。ぷくっと頬を膨らませるさまが思い浮かび、苦笑する。

 表情の豊かな彼に、鷹は、時々そう要求した。


『そうしたら、鷲さん、格好いいんだから。せっかく見蕩れていたのに、台無しになっちゃったじゃない』

『はあ?』

『鷹ちゃん。そういうことを、こいつに要求しても無駄だよ』


 雉が、くすくす笑って言う。独り身の雉にしてみれば、鷲と鷹があまりに仲が良い光景は、見ていられないのではと思えたが。存外に彼は面白がっていた。


『だって』

『こいつに甘い台詞とか、雰囲気とかを求めるのは、無理があるって。歯が浮くのを通り越して、吹き出しちまうんだから』

『でも……鷲さん、本当に格好いいのに。すぐ、表情で崩してしまうんだもの。悔しいったら』

『そお? 俺、格好いい?』

『……だから、褒めちゃ駄目だって、鷹ちゃん。天より高くつけ上がるんだから、こいつは』


 ふざける鷲に、うんざりした雉の声。不満そうに鷲を睨みつけた鷹だったが、結局、彼の面相に吹き出してしまう。

 本気でつけ上がるわけではないが、彼女のひとことひとことが己の自信に繋がっていることを、鷲は、充分承知していた。


『わたしも、鷲さんを知らないわ。それでも、好きだとは言えるわ』

 何故、そんな風に言えるのだろう。真っすぐな瞳で。

 鷲は、当初、戸惑わずにいられなかった。おそろしくさえ感じた。彼女の気持ちを大切にしたいと思う一方で。

 たとえば。自分がどんなことをしても、彼女はそれを認め、許してしまうだろうと思える。――そうしてくれる存在を、心のどこかでずっと求めていたとしても。いざ目の前にすると怯んだ。

 否。それは、鷹だったから、かもしれない。


『俺は、こわいんだ。同じ過ちを繰り返しそうで』

『お前はさ。いじらしくて、可愛いらし過ぎるんだ。ほんと、俺には勿体ない……』

 再び失うことが、恐ろしい。とびのように。

 そんな不安を、拭い去れなかった。それは、鳶に対する罪悪感をふっきった後も――彼女を腕に抱き、己のものにしてからさえ、ときにおそろしい予感として、彼の心を支配した。


『そうだ。俺は、最初から――』

 鷲は、苦虫を噛み潰した。今更そんなことを言って、何になる。


 黒髪、黒い瞳の娘。鳶に似た……。雉や隼に言われるまでもなく、出会った時から、鷲は彼女を気に入っていた。しかし、彼女の、童女のごとき頼りなさが、どうしても気になったのだ。

『お前が本当に好きなのは、俺でなく。俺と居る時の、お前自身の方ではないのか……?』

 鷹を相手にしていると、そんな思いが湧き起こることもあった。決して口にはしなかったが。

 鷲は、奥歯を噛み締めた。涼やかなルツの声が、蘇る。


『その答えは、あなたが、一番良く知っているのではないかしら』


 ――判っていた、俺は。いつの日か、鷹が、全ての記憶を取り戻し、俺の前から消えてしまうことを。本来の自分に戻り、去って行くことを。

 それが鷹自身の為だと承知していて、認めたくなかっただけだ……。


 鷲は、深く、ふかく項垂れた。懺悔するように。長髪が肩をすべり落ち、顔にかかる。

 後悔はしていない。自分が傷付くことをおそれていては、他人を愛することなど出来ない。失うことを、怕れていては。

 だけど、今、俺はどうすればいい。お前の為に、何をしてやればいいんだ?


『わたし、鷲さんを好きでいても、いいよね?』

『鷲さんにも、わたしを知って欲しい。好きになってもらえるように、頑張るから』


『人の気も知らないで。そんな、嬉しそうな顔をするなよ。俺の言っていることが、判っているのか? 俺は――』

 小さな手で自分の顔をひと撫でして、てへへへと笑う、鷹。無邪気な微笑を見ると、鷲はその度に、どっと疲れた。

『頼むから、もう少し大人になってくれ。なんか俺、純真な少女をたぶらかしてる、変態オヤジになった気がする』

 鷹の、顔全体に幸福を描いたような微笑。そして、澄んだ瞳――迷いなく彼を見詰める黒い瞳に出会うと、鷲は、切なくもどかしく、じっとしていられない気持ちになった。

 照れて、照れて、どうしていいか判らなくなる。二人きりの時でさえ、穴があったら入りたい、無ければ掘ってでも入りたくなり、茶化してしまう。

 鷲は、苦い想いで鷹をみた。虚ろな黒い瞳を。微動だにしない、人形のような風貌かおを。


「今度は、俺の番だよな。鷹」


 彼女の優しい声が答えた。『鷲さん』と。子守唄のように繰り返す。

『大好きよ……』

『知ってるよ、莫迦』――だからもう、言わなくていい。


 鷲は手を伸ばし、鷹の頬に触れた。髪を撫で、そっと抱き寄せる。広げた腕の中に、彼女をすっぽり包み込んだ。

 彼女の肩ごしに殺風景な壁を見据え、鷲は、しばらくそうしていた。彫像のように身動きせず……やがて、眼を閉じる。


 夜明け前、鷲はひとり、部屋を出た。透明な若葉色の瞳には、静かな決意が宿っていた。



               *



 空が白み始めていた。

 夜空に浮かぶ白い蓮華は、もはや花びらではなく、山々の峻厳な頂きを飾る王冠になっていた。

 見るものを拒む冷たい女神の横顔を、雉は、観賞している余裕はなかった。


「ミナスティア国の、王女……」


 隼の話を聴き終えて、愕然と呟く。彼の隣で、《星の子》も、神妙に考え込んでいた。


「マナにも話しておいた方が、良さそうね……」


 ルツは独りごちると、立ち上がり、居間を出て行った。確かに、そろそろマナが神殿へ登って来る頃だった。

 雉は、話の内容を噛み締めていたが、卓子テーブルに頬杖を突いた隼が小さく溜め息をついたので、声をかけた。


「……自分を責めるなよ、隼」


 隼は、かぶりを振る。その肩が折れそうに細いのを、雉は、痛々しく感じた。


「お前のせいじゃない。誰にも、どうしようもなかったんだ」

「ああ、判ってる」


 雉は、掠れた彼女の声に、どこか苛々した響きを聴き取った。

 隼の眉間には、深い苦悩が刻まれていた。


「何かが、違ったような気がするんだ……。どこかで、根本的に間違っていた気がして、考えているんだ」

「何だ? それは」


 雉が訊き返すと、隼は、彼に横顔を向け、右手の親指の爪を齧った。そのまましばらく躊躇っていたが、やがて、嘆息した。


「今更、仕方がないけれど……あたしは、鷹に言えなかったんだ。鷹を思い遣ったからじゃない。あたしが、辛かったからだ。それで、鷲に伝えた……。後悔しているわけじゃない。だけど――」


 隼は卓子テーブルを睨み、濁った声で囁いた。


「――あたしは、そもそも、口にするべきではなかったのかもしれない」


 雉は、溜息を呑んだ。


「隼」

「あたしは、楽になりたかったんだ。独りで背負うのが辛くて……鷲に、押しつけたんだ」


 隼は、うめくように言った。雉は、言葉を失った。『そこまで自分を追い込むのか、隼……』

 彼の表情を読んで、隼は、だるそうに片手を振った。


「あたしは、鷲にあの話をした時、ほっとしたんだ。あいつに、『俺もそうする』と言って貰えて。それが、許せない……。どうしても、自分が許せないんだ」


 隼は、再び項垂れた。彼女の白い項を、雉は、眼を細めて眺めた。

 普段は冷静で、素っ気ない物言いをする、隼。彼女がこれほど苦悩を吐露するのを、雉は、どう受け止めればよいか判らなかった。

 彼は、やんわり宥めた。


「疲れているんだよ、お前。だから、そんな余計なことを考えるんだ。仕方がないと判っているなら、もう、考えるのはよせ」


 額に片手を当てる、隼。紺碧の瞳は、今は暗くしずんでいる。

 彼女に届く言葉のないことを、雉はもどかしく思った。変えられない現実をそのまま受け入れることが出来ない、彼女の心の強靭さを、憐れに感じた。


「隼……お前、休んだらどうだ。鷹ちゃんには鷲がついているし、おれとルツも居る。少し寝た方がいい」

「…………」

「隼」

「ラーシャム(有難う)、雉」


 何度目かの呼びかけに、ようやく、隼は答えた。微かに苦笑する。


「そうさせてもらうよ。その前に、鷹の様子を見ておきたい」

「おれも行くよ」


 隼が立ち上がったので、雉も席をたった。

 閉じた窓の隙間から、白い朝日が射しこんでいる。隼のほっそりとした背が、その光にぼうと浮かびあがる。

 雉は、少し間を空けて、彼女について行った。


「鷲。鷹……」


 隼は、寝室の扉を、軽く叩いてから開けた。部屋に入り、小声で呼びかける。

 小卓には、燃え尽きた灯火の器が置かれていた。雉は、異変に気づかなかった。


「どうした、隼。鷹ちゃん……?」


 この部屋にも、窓の木戸の隙間から、光が入っていた。薄暗さに目が順れると、鷹が寝台に腰を下ろしているのが見えた。隼は、彼女の前に立ち、壁を見詰めていた。

 雉は、隼の硬直したかおに気づいた。


 灰色の壁に、割れ目のような黒い線が走っていた。それらが、木炭で乱暴に書き殴った文字だと判るまでに、数秒かかった。キイ帝国の文字だと判るまでに、さらに数秒。

 書かれた言葉の意味を理解するまで、雉は、立ち尽くした。

 彼には見慣れない文字で――力強い筆跡で、こう書かれていた。



 悪い 隼

 ちょいと 出かけてくる

 雉

   鷹を 頼む



 雉より先に内容を理解した隼が、するどく息を吸い込んだ。


「鷲!」





~第三章へ~

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