第二章 黒い瞳(3)


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 昼間の空は天界へ通じ、夜空は、宇宙へと通じる。果ての無い闇のむこうで、数千の星々が、澄んだ銀の光を放っていた。

 その下では、万年雪を抱いた峰々が、群青の闇に山体を沈めて、ひっそり息を殺していた。見渡す限りの地平に幾重にも重なり、麓の森と生命を守りながら。

 森には闇が淀み、そらの深さに通じるように、隼には思えた。そこにも星が瞬いている錯覚にとらわれる。

 底のない冷厳な星の海に、ぽっかり浮いた蓮華の花――山々は白い花びらで、自分は、その上に置かれた小さな雫のようだった。一歩間違えば滑り落ちて消えてしまう、束の間の露だ。

 草原とは別の意味で、ここもまた己の卑小さを痛感させられる所だな、と隼は思った。


 火の気のない寒々とした部屋の窓枠に腰掛けて、隼は、独り考え込んでいた。トグルのことを思うと、胸が軋んだ。

 今頃、彼は、どの辺りだろうか。巡礼者を脅かさないよう日没後に旅立った彼等が、寒空の下を歩き続けていると思うと、辛かった。ただ自分を連れてくるために、ここまで来てくれたのだ。

 トグルと出会ってから今までのことを、思い出す。彼の言葉の一つ一つを、その時の表情を、隼は、鮮明に想い浮かべることが出来た――



『こいつ本当に、〈黒の山カラ・ケルカン〉の天人テングリか?』

 いくさの最中に、タオが敵である彼女を庇ったことを、トグルは、どう思っただろう。さぞ困惑したのではなかろうか。隼を試そうとした理由も、今なら理解できる。

『手加減をすることと、勇敢な敵に敬意を払うことは、違う』

 トグルは、常に彼女を、対等な人間として扱ってくれた。身体的に彼女を傷つけてしまったことを、後悔しているようだった。


『お前、自意識過剰ではないのか?』

 隼にとって、トグルとの会話は、緊張をともなう心理的な闘いだった。

『お前の考えは、危険だ。それに、矛盾している。その理屈で言えば、俺もリー将軍も、この世には不要だ』

 こんな遣り取りに慣れていない彼女は、疲労を感じ、眩暈すら覚えた。


『骨を折ると、熱が出るものだ。もう一度、眠るといい。……悪い夢は、もう見ない』

 息をつかせてくれるのも、彼の言葉だった。

『お前の方が、感覚はまともだ。……偽善者ぶるのも結構だが、そんなことでは命を落すぞ』

 彼女を、社会には融けこめない、特異な――しかし、ただの人として認め、その存在と社会との接点を見出そうとしてくれた。ある意味、彼も特異な存在と言えるだろう。その聡明さと、背負ったものの巨きさにおいて。

 隼を理解し、彼女を通して鷲たちを理解し……その価値観を認め、それを愛して……。彼女の為に、最大限の努力をしてくれた。

 彼に返せるものがないことが、隼は哀しかった。


『俺が愚痴をこぼしていたと、タオには言わないでくれ。心配をさせたくない』

 族長の自分と、本当の自分。二つの顔を使いわけることに疲れた彼が、安心して本音を言える相手は、異邦人の隼しかいなかったのかもしれない。

『お前が好きだ、ハヤブサ。己の心からも自由であり続けようとする、お前が……』

 しかし、

『誤解されることには慣れているが……。待ってくれ。今のは、こたえた……』

 初めての夜――対等であるはずの彼女の、いわば弱みにつけ入る形になってしまったことを、トグルは気に病まずにいられなかったらしい。隼に誤解されて彼は傷ついたが、それ以上に、彼女を傷つけたのではないかとおそれていた。

 隼にとっては。あれはむしろ、雉のことで取り乱した自分を、鎮めてくれたのだと思うのだが……。

 以来、トグルは、彼女に触れていない。隼が側にいることを喜んではいるが、自ら触れようとはしなかった。



 ――キイ帝国との戦いを終え、冬営地オウルジョフに帰還すると、トグルは、さりげない口調で訊ねた。


「どうする? タオには、願ってもないだろうが」


 何のことかと問うと、彼は帽子を手に取り、前髪を掻き上げた。当惑している時の、彼の癖だ。


「……この冬を、俺のユルテ(移動式住居)で過ごすより、このままタオと一緒に居る方が良いのではないか、という話だ。お前は、ここの冬に慣れていない。俺は、相手をしていられない……。あいつと居れば、困ることはなかろう。タオも喜ぶ」


 隼は、じっとトグルを凝視みつめた。彼は、不器用な少年さながら眉間に皺を寄せた。


「お前には、時間が必要だと思う……。違うか?」


 生真面目で、いささか生真面目すぎるのではないかと思えるほど真面目なトグルは、相変わらず、真面目そのものの口調で提案したのだが……さすがに、彼女の目を観られなかった。

 隼は、溜め息を呑んだ。


「いいのか。あたしは、お前を利用しているだけかもしれないぞ」


 隼がこう言うと、トグルは、かすかに苦笑した。「しようのない奴だ」 と言うように。


「俺の方はそう思っていないのだから、良いのではないか。気は長い方だ……。いずれ、手に入れるつもりでいる」


 実際、トグルはあまりにも多忙で、彼女に構う暇はなく、その判断は正しかった。――遊牧民は、真冬でも放牧に行く。家畜のために狼を狩り、鷹狩りにでかける。さらに、族長の仕事は多く、トグルは夜眠るときくらいしか、自分のユルテに帰れなかった。

 〈草原の民〉の伝統から、女性が同伴できない活動もあり、タオがいてくれて良かったと、隼は痛感した。


「奴の許に、戻ってもいいのだぞ」

「どうして、そんなことを言うんだ?」


 寒気にも似た切なさに身体の芯を貫かれ、隼は、自分の肩を抱いた。

 トグルに惹かれていることを、否定するつもりはなかった。彼は、彼女には優しい……。だが、敵であった隼は、彼のおそろしさも知ってしまった。

『戦争をたのしんでいる』 などと雉は言ったが。トグルの行う駆け引きは、戦闘を回避し、味方と敵の犠牲を最小限に抑えるためだと、隼は理解していた。一方、ひとたび決断を下した後の、彼の揺るぎなさ、容赦のなさを、目の当たりにした。


 判ってしまった……二人は、生き方が違う。生きている世界が違う。隼が彼女自身であろうとし、トグルが己の責務を果たそうとすれば、目差す方向は、完全に食い違う。それに気づかない振りをするには、二人の心は強靭すぎた。

 いつかまた敵対することになれば、必ず、互いを傷つけてしまう。

 それでも。

『トグル。お前が、好きだ……』

 胸のうちで、隼は、言えなかった言葉を噛み締めた。

『あたしを、置いて行かないで欲しい。手を引いて欲しいんだ。頼むから』

 しかし、彼がそうする人間ではないことも、隼は解っていた。トグルの所為ではない。決めるのは自分、選ぶのも――。

 これ以上、側に居させてくれとは言えなかった。彼女自身が耐えられなくなると思われた。



 鷹の身に起きた出来事を知り、彼女が妊娠したと連絡を受けた隼は、〈黒の山カーラ〉に帰ることを望んだ。仲間の許へ。

 草原に居て、いずれトグルと正面から衝突することを、避けたかったのかもしれない。

 闇の彼方からは、当然、何の返答も得られなかった。隼が、窓枠から降りようとした時、


「ばあっ!」

「…………!」


 心臓が跳ねあがる心地で振り向くと、子どもさながら大口を開けた鷲が、目の前にいた。心理的にも身体的にもヨロメイタ隼は、体制を立てなおす為に、窓枠に掴まらなければならなかった。

 無邪気なにやにや笑いを浮かべた鷲だったが、彼女の表情が今ひとつ冴えないので、片方の眉をひょいと上げた。


「なに、こんな所で黄昏たそがれてんだ? トグル、行っちまったぞ?」

「知ってるよ……」


 まだ、胸がドキドキする。まったく、この男は……。

 してやられたと舌打ちして窓枠に座りなおす彼女を、鷲は、怪訝そうに見下ろした。


「見送りに出て来ないから、どうしたかと思って、探してたんだぜ。灯りも点けないで、何やってんだよ」

「考え事していたんだよ、いろいろと。……お前だけなのか? 皆は、どうした」


 鷲は長衣チャパンの懐に右手を突っ込み、左足に重心を掛けて立った。隼は、彼の後ろを窺った。

 つられてそちらを顧みながら、鷲は哂った。


「鷹と鳩は、寝た。雉は、マナと話している」

「そうか……」

「いいのか? お前」


 細い銀髪を肩に掻きあげる隼に、鷲は、優しく訊ねた。


トグルあいつについて行かなくて、さ」


 隼は、曖昧に苦笑して首を振った。物憂げな仕草に、鷲は、内心で感心した。


「あたしは、側に居ない方がいいんだよ。迷惑を掛けてしまうから」

「そうか?」


 隼は、自分のうなじに片手を当てて頷いた。『こいつ、こんなに色っぽかったっけ?』 と思いながら、鷲は、懐から噛み煙草を取り出した。


「あたしが自分を通そうとすれば――リー将軍の時のように。族長のあいつのすることに、反対しかねない。あいつは、仲間との板ばさみになる。困らせたくないんだ」

「ふうん」


 煙草を口に入れ、鷲は、ちょっと考えた。先日の、トグルの話を思い出す。苦い木の葉を舌先で転がし、のんびり言った。


「随分、弱気なんだな」

「ああ。自分でも、そう思うよ」


 自嘲気味に苦笑して、隼は首を傾けた。真っすぐな銀糸の髪が小さな白い顔をふちどり、肩へと流れる。霧にかすむ湖さながら銀の睫毛にけぶる紺碧の瞳を、鷲は観ていた。

 隼は、独語のように続けた。


トグルあいつは、あたしが自分の意志を曲げてまで一緒に居ることを、望んでいない。あたしも、あいつに無理をして欲しくない。……違いすぎるんだ、あたし達は。傷つけ合わずにやって行くには、離れた方がいい」


『トグルも、そんなことを言ってたっけ。少し違う気がしたが――』

 鷲は怪訝に思った。

 隼は、窓枠に片方の膝を立て、ぼやいた。


「嫌になるよ、まったく。あいつを苦しめたくないとか、迷惑を掛けたくないとか……。あたしは、本当にトグルが好きなんだろうか。自分が傷つきたくないだけじゃないか」


 鷲は眼をすがめた。隼は柳眉を寄せ、形の良い唇をかたく結んで、夜の底を見詰めていた。


「雉との時は、こんな風に冷静じゃなかった。鵙姉が死んで……あいつの気持ちがどうなんて、考えられなかった」

「…………」

「あたしは、雉から離れる為に、トグルを利用しているだけかもしれない。もう、あんな風に人を好きにはなれないのかも……。こんなことを考えているのに、あいつの側に、居られないよ」


 隼は額に片手をあてがい、項垂れた。鷲は、『ヤレヤレ』と思った。

 ヤレヤレ――彼女の聡明さと、常に己と向き合う厳しさを、鷲は好いていたし、尊敬さえしていたが。――たまには彼女も、考えることより感じることを優先してくれたら、と、思う。

 もっとも、この場合、隼ひとりの所為ではない。トグルも――『こんなところが似た者同士でも、仕様がないじゃねえか』

 鷲は、肩をすくめた。


「俺には、充分、惚れてるように見えるけどなあ」

「鷲」


 自信のない隼の顔は、元々が繊細なつくりのせいで、頼りない少女のようだった。

『可愛い女になったもんだ』 一抹の寂しさと勿体無さを感じながら、鷲は腕を組み、片脚に重心を移した。歌うように囁く。


「だって、こんなに迷っているお前を見るのは、久しぶりだからな」


 隼は眼を伏せ、片手を口に当てた。拗ねたように唇を尖らせる仕草を、鷲は哂って見守った。煙草を噛み、ゆっくり重心を左脚から右脚へ……また左脚へと移す。


「ま、気の済むまで考えるんだな。お前のことなんだから。それはそうと、中に入らないか? 冷えてきたぜ」

「あ、ああ。……鷲」

「ん?」


 踵を返す鷲に、隼は声をかけた。鷲は、思いつめた紺碧の瞳と出会い、ドキリとした。


「……ありがとう」

「どういたしまして」


 隼が照れくさそうに囁いたので、鷲はホッとした。


 彼女が窓辺を離れ、やや俯き加減のまま近づくのを、鷲は、両手を長衣チャパン腰帯ベルトに引っ掛けた姿勢で待った。ふざけて左の肘を揺らしてみせる。『腕組みでもするか?』と。

 隼は失笑すると、彼の背中を叩き、そのまま押して歩き出した。鷲は苦笑したが、何も言わなかった。


 すっかり暗くなった部屋を横切り、扉へ着くまでの間に、隼は頬を引き締めた。彼女の心はこの男への信頼で占められ、彼と心情を分かち合えたこの時を置いて他にはないという考えが、脳裏をよぎった。

 それで。半開きになっていた扉の前で、隼は彼に向き直った。


「鷲。悪いが、もう少し付き合ってくれないか。話がある」

「え?」


 隼が早口に言って彼を押しとどめ、扉を逆に閉めてしまったので、鷲は、驚いて立ち止まった。

 隼は、一度唾を飲み込んでから、抑えた口調で話し始めた。


「鷹の記憶のことなんだ」






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