第二章 黒い瞳(2)


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 夕暮れの気配のただよう神殿の一室で、長い黒髪の男女が向かい合い、佇んでいた。

 純白の絹の長衣に身をつつんだ《星の子》は、窓から射しこむ淡い紫の光にふちどられ、女神のように神々しい。天空から降臨した巫女は、嫋やかな両手のなかに、草原の男の片手を包んでいた。

 超常の能力をつかって人の生命をる彼女を、トグルは、黙って見下ろしていた。

 やがて、ルツは面を上げると、銀鈴をふるかのごとき涼やかな声でかれに告げた。


「ディオ(トグルの本名)。あなた……間に合わなくなるわよ」


 トグルは、彼女にあずけていた右手を引き、かすかに苦笑した。


「予知は変わりませんか、《星の子》」


 ルツは柳眉をよせ、夏の夜空のような瞳で彼を見た。訴えかけるように。それから、窓の外へ視線を逸らした。


「言ってきた通りよ……。あなた達が、を、変えなければ」


 トグルは、己の右手首を左手でつかみ、嘆息した。


「……俺は、自分を捻じ伏せるだけで、精一杯です。他を変えることなど、出来るとお思いか」

「…………」

「知りたいのです」


 ゆっくり首を横に振る《星の子》に、トグルは囁いた。


「何故、こうなってしまったのか。どこで、間違えてしまったのか。我々は――」

「それを知っても、どうにもならないわよ」


 厳しい返答に、トグルは眼を伏せた。


「――諦めは、つきます。全ての努力が徒労に終わるとしても」

「ディオ……」


 珍しく、ルツの声に、感情がこもった。やりきれない嘆きを聴き取ったトグルは、あわく微笑んだ。低い声が、くらい絶望をおびる。


「いずれ、滅びなければならないのなら……派手に壊すことにします。せめて、記憶に遺るように」


 ルツは、無言で首を振りつづけた。徐々に激しく。しなやかな腕を伸ばし、青年を抱き寄せる。母親がするように彼の頭を撫でると、そっと離れ、踵を返した。

 部屋を出ていく彼女を、トグルは黙って見送った。扉を開けたとき、ちょうどやって来た隼に、ルツは、すれ違いざま微笑みかけた。



「トグル?」


 隼は、立ち尽くしている彼と《星の子》の後ろ姿を交互に観て、首を傾げた。トグルが己の手を支えていることに気づき、眉根を寄せた。


「怪我をしたのか?」

「いや。何でもない」


 トグルの眼に、やわらかな笑みが浮かぶ。言葉を証明するかのように、右手を閉じたり開いたりしてみせた。

 隼は、かすかな不安を湛えた瞳で、それを眺めた。

 トグルは袖を伸ばし、帽子の形を整えながら説明した。


「ワシを投げた時に捻ったかと思ったが、何でもないようだ。――些か、ムキになった。お前の剣の師を、甘く見ていた」


 隼は、無言で、トグルの骨張った手を見詰めている。長い睫毛が、彼女の頬に影を落としていた。

 トグルは声をひそめた。


「どうした。浮かぬ顔をして」

「ああ。いや――」


 舌打ちをして、隼は、彼から顔を背けた。トグルは、ふと哂った。

 戸惑いを隠し切れない表情で、隼は彼を振り向いた。トグルは、厚い皮製の外套に袖を通そうとしていた。

 岩盤を削って造られた部屋の天井を仰ぎ、彼は呟いた。


「いい所だな、ここは」

「そうか?」


 トグルは、外套の中に入ってしまった辮髪を引き出して背中へ流すと、唇の端を吊り上げた。


「……いい奴等だ。ワシも、キジも。良い仲間を持って、お前は幸せだな、ハヤブサ」

「そう思うか」


 歯切れの悪い隼を興味ぶかく眺め、トグルは、殆ど息だけで囁いた。


「俺もここに居て……奴等と一緒に暮らしたいと、思った程だ」

「そうか」


 隼の顔に、ようやく、ほっとした気配が宿る。トグルはわらった。


「仲間を大事にしろよ、ハヤブサ」

「お前こそ」

「言われるまでもない」


『お前こそ』 違う。『お前も――』 言いかけて、しかし、隼は言えずに、トグルが帽子をかぶる仕草を見ていた。それから、こう切り出した。


「鷹を、どう思う?」


 革製の手袋をはめ、トグルが振り返る。真夏の木の葉のように鮮やかな碧眼を直視できず、隼は眼を伏せた。


「……いい娘だな」


 トグルは、彼女の言葉の意味を考えながら答えた。


「美人だし、素直だ。ワシによく尽している。……ハトもだが、話をしていると、こちらの気持ちを自然に明るくさせるようなところがあるな。お前達を好いているということが、良く判る」


 トグルは、鋭い目に悪戯めいた微笑を浮かべた。


「ワシと、お前を。小姑というのも、言い得て妙だ」

「変わってしまうんだろうか」


 隼は、項垂れたまま呟いた。眉をくもらせた玲瓏な横顔を、トグルは見た。


「どうだろう、トグル。鷹は……鷲は、変わるだろうか。今までのようには、いられなくなってしまうだろうか。全てを知ってしまったら」


 隼が言わんとしていることを察して、トグルも、普段の硬い無表情に戻った。彼の声は、隼の胸に深く響いた。


「……既に。知ってしまったお前とタカの仲が、変わり始めているのではないか……?」


 隼は吐息をつき、額にかかる髪を掻き上げた。トグルは、こんなに自信がなさそうな彼女は、珍しいと思った。

 悲嘆を含む声で、隼は訊いた。


「どう思う、お前。どうしたらいいと思う、あたし達は――」

「教えるのか?」


 表情を変えずに、トグルは訊ね返した。


「タカに。話すつもりでいるのか、お前」


 隼は、かぶりを振った。


「言えない……とても、あたしには。あいつは今、幸せなんだ。そいつをぶち壊してしまうようなこと、出来ない」

「なら、黙っていればよかろう」


 トグルの口調は、冷淡に思えるほど平板で、隼の呼吸を止めるのに充分だった。見上げた隼は、常に冷静な彼の眸と出会った。

 同じ調子で、彼は言った。


「お前が、そう思うのなら……。無理をすることはない」

「ああ。でも、それは、あたし自身の為かもしれない」


 隼は、消えそうな声で呟いた。トグルは、わずかに眉をひそめた。


「あたしが、傷つきたくないだけなんだ。口にして、苦しみたくない……。これは、あいつと鷲の問題なんだよ。それを勝手に判断していいのか、判らない」

「…………」

「あたしなら、知りたいと思うんだ、きっと。自分のことなのに、他人に判断されるのは嫌だ……。だけど、あたしは鷹じゃない。あいつがどう思うか、予想が出来ないんだ」

「……本人は、どう思っているのだ?」


 隼の混乱の理由を理解したトグルは、胸の前で腕を組み、首を傾げた。長い辮髪の一本が、肩をすべり落ちる。慎重に問うた。


「タカは……。己の過去を、知りたいと思っているのか?」


 怜悧に煌めく緑柱石ベリルの瞳を見返し、隼は、溜め息まじりに首を振った。


「判らない。最初は、そうだったんだ。だから、あたし達と一緒に〈黒の山カーラ〉へ来た。だけど、鷲を好きになってからのあいつは……。《星の子》の能力では記憶を取り戻せないと言われて、ほっとしたみたいだった。今更、思い出したいのかどうか――」

「ワシがどう思うかも、問題だろう」


 トグルが呟いた。隼は、ぞっとした。


「トグル」

「俺には、判らん。あの男の価値観がどうなのか、知らないからな……。草原では、タカのようでない女を探す方が、困難だ。故に、男の方も何とも思わない。従順で夫によく仕える女ほど、賢い女だとも言われる。……俺自身の考えを、脇に置いた話だが」

「知ってるよ」


 隼は、思わず苦笑した。トグルが女性一般を苦手としていることは、氏族内では周知の事実だ。


「ああ、鷲なら、大丈夫だと信じてる。ちゃんと、鷹を支えてやれるだろう」

「……よい話では、ないからな」


 トグルは、軽く息をつくと、厳粛に続けた。


「告げようと、告げまいと、お前は後悔するだろう。どちらを選択しても、もう一方の可能性を考えるからだ……。こういう事柄に、最善はない。正解などというものは……。必要なのは、結果がどうあれ、ともに引き受ける覚悟ではないのか」

「そうだな」


 隼はうなずき、躊躇い気味に腕を伸ばすと、トグルの身体にまわした。立ち尽くしている男の硬い胸に片方の頬を押しあて、眼を閉じる。彼の長衣デールからは、乾いた草原と、馬と、風のにおいがした。

 トグルは、息だけで囁いた。


「ハヤブサ」

「そうだ、トグル。ラーシャム(有難う)。忘れるところだった」


 隼に触れずに、トグルは彼女を見下ろした。眼を閉じていた彼女が、瞼を開き、冷たく輝く紺碧の瞳で、前方を見据える。

 トグルは、動くことが出来なかった。

 隼は、己に言い聞かせるように呟いた。


「鷹には、鷲がいる。あたし達が……」

「……そして、お前には、キジがいる」


 トグルは、革手袋をはめた両手を、彼女の肩に置いた。


「お前に、その気があるのなら……俺に、気兼ねることはない。奴の許に、戻ってもいいのだぞ」

「どうして、そんなことを言うんだ?」


 隼が顔を上げ、まっすぐ彼の目を見詰めたので、トグルは呼吸を止めた。吸い込まれそうに深い瞳が、彼の心を射いた。

 トグルの声が、掠れた。


「……俺は、ここに居ることは出来ない」

「だからって、どうして雉なんだ。お前、あたしを試しているのか?」

「…………」

「やめてくれよ」


 トグルは、絶句した。本当に傷ついた顔をして――置き去りにされた子どものように、隼がしがみついて来たのだ。

 彼を力の限り抱き締めて、隼は、長衣デールに顔をうずめた。切ない痛みが、胸を走る。か細い声で、懇願した。


「頼むから……。あたしが悪いのは判っている。お前を困らせていることも――。だけど、そんなふうに雉を持ち出すのは止めてくれ。どうしていいか、判らなくなる」

「…………」

「お願いだから。お前と一緒の時くらい、お前のことだけ、考えさせてくれよ……」


 トグルの胸にも、何か塊のようなものがこみ上げて、喉を塞いだ。彼は、苦しくなって眉根を寄せた。彼女の肩に置いた手に、意識を集中させる。


「悪かった」


 隼が、首を振る。眼をかたく閉じ、何度も。

 手袋をはめた手で、ぎこちなく、包むようにその頭を撫でながら――トグルの眉間には、皺が刻まれたままだった。


「お前を、傷つけるつもりではなかった。許してくれ」


 隼は、彼の背にまわした腕に力をこめた。胸の奥から湧きでる想いを抑えて――『謝らないでくれ』


 そんなに、優しくしないでくれ。足が竦んで、動けなくなる。行きたい方向を見失わせるようなことを、当のお前が言わないでくれ。

 ――心の奥に、もずと雉が居る。消しようのない面影と、記憶が。決して戻らないと決意したにも拘わらず、隼は、同じ所に立ち尽くしていた。

 途方に暮れている自分と、離れて待っているトグルを感じる。


 何が己の足を竦ませているのか、隼には解っていた。いっそ、連れ去ってくれたら、と思う。

 しかし、トグルはそういう男ではない。

 彼の寛容さを知る故に、隼は、ただ時の流れに佇んでいた。冴え冴えとした感情が、胸の裡を支配する。透き通る思考が――。


 いつしか陽は落ちて、紫の闇が、高山の頂上を浸していた。灯りのない部屋の中は薄暗く、隼の白銀色の髪が、ぼんやり輝いて見える。

 その髪に手袋をはめた指を挿し入れ、ぎこちなく撫でながら、トグルの視線は、床の一点に注がれていた。

 他人が観れば、奇異に感じたことだろう。この男の表情の乏しさを知る者でも。むしろ際立ってこの場に相応しくない厳しさが、精悍なかおをふちどっていた。

 くらい眸の奥で、蒼白い焔が燃えている。それは悲痛な哀しみを帯びて揺らめき、何人なんひとうちに入ることを拒んでいた。

 隼が腕のなかで身じろぐまで、彼は、外の世界に注意を払っていなかった。


「――来てくれよ」


 隼が、喋っていた。嘆息まじりの声を聴き、トグルの双眸に、穏やかさが戻った。


「迎えに、来てくれ。……待ってるから」


 声は優しいふるえを帯び、羊毛の長衣デールを通じて、温かな吐息が彼の胸に伝わった。身を斬られそうな切なさも。

 トグルは一瞬ためらった後、強く彼女を抱きしめた。深緑の瞳に宿った陰は淋しさを含み、それが溢れないようにする為に、彼は眼を閉じなければならなかった。

 隼の背が、折れそうにしなう。眼を閉じて、彼女は続けた。


「約束、してくれ。でないと、あたしは――」


 トグルは、言葉をつむぐ彼女の唇を、口で塞いだ。やわらかな花弁の唇を啄ばみ、そっと舐めると、隼の身体が震え、吐息が漏れた。

 隼は、おずおずと――本当に恐る恐る、といった風情で――次第に深くなる彼の口づけに答えた。頭の芯が快美感に痺れ、思考が融ける。半ば陶然と互いをむさぼったのち、トグルは唇を離すと、彼女の額に額をあてた。


「……判った」


 囁いて、彼は腕の力を弛めた。隼を間近に見詰める瞳には、先刻の陰はなく、優しい微笑が浮かんでいた。


「約束する。必ず、お前を迎えに来る……。だから、そんな顔をするな。お前には、似合わない」


 頼りない少女のような表情で、隼はトグルを見上げたのだが、この言葉に照れてうつむいた。彼から離れ、鼻の下をこする。

 トグルは、声を立てずにわらった。

 帽子をかぶり直して外套の襟を整える彼を、隼は、まともに見られなかった。


 トグルは部屋の中を見渡すと、改めて隼に告げた。


「……では。そろそろ行くぞ、俺は」

「あ、ああ。……見送らないぞ、あたしは」


 トグルは頷くと、踵を返し、扉へ向かって歩き出した。外套が、一拍遅れて後を追う。

 隼は、彼の背に声を投げかけた。


「気をつけて……」


 開いた扉から射し込む黄金の光の中で、トグルは振り返り、軽く片手を振った。逆光でよく見えなかったが、頷いたらしい。

 トグルを吸い出して、扉が閉まる。

 静寂と薄闇のなかに残された隼の双眸に、怜悧な光が戻った。





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