第二章 黒い瞳
第二章 黒い瞳(1)
1
五日間は、またたく間に過ぎた。
鷲は、毎晩トグルと酒を酌み交わし、草原やキイ帝国の話を、飽かず語り明かした。日中も、殆どいつも一緒に行動していた。鷹は、鷲は雉に気を遣っているのだろうと考えていた。彼とトグルが二人きりにならないように。また、トグルが少しでも気持ちよく滞在できるように。
鷲がトグルを気に入っていることは、誰の目にも明らかだった。
トグルは、二十人程の部下を連れて来ていた。夜は、鷲と飲んで遅くなった場合でも、彼等と共に神殿の部屋へ泊まった。部下達をうろうろさせることもなかった。鷹たちが隼との再会を歓んでいるのを知っていて、邪魔をしないよう配慮していたのだ。
万事に控えめで思慮ぶかい彼の態度に、鷹は、好感を抱いていた。
ただ、「雉に言うなよ」 と念を押して鷲が話したことには。――トグルと隼は、正式に結婚しているわけではなかった。
傍で見る限り、二人の雰囲気は良かったし、問題を抱えているようには見えなかった。隼はトグルと居るよりも、鷹や雉と話をしていることの方が多い、という程度だ。
日々は楽しく平穏に過ぎ、〈草原の民〉と彼等の間に問題が起こることはなかった。隼を迎えて、彼等は、ようやく本来の仲間に戻ったような気がした。
ずっとそういう日が続くと、信じていた。
少なくとも、鷹は、一度も、不安すら感じていなかったのだ。
*
トグル達が、草原へ帰る日。
族長について来た男達が、〈黒の山〉を去る前に、《星の子》と鷹たちに、彼等流の挨拶をして行きたいと申し出た。
早朝、この話を告げにきたトグルは、照れたような困ったような顔をしていた。
招かれて外へ出た鷹たちは、神殿前に整列している、黒尽くめの男達を目にした。
眩しいほど澄んだ青空に、黄金の
真っ黒な戦闘服を着て
トグルは片手を額に当て、その様子を眺めている。隼が、彼の袖を引っ張った。
「聴いていないぞ、あたしは」
「……俺も、知らなかった。知っていたら、止めている。……奴等、練習していたらしい」
「れんしゅう?」
「そうだ」
「何だよそれ。止めろよ」
「もう、遅い」
鷹は、隼とトグルの会話も、傍で聴いているとなかなか面白いと思った。
「ディオ(トグルの名)」
艶やかな微笑を浮かべたルツが、マナと一緒に歩いて来たので、トグルは、律儀に帽子を脱いだ。
「お呼びたてして申し訳ありません、《星の子》」
「何を見せてくれるの?」
「俺も、知らないのです。はりきって練習していたらしいので、付き合ってやって頂けませんか」
鷲の意見は、実に正直だった。
「野郎の芸なんざ、観ても面白くないがな」
うそぶく彼の台詞に、トグルは苦嘲いした。
雉が、冷静に宥める。
「まあ、そう言わずに、見せて貰おうぜ。でないと、トグルも困るだろうからさ」
鷹は心から、『彼等に、こちらの言葉が判らなくて良かった』 と思った……。
「……***」
トグルは、彼等の意見が一致すると、部下にみじかく声を掛けた。
跪いて不安そうに《
マナと鳩が、椅子を運んできてくれた。ルツは腰掛けたが、鷲は腕組みをして立っていた。鷹と隼も。
トグルは、
雉は、ちらりとトグルを見遣ったが、何も言わずに男達に視線を移した。
「**!」
アラル将軍が号令し、男達は、声を揃えて応じた。立ち上がり、戟をもつ者と剣をもつ者の、二手にわかれて動き始める。
馬に乗った男が、旗を振る。巨大な旗についた棒を頭上にかかげ、ぐるんと旋回させた。黄金の
男達は、その音に合わせて足を踏み、鬨の声をあげると、武器を手に舞い始めた。
重い鉄甲のついた
銀色に輝く剣を手にした男達が、戟の刃をかいくぐり、長身を翻してきわどい一撃を繰りだすと、観衆はひやりとした。閃きにも似た動揺が走る。ぞくぞくするような興奮だった。
男達は無言で、全く表情を動かさない。ぴたり揃った靴音と、
時折、地響きにも似た
戟と剣に反射する白い光が、空を裂く。男達の動きに合わせて翻る外套と、長い辮髪が、美しい軌跡を描いていた。
トグルと雉は、無言で彼等の動きを見守っていた。――雉は、魅せられたように。トグルは、ゆるく握った右手の拳を口元に当て、膝に肘を預けている。
鳩は、先刻から、悲鳴を呑む動作を繰り返している。恐怖を超えた美しさに、すっかり魅了されていた。
ルツは、何故か、にこにこと微笑んでいる。
隼は腕を組み、片脚に重心をかけ、かけた方に首を傾げて、男達を眺めていた。少年のように凛々しい顔は、物憂げだ。
鷲の口元には、しまらないにやにや嘲いが浮かんでいる。気に入っていることは、明らかだった。
やがて、激しく、どこか物哀しい音を立てて旗が打ち振られ、男達は、ぴたりと動きを止めた。
嘆息と控えめな拍手が、観衆の間からもれた。徐々に大きくなる。
鷲の嘲いは、さらにふてぶてしくなっていた。
隼は、ぼそりと呟いた。
「本当に、何しに来たんだ……?」
《星の子》が振り返り、トグルに声をかけた。
「こうなったら、あなたの出番ではないかしら? ディオ」
トグルは、心持ち眼をみひらいて、彼女をみた。新緑色の瞳が、青空を反射する。
《星の子》は、邪気のない少女のように微笑んだ。
トグルの声が、少し掠れた。
「俺、ですか?」
「そうです。部下に見事に演じられて、族長が黙っている手はないでしょう。このままでは、アラルにお株を奪われてしまいますよ、トグル・ディオ・バガトル」
トグルは、隣の雉を見た。彼と目が会った雉は、ギョッとした顔になった。
次にトグルは、意見を求めるように隼を見上げたが、彼女は、肩をすくめただけだった。
トグルは、当惑気味に眉根を寄せた。
「しかし――」
ルツは、悪戯っぽい微笑を含む声で、促した。
「
幼い頃を知っている《星の子》にこう言われては、彼に断る理由はなかった。――おもむろに身を起こす。
族長が動いたので、彼の部下達は顔を見合わせ、どよめきとも歓声ともつかない声を上げた。
トグルは、片手を挙げて彼等を黙らせながら、まだ躊躇っていた。
「……お見せする程のものでは、ありませんよ」
鷲が、胸の前で腕を組んだまま、ゆらりと足を踏み出した。
「つべこべうるさい奴だな。俺が確かめてやる」
ぶっきらぼうな挑戦を受けて、トグルの眼が、これまでで最も大きく見開かれた。
鷲は、にやりと嗤った。
「嫌か? お前とは、一度、手合わせをしてみたかったんだ」
「……光栄だな」
トグルの眼が、すうっと細くなり、瞳の色が濃くなった。わずかに開いた唇の隙間から、白い歯が覗いた――狼の牙が。精悍な顔から表情が消え、代わりに、凍るような威圧感が全身から放たれる。
鷹は息を呑んだ。物静かなトグルの雰囲気が、こうも一変するとは思わなかった。
先に立って歩き出すトグルの後を、鷲は、例の上体を揺らす独特な足取りでついて行く。草原の男達と村人達が、ざわめいた。
鷹は、隼を振り向いた。
「隼……」
彼女は腕を組み、左脚に重心を掛けて、だるそうに立っていた。怜悧な眼差しを鷹にあて、頷く。
「大丈夫だよ、鷹。お遊びだ」
「うん。ねえ、トグルって、強いの?」
「知らない」
男達が、場所を空ける。広場の中央で対峙する二人へ、隼は視線を向けた。切れ長の眼を細め、独り
「あいつが単独で戦うところを観るのは、初めてだ。トグリーニが、騎馬以外で戦うのも……。面白い」
トグルは、アラル将軍に長剣を預けた。鷲は、胸の前で腕を組んだ。束ねられていない銀髪が、肩をおおい、背へと波打って流れている。
「剣は使わないのか?」
トグルは帽子をかぶり直しながら、元の穏やかな微笑を浮かべた。
「ああ。族長が剣で身を守るようになれば、
「そんなもんかね」
「お前こそ。何も、使わないのか?」
アラル将軍が手にしている
「俺は、手加減が苦手なんだ。お前に怪我させちゃ悪い」
「そうか。なら、このまま始めてよいな?」
「ああ。いつでもいいぜ」
そう言い終えた後も、二人は、しばらく動かなかった。
鷲は、腕を組み、左足に重心を掛けている。トグルは、両手を身体の横に垂らし、ごく普通に立っている。――ように見えて、二人とも、実は全く隙がなかった。平然とした表情で、互いの力量を推しはかっている。
観衆が黙り込み、場に沈黙が降りた。
やがて、鷲が訊いた。
「どうした。始めないのか?」
「……いいのか」
「お前から来い。どの程度なのか判らんと、手が出せない」
鷲のこの台詞に、トグルはフッと嘲った。一瞬の後、彼は鷲の目前に迫っていた。
眼を瞠る鷲の顔めがけて、
鷹は息を呑み、呼吸を忘れた。
鷲は、上体を反らして拳を避けたが、第二、第三の拳には、後退りをするしかなかった。空を切り、唸り声を立てて、トグルの拳と蹴りが迫る。動きは速く、流れるように滑らかだった。
鷲は、遂に腕を解くと、横殴りに襲いかかってきた手刀を受け止めた。
手首を掴まれたトグルは、黙って微笑んだ。不思議なほど
鷲も、にやりと唇を歪めた。
「速いな。こいつは、何だ?」
「……トラン(注1)」
草原の男達の間から、低い歓声が洩れた。控えめな拍手も。族長の妙技を誇ってか、それを見事によけた鷲に対してか。どちらにも思われた。
隼の紺碧の瞳が、冷たく輝いている。
鷹が呼吸を思い出した時、再び、男達は動いた。
鷲が
長い辮髪が弧を描き、音も無く、着地する。鷲との間合いを広げた彼の唇から、白い牙が覗き、獲物を狙う狼のような眼光が閃いた。外套が、一拍遅れて、トグルの後をついて行く。それが追いつくのを、二人は待たなかった。
トグルの足元を払うように出した蹴りをかわされた鷲は、そのまま身体を沈め、着地する彼の懐に跳び込んで行った。銀灰色の髪が、風に舞う――旗のように。翼さながら、青空に広がる。
今度は、トグルが鷲の拳を避ける番だった。
決まった型を持たない鷲の技は自己流で、いかにも奔放だ。トグルを後退させ、防御に手を使わせた。
しばらく無言で、二人は拳をぶつけ合い、蹴り合った。速く連続した動作でありながら、申し合わせたかのように、攻撃と防御の息が合う。緊迫感のある、美しい舞だ。二人の色の違う長髪が優雅にひるがえり、長い手足が動くのを、鷹たちは、魅せられたように眺めていた。
鷲が、遂に、拳をトグルの胸に当てた。
「…………!」
鈍い音がして、鷹は息を呑んだ。鷲も真顔になっている。歯を食いしばるこめかみに、汗が光っていた。
トグルは無表情なまま、わずかに眉をひそめた。胸に当った鷲の拳を掴むと――どうやったのか、鷹には判らない。あまりに速かったので、仕掛けられた鷲にも判らなかったのではなかろうか。――もう一方の腕を、下から上へ、掬うように動かした。同時に、すらりとした長身を低く沈める。
それだけだった。
トグルと同じくらい大柄な鷲の身体が、彼の動作に従って宙に浮き……そのまま、彼の頭上を跳び越えていた。鷲は身をひねり、かろうじて足から着地したが、よろめいて片膝を地面に着いた。
一瞬の沈黙の後、どっと拍手と歓声が湧きおこった。
雉と隼も、手を叩いている。
トグルは片手を差しだして、鷲が立つのを助けた。
鷲は、息を弾ませている。若葉色の瞳は明るく輝き、
やや興奮気味な声で――夢中になれるモノを見つけた少年のように、鷲は彼に話し掛けた。
「凄いな。今度は何だ?」
「……クレシュ(注2)」
呼吸をととのえて答えるトグルの瞳も、不敵に輝いていた。
「『トグリーニ族の赤ん坊は、歩く前から馬に乗り、馬から落ちると、取っ組み合いでクレシュを始める』……馬術と弓、そしてクレシュは、草原の男の嗜みだ」
「今度、俺に教えてくれ」
鷲は、勢い込んで言った。トグルは、印象に残る鮮やかな微笑を返した。
「お前は『
「同感だよ、俺も。ありがとさん」
「見事です、二人とも」
ルツが、涼やかな声をかけた。二人は彼女に向き直り、トグルは帽子をかぶり直した。鷹は、あんなに激しく動いていながら、トグルの帽子が一度も彼の頭から離れていなかったことに気づいた。
「お疲れさま、鷲。ディオ……久しぶりに、見事なクレシュを見せて貰ったわ。メルゲン(トグルの父)に劣らない立派な『バガトル』になったのね」
「ワシには劣りますよ、俺は」
右手の甲を左手で撫で、トグルは苦笑した。彼にしては珍しく、饒舌になっている。
「トランをああも完璧に避けられては、形無しです。少し自信をなくしました。ワシが氏族の者であれば、俺は名を奪われたでしょう」
鷲は両手を腰に当て、何か考えながら、フッと息をついた。
握手をする二人を見て、周囲からもう一度拍手がおこった。
隼を見遣った鷹は、ふと怪訝に思った。鷲とトグルを眺める彼女の表情が、硬かったのだ。
『隼……?』
鷹には、彼女の心情を知る術はなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(注1)トラン: 古代拳法。現ウズベキスタン共和国の国技『サンボ』のルーツの一つ。カンフーのような動きが特徴。
(注2)クレシュ: 柔道のような競技。現カザフスタン共和国の国技。豪快な投げ技が特徴。
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